2023年5月1日月曜日

すぐに起こるはずのこと【第3部】38.新しい神の世界

38.新しい神の世界

黙示録21章1節から8節まで

1.最後の場面に見られる事柄
[1]最後の場面に見られるもの
・外側の区域―一新しい天地
・中間の区域――天から下る都エルサレム
・内側の区域――神の幕屋
[2]最後の場面に見られないもの
・涙
・死
・悲しみ
・叫び
・苦しみ
2.最後の場面に見られる人々
[1]最後の場面に見られる「勝利を得る者」
・勝利を得る秘訣
・信仰
・イエスの血潮
・神のみことば
[2]最後の場面に見られない「偽る者」
・臆病者
・不信仰の者
・憎むべき者
・人を殺す者
・不品行の者
・魔術を行う者
・偶像を拝む者
・偽りを言う者

これから学ぶ箇所のテーマは「将来の新しい世界」です。または「新しい神の世界」、「新しい創造」ということもできます。また「神の都と永遠」、あるいは「最後の場面」などとも言えます。

まず、聖書を見てみましょう。

(1)また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。(2)私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。(3)そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、(4)彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(5)すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」(6)また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。(7)勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。(8)しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」(黙示21・1~8)

私たちの人生には、病気、悩み、涙などがつきまとっています。自然は、地震、噴火、旱魃、飢饉、疫病などの脅威をもって人間に迫ります。しかし、もしそのようなことがいつまでも続くなら、それらは創造主にとって恥となることでしょう。なぜなら、創造主である神は、「すべての力は私のもとにある」とおっしゃっておられるからです。聖書は、心配や苦しみ、あるいはさばきや死についてだけ語っているわけではありません。黙示録21、22章において、私たちは「新しい創造」という神の栄光を見ることができます。

最初に反キリストと偽預言者が滅ぼされます。続いて千年王国、世界の没落、死者の復活、それから最後の審判が起こります。そのあとで、新しい神の世界が登場するのです。この新しい世界とは天と地の統一であり、神と人間との純粋な曇りなき交わりを意味します。

私たちは面白い本を読み始めると、途中でやめることができなくなります。読み続けたい衝動に駆られ、いっときも待てなくなり、最後の結末を知りたいために途中を飛ばして最後の2、3ページだけを開いて読むことがあります。ここの21、22章もそれと同じようなもので、ここには最後の場面が描かれています。私たちは、最後の結末がどうなるのか、それを通して知ることができます。

黙示録21章1節を見ると、そこではいろいろな経過説明に終止符が打たれ、それに続いてすべてのものが過ぎ去ったあとに登場する「新しい神の世界」が描かれています。これから、そこに描かれている世界を二つに分けて見ることにしましょう。第一は、この最後の場面に見られるものは何か、見られないものは何かということであり、第二は、この最後の場面で見られるのは誰で、見られなくなるのは誰かという問題です。

1.最後の場面に見られる事柄


[1]最後の場面に見られるもの


早速、聖書の説明を見てみましょう。聖書では最後の場面は三つの区域に分けて説明されていると言えます。一番外側は「新しい地と新しい天」です。第二の区域は中間区域で、天からくだって来る「新しい聖なる都エルサレム」です。そして最後に第三の区域は一番内側の区域で人と共にある「神の幕屋」です。

・外側の区域――新しい天地

まず、一番外側の区域から見ていきましょう。創世記1章31節を見ると、地上の始めの状態は「非常によかった」ことがわかります。ところが黙示録21章1節を見ると、ここに展開される世界は元の状態ではなく、永遠に完成された地上の新しい状態です。

どのようにして、その完成された状態が到来するのでしょうか。それについてペテロが第二の手紙3章10節から11節に記しています。「天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けて」しまうとあるように、火による恐るべき破局の後に「新しい天と新しい地」が到来するのです。ペテロはこのことを理解していたわけではありませんが、神が命令なさったことを忠実に書き記しています。こういう事態は、たとえば原子の融合を考えると、よくわかります。現代に生きる私たちは、「原子」が全宇宙の構成要素であることを知っています。「原子核」には「陽子」と「中性子」とが恐ろしい力によって結び付けられています。そして「中性子」が連鎖反応によって解き放たれると、大変な爆発が生じ、それは地球全体を火の塊に変えてしまうほどです。全宇宙が爆発することもあるでしょう。このような恐ろしい破壊力によって確かに大変な崩壊がおこるでしょう。他にも、天体の異変など多くのことが考えられるでしょう。

しかし、このような崩壊の後で、すべてが無になってしまうのではありません。その中から結果として「神の新しい創造」が生まれるのです。ただ創造主である神によって、「新しいもの」が生まれます。それは決して私たち人間の努力やわざによるものではありません。

イザヤ書の次の箇所に、今存在している地球が素晴らしいものとされるということ、つまり、古い地上に新しい状態が現われてくると記されています。

見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。(イザヤ65・17)

「新しい天と新しい地」、それは黙示録21章によると、それまで存在していた地球の改善や改良では決してなく、古い宇宙の崩壊の後に生まれる「新しい創造」です。

・中間の区域―天から下る都エルサレム

二番目に中間の区域を見てみましょう。天から下ってくる「新しい聖なる都」、エルサレムです。「新しい聖なる都」エルサレムは、旧約時代のバベルの塔のように下から築きあげられていくものではなく、反対に天から下ってくるのです。それは人間の功績によって生まれるものではなく、主なる神が備えてくださるものです。

主イエス様がこの世を去るときに、弟子たちに向かって「新しい場所を備えておく」、と約束してくださいましたが、それは新しいエルサレムのことに他なりません。おそらく千年王国の期間中、新しいエルサレムは地球のはるか上に存在し、そこにはよみがえりの身体を持った信者たちが住まい、この地上においてはまだ死ぬべき身体をもった人々が住むことになるでしょう。

千年王国の時期が終わると、新しい地の創造の後で新しいエルサレムが地上に下ってきてとどまります。この新しいエルサレムは宇宙の中心点に一致するようになるでしょう。新しいエルサレムはあらゆる時代の信者たちにとって「永遠の住まい」であり、アブラハムの望みの成就でもあります。

彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。・・・・しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。(ヘブル11・10、16)

・内側の区域――神の幕屋

第三番目は内側の区域、人と共にある神の幕屋です。創世記3章に記されている「原罪」と「堕落」以来、生けるまことの神は身を退けられました。しかしいまや、その神は目に見えるかたちで臨在してくださり、すべてのいのちの泉として存在を明らかにされます。

小羊についてはここでは特に述べられていません。というのは、ここでは永遠の状態が問題となっているからです。千年王国の期間中、イエス様が支配なさり、最後の審判のときにもイエス様がさばき主となられます。しかしその後では、神がすべてのすべてとなられます。それは、神が「父」としてだけの神ではなく、「父と子と聖霊」としての神だからです。

人間と共にいることは、神の心からの望み、また目的です。すでに旧約聖書の時代に、神は荒野に設営された幕屋とソロモンの宮で、ご自身を人間に現わしてくださいました。続いて主イエス様の到来によって、「神は私たちとともにおられる」ようになりました。

「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)(マタイ1・23)

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1・14)

五旬節以来、神は聖霊を通して、罪を悔い改めた信者一人一人の中に内住してくださっています。

このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。(エペソ2・22)

千年王国が来ると、神の御座は明らかにされ、その後で神は永遠に人と共に住んでくださいます。

これまで、最後の場面に「見られるもの」について聖書を見てきましたが、次に最後の場面で「見られなくなるもの」について考えてみましょう。

[2]最後の場面に見られないもの


最後の場面で、もはや見ることのできなくなるものとは、何でしょうか。

すでに述べられたように、そこには以前の天と以前の地、また海も存在しません。そして他にも五つの事柄が存在しないことが21章4節に記されています。

・涙

第一に、涙はもはや見られなくなります。

この地上ではどれだけ多くの涙が流されていることでしょうか。ダビデも、パウロも、そしてまた主イエス様も血のような涙を流されました。

私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中、「おまえの神はどこにいるのか。」と私に言う間。(詩篇42・3)

私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。(使徒20・19)

ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。(使徒20・31)

キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。(ヘブル5・7)

今も地上のいたるところで涙、悲しみ、苦しみが見られます。心配のために、また失望のゆえに、あるいは人に裏切られたことにより、あるいは強い憧れゆえに、そして悔い改めの時に涙が流されます。しかし最後の場面では、もう涙は見られないのです。

・死

第二に、もはや死もありません。死は罪の支払う報酬です。新しい地においては罪がないので、当然死も存在しません。千年王国の時代には、まだ死の可能性が存在していましたが、新しい地においてはもはや死は存在しなくなります。

・悲しみ

第三に悲しみも、もうありません。

いかなる死も罪も存在しないのですから、悲しみも存在しなくなります。神の喜びがすべての人間に満ち溢れます。「あなたの御前には喜びが満ち」とダビデは言いました。新しい地では人間はいつも神と共にいますから、「喜び」が満ちています。私たちが「常に神と共にいる」ことができるというのは、何と幸いなことでしょうか。

・叫び

第四に、もはや叫びも存在しません。アベルがカインによって殺された時、アベルの血は「叫んだ」(創世4・10)と聖書は言っています。ヨセフは兄弟たちによって穴に放り込まれた時、心の中で叫んだことでしょう。しかし、そのようなことはもう新しい地においては存在しないのです。

・苦しみ

第五に苦しみも、もうありません。肉体的、精神的苦しみはもう存在しません。仕事や家族、病気、人間関係などで人々はどれだけ苦しみ、悩んできたことでしょうか。しかし、新しい地においては、曇りのない幸せがすべての中に息づくのです。

来るべき栄光については具体的には記されていません。パウロもヨハネもそれは書き記すことができませんでした。ですから、「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。」としか表現することができなかったのです。

21章5節に「御座についておられる方が言われた。『見よ、わたしは、すべてを新しくする。』」とあります。第一の創造は神の全能なるみことばを通して行なわれました。新しい世界の創造もまた、神はみことばを用いて成就なさいます。

6節に「ことは成就した。」と書いてあります。神のみことばは必ず実現します。創世記を見ると、「神は語られた。するとそのようになった。」と記されています。十字架の上で主イエス様もまた、「完了した。」と叫ばれました。主イエス様はアルファでありオメガです。はじめであり、終りです。主イエス様は全能のお方であり、ご自身の計画を間違いなく遂行なさいます。人間の努力によってではなく、神の御手のわざによって新しい始まりが出現します。

新しい始まりは、すでに今、自分の罪を悔い改めて個人的にイエス様を受け入れる人は誰でも、経験することができます。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント5・17)

彼(アブラハム)は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。(ローマ4・20、21)

アブラハムだけではなく、黙示録の著者ヨハネもまた、この確信を持っていました。ヨハネは、現実には自分の目の前に死んだもの、枯れたもの、希望のないものしか見ることができませんでしたが、神のみことばを聞くことにより、神がご自身のみことばの約束を必ず成就し、まったく新しいものを創造なさるということを確信しました。

これまで、最後の場面に見られるもの、見られないものを見てきました。次に、この最後の場面に見られる人と見られない人について考えてみましょう。

2.最後の場面に見られる人々


[1]最後の場面に見られる「勝利を得る者」


この最後の場面に見られるのは、「勝利を得る者」(7節)です。

主はもはや「わたしのところに来なさい。わたしがいのち水をあげよう」と言って私たちを招くことはなさいません。代わりに最後の場面、黙示録21章6節では「渇く者にはいのちの水の泉から、価なしに飲ませる」とおっしゃいます。現在この地上においては、人間は神から離れてしまっていますから、主は「わたしのところに来なさい」とおっしゃるのです。しかし、新しい地においては主と人間は共にいるので「来なさい」という主の招きは必要なくなります。主ご自身が泉そのものなのです。人間は泉そのものである主と共にいることが許されています。

すでにこの地上において、人間は渇き、つまり神に対する飢え渇きをもっています。

鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。(詩篇42・1)

パウロもまたこの飢え渇きをもっていました。

私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(ピリピ3・12~14)

しかし、この飢え渇きは黙示録21章において完全に満たされました。目標は到達されました。勝利者は永遠に神と共にあり、すべての願いは満たされ、あらゆる憧れは満たされました。

これは人間の功績ではなく、神の恵みによるものです。「価なしに」ただで飲ませると主がおっしゃっておられます。他の聖書の箇所にも、主によって「価なしに与えられる」事実が記されています。この世界では、「ただで」与えられるものは、まったく価値の無いものか、あるいはお金で買うことのできないものかのどちらかです。しかし、「価なしに、ただで与えられる」ということばは、福音全体を通して表現されているすばらしいみことばです。私たちはいくら努力しても、自分の力によっては救われません。

ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。(イザヤ55・1)

ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(ローマ3・24)

ところで7節にある「勝利を得る」とはどういうことでしょうか。「勝利を得る」ということばは黙示録2、3章の中に出てくることばですが、それは決して罪のない状態を意味するのではありません。罪と無縁の状態は21章においてはじめて実現します。「勝利を得る」とはイエス様から引き離されないこと、つまりすべての罪と悩みをもってイエスのもとに避難することです。「勝利を得る」とはイエス様の導きを疑わず、自分の考え、感情、意欲のすべてを否定し、すべてを主イエス様に明け渡し、ゆだねることです。いずれにしても「勝利を得る」ことは、人間が自分の力や功績によってできることではなく、ただ神の恵みのみによるのです。ですから、7節には「相続する」ということばが使われているのです。人は罪人として、「罪の赦し」という恵みの贈り物を受け取ることによって、「相続人」となるのです。「勝利を得る」者についての約束は黙示録2、3章に記されていますが、それらのすべてが、ここの7節に集約され記されています。

「勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」(黙示2・7)

「勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」(黙示2・11)

「わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」(黙示2・17)

「勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。」(黙示2・26)

「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。」(黙示3・5)

「勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。」(黙示3・12)

「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」(黙示3・21)

これらがすべて黙示録21章7節に要約され、まとめられています。「相続する」とは、主なる神のご性質と財産にあずかること、そして主なる神と共に働くことです。

もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。(ローマ8・17)

私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。(ローマ8・32)

主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。(詩篇16・5、6)

私たちは主イエス様を自分自身の、また世界の救い主として受け入れていますから、神の子どもです。そして神の子どもとは、とりもなおさず神の「相続人」であることを意味します。

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。(ヨハネ1・12)

私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。(第一ヨハネ3・1~3)

・勝利を得る秘訣

では、一体いかにして「神の相続人」、つまり「勝利を得る者」となることができるのでしょうか。その秘訣は何でしょうか。それは、「信仰」、「イエス・キリストの血潮」、「神のみことば」の三つが鍵となります。

・信仰

なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。(第一ヨハネ5・4)

私たちの信仰こそが、世に打ち勝った証拠なのです。しかし信仰は神様からの贈り物に他なりません。私たちが信仰を持つことができるのは、神様の恵みを受け、世に勝利したからこそです。

・イエスの血潮

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。(黙示12・11)

兄弟たちは小羊の血のゆえに悪魔に打ち勝ちました。つまり、人間の努力によってではなく、主の恵みによって、イエス様の血潮によって、悪魔に打ち勝つことができるのです。

・神のみことば

黙示録12章11節にはまた、「あかしのことばのゆえに」兄弟たちは打ち勝ったと記されています。神のみことばに信頼する者は勝利を経験します。

意識して眼差しを主イエス様に向け、主イエス様に従う人、その人こそが勝利を得る者です。

また日常生活において何があっても、主イエス様と結びついて主イエス様に頼る人です。従って勝利を得るとは「激しい戦い」を伴うものです。主イエス様を見上げるということは、みことばと約束だけに信頼し、自分の考え、感情、意欲を頼みとしないことです。勝利を得る者はもはや自分の力で勝利を得ようと試みることはしません。勝利を得る者とは主イエス様のみこころを自分の思いとする者です。

[2]最後の場面に見られない者「偽る者」


さて、最後の場面に登場するのは「勝利を得る者」であることを見ましたが、ここからは「最後の場面には登場しない者」のことを考えてみましょう。

主イエス様に背を向け、相変わらず罪の中に生活し、結局は悔い改めることなしに死んでいく人々は一切ここに登場しません。前に見た黙示録2、3章に記された七通りの勝利を得る人々に対立するものとして、21章8節に七通りの敗北者のグループが記されていますが、これらの人々は最後の場面に登場することができません。

私たちもまたここで一つの分かれ道の前に立つことになります。永遠に神と共にいることが許されるか、あるいは永遠に神から離された状態にとどまらなければならないかのどちらかです。

ではここでその七種類の敗北者たちを見てみましょう。

・臆病者

するとアグリッパはパウロに、「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている。」と言った。(使徒26・28)

「臆病者」とはアグリッパ王のような人間です。救いの道を知っており、「あなたはわずかなことばで私をキリスト者にしようとしている」と言いながら、信者になったあとで出てくるいろいろな問題や困難を思い、決断しないような人間です。優柔不断な臆病者はいつもあいまいな態度をとり、はっきりとした決断をくだすことができませんし、またしたいとも思いません。

エリヤはみなの前に進み出て言った。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。(第一列王18・21)

これらの人々は臆病の霊をもっていましたので救いを拒みました。このような人々は、この世を恐れ人の目を恐れます。そして目に見えるものに縛られて、目に見える世界によって動かされ支配されます。主なる神は自分に属する者に恐怖の霊をお与えになることはありません。

苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。(第二テサロニケ1・7)

主イエス様を救い主として、また主として告白することを恐れる者は災いです。

・不信仰の者

第二は不信仰の者たちです。例えばエジプトのパロは神の力と恵みを知ってはいましたが、神を信じ従おうとはしませんでした。神のことばを聞きながら、それを自分のものとして受け取らない者は救いを経験することができません。

ノアの時代にいたような人々は、救いの福音を聞きながらそれをあざ笑い、自分勝手な道へ行ってしまいます。そのような人々は、ロトの妻のように信仰の道を歩み始めても長続きしません。確かに同じようなことを行なっても、それが本物ではなく、心からの回心に基づいたものでない限り長続きしないことは明らかです。

・憎むべき者

第三は憎むべき者、あるいは汚れている者と言ってもいいでしょう。主イエス様の血潮によって聖められていない汚れた者は最後の場面に現われません。

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、・・・・(ローマ3・23)

怠慢な者もまた汚れた者に属します。

こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。(ヤコブ4・17)

「私の罪は赦され、私の汚い過去は消されている」と言うことのできる人は幸いです。

・人を殺す者

第四は人を殺す者です。罪は文字通り積み重なってますます大きなものとなります。臆病者は不信仰の者となり、かつては真理であると認めていたことを拒絶し、その結果いろいろな罪を犯し汚れた者となります。そして置かれた環境しだいでは人をも殺してしまいます。

カインはかつては神を信じていました。そして神に捧げ物を捧げていましたが、結局殺人を犯してしまいました。堕胎、つまりお腹の子どもをおろすこともまた殺人です。また、結婚していながら自分のことしか考えず、自分勝手な道を行く者もまた人を殺す者のグループに属します。人を憎む者もまた人殺しです。

兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。(第一ヨハネ3・15)

・不品行の者

第五は不品行の者です。これは情欲に支配された者すべてです。結婚生活以外の性交は罪であり、罰せられます。そして主に対してはっきりとした態度をとらない者もこの群れに属します。

貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。(ヤコブ4・4)

しかし聖書の中には、かつては不品行だった者が主なる神の恵みによってまったく新しい者へと創りかえられた多くの例があります。例えば旧約聖書ではタマル(創世記38章)やラハブ(ヨシュア2章)がそうです。また主イエス様の足に口づけした罪深い女(ルカ7・37)や、ヤコブの井戸のそばで主イエス様に声をかけられたサマリアの女(ヨハネ4・7)などもいます。

これらの人々は、主のあわれみにより、罪を赦され、主にあってまったく新しい者になりました。

・魔術を行なう者

第六は魔術を行なう者です。先祖崇拝も、結局は悪霊崇拝になりますから、これに含まれます。下からの悪霊の力の助けを借りる者も、このグループに属します。

・偶像を拝む者

第七のグループは偶像を礼拝する者です。ただ一人のお方、天地創造の神様以外を拝むことは、偶像を崇拝することです。

ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。(コロサイ3・5)

「むさぼり」もまた、偶像崇拝です。心から主なる神を愛さない者は偶像を拝む者です。

そこで、イエスは彼に言われた。「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マタイ22・37)

・偽りを言う者

これら七つの種類に属する人々は、一言で言えば、「すべて偽りを言う者」です。主なる神様の前に、へりくだって頭を下げたくない者たちです。こういう人々は本当のもの、基準となるもののすべてを逆さまにして、ただ単に嘘をつくだけでなく、行なうことも偽りそのものです。なぜなら、彼らは神の真理を受け入れたくないからです。百パーセント真理でないものはすべて嘘です。たとえそれが方便や困った状況などのために使われたのだとしても、それは偽りです。すべての欺瞞、偽善は罪であり、欺きです。聖書はすべての人間は偽り者である、と言っています。ですから、神はすべての人が立ち返って真理を認めるに至るよう望んでおられるのです。

私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。ご存じのとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。(第一テサロニケ2・4、5)

確かに滅びに至る道はたくさんありますが、救いに至る道は一つだけです。

この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。(使徒4・12)

愛の神はきょうもなお罪人に呼びかけておられます。「罪を悔い改めて福音を信じ、主イエス様を受け入れ救われなさい」と。

すべての人が、一体どういう人が新しいエルサレムに入り、どういう人が入れないかを知るべきです。私たちはこの事実、つまり「救われたい者が救われ」、「救いの必要を認めない者は救われない」という事実を恐れることなく、すべての人に宣べ伝えなければなりません。主なる神との和解をし、主のみことばと救いを自分のものとした人々は、永遠に神と共にいることを許されます。しかし、主イエス様とその救いのみわざを受け入れずに拒む者は、つまり自分の罪を告白したくないと思っているすべての人は、「第二の死」を経験することになります。

「第一の死」はアダムが罪を犯した結果、与えられたものでした。全人類にとってそれは肉体的な死と神から離れた状態を意味しています。

「第二の死」は自分の罪の結果として与えられるものです。その人自身が主イエス様の贖いを拒んだことの結果です。その結果は神様から「永遠に」離されたままで、本当に恐ろしい状態となります。

こうして主イエス・キリストに対する人々の態度によって、あらゆる人間の運命が決定されます。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント5・17)

割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。(ガラテヤ6・15)

「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」。これこそが、真の喜びの根拠です。

私たちは黙示録の中で非常に恐ろしい場面、戦い、苦しみ、破局を見てきました。しかし、今ここでは、最後の最後、つまり主が「見よ、わたしはすべてを新しくする」という場面を見ることができるのです。世界はまったく新しくなり、主が人と共におられ、世界には死や苦しみがなく、いのちが満ち溢れています。これはヨハネの熱狂的な幻想では決してありません。全地全能なる神にしてはじめてすべてを新しくすることがお出来になるのです。主はただ単に創造者であるばかりではなく、「完成者」でもあられます。

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