2023年5月7日日曜日

すぐに起こるはずのこと【第3部】あとがき――今の時の苦しみ

あとがき――今の時の苦しみ

ゴットホルド・ベック

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意思ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。(ローマ8・18~23)

ここに示されているみことばは、非常に現実的な問題です。文中に「苦しみ」、「虚無」、「滅びの束縛」、「産みの苦しみ」、「うめき」とありますが、それらは、私たちにとって身近な問題です。現代は、苦悩、不安、混乱、失望、暴力、破壊、無秩序、放縦の時代です。人々は、この世のことだけに熱中しています。主なる神と、神の言葉である聖書については、まったく無関心です。

主によって救われた人々、聖書を知っている人々にとっては、これらの風潮は、別に驚くようなことではありません。すでに聖書が、それらを正確に預言しているからです。では、みことばにある「今の時のいろいろの苦しみ」について、私たちはどのような態度をとるべきでしょうか。まず、3つのことについてごいっしょに考えてみましょう。

1.主イエス様を知るようになった者は、何をいただいているのでしょうか。
2.イエス様を知るようになった者は、何を約束されているのでしょうか。
3.イエス様を知るようになった者は、何を期待しているのでしょうか。

1.主イエス様を知るようになった者は、何をいただいているのでしょうか。


冒頭に引用したローマ人への手紙8章23節には、イエス様を知るようになった者は、「御霊の初穂をいただいている」と書いてあります。私たちは、御霊を持っていることによって、救われ、神の子どもとなったのです。

もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるのなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。(ローマ8.9)

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。(第一コリント3.16)

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、主の栄光を現わしなさい。(第一コリント6・19、20)

主イエス様を知るようになる、とはどういうことでしょうか。洗礼を受けているとか、教会に属しているとか、聖書の知識をたくさん持っているとかが決定的に大事なのではありません。「主イエス様との出会いによる救いの体験」こそが大切です。イエス様と出会った人は、イエス様を知っている人です。そして、イエス様を知るということは、「永遠のいのち」を持っていることです。主なる神の御霊を持っている人は、「神の子ども」です。御霊によって、人はイエス様のからだである教会、つまり神の大きな家族の一員となります。それは、自分自身の努力によってなるのではなく、神の御霊の創造的な働きによってそうなるのです。御霊がその人を支配すると、すべてが新しくなります。つまり、その人は、自分の過去、現在、将来に対して、まったく違った見方、生き方をするように変えられます。

イエス様の十字架のみわざによって、人間の罪は、完全に消し去られました。ですから、自分の「過去」は、自分にとってもはや重荷ではなくなりました。なぜなら、イエス様の十字架の血潮によって、私たちは贖われたからです。

主イエス様との出会いによって、「現在」に対しても、人は全く新しい関係を持つようになります。よみがえられた主は、信者一人一人を導いてくださるので、安心してすべてをゆだねることができます。それは不安からの解放を意味します。

また、御霊が私たちの内に宿ってくださることによって、「将来」に対しても、全く新しい関係を持つようになります。将来が不確実なものではなく、イエス様が再び来られて、新しい神の国が実現することを確信するようになります。

これらのことは、御霊を通して私たちに与えられます。そしてこれらは限りなく大きな宝です。しかし聖書は、これらのことはまだ「初穂」に過ぎない、と言っています。「初穂」だと言うことは、後に「もっと大きな収穫」があることを意味します。最も大切なことはこれから起こります。それは、「復活」によって新しいからだをいただくことと、再臨によって世界がまったく新しくなることです。私たちがいただいた新しいいのちは、現代の不信仰な世とは、まったくあい容れません。

御霊によって、私たちは将来のことを知っているので、喜ぶことができます。現代の多くの人々は、この世のことに熱中し、自分自身のことばかり考え、追求していますが、その結果は不幸と不満、そして滅びでしかありません。

これに対して、イエス様を知り、イエス様に頼る者は、自分たちの罪が赦され、主なる神との平和を持ち、永遠のいのちをいただいているから、いつも喜んでいます。イエス様を知っている人々は、真に富んでいる人々です。彼らが持っているのは「永遠」であり、決して消え去ることのないものです。

2.主イエス様を知るようになった者は、何を約束されているのでしょうか。


冒頭の聖句で、パウロは言葉を飾らずに真理を語っています。それは、救われた信者といえどもうめき苦しむ者であり、待ち望む者である、ということです。すべての被造物とともに、私たちもまた虚無に服している、とあります。美しい花もしぼみ、麗しい日々も過ぎ去り、人間は年老いて死んでいく。それが22、23節にある「うめき」です。パウロは、今のこの状態を、22節で「ともにうめきともに産みの苦しみをしている」と記しています。イエス様を知らない人々は、自分はこんな状態にない、と錯覚しているか、またはこの問題について、あえて考えようとしません。

しかし遅かれ早かれ、「イエス様なしでは、ほんとうの満足と平安は得られない」ということを認めざるをえなくなるのです。

現代は、いたるところで「約束」が横行しています。しかし、それらの「約束」が実際に果たされることはごくまれです。現代の特徴は、無責任、変化、無常、そして死、滅びです。その原因は、神から離れていることであり、神を知らず、認めようとしないことです。才能、健康、富、美貌、権力などに恵まれたこの世の成功者でも、実はその心の内は孤独であり、空虚であり、満たされてはいないのが実情です。

歴史を見ると、人間はいろいろな理想を求め、追求してきたことがわかります。ギリシャの理想は、高貴な性質と美しい肉体を持った人間でした。しかし、この理想は、今日に至っても達成できない幻想です。マルクスによる共産主義体制の理想も、階級のない平等な社会の実現という理想も、今日まで実現されたことはありませんでした。また、現代のヒューマニズム、人道主義は、完全な福祉国家を目標とし、戦争、悲劇、飢え、破滅のない平和で安全な社会を作ろうとしていますが、この目的も実現されえないのは、現実を見ればわかります。

第一次世界大戦で壊滅したドイツにおいて、アドルフ・ヒットラーは、自分に従えば、「ドイツ国民は一人残らず自分の家と車を持つようになり、夢のような生活をすることができる」と約束し、しかもそういう状態が「一千年間続く」、と公約しました。支持を得たヒットラーは総統となり、13年間ドイツを支配しましたが、その公約をはたすどころか、無謀な戦争の末に廃墟のベルリンで自殺してしまったのです。

なぜ、それらの理想は、幻想に過ぎなかったのでしょうか。有名な科学者のアインシュタインは、「世界の唯一の問題は人間の心の問題だ」と言いました。多くの「理想」は、人を取り巻く「環境」を変えることを目標にしていますが、そこに住む人間の「心」が変わらなければ、「環境」は何の価値も持ちません。

現代はまた、「技術」の時代です。人間は新しい技術を開発し、驚くべきものを次々に作り出しますが、人間そのものは途方にくれていると言えましょう。何と多くの人々が、未来に対して不安を持っていることでしょう。その不安の原因は、突き詰めれば一つの問題、虚しさ、虚無が解決されていないことにあります。

仏教徒は、「無常」、つまりすべては虚しく、過ぎ去ってゆくものだと諦めてしまいます。しかし、イエス様を信じる私たちは、救いの確信を持っています。私たちが待ち望んでいるのは、無や滅びではなく、主なる神の子どもとして、主とともに永遠のいのちに生きる幸せです。

3.主イエス様を知るようになった者は、何を期待しているのでしょうか。


最初に引用したローマ人への手紙8章の18節と21節に、「栄光」とあります。「栄光」とは、たとえば死、罪、負い目、憎悪、欠乏、苦悩、悲哀など、人間の苦しみの源がまったく存在しない状態だと言えましょう。黙示録21、22章を読めば、栄光とは何であるかをはっきり知ることができます。主なる神はイエス様を遣わすことによって、永遠に救われる道を開いてくださいました。十字架の上で主イエスは全人類のための救いのみわざを完成されたのです。

また、イエス様のよみがえりは、「死は終わりではない」ということの証明です。主を信じる神の子どもたちは、イエス様の力を体験しており、永遠のいのちに生き、イエス様の再臨によって主の大いなる栄光が明らかにされるという事実を確信しています。

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意思ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。(ローマ8・19、21)

このみことばは、私たちが被造物と一体であることを示しています。私たちだけが苦しんでいるのではなく、被造物全体も苦しんでいるのです。私たちは被造物の苦しみの一つを、生存競争の中に見ることができます。

人間の罪のために、被造物もまた、死と苦しみに服するようになったのです。しかしそれは永遠にというわけではありません。もしそうなら、それはあまりにひどい絶望の状態だからです。

私たちイエス様を知る者は、私たちのからだの救いを待ち望んでいるだけでなく、全被造物が滅びの束縛から解放されることをも望んでいるのです。

しかし、私たちには、筆舌に尽くしがたい栄光が待っています。戦争中の捕虜たちは、いつの日か故郷の家族と再会できることを期待して、苦しい重労働と欠乏に耐えました。これと同じように、イエス様を知るようになった者は、来るべき栄光を望み見ることによって、今のときのあらゆる苦しみに耐える力が与えられるのです。

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。(ローマ8・18)

またパウロは、今の時の苦しみと、やがて信者たちに現わされる栄光とを比較して、今の苦しみなどはとるに足りない、と考えました。

彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。(第二コリント11・25~28)

パウロは、自分が体験した苦難をこのように書いていますが、それらの苦難でさえ、いつまでも続くのではなく、やがて私たちに現わされる栄光は、比べものにならないくらい大きく、すばらしく、しかも永遠のものである、と言っているのです。

イエス様を知るようになった人々は、この世が人間の努力によって完全なものになる、という幻想から完全に解放されています。人類がこの世を改善しようとするあらゆる試みの結果はどうなるでしょうか。それは、混乱と退廃に満ちた現代の状態を見れば明らかです。

ただイエス様の再臨だけが、これらの状態を根本的に一新することができます。イエス様が再び来られるとき、主の栄光は明らかにされ、すべてのものは作り変えられ、被造物は主なる神の子どもとしての栄光にあずかるものになるのです。

イエス様を知っている人々は、喜びをもって生き、苦しみ、そして死ぬことができます。なぜなら、死や滅びから解放され、主イエスの栄光がすべてのものに満ちあふれる未来を確信し、主イエスとともに永遠に生きる喜びを持っているからです。

ヨハン・セバスチャン・バッハは、晩年には目が見えなくなっていましたが、死の直前に、突然目が見えるようになりました。彼の妻はバラをとり、彼の目の前に置いて、「見えますか?」と尋ねました。するとバッハは、「見える」と言い、続いて、「私とお前がもうじき見ることになるバラに比べれば、このバラの色などとるに足りない。私とお前がもうじき聞くであろう音楽に比べれば、この世の音楽などとるに足りない。私は、この目で、私の主イエスご自身を見るのだ」と、確信に満ちて答えました。これこそ、いきいきとした望みに満ち、信仰の確信に満ちた告白です。

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