2023年5月13日土曜日

友と呼んでくださる主イエス様

友と呼んでくださる主イエス様

2023年5月14日、秋田福音集会
翻訳虫

ヨハネ
15:15 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

何年か前ですが、外国のあるネット記事を読みました。それは、高齢な方を対象にしたアンケートで、これまでの人生を振り返って、いちばん後悔していることを何か、答えてもらうという記事でした。

人によっていろいろなことを後悔していたのですが、私が個人的にいちばん、共感できると思ったのは、昔の友だちと疎遠になってしまったいうことでした。

たとえば、学生時代に仲のよかった友人で、卒業した後も、しばらくはやり取りをしていても、次第に返事もしなくなったりで、気が付いたら連絡がつかなくなってしまったような人が私も何人かおります。こうなると、つながりを保っていけばよかったと思っても、もう手遅れです。同じようなことを後悔している人がいるんだなと思いました。

罪人の友


さて、初めにお読みしたみ言葉の中で、主であるイエス様は弟子たちを友と呼ぶと言われました。これは、イエス様が、十字架の死を目前にした最後の夜に語られた言葉であります。ご自身が、翌日には引き渡されることを知りながら、主は弟子たちを呼び集めて、『あなたがたは、これからはしもべではない』と告げられました。

私たちにとって、イエス様にしもべと呼んでいただけるだけでも、計り知れないほど大きな特権です。しかし、イエス様はその上に、私たちを友と呼ぶという、さらに大きな名誉を与えてくださっています。

人間的に言いますと、片方から見れば友であるが、向こうからは友ではないという一方通行のような友というのは考えられないことです。イエス様が人を友と呼ぶということは、人から見てもイエス様は友ということになります。

私が働いているのはカナダの会社で、世界各地から来た移民がたくさん働いていますが、この会社の一角に、イスラム教徒の同僚が祈りを捧げる部屋が作られています。毎日、決まった時間に、床に頭をつけて祈る彼らからすれば、その神が友であるなど言うのは、とんでもない侮辱であり、冒涜であると思うかもしれません。

私たちにとっても、主を友と呼ぶことは、イエス様の栄光を低めることになるのでしょうか?主なるイエス様が、罪人である私たちの友として自らを差し出してくださったのは何故なのか、聖書のみ言葉を通して、その意味を考えてみたいと思います。

しもべと友の違い


さて、初めのみ言葉に戻ってみます。主は、弟子たちに向かって、『もはや、あなたがたをしもべとは呼びません』と言われました。しかし、弟子からすれば、イエス様は絶対的な主であり続けており、十字架の後も、自分をイエス・キリストのしもべとはっきりと呼んでいます。

第二ペテロ
1:1 イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ。

ユダ
1:1 イエス・キリストのしもべであり、ヤコブの兄弟であるユダから、父なる神にあって愛され、イエス・キリストのために守られている、召された方々へ。

イエス様が私たちを友と呼んでくださっても、私たちにとって、主が生活の全てを支配され、その御言葉に従って生きるべき指導者であることに変わりはありません。

事実、イエス様は、はじめのみ言葉の前にこう言われています。

ヨハネ
15:14 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。

これは人間的に考えますと、まことに不思議な言葉に思われます。

もし、人間にこう言われたら、例えば、学校で同じクラスになった相手から、『俺の命令を全部きいたら、お前を友だちにしてやるよ』と言われたら、どう思うしょう?『それ、友だちじゃないよ。パシリじゃん』と思うのではないでしょうか?

イエス様が言われる友とは、私たちが日常生活で考える友とは違うのでしょうか?我々が考える友とは、人から強制された結びつきではありません。そこには、主従関係や上下関係はなく、また、どちらかが利益を得るためのものでもありません。

しかし、一方で、主は私たちをしもべでも、家来でも、使い走りでもない。友であると言いながら、同時に、ご自身が命じることに従うように求めておられます。私たちにとって、イエス様は、無条件にその戒めに従う支配者であることに変わりはないのであります。

それでもあえて、私たちを友と呼んでくださる主の御心を考えるために、実際にしもべと友とは、何が違うのかを、人間的な観点から比較してみたいと思います。三つの点があると思います。

(一)全てを知らせる


友がしもべと違っている点の第一番目は、互いの思いを共有する関係であるということであります。

イエス様は、先のみ言葉の中で弟子たちに、『しもべは主人のすることを知らない。』だから、あなたたちはもう私のしもべではないと言われました。

イエス様の時代に、主人としもべの例としては、金持ちと召し使いとか、王と家来といったところでしょうか。主人は、理由を説明することなく、しもべに命令し、しもべはその意味を尋ねることなく、言われたことを実行するという関係であります。

現代の社会でこれに近いのは、大企業の社長と平社員のような関係でしょうか。確かに社長が会社の経営方針について平社員に相談したり、会社の問題を打ち明けたりはしないし、社員の方もそれは、当然と思っているのではないでしょうか。

しもべとは、本来、主人に命令されたことを果たすだけの存在であって、その命令の意味や理由を知る立場にはありません。しかし、友であれば、様々な悩みを共有することは、不思議でも何でもありません。主イエス様も、これから自分がしようとしていること、そして、ご自身の心の苦しみを弟子たちに打ち明けました。

実際には、主と私たちの立場の違いというのは、社長と平どころではありません。創造主と被造物であり、全ての主権者とその奴隷であります。主にはご自身のご計画を人間に知らせる義務などなく、人間にも神のご計画を知る権利はありません。

しかし、イエス様は、この立場の違いを乗り越え、私たちは友であるから、自分がすることの全ての意味を教えると、ご自身から宣言してくださったのであります。

イエス様が最初の奇蹟を行われたのは、有名なカナの婚礼と呼ばれる出来事でした。宴会の途中でぶどう酒がなくなってしまいます。これを聞いたイエス様は、家の使用人たちを集めて、『水がめに水を満たしなさい』とだけ言われました。

使用人たちはどう思ったでしょう?聖書には書いてありませんが、心の中で、『ぶどう酒がないって言ってるのに、水ってなんだよ』と不平を漏らしたのではないでしょうか?この時点で、使用人たちは、イエス様の友ではなく、まさしく『主人のすることを知らない』しもべのまま、すべてが成されたのであります。

しかし、主は弟子たちに対してはこのようにはされませんでした。主は、神から聞かされたご計画のすべてを、弟子たちに明らかにされたうえで、彼らを友と呼ばれました。

主は、全ての人にこのご計画を伝えようとはされません。定まった時間に特定の方角を向い祈る人たち、仏壇に向かって拝む人たちには、この救いの計画を、お語りになりません。友である弟子たちに対してのみ、御父である神のご計画を明確に語ってくださいます。そして、全ての信じる者たちが将来にわたって、同じみ言葉を聞くことができるように、御霊を送られました。

ヨハネ
14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

主は、十字架の後も、友である私たちに御霊を通じてご自身のなさることの全てを説明してくださいます。これが、しもべではなく、友と呼ばれたひとつ目の意味ではないかと思います。

(二)自分を犠牲にする


二番目に、しもべではなく、友だからこそなされたこととして、主はご自身を犠牲として捧げられました。

主人が、しもべを助けるために、自身のいのちを投げうつということは、通常は考えられません。

もし、弟子たちと主人としもべの関係のまま、十字架にかかられていたら、イエス様の十字架での死はどのように受け止められていたでしょうか?それは、国の王様が敵につかまって処刑されるのを、家来として見ているというような話に過ぎず、そのお方が自分のためにいのちを捧げたということにはならなかったのではないでしょうか。弟子としても、人生で頼るべき教師を失った、大きな喪失として捕らえただけだったと思います。

しかし、その前に人間たちを友と呼ばれた主は、十字架でご自身の友情が真実であることを証明されました。主ご自身がこう言われています。

ヨハネ
15:13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

主は、この言葉の通り、友のために進んで十字架にかかってくださいました。主はまことに、自分たちをしもべではなく、友とみてくれていた、主ご自身が自分たちの身代わりとなってくれたという真実を、弟子たちは嚙み締めたのではないかと思います。

へブル
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

主イエス様の『前に置かれた喜び』とは、ご自身の死によって、すべての信じる者が、しもべではなく、永遠に友でいられるという、大きな栄光のことだったのではないでしょうか?

(三)切れることのないつながり


主人としもべという関係と対比した場合の、友人という立場の三番目の違いについて考えてみます。

主イエス様が、友と呼んでくださったとはいえ、私たちは神様と同等の立場にいるわけではなく、常に一方的に、神の言葉に従うべき存在であることに変わりはありません。

この世で言う主人としもべという関係であれば、与えられた責務を果たすことができないしもべは罰を受け、主従関係を断ち切られてしまいます。会社であれば、上から指示された仕事を何ひとつできないのに、何十年にも渡って、雇われているというには、あり得ないことです。

翻って、主のしもべとして、私たち自身のことを顧みてみますと、私たちは誰もが、御霊の言葉に従うことができず、主を悲しませることしかできないものではないでしょうか。たとえば、初めのみ言葉の少しまで主はこう命じられました。

ヨハネ
13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

私はこの戒めの通りにできたと言えたことはなく、自分が兄弟姉妹に対しても全く愛のない、冷淡極まりない者であることを日々、思い知らされています。

他の戒めを見てみますと、たとえば、自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。私は、今まで、こんなことは一度もできたことはないし、正直、これからでも、できるような気がしません。

しもべであれば、すぐさま、使えないヤツという烙印を押されて、つまみだされているところです。しかしながら、主は、戒めに従えないダメな人間に対して言われます。

ヘブル
13:5 ・・・・主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

こう言われる主の恵みは、主人ではなく、友としての愛であり、私たちが主の戒めを守ることに失敗し続けても、変わることなく注がれているのではないかと思います。

友情のしるし


さて、こうして考えてきましたように、イエス様は、ご自身の御心を表すために、私たちの主でありながら、友でもあるという関係を宣言してくださいました。

最後に、この関係がどうして成立することができるのか、その土台について考えてみたいと思います。少し前の場面で、イエス様は手ぬぐいを取って弟子たちの足を洗うという驚きべき行動を取られました。

ヨハネ
13:3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、
13:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。

誰よりも尊い主が、弟子たちの前に膝をついて、足をお洗いになりました。支配者であられるイエス様が、私たちを友と呼んでくださるという不思議な関係は、ひとえに、主ご自身のこの自発的なへりくだりのゆえに可能となったものです。

これはまた、私たちが周りの人たちに示すべき謙遜でもあります。

今、この部屋から出ていけば、私たちは主を受け入れようとしない人たち、家族や親せきに囲まれております。その中で私たちが救いを受けたのは、私たちが優れた人間だったからではありません。ひとえにキリストご自身が私たちの前にへりくだってくださったからであります。続きの場面で主が言われたことを見てみます。

ヨハネ
13:8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」

私たちも主を知らない人たちに対して、弟子たちの足を洗った主と同じ心で接することができれば、弟子たちを友と呼んだ主の謙遜を共有することができるのではないかと思います。

それができなければ、主からは、あなたはしもべでも友でもない、何の関係もない、すなわち、主の御心を伝えるのに、全く役に立たないものとされてしまうのではないでしょうか。

イエス様との友情を守る


終わりになりますが、私たちを親しく友と呼んでくださるこのイエス様とのつながりを守っていくにはどうしたらいいでしょうか?

はじめにお話ししたように、仲良くしていた古い友人との関係も、消えてしまって、後で後悔する可能性があります。主の恵みは変わることはありませんが、しかし、私たちの方は、意識してこの呼びかけに応えていかなければ、主が申し出てくださっている友という立場も、揺らいでしまうかもしれません。

人間のあいだの友人関係は、互いとの対話を切れ目なく続けることで守られます。

同じように、一日の終わりの祈りの中で、私たちは主にその日の罪を告白することができます。これも、しもべとして行えば、上司に対する報告のようになってしまいます。しかし、友としての主に向かって祈ると、その重荷を分かち合ってもらえるのではないかと思います。

私たちが、このイエス様という友を、持ち続けることができるのは、これ以上にないほどに、大きな特権ではないかと思います。

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