2022年1月16日日曜日

水の上を歩いたペテロ

水の上を歩いたペテロ
2022年1月16日、御代田福音集会
菊池 有恒

マタイ
14:24 しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。
14:25 すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。
14:26 弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
14:27 しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。
14:28 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
14:29 イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
14:30 ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。
14:31 そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
14:32 そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。
14:33 そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です。」と言った。

今、兄弟にお読みいただいたマタイ十四章の、この夜中の湖の上での出来事のすぐ前に、五つのパンと二匹の魚で、五千人ほどの男と、一緒にいた女子供たちが満腹した奇蹟が語られています。イエス様は、荒野で四十日四十夜、断食をされたとき、空腹を覚えられましたけれども、ご自分の空腹を満たすためのパンの奇蹟は起こされませんでした。ご自分を慕ってついてきた大勢の群衆を、御愛をもって、満腹させてくださいました。

しかし、どのようにすれば、たった五つのパンと二匹の魚で、何千人もの人の空腹を満たすことができるのでしょうか?

今日、引用させていただいた出来事も、人の思いでは、合点が行きません。いいえ。合点が行かなくてもいいのです。人の思いで、合点の行くことは地上のことだけです。信仰は、人の思いでは合点のいかないことを、御霊の働きに導かれて、心で確信できる幸いだと思います。

岸から何キロも離れた湖の上で、向い風のために、船が前に進めなくなりました。しかも、夜中の三時頃のことです。イエス様が、湖の上を歩いて、船に近づいて来られました。皆、「あれは幽霊だ」と怯え、恐ろしさのあまり、声をあげました。

「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と、イエス様がおっしゃいます。そのとき、ペテロは、「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来なさい、とお命じになってください」と言いました。イエス様に、「来なさい」と言われて、ペテロは、波の上を歩きはじめたのです。それでも、すぐに、風を受けて沈みかけ、イエス様に助けを求めました。

お話としては、人が水の上を歩くなんて、おもしろい不思議な話だね・・・・で終わります。それでも、私たちは、信仰にしっかりと立って、ここにある御心に、祈りながら耳を傾けなければなりません。

第一コリント
1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

この湖での出来事は、船の中にいた者が、イエス様を拝んで、「確かにあなたは神の子です」と言って、終わっています。この出来事は、私たちに、イエス・キリスト、この方こそ安心して従っていくことのできるお方であることを、確信させてくださいます。疑うことなく、すべてを受け入れればよいことを示しています。

イエス様を受け入れる信仰は、おっしゃることは、どんなことでもやってみよう、どんなことでもできるという確信を持つまでに、私たちひとりひとりを導いてくださることも示しているように思われます。

コロサイ
2:6 あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。
2:7 キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。

それでは、私たちの日々の歩みを振り返ってみましょう。波の上に足を踏み出すだけのイエス様への信頼を、持っているでしょうか?私は、『はい、持っています』などとは、とても言えません。引用させていただいたマタイの十四章を読むと、私は、本当に頼りない自分の信仰を思い知らされます。

それでも、そのことを悲観したり、自分はダメだと思い煩うことははないと考えています。聖書に書き記された多くの出来事は、御心をわかりやすく伝えてくださるものですから、祈りながら御心を尋ねれば、そこにある御心を必ずいただくことができます。この湖での出来事は、たとえ話ではありません。イエス様と弟子たちのあいだに起きた事実を伝えているのです。

この出来事は、私たちに二つのことを示しているように思います。ひとつ目は、恐れ怯えた弟子たちが、それがイエス様と分かった時、すぐに、『主よ!』と口をついて出る、主を喜ぶ信仰を持っていたことです。

今、地上を旅する私たちも、日々、祈りながら、この世の現実にとらわれることなく、絶えず心の目、霊の目を覚ましながら、何が御心なのか、真剣に尋ねて、御心が示された時、『主よ』と、疑わずに、百パーセント信頼して、その御心に従うべきことを教えていると思います。

二つ目は、イエス様を見つめ、信頼する信仰は、御心が示された時、おっしゃることは何でもやってみよう、どんなことでもできるという確信に、私たちを導いてくださることです。

マルコ
9:23 イエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」

ペテロは、自分から、『水の上を歩いて来いとお命じになってください』と言いました。イエス様に、「来なさい」と言われて、水の上を歩き出しましたが、風を見て怖くなり、沈みかけました。それでも、イエス様に、「来なさい」と言われて、水の上を歩きだすことのできるイエス様への信頼は、半端なものではありません。そこまで、イエス様を信頼するこのペテロの信仰は、私はただ、驚きをもって受けとめざるを得ません。

風は、湖に波を立てています。周りに掴まるものは、何ひとつありません。波の上に立つと、倒れそうになります。思わず足元を見ると、どこまで深いのかわからない真っ暗闇に広がる、底無しではないかと思えるような湖の上なのです。我に返ると、自分は今、水の上を歩いているのだという恐怖が襲います。誰が、現実に心を奪われたペテロを笑うことができるでしょうか?

信仰に導かれて、主イエスをただ一人の救い主と確信し、信頼している者でも、この地上を旅しているあいだは、人間です。肉のものです。ペテロといえども、地上にあるあいだは、現実から完全に解放されることはなかったのです。まして、私たちは、簡単に現実に心を乱されます。

私たち人間の救いは、地上にあるあいだは、まだ完成してはいないのです。救いの途上にあるのです。ですから、イエス様は、再び来られると約束をしてくださっているのです。

ヘブル
9:28 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。

私たちは、ひょっとすると、イエス様を救い主として信頼し、確信して、洗礼を受けた時が、それぞれの信仰のピークだったということはないでしょうか?パウロが繰り返し、繰り返し語っていることは、私たちの信仰の成長を真剣に望む、祈りそのものだと思います。

コロサイ
1:21 あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、
1:22 今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。
1:23 ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。

このパウロは、私たちに向かって、あなたがたを『御前に立たせてくださるため』でしたと言っています。イエス様の贖いの死は、私たち、一人ひとりをきよく、傷無く、非難されるところのないものとして、御前に立たせてくださるのです。

それでも、私たちは、油断すると、簡単に現実に目を奪われます。私たちが、信仰に立って歩んでいる日々の中で体験することや、経験すること、それらは、とても貴重なものです。人様の体験や経験は、主の証しそのものです。そこから私たちは、多くのものを学ぶことができます。それでも私たちは、自分の体験や経験を、それが誰にとっても、同じ意味があると思い込んで、あなたもそのようにしなさい、そのようにするべきだと、高ぶって人に押し付けやすいものです。

そればかりか、相手の方が、自分の言う通りにしないと、せっかく教えてあげたのに、その通りしないから、主は働かないのだなどと、さばきがちです。聖書がいろいろなところで言うように、自分は知っているから教えるというような態度は、イエス様のもっとも嫌われるところです。先の者が後になるのです。人の先に立ちたいと思う者は、しもべになりなさいとおっしゃっています。これは、私たちが誰でも陥りがちな態度に対する愛の戒めです。忘れてはならないことだと思います。

マルコ
9:35 イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」

湖に吹く風は、私たちを取り巻くこの世の現実です。私たちは、誰もが、この現実という風の中に暮らしています。しかも、この現実は、片時もなく、いやでも私たちに感じます。現実は、この目で見えるし、この耳で聞こえますから、避けようがありません。私たちはともすると、現実に心を乱されてしまいます。

イエス様は、このことをよくご存じです。ですから、私たちが天の御国に向かって、地上の旅を続けているこの一時のあいだも、いつも現実ではなく、イエス様を見上げて、御心に耳を傾けて歩くことができるように、心の糧、聖書を与えてくださっているのです。イエス様は、限りない御愛で、このように私たちの罪と罪の性質を、十字架の死をもって贖い取ってくださいました。そして、今も、どんなときも、天の御国にふさわしいものに、一歩でも近づきなさいと、私たちひとりひとりを励まし、訓練をしてくださっているのだと思います。

申命記
8:5 あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。
8:6 あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。
8:7 あなたの神、主が、あなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。

ペテロは、湖の上を歩いて近づいてきたのが、イエス様と分かった時、迷わず、『主よ』と言いました。さらに、『私に水の上を歩いて、ここまで来いとお命じになってください』と言いました。なぜ、このように言ったのでしょうか?一瞬でも早く、一歩でも近く、イエス様の元に行きたかったのだと思います。そして、イエス様がおっしゃれば、どんなことでもできるという確信をもっていたのです。イエス様は、このペテロの確信を、どんなに喜ばれたことでしょう。

イエス様に、「来なさい」と言われ、ペテロは、水の上を歩きだしました。しかし、すぐ現実、つまり、風に気を取られて沈むことも、イエス様は先刻、承知しておられました。それでも、『来なさい』とおっしゃいました。『やめなさい』とはおっしゃらないのです。

ペテロは何歩、歩いたか書かれていませんけれども、確実に水の上を歩いたのです。イエス様が十字架につかれる直前、鶏の鳴く前に、ペテロは三度、「イエス様を知らない」と言いました。このペテロに復活されたイエス様が、『わたしを愛するか』と三度、お尋ねになった出来事を思い出します。

今日、引用させていただいたこのマタイ十四章に伝わる出来事からも、限りないイエス様の御愛の深さが、私にも伝わってきます。御霊様が働いてくださっているのだと思います。

第一コリント
2:9 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
2:10 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。

聖書には、水の上を歩きだしたペテロがすぐ沈んだとは、どこにも書かれていません。聖書は、こう言っています。『ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。』控えめにみても、ペテロは、何歩かは水の上を歩きました。歩けたのです。ペテロの喜びは、どんなに大きかったでしょうか?

ペテロの信仰は、ゆるぎない信仰でした。しかし、そのペテロでさえ、風を見ました。イエス様がペテロをつかんで言われた、『信仰の薄い人だ。なぜ疑うのか』という御言葉にも、ペテロを叱るようなお気持ちが、私には全く感じられません。私には、『困ったときは、いつでも私を呼びなさい。いつも、わたしはあなたと一緒に居るから』と、おっしゃっているように、思われてなりません。人々の救いのために、苦難と迫害の中で殉教するその日まで、挫けずに生きなさい。どんな時も、わたしがともにいるからと、ペテロに語りかけるイエス様の深い御愛を思います。

私たちは、召されるそのときは、いつであっても、また、今日かもしれないイエス様が再び来られるその日がいつであっても、イエス様に、『来なさい』と言われれば、水の上にでも、喜んで踏み出す信仰に少しでも近づきたいと思います。そのために、いつも心の目を覚ましながら、御声に耳を傾けて、日々を歩みたいと思います。

これからの日々、御心をしっかりと受け止めて、その日が来るまで、皆さんとご一緒に、イエス様を見つめて歩んでいきたいと思います。

最後に、先ほどお読みしましたけれども、申命記の八章から、もう一度、お読みします。

申命記
8:5 あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。
8:6 あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。
8:7 あなたの神、主が、あなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。

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