2022年1月10日月曜日

祈りの力

祈りの力
2022年1月9日、吉祥寺集会
古田 公人

使徒行伝
9:1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、
9:2 ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
9:3 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
9:4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。
9:5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
9:6 立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」
9:7 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。
9:8 サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。
9:9 彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。
9:10 さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ。」と言われたので、「主よ。ここにおります。」と答えた。
9:11 すると主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。」

祈りは力です。しかし、ローマ人への手紙には、『私たちはどのように祈ったらよいかわからないのです』とも、記されています。事実、そのとおりだと思います。今日は、パウロの祈りを元に、祈りの力について、ご一緒に考えたいと思います。

最初は、このダマスコでの三日間――すごいですよね。三日間、パウロは祈りました。それまで、イエス様の名に強硬に敵対すべきだと考え、信者を激しく迫害してきたパウロにとって、よみがえりのイエス様との出会いは、決定的な体験だったようです。目が見えなくなり、飲み食いをしないで、三日間になりました。七十二時間です。生死の境目だとよく言われる時間です。限界まで、彼は祈りました。

目が見えなくなったことにより、パウロは、見えるものから解放されたと同時に、何もできないということを体験し、砕かれたに違いありません。それまでパウロは、大祭司だとか、エルサレムの神殿とか、律法の行いといった目に見えるものに支配されていました。しかし、目が見えなくなったことによって、見えるものから解放され、主を見上げ、心の内に語られる主の御声に耳を傾けることができるようになったに違いありません。目が見えなくなったことは、恵みだったと言えると思います。

マルコの1章15節に、公(おおやけ)の生活を始められたイエス様の最初の言葉が記されています。

マルコ
1:15 時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。

パウロも、最初に、この言葉をお聞きしたのではないかと思います。三日間、飲み食いしないで祈りましたけど、これは、悔い改めを意味しています。事実、パウロには悔い改めるべきことが、たくさんありました。もっとも大きな問題は、信者を迫害したということでしたけれども、しかし、それよりももっと大きな問題は、彼が自信にあふれ、高ぶっていたということだったのではないでしょうか?

神の名において、神の教会を迫害するという、恐るべきことを、彼はしていたと、イエス様に知らせられました。また、主なる神の権威によって・・・・と思いながら、現実には、大祭司の、つまり、人間の権威によって、働いていたことも知らせられたのであります。パウロは、悔い改めるべきことを、ひとつひとつ、イエス様の前に出して、祈ったに違いありません。

使徒の働き
26:16 起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現われたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現われて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。
26:17 わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。
26:18 それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。

イエス様は、救われたばかりのパウロを、異邦人の使徒に任命なさいました。大変な、パウロにとっては、大変なことだったと思います。でも同時に、語るべきことをも、知らせられました。信仰によって罪の赦しが与えられる。暗闇の支配から、光の中に移される。サタンの支配から、神に立ち返り、御国の相続者とされる。

どれひとつとして、それまで、パウロが思いもしなかったことだったのではないでしょうか。それまでのパウロは、人は律法を行うことによってのみ、義と認められると考え、励んでいました。しかし、信仰によって救われるというイエス様ご自身の啓示だったんです。人間が言ったのではなかった。イエス様ご自身の啓示によれば、律法によって義と認められようと励むことは、サタンの支配にとどまることでしかないと、パウロは知りました。ダマスコでのこの祈りの中で与えられた啓示は、それまでパウロが学び、信じてきたこととは、根本的に違っていたんです。

ですから、パウロは、戸惑ったに違いありませんけど、彼は、きっと、与えられた啓示を、旧約聖書の御言葉に照らして思い巡らし、受け止めたのだろうと思います。コロサイ人への手紙の3章16節には、『キリストの言葉をあなたがたのうちに豊かに住まわせなさい』と記されています。

パウロが、旧約聖書の主要な御言葉を自分のものとしていたことは、パウロの手紙が示しています。パウロの三日間の祈りは、多分、与えられた啓示を、旧約聖書の御言葉を思い起こしながら受け止め、そのようにして受け止めたことを、イエス様に申し上げ、さらにまた、啓示を受ける、こういうことであったのではないかなと思います。言い換えるなら、与えられた啓示を、自分のものとして確信するまで、彼は、イエス様との交わりの中に、とどまり続けたということができるのではないかと思います。

それが、三日間という時間を通しての祈りであったと思います。ですから、パウロは、この後、福音をもっともふさわしい言葉で言い表すことができるようになったのです。ダマスコでの三日間の祈りが大きな実をもたらしたことは、聖書が証ししています。

私たちにとって――考えてみたいと思うんですけど――、聖書の一ページ、あるいは、二ページを読むことは、短い時間で充分ですが、御言葉を文字として受けるだけではなくて、いのちの糧として受けるには、イエス様が、個人的に語ってくださるまで、時間をかけて、御言葉を味わうことが、どうしても必要なのではないでしょうか?

パウロのダマスコでの祈りは、イエス様との妨げのない交わりの必要性を私たちに教えてくれます。何も見えなくなって、何を信じていいか分からない。イエス様以外に、パウロは、この時、信じる者がなかった。旧約聖書の御言葉とイエス様の言葉だけを、彼は三日間、頼りとして過ごしました。

次は、パウロが用いられるための力をいただくようになったきっかけとなる祈りを見てみたいと思います。

第二コリント
12:7 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
12:8 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。

パウロは、健康になれば、もっといろいろなところへ行って、イエス様のために働けると、そういう思いをもって祈ったに違いありません。『とげを去らせてください』という願いは、でも、聞き届けられなかったんです。でも、主は、祈りには答えてくださいました。「わたしの恵みは、あなたに十分である。わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」と、仰せになりました。イエス様がおっしゃったことは、取り除いて欲しいと思っていたとげは、イエス様から与えられた恵みだったということです。ここに、イエス様のお考えと、人間の考えの違いが、鮮明にされています。

私たちは、目先のことしか考えられない者ですから、自分にとって不都合なことは皆、災いだと受け止めるのではないでしょうか。しかし、イエス様は、不都合に思えるものも、イエス様の御手から受けるなら、それは恵みになると、仰せになったのではないかと思います。人間的に考えれば、とげはとげでした。でも、イエス様は、それを恵みとして与えたと、お語りくださっています。

パウロという人は、自分の考え、自分の力で働くことのできる人でした。でも、それは、実際のところ、イエス様の御心ではありませんでした。

ヨハネ
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

生まれながらの自分の力、自分の思いで働くことは、主は喜ばれない、いや、実を結ばないと、仰せになっています。

またイエス様は、『わたしの力は、弱さのうちに完全に現われる』と、仰せになりました。大切なことは、『完全』ということなのではないでしょうか?中途半端なことではないと、イエス様は仰せになっています。ガラテヤ書2章20節、多分、パウロが経験した『完全』と言うことを、言葉で表したのが、これではないかと思います。

ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

中途半端ではない。キリストが生きておられる。もはや、私は生きていないと、パウロは語っています。『とげを取り去ってください』と祈る祈りを通して、パウロは、自分が生まれながらに持っているものを、すべて十字架につけて、そして、主のために働こう、イエス様から、あらためていただくものによって働こうと、教えていただいたということが分かるのであります。

次は、地方の集会のために祈った祈りについて見てみたいと思います。パウロの手紙の中には、いくつもありますけれども、二つだけ見てみたいと思います。

エペソ
1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
1:18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

エペソの兄弟姉妹のために祈ったパウロの祈りです。御霊が――知恵と啓示の御霊が――与えられ、イエス様をもっと、もっとよく知るようになるようにと言う祈りだったということができます。

ピリピ
1:9 私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、
1:10 あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、
1:11 イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。

兄弟姉妹が、やはり、御霊によって強められ、キリストの愛を自分のものとし、イエス様の満ち満ちた様にまで達するようにという祈りだと、受け止めることができるのではないかと思います。

このような地方の集会のための祈りは、時間的にも、地理的にも離れてはいますけれども、パウロの心の中では、多分、それぞれの集会の兄弟姉妹たちとのひとつの祈り会の中での祈り、そういう気持ちで、パウロは書いたのではないかと思います。教えようなんて言うものではなかったと思います。ひとりひとりの兄弟姉妹を思いつく限り、思い浮かべながら、パウロは、この祈りを祈ったに間違いないと思います。

パウロは、兄弟たちと共に祈ったということは、使徒の20章に記されています。また、個人的に名を挙げて祈っていたことも、第二テモテやピレモン書には記されています。逆に、ピリピ人への手紙の中では、名前を挙げて注意している人のところもあります。しかし、そういったことは例外であって、パウロの手紙には、挨拶のため以外の目的で、個人の名前が挙げられていないということは、ひとつの特徴だと思います。

最初から、パウロは、手紙が新約聖書になるなんて、全く考えませんでした。たまたま残って、そして、それが新約聖書として、閉じこまれただけのことであります。ですから、もっと個人的なことを書いてもおかしくなかった。でも、パウロは、それを書かなかったんです。主が、書くことを許されなかったからとしか言えないと思います。そして、それだけではなくて、それぞれの集会の制度だとか、組織だとか、人事だとか、そういったことも一切、パウロは書こうとしませんでした。福音とは関係がなかったからであります。

パウロの祈りは、ただひとつ、信者が御霊に導かれて、霊的に成長することに尽きると言っていいと思います。パウロが、実りある伝道旅行を行い、各地に兄弟姉妹を見出し、集会を立てることができた背後には、この祈りがあったことが分かります。

ローマ
1:10 いつも祈りのたびごとに、神のみこころによって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるようにと願っています。
1:11 私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。

1:15 ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。
1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。

パウロは、ローマへ行きたいと思っていたようであります。でも、その願いは、そのままでは実現しませんでした。後になって、行くことになりますけれども、この手紙を書いた時点までは、実現しませんでした。福音を伝えたいというパウロの思いを、主はご存知でしたから、パウロに手紙を書きなさいと、啓示をお与えになりました。

私たちは、パウロのこの手紙によって、聖書を真に霊的に読むことができ、共通の基盤で、祈りを、あるいは、交わりを持つことができると言うことができると思います。私たちが霊においても、知性においても、御心にかなった祈りをすることができるのは、パウロの手紙が与えられているからではないでしょうか?

私たちは、パウロの生涯から、このように祈りの力を知ることができるんですけど、しかし、それだけではなくて、パウロは、祈ることと同じくらい、あるいは、それ以上に、主の声に耳を傾けたという事実を、私たちは知ることができるのであります。パウロにとって祈ることとは、主の前に静まることであり、聞くことであったと言えるのではないかと思います。

祈りは力です、イエス様のご計画は、人の想いを超えて遥かに、大きなものですが、もし、私たちが、主と親しい交わりを持っているなら、主は、私たちを用いてくださいます。

主は、必ず、祈りに答えてくださいます。でも、そのために、やはり、パウロのように、主がお語りになることに、耳を傾けたいと思います。ひとつひとつのことを、主におききして歩みたいと思うものであります。

最後に、パウロの証しを三つ読んで終わりたいと思います。

ローマ
15:18 私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かを話そうなどとはしません。キリストは、ことばと行ないにより、
15:19 また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。その結果、私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。

もちろん、祈りがあり、イエス様の御声があって、できたことだと思います。

ピリピ
4:19 また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。

ピリピ人への手紙は、パウロの伝道活動の最後の方に書かれたと言われてますけど、『必要をすべて満たしてくださった』と、パウロは、確信を持って書くことができました。

ピリピ
4:13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

監獄の中で書いています。目に見えるものは、恐れる必要はないと知らされます。

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