2022年1月15日土曜日

聞き届けられる祈り

聞き届けられる祈り
2022年1月15日、芦屋ティータイム
古田 公人

マタイ
21:21 イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。
21:22 あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」

「信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」非常にすばらしい御言葉ですけど、今日は、この御言葉を、聖書の中から、ご一緒に、この御言葉に導かれて、考えてみたいと思います。

ひとつは、まず第一サムエル記から読んでみたいと思います。長いんですけど、いきさつを知るために、読んでみたいと思います。

第一サムエル記
1:1 エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに、その名をエルカナというひとりの人がいた。この人はエロハムの子、順次さかのぼって、エリフの子、トフの子、エフライム人ツフの子であった。
1:2 エルカナには、ふたりの妻があった。ひとりの妻の名はハンナ、もうひとりの妻の名はペニンナと言った。ペニンナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった。
1:3 この人は自分の町から毎年シロに上って、万軍の主を礼拝し、いけにえをささげていた。そこにはエリのふたりの息子、主の祭司ホフニとピネハスがいた。
1:4 その日になると、エルカナはいけにえをささげ、妻のペニンナ、彼女のすべての息子、娘たちに、それぞれの受ける分を与えた。
1:5 また、ハンナに、ひとりの人の受ける分を与えていた。彼はハンナを愛していたが、主が彼女の胎を閉じておられたからである。
1:6 彼女を憎むペニンナは、主がハンナの胎を閉じておられるというので、ハンナが気をもんでいるのに、彼女をひどくいらだたせるようにした。
1:7 毎年、このようにして、彼女が主の宮に上って行くたびに、ペニンナは彼女をいらだたせた。そのためハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。
1:8 それで夫エルカナは彼女に言った。「ハンナ。なぜ、泣くのか。どうして、食べないのか。どうして、ふさいでいるのか。あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないのか。」
1:9 シロでの食事が終わって、ハンナは立ち上がった。そのとき、祭司エリは、主の宮の柱のそばの席にすわっていた。
1:10 ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。
1:11 そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」
1:12 ハンナが主の前で長く祈っている間、エリはその口もとを見守っていた。
1:13 ハンナは心のうちで祈っていたので、くちびるが動くだけで、その声は聞こえなかった。それでエリは彼女が酔っているのではないかと思った。
1:14 エリは彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」
1:15 ハンナは答えて言った。「いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。
1:16 このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです。」
1:17 エリは答えて言った。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」
1:18 彼女は、「はしためが、あなたのご好意にあずかることができますように。」と言った。それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。
1:19 翌朝早く、彼らは主の前で礼拝をし、ラマにある自分たちの家へ帰って行った。エルカナは自分の妻ハンナを知った。主は彼女を心に留められた。
1:20 日が改まって、ハンナはみごもり、男の子を産んだ。そして「私がこの子を主に願ったから。」と言って、その名をサムエルと呼んだ。

書かれているとおりのことでしかないんですけれども、主の宮でハンナは、主に祈って、激しく泣いたと記されています。彼女は、『万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします』と祈っています。

祭司エリに向かっては、『私は心に悩みがあります。私は主の前に私の心を注ぎだしていたのです。その憂いといら立ちのため、今まで祈っていました』と語っています。エリは、『安心して行きなさい。イスラエルの神があなたが願ったその願いをかなえてくださいますように・・・・』と、言います。言うまでもなく、主がエリを通してお語りになったんだろうと思います。心を注ぎだして祈り、祭司エリとの交わりをいただいたハンナは、喜んで帰りました。それだけで、喜んで帰りました。そして、主は働かれ、男の子が与えられています。もちろん、後のサムエルであります。

ハンナの祈りには、いくつかの特徴が見られています。まず、心が痛んでいて、主に祈って激しく泣き、心を注ぎだして祈ったと記されていることです。一言で言うなら、まず、正直であった。そして、全身全霊で祈っているということです。ハンナは、現実が、あまりにも惨めで、そして、つらかったから、自分の立ち位置を、自分の持ち場から、主の側に移すしかなかったと、言えるのではないかと思います。

主が悩みを顧みて、心に留めてくださり、男の子を授けてくださるなら、その子の一生を主におささげしますと、生まれてくる子供を、主にお返ししますと、約束しています。もう自分の立場を離れて、主の立場で何をなさるか、主の立場で、私は何をすべきかというところに導かれて、祈っています。『栄光は、主よ、あなたのものです』と言っているのと、同じではないかと思います。

詩篇
34:18 主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。

51:17 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

もし、ハンナがペニンナを憎み、エルカナに不満を持ち、ペニンナと同じような立場に立ちたいという、そういう気持ちで祈っていたら、そのことにこだわり続けていたなら、多分、ハンナは、心にも、生活にも、平安がなく、いつまでも不幸であったのではないかと思います。多分、主への願い、祈りは聞かれなかったのではないでしょうか?しかし、ハンナは主のもとに行き、御心にかなう祈りをお捧げしたと分かります。主はハンナの祈りにお答えになり、祈りを聞き届けられました。勝利の生涯を、彼女は送ることができたと言うことができるのではないかと思います。

もうひとつ、ローマ人への手紙一章です。

ローマ
1:10 いつも祈りのたびごとに、神のみこころによって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるようにと願っています。
1:11 私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。

1:14 私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。
1:15 ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。

今度は、パウロの祈りです。パウロは、祈りのたびごとに、『今度』、しかも、『今度はついに道が開かれて・・・・』と祈っています。何度も何度も祈ってきたということが、その言葉からよくわかります。でも全然、道は開かれませんでした。祈っても、祈っても、閉ざされたままだったということがわかります。

ローマの教会は、パウロの働きによってできた教会ではなかったんですけれども、熱心な信者が大勢いたということが、ローマ書の最後の16章のところを読めばわかります。そして、パウロの目的は、そうは言っても、やはり、パウロが啓示によって与えられた福音を伝えなければならないという、そういう思いに、パウロは、捕らえられていたということが、同時にわかるのであります。

ローマへ行きたいという願いがかなえられない、そのパウロに、主は、『手紙を書きなさい。福音を手紙にして書きなさい。そうすれば、あなたが口で言うよりも、もっと詳しく、いつまでも残る形で福音が伝えられますよ』と、そういう思いを、パウロに与えられたに違いないと思います。

確かに、耳で聞くよりも、字で書かれたものは、何度も何度も繰り返して読むことができます。今の時代なら録音できますけれども、パウロの時代は、そんなものはありませんでした。手紙の方がずっと確かで、何度も聞ける、読める、そういう術(すべ)であったと思います。こうした経緯でローマ人への手紙は書かれました。

パウロは、ガラテヤ書の中で、人間によってではなく、啓示によって与えられたと書いていますように、パウロの手紙は、ペテロやヨハネの手紙とは、また違った内容のものでした。私たちは、このローマ人への手紙によって、福音書に記されているイエス様の御言葉と御業のひとこまひとこまを、特定の場面での一時的なものとしてではなくて、相互に関連をもって知ることができると思います。ある意味、福音書を読む手がかりが、ローマ人への手紙であり、ローマ人の手紙を裏付けているものが、福音書であると言ってもよい。そういう関係にあるのではないかと思います。

ですから、このローマ人への手紙は、信仰による救いと、神の義、そして、御霊とそのはたらき、それから――ローマ人への手紙ではありませんけど――第一コリントやエペソ書によって、御体なる教会、こういった大切な奥義は、私たちはパウロの手紙を通して知ることができると言っても、間違いはないと思います。

もし、聖書の中に、ローマ人への手紙がなかったら、兄弟姉妹が、霊的に一致した祈りを捧げることはできない――難しいということが言えます。この手紙があるからこそ、私たちは、霊においても、知性においても、御心にかなう祈りをささげることができ、また、交わりを持つことができると言えるのではないかと思います。

パウロの願いが、すぐにかなえられていたら、パウロは、ローマへ行って兄弟姉妹がたに、心ゆくまで福音を語ったと思いますけど、パウロがそういうふうにして語った福音を、私たちは何にも知ることができません。エペソでも、コリントでも語ったでしょうけども、私たちは手紙を通してのみ、パウロの福音を知ることができます。そう思うと、ローマへ行って福音を語りたいというパウロの願いは、聞かれなったのではなくて、実は、パウロの予想もしなかった形で聞き届けられたということができるのではないかと思います。

ローマの兄弟たちに福音を伝えたいというパウロの祈りは、多分、一人で祈る、ひそやかな祈りだったのではないかと思うんですけど、しかし、時空を超えて、世界中の人々に、福音の真理を伝えるという形で、実を結びました。イエス様のご計画は、人の想いを超えて遥かに大きいとしか言えないのではないかと思います。

ひとつ、聞かれない祈りについても見てみたいと思うんです。ヨハネの福音書、18章です。本当に残念なことだったんですけど、28節から40節までを読んでみたいと思います。 

ヨハネ
18:28 さて、彼らはイエスを、カヤパのところから総督官邸に連れて行った。時は明け方であった。彼らは、過越の食事が食べられなくなることのないように、汚れを受けまいとして、官邸にはいらなかった。
18:29 そこで、ピラトは彼らのところに出て来て言った。「あなたがたは、この人に対して何を告発するのですか。」
18:30 彼らはピラトに答えた。「もしこの人が悪いことをしていなかったら、私たちはこの人をあなたに引き渡しはしなかったでしょう。」
18:31 そこでピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、自分たちの律法に従ってさばきなさい。」ユダヤ人たちは彼に言った。「私たちには、だれを死刑にすることも許されてはいません。」
18:32 これは、ご自分がどのような死に方をされるのかを示して話されたイエスのことばが成就するためであった。
18:33 そこで、ピラトはもう一度官邸にはいって、イエスを呼んで言った。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」
18:34 イエスは答えられた。「あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか。」
18:35 ピラトは答えた。「私はユダヤ人ではないでしょう。あなたの同国人と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのです。あなたは何をしたのですか。」
18:36 イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」
18:37 そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。
18:38 ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」

総督ピラトは、イエス様と話す機会を持ちました。ピラトは、イエス様に、確かに関心を抱いています。イエス様が王であることを聞き、また、『わたしは、真理のあかしのために生まれ、このことのために世に来たのです』との御言葉も聞きました。『真理とは何ですか』と、イエス様に尋ねましたけれども、それまでピラトと会話をして来られたイエス様は、この質問にだけは、お答えになりませんでした。

ヨハネ14章の6節に、『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです』と、イエス様はお語りになっていると記されています。結局、真理とは、イエス様ご自身です。ですから、真理であるイエス様を前にして、ピラトは、『真理とはなんですか』と尋ねています。

イエス様は、もちろん、真理とはわたしのことだとか、あるいは、こういうことだと、ピラトに説明することは、おできになったでしょうけれども、そうはなされませんでした。大切なことは、真理という言葉の意味を知ることではなくて、イエス様を個人的に知ることだからであります。

聖書全巻が、そういうふうに言えるのではないかと思います。福音ってどういう意味だろう・・・・と考えても、あまり意味がない。福音を聞いて、信じることに意味があるのと同じだろうと思います。大切なことは、イエス様を個人的に知ること、そして、それはただ信仰によってのみ可能だと言うことが、知らせられるのであります。

イエス様が十字架におかかりになった時、そこにいた百人隊長は、多分、イエス様とお話をしなかったと思うんですけど、彼は、イエス様が真理であることを、正しく受け止めました。『まことにこの人は神の子だ』と、証しをしています。彼は、イエス様を知りたいという思いで、イエス様を見つめていたのではないかと思います。

同じように、ピラトも、もし、イエス様を個人的に知りたいと思っていたなら、イエス様を知ることができ、真理を知るようになったんだろうと思いますけど、残念なことに、そうはなりませんでした。ピラトは、イエス様と話し合いはしましたけれども、それは、交わりとはいえませんでした。ピラトの総督という地位と、イエス様という――なんと言うんでしょう、被告人というのが、犯罪人でもない――そこに訴えられている者との立場の違いが厳然として、そこに存在していたからであります。

また、『真理とはなんですか』と尋ねたピラトの言葉は、祈りのようなものでしたけど、祈りではありませんでした。結局、祈りであるかどうかは、語る人の信仰によると言うことを、私たちは知らせられるのであります。ピラトが語り、聞き、思うところを口にしましたけれども、信仰がなかったために、それは皆、実を結ぶことがありませんでした。

もし、私たちも、祈りの言葉を口にし、他の兄弟の祈りに、『アーメン』と言うことをしたとしても、もし信仰がなければ、主の御声を聞くことはできないのではないかと、恐れるものであります。

イエス様は、ひとりひとりに対して真剣です。ですから、人が期待しても、必ずしも期待するようなかたちで、祈りを聞き届けてくださるわけではないと思います。しかし、必要なものは必ず与えてくださる。ピリピ書に記されています。

ピリピ
4:19 また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。

見てまいりましたように、イエス様は、祈りに対して、三種類の対応をなさっています。

ひとつは、ハンナの場合でした。願ったとおりに答えてくださいました。涙を流し、心の内にあるものを注ぎ出して、正直に思ったハンナの祈りは、きかれています。マタイの9章に、中風の人の話が載っています。

マタイ
9:1 イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。
9:2 すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。

信仰があれば、心の内にある隠された願いでに、答えてくださいます。ハンナの場合もそうでした。ハンナが心の中で祈っていて、唇が動くだけだったと、記されていました。そういうふうにして、主は必ず答えてくださいます。

もうひとつの対応は、祈りに対して、お答えにならないということです。ピラトの『真理とはなんですか』と言うこの質問に対しては、お答えになりませんでした。『しるしを見せてください』と、律法学者たちが願った時も、主は、『しるしは与えられません』とお語りになっています。

そして、さらにもうひとつの対応は、パウロに対するローマへ行きたいという祈りへのお答えでした。願うようにではなくて、祈りの答えとして、主の計画を成し遂げられるということであります。

人によっては、祈りが聞かれないと言う状況だけを捉えて、主が沈黙されているという人がいます。でも、お答えにならないことと、黙っておられることとは違うと思うんです。主が、黙っておられることは、これはもうどうしようもないことであって、沈黙をされるという場合は、その沈黙をされるというよりも、祈る方がこういうふうに願いが聞いてくださるに違いないと期待しているから、沈黙をしておられるように受け止めてしまうのではないでしょうか?

主は、信じる者――信仰をもってイエス様の前に出る者――には、御言葉と御業をもって、必ず答えてくださっています。それが、期待どおりのものであるか、ないかは、別のことであります。あのピリピ人への手紙も、『必要を満たしてくださいます』とありました。もらったこととは知らされていませんでした。

今日は、三つの祈りを見てまいりましたけれども、結局、最初に読んでいただきました、あのみ言葉のとおりではないかと思います。信仰、祈るとは信仰なんだ、信じるということがあって、それは祈りであり、その祈りは、必ず、主は聞いておられる――お答えがどういうものであるかは別として、主は聞いておられるということが言えるのではないかと思います。

御言葉を三箇所、読んで終わりたいと思います 

ヨハネ
11:40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」

マタイ
21:22 あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。

第一ヨハネ
5:14 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。

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