2022年2月13日日曜日

益なるキリスト

益なるキリスト
2022年2月13日、秋田福音集会
岡本 雅文

ヨハネ
12:46 わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。
12:47 だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。

いつも、こういう場に出る時に、気になる言葉が、メッセージという言葉です。メッセージができるような者は、多分、一人もいないと思います。今日も朝、聖書を見ていたら、テモテにパウロは朗読を進めていますね。

今日は、どちらかというと、たくさんの聖書の朗読に近いところがあると思いますけど、そこだけは自信を持って話せますね。聖書に書かれていないところについては、メッセージではなくて、証しと言った方が良いのかもしれません。導かれた『証し』という言葉は、どのように解釈してもいいと思います。メッセージだとか、学びといってもよく、また、第一コリントの14章では、徳を高める――すべてのことを持って兄弟姉妹が徳を高めるためにするのですというふうに書いてあります――、そして、またもうひとつ、聞くものは吟味しなさいとあります。それは、徳を高めるために、本当にイエス様が語られていることと違うことがあれば、叱責をする必要があるし、そしてわからないところは、批判的なことではなくて、知りたいという思いを持って交わって行くことが、聖書を共に考えると言うことで、いちばん大切ではないかと、いつも思わされます。

今日の引用聖句と言われましたけど、引用聖句ではないんですね。というのは、先ほど読んでいただいたヨハネの12章の46、47節は、先週の吉祥寺の礼拝で、ひとり兄弟が、礼拝の御言葉として引用してくださった箇所なんです。そこを聞いた時に、本当に、イエス様の御愛を心に深く感じたので、この箇所を最初に選ばせていただきました。

ヨハネ
12:47 だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。

この箇所だけでも、どのようにこれを捉えていいのか、分からないぐらいです。『だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません』と書いてあります。この箇所を、本当にこの一行、一節を考えると、どのように理解していいのか、それは、イエス様の、また、父なる神の御愛の広さ、長さ、高さ、深さ、それを垣間見せていただいているようであります。解釈などと、そういうような言葉は、到底、歯が立たない御言葉ではないかと思います。この御言葉を聞いて、心から礼拝を捧げることできた、感謝することができた、その思いがあったので、最初に読ませていただきました。

ヨハネが告げたこのような神の愛をへブル書の著者は、12章の2節から7節で、次のように告げています。長い箇所であり、そしてまた、よく読まれる箇所なので、知っておられると思いますけど、大切な箇所なので、お読みいたします。

へブル
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、(・・・・すなわち、この喜びは、イエス様がこれから与えられる栄光をのぞみ見て・・・・)はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

すなわち、栄光をお受けになりました。

12:3 あなたがたは、罪人たちの(・・・・私たちの・・・・)このような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。
12:4 あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。
12:5 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを(・・・・すなわち、主の愛を・・・・)軽んじてはならない。主に責められて(・・・・主に愛されて・・・・)弱り果ててはならない。
12:6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
12:7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。

13:5 ・・・・主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

13:7 神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。

この最後に書かれてあった七節、これを、本日、キリスト者の指導者たちの中でも、とくに信頼できるパウロの生活の結末をよく見て、その信仰にならいたいと、心から思っています。なぜなら、このパウロは、先ほど書かれている通り、主に対するこのような反抗を徹底的に行った人であるからです。それだけなく、彼、パウロは、この主イエス様に会って、罪と戦って血を流すまで抵抗した結果、『わたしは決してあなたを離れず、またあなたを捨てない』という、主ご自身の声を聞いた人でもあるからであります。

あなたがたの『指導者たちのことを思い出しなさい。』この指導者というのは、いろいろな捉え方があると思います。すなわち、現代の私たち、救われた者にとっての人間としての指導者と捉えることもできます。ですけれども、多くの――本当にいろいろな問題が生じるような――現代の指導者よりも、二千年前のあの初代教会の人たち、また、その中でも、パウロ、彼の心そのものが、手紙の中で克明に書かれているパウロを通して、考えてみたいと思います。

今のへブル書の12章の3節、『このような反抗』とは、十字架のはずかしめを与えた者、イエス様に十字架の辱めを与えたものでありましょう。すなわち、パウロのあの激しい、また、私たちの反抗でありました。この十字架を忍んでくださった神の愛が現れたことによって、私たちの罪の本質が明らかにされました。

この愛にふれなければ、イエス様のあの十字架の愛にふれることがなければ、罪がどのように強く、また、どのように離れがたく、私たちのうちに住み着いているのか、まとわりついているのか、そして、神様からどれほど遠く離れているのか、決して、私たちは知ることがなかったのではないかと思います。

愛にふれなければ、その反対の罪が明らかにならない。これは、聖書を通して貫かれている真理のひとつだと思います。この方を十字架につけて殺したのは、私たちの――私自身の――罪そのものであったと気付くこともなかったでしょう。『イエス様に出会わなければ、また、十字架のこの御言葉に出会わなければ・・・・』というこの認識に導かれることは、信仰の創始者であるイエス様が、私たちの内側に、新たに始めてくださった恵みにほかなりません。

信仰は、自分で獲得したものではなくて、信仰の創始者であるイエス様ご自身から受け継いだものを与えられたものと、聖書は言っていると思わされます。主を恐れることは知識の初めであると、旧約聖書の箴言の一章の七節に書かれています。知識のはじめとは、イエス・キリストを恐れ、信じる信仰のはじめではないかと思わされます。

同じヘブル書の十二章の二節で、次のように告げているからであります。今も半分、言いましたけれども、『信仰の創始者であり、完成者であるイエス』と書かれています。信仰の創始者であり、また、完成者であるイエス。イエス様こそ、信仰のはじめであり、創始者そのものであります。

パウロは、本当の愛、そのものであるイエス様に出会いました。そして、私たちの内側に宿っている自己愛、自分を愛する愛、すなわち、原罪ですね、最初から住み着いている罪を深く認めるものとなりました。全く知らなかったその認識に至りました。彼が、実際に、御霊によって導かれた結末をよく見て、その信仰に習いたいと今日、兄弟姉妹とそのように導かれたいと思っています。

このイエス様から遠く離れていたパウロ、反抗し続けたパウロを、イエス様は友として、また、我が子として、受け入れてご自身のいのちを捨ててくださいました。

第一ヨハネの三章で同じ使徒のヨハネは、次のように告げています。

第一ヨハネ
3:16 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。

イエス様がいのちを捨ててくださった――そのことによって、愛が初めて分かったと、ヨハネは証ししています。

パウロがピリピの集会に送った手紙を――長い手紙ですけども、その一部をお読みしたいと思います。ピリピというのは、パウロの第二次伝道旅行の時に、初めてヨーロッパに足を踏み入れ、そこで福音を伝えた集会です。長い箇所ですけれども、私たちがその信仰にならうようにと告げられた指導者の一人であるパウロの結末に至る道を思い起こしながら、味わってみたいと思います。何度、読んでも力が与えられる箇所であります。

ピリピ
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には(・・・・すなわち、損ではなく、益である・・・・)キリストを得、また、
3:9 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。
3:10 私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、
3:11 どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。
3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。(・・・・すなわち、結末に至る旅の途上にあるのです。・・・・)そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。
3:13 兄弟たち(・・・・また、姉妹たち・・・・)よ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
3:15 ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。

長い箇所でしたけれども、この聖書の御言葉は、パウロがそうであったように、実際の生活の中で――私たちも同じですけれども――、一生を通して学び続け、与えられ続ける、そういう恵みであるということがわかります。

先程も、メッセージ、また、学びというのは、そこにもう付け加える言葉がないほど、このパウロの心の軌跡、彼が与えられた人生そのものを吐露した言葉を読むだけで、何一つ加えるものは、必要ないと思わされます。

ピリピの同じ三章の九節で、パウロが、『律法による自分の義ではなく、信仰に基づいて、神から与えられる義をもって』と書き記したように、一人一人に許された地上の短い時を、キリスト・イエスとともに旅する幸い――それが、私たちにも与えられています。同じように、彼も、本当に短い人生でした。しかし、その中身は、本当にイエス・キリストとの二人三脚で歩いたとわかります。『キリストの中にあるもの』という表現をもって、パウロが書いた、そういう者だけに約束された幸いであります。

ヘブル書の著者は、十二章の三節で、『私たちの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないために、罪人たちの――私たちの――このような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい』と勧めています。全くこの言葉と同じ人生をパウロは歩んだと言えます。

ですから、へブル書の十三章の七節の『指導者の生活の結末をよく見て、その信仰に習いなさい』という御言葉は、究極的には、兄弟たちの中の指導者に習うということを目的としているのではなく、パウロたちが目を離さなかった真の指導者であるキリストの結末を思い起こすようにということを告げているのではないかと思わされます。人間としての指導者であるパウロも、ヨハネも、ペテロも、彼等の生涯を通して、この一人の方、イエス様から目を離しませんでした。

このようにして生き抜いた彼ら、指導者たちの御心に沿った生活の結末を見て、私たちの実際の生活の中で、大切な物、確かなものとしたい大切な点、聖書が示している大切なことを、ご一緒に、もう少し考えてみたいと思います。

イエス様が十字架の上で死なれて、約二千年後の現代に生きる私たちにとって、へブル書、十二章二節の、イエス様から目を離さない、あるいは、先ほどのピリピの三章の九節にある『キリストの中にあるもの』とはどういうことなのか。もう一人の指導者であるヨハネの福音書を、少し読んでみたいと思います。

ヨハネの14章の16節、17節です。よく読まれる箇所のひとつですね。イエス・キリストの願いがここに書かれています。

ヨハネ
14:16 わたしは父にお願いします。(・・・・イエス様の願いです。・・・・)そうすれば、父はもうひとりの(・・・・イエス様とは別の・・・・)助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
14:17 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。

さらに、ヨハネが続けます。

ヨハネ
16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。

この時、『わたしが去って行くことは、あなたがたにとって――弟子たちにとって――益なのです』と言われたことは、弟子たちにとっては全く理解できなかったでありましょう。彼らにとって、イエス様が去っていくなどという、考えられないほどの大きな損失と思われたことが、反対に益であると言われたのですから、何をイエス様は言われているのか、理解できなかったに違いありません。

しかし、ヨハネは、益となると言われたこのイエス様の言葉を、一生涯、覚えていたのでありましょう。理解できない言葉ほど大きな意味をもっていることが多いと言うことを、私たちも経験しているのではないでしょうか?聖書の中で、すぐに理解できる言葉は、大したことではないかもしれません。しかし、そのときに何を言っているのか、全くわからない、そのようなことほど、後で、本当に驚くほどのよろこびを与えるのではないでしょうか?

ヨハネが書き記した、イエス様が告げられたもう一人の助け主が与えられるという御心は、パウロも受け入れた恵みであり、彼の生活の結末のひとつに直接、結びつく彼の確信になりました。もうひとりの助け主がくる。それもいつまでも、そして、自分のうちに来られる。

この受け入れた恵みは、パウロ自身の生活の結末を物語っているのではないか、彼の確信は、こういうことではなかったかと、思わされています。それは、よく引用させていただいているローマ書の8章の28節、もう一度、読んでみたいと思います。『神を愛する人々・・・・。』この箇所は、神を愛する人々に対して告げられています。

ローマ
8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

パウロも、十二弟子から聞いて知ったイエス様の言葉を益であると、この時、心の深いところで理解したに違いありません。パウロは、『すべてのことを』と書きました。これは、もう一人の助け主、真理の御霊が、確かに自分の人生の助け手として、すべてのことを働かせて、益としてくださったというパウロの証しです。パウロが目標を目指して一心に走っている、その人生の過程で、繰り返し繰り返し与えられた確信でした。

私たちの指導者、パウロが確信した彼の人生の結末と同じように、私たちの生活に現れるすべてのことを働かせて益とすると、聖書は確約しておられます。私たちは、この点において、どのような願いを持っているか、それを聖書は問いかけているのではないかと思わされます。

指導者ペテロを通しても、次のように告げられています。今度はペテロですね。パウロ、ヨハネ、ペテロ。

第二ペテロ
1:4 その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。

この箇所は、将来、イエス様に出会った時、再臨の時にどうだということではなくて、この地上を歩んでいる――肉のうちに歩んでいる――、そのようなものにも与えられる。イエス様がそう望んでおられる。神が望んでおられるということを示しているのではないでしょうか。考えられないほどのすばらしい約束ではないかと思います。

『神のご性質にあずかる者となるため』に、パウロは、その旅路を歩んだのであります。ヨハネも、パウロも、ペテロも同じイエス様に導かれて、真理の御霊の働きを信じる者には、すべてのことを働かせて、益としてくださるということを確信しました。この彼らの生活の実際の結末、すなわち、この確信を思い出して、その信仰に習いなさいと、イエス様は、私たちにも願っておられます。イエス様の願いは、懇願という言葉を使った方がいいのではないかと思うんです。神様がへりくだって、心から願ってくださっているということではないかと思います。

最後に、ピリピ書の3章の8節から10節で、パウロは、『益』という言葉を使わないで、キリストご自身が、益そのものであると告げていると、私にはそう思われます。この三節、ピリピの三章の8、9、10という三節の中で、八回も、キリストご自身が、損ではなく、益、そのものであることを、異なる言葉で――八つの異なる言葉で――表現しています。目に見えるこの世の益をはるかに超える益なるキリスト、そのものであります。益とは、キリストそのもの。イエス様から目を離さないでいなさい。しかし、その言葉を、具体的に、パウロも、ヨハネも、ペテロも自分の人生の中で、何度も何度も、繰り返し現実に助けられ、そして、そのことを思って、確信に至ったのではないかと思います。

ピリピ
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに(・・・・これがまず一つ目です。キリスト・イエスというのが八回、出てまいります。・・・・)いっさいのことを損と思っています。私は(・・・・ニ番目です・・・・)キリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、(・・・・三つ目、損ではなく、益である・・・・)キリストを得、また、
3:9 (・・・・四番目・・・・)キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、(・・・・次の五番目です・・・・)キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。
3:10 私は、(・・・・ここで、六番目でしょうか・・・・)キリストとその復活の力を知り、また(・・・・七番目・・・・)キリストの苦しみにあずかることも知って、(・・・・そして最後に・・・・)キリストの死と同じ状態になり・・・・、

次々と、彼は、この三節のあいだに、八回もキリストをどのように、彼が感謝していたか、どのように彼とともに歩んだか、どのように彼から与えられたかを書きました。これらの手紙の言葉が、私たちの確信となるように願い始め、願い続けるなら、指導者パウロたちに習うものとして、イエス様が必ず哀れんでくださるに違いないと思うのです。

このすべてのことを働かせて益とされる恵みは、私たちが思い浮かべるような、一時的な願いがかなうという益ではありませんでした。この恵みは、パウロたちの魂を揺り動かしたような、そういう益であります。

パウロは、苦難、艱難やその他のあらゆる災いと思われることであっても、必ず私たちに、もっともふさわしい最善がもたらされるために、そのひとつひとつの艱難や災いや、あらゆる事がらが用いられる――主によって用いられる――と、彼は信じて疑わなかったのではないでしょうか?

これが、パウロたちの生活の結末の秘訣、そのものでありました。目に見えるひとつひとつのことではなくて、そこに至る過程、結末の秘訣、そのものでありました。当時の指導者の多くは、殉教したと伝えられていますけれども、聖書は、彼らの殉教については、直接、語っていません。彼らが殉教したという結果ではなく、彼らの生活の結末に導いた御霊の働きが、どのような働きであったかということの方が、それ以後の私たちに必要な神の秘密であるかのように、とくにパウロを通して、もらさず開示してくださったのではないかと思います。

パウロの手紙を見ると、彼自身がどのように悩み、そしてどのように導かれ、そして、どのように、大きなよろこびを与えられたのかが分かります。

先ほども一部、お読みしましたけれども、第二ペテロの一章の一節から四節をお読みして、終わりにいたします。

第二ペテロ
1:1 イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ。
1:2 神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。
1:3 というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。
1:4 その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。

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