2012年12月9日日曜日

クリスマスの大いなる奇蹟(+二人の祝福式)

クリスマスの大いなる奇蹟(+二人の祝福式)
2012年12月9日、吉祥寺福音集会
ゴッドホルド・ベック

ルカ
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

クリスマスにおける出来事の非常に良いたとえは、あるイタリア人、フランチェスコ・フォン・アッシジというイタリア人です。彼は、もちろん有名人であり、尊敬された人格者であり、プラス・アルファ、金持ちでした。

あるとき、彼が馬に乗って行きましたとき、突然、らい病人の群れに取り囲まれました。彼は、このらい病人たちのあわれな様子に心を動かされました。そして、彼は、彼らにいっぱい入った財布を投げました。らい病人たちは、彼の高価な着物に接吻しました。このような大きな恵みは、今まで、貧しい彼らに与えられなかったのです。ほどなくして、彼は同じ道をやってきました。彼は、高価な服を宿屋に置いてきました。このとき、彼は、先へ行こうとはしなかったのです。自分の高い馬から降りまして、それから、らい病人たちの世話をしました。彼は、彼らの傷を洗いました。彼らのぼろきれを、きれいにしました。そして、彼は、彼らと一緒に住み、彼らの兄弟となったのです。これこそが、クリスマスなのではないでしょうかです。

ある方が、降りて来られた。イエス様は、我々の兄弟となるために、高い聖なる天から降られたのです。我々を救うために、きよめるために、救い主としてお生まれになったのです。我々をもろもろの罪から救うものとなるために、罪人を招くために、失われたものを訪ね出して救うために、イエス様はお生まれになりました。いくら感謝しても、十分ではないのではないかと思います。

聖書、み言葉だけが、道を示すものであり、また心の楽しみであり、そして、生きる希望を与えるものです。み言葉の呼びかけとはどういうものであるかといいますと、『目を覚ませ!』なのではないでしょうか。だから、聖書の中に、よく『見よ』という言葉が出てきます。目に見える現実がどうであれ、前向きな生活をしないさい。主は創造主として、新たなるものを創造し、また、主が支配者であるから、私たちは全てを安心して任すことができ、ゆだねられます。そして、主は救い主であり、また、近いうちに再臨なさる花婿であられます。

イザヤ書に、次の約束が書かれています。やはり、『見よ』ということばがあります。

イザヤ
7:14 ・・・・見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。

見て!見て!何千年も前に約束された救い主が来ると、イザヤは伝えたのです。そして、また、次のように、書き記しました。『見よ。』同じ呼びかけですね。

イザヤ
60:2 見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。

この救い主が初めて公けに現されたとき、バプテスマのヨハネは叫んだのです。主を紹介したのです。『見よ』――同じ言葉です――『見よ、世の罪を取り除く神の小羊。』

救い主は、人間の欲しいものを与えようとしないお方です。しかし、人間にとってどうしても必要なものを、必ず与えてくださいます。救い主は、罪からの救いを、すなわち、罪の赦しを提供しておられます。私たちのようなものを救うために、イエス様は、自発的に、よろこんで、自分自身を犠牲にしてくださり、我々の受けるべき罪に対する天罰をお受けになり、救いの道を開いてくださいました。

十字架の上で、イエス様は叫んだのです、『完了した。』結局、終わった。『万歳』ということばでした。マタイ伝に、同じような言葉が出てきます。

マタイ
27:51 見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。

復活なさり、昇天なさったイエス様は、ヨハネに言ったのです。

黙示録
1:17 恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、
1:18 生きている者である。わたしは死んだが、見よ(・・・・また、同じことばが出てきます・・・・)、いつまでも生きている。また、死とハデス(・・・・死者の国・・・・)とのかぎを持っている。

このイエス様は、再臨のことも、はっきり約束してくださいました。

ヨハネ
14:3 わたしが・・・・また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

イエス様は、そう思った。約束しただけではなく、毎日、迎えに来たいと望んでおられます。このいわゆる空中再臨について、パウロはコリントにいる兄弟姉妹たちに書いたのです。同じ、『見よ』ということばが出てきます。コリント第一の手紙の15章を見ると、次のように書き記されています。ここでは、『聞きなさい』と言うことばですが、『見よ』ということばだと思ってもいいでしょう。

第一コリント
15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまう(・・・・死ぬ・・・・)のではなく、みな変えられるのです。
15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

何年か前に、ひとりの姉妹の見舞いに行きました。十数年間、寝たきりでした。結局、身体を動かすことができないし、話すこともできなかった。いい日も、たまにあったんです。いい日のとき、彼女は、一本の指をちょっとだけ、動かすことができたんです。この動かすことのできる指が、コンピューターにつながったとき、彼女は、自分の言いたいことを表すことができたんです。

見舞いに行ったとき、もちろん、来ることは前から分かっていたんです。急には、何もできないから。けども、彼女が、そのとき、何を書いたかと言いますと、『痛みのかたまりです。だから、いつも祈ってます。耳も聞こえなくなったし、食べることもできません。ラッパの音を待つばかり。』結局、イエス様、早く!来て!来て!そういう気持ちで、いっぱいでした。だから、彼女は悩みながらも、いつも輝いていたんです。『どうして?なぜ?』と考えることを辞めたから。どうしてなのか、今は分からない。けど、イエス様は完全であり、イエス様の導きも必ず完全であると、確信したからです。

昔々のエノクという男も、イエス様の再臨について預言しました。

ユダ
1:14 アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。「見よ(・・・・同じく、見よと出てきますね・・・・)。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。」

そして、ヨハネも、当時の信じる者を励ますために書きました。

黙示録
1:7 見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。

聖書の中には、よく、『見よ』、『目を覚ませ』ということばが出てきます。黙示録の二十二章にも、『見よ』ということばが出てきます。

黙示録
22:7 見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。

22:20 これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

何回も、『見よ』、『見よ』と書かれています。その意味は、主のこの世に来られたことについて考え、そして、感謝せよ。主の犠牲について、支払われた代価について考え、礼拝せよ。主の再臨を毎日、待ち望みないさい。

もう一回、ルカ伝二章を見てみましょうか。なぜならば、『主の栄光』、『すばらしい喜び』といったことばが出てきます。

ルカ
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

『恐れることはありません。』あらゆる心配からの解放であります。『あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。』こういうふうに、イエス様は紹介されました。

クリスマスのときに、人々は贈り物について、いろいろと語りあい、また、話し合うものなのではないでしょうか。子供、大人、貧乏人、金持ち、孤独な人、多忙な人々が、贈り物を買うために忙しくしています。しかし、それだけではありません。主なる神もまた、我々人間に贈り物をしようとしておられます。主なる神は、非常に気前の良いお方です。コセコセしたことや、ケチケチしたことを知らないお方です。

すなわち、主は富んだところに住んでおられ、その満ち満ちているところの中から与えてくださるのです。と言いますのは、私たちに御ひとり子なるイエス様を与えられたのです。ベツレヘムにおいて、主なる神の愛は、純粋な完全なかたちをとって、自らを啓示されました。主なる神は、何か、第二次的なものを与えられたのではない。その最愛のひとり子を与えられました。有名なヨハネ伝、3章16節に書かれていますね。

ヨハネ
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世(・・・・人間、一人一人を・・・・)を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

ヨハネも、その第一の手紙に、同じことばを書いたのです。

第一ヨハネ
4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

マルコ伝の中でも、同じような言葉が出てきます。

マルコ
12:6 その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、最後にその息子を遣わした。

イエス様の弟子たちは、告白しました。

ヨハネ
1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

その当時の人々は、この贈りものに対して、いかなる態度を取ったのでしょうか。イエス様を生んだマリヤは、初めは、何のことであろうかと思い巡らした。

ルカ(口語訳)
1:30 すると御使が言った、「恐れるな、マリヤよ、あなたは(主なる)神から恵みをいただいているのです。
1:31 見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。
1:32 彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。

また、ルカ伝の一章にも、同じようなことばがでてきます。ルカ伝、1章の34節と38節です。

【参考】ルカ
1:34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」

1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」

そして、ヨハネも、当時の信じるものを励ますために書きました。

黙示録
1:7 見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。

また、イエス様ご自身が、はっきり言われ、証ししてくださいました。

黙示録
22:7 見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。

22:20 これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

何回も何回も、『見よ』、『見よ』ということばが出てくるのであります。

ルカ
1:34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」
1:35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」

1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」

婚約者であるヨセフは、どういう態度を取ったでしょうか。

マタイ
1:19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。

1:24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、
1:25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。

確かにヨセフは、初めは、もうびっくりしました。どうしよう・・・・と思ったでしょう。けども、御使いが、彼に全てのことを明らかにした後に、主の御言葉に従う決心をしたのです。当時の祭司の奥さんであるエリザベツの態度は、どういうものだったでしょう。彼女は、非常に幸いなものであり、賛美が唇の上に上りました。そして、彼女はマリヤとともに、この大いなる贈り物に対して、主に心から感謝し、喜んだのです。

ルカ
1:42 そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。」

1:44 ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。
1:45 主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。

しかし、全く違う態度をとった人もいました。イエス様ご自身が、この悲しい事実について、また、その理由について、次のように言われました。

ヨハネ
3:19 光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。

当時の宿屋の主人は、その贈り物を理解することができなかったのです。彼は、いかなる贈り物が彼にもたらされたかということに気が付かなかったので、彼らのいる余地がないと断ったのです。彼は、この贈り物の価値を認識しませんでした。

ルカ
2:7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

また、当時の王様であるヘロデ王は、ひどく残酷な気持ちを持つようになりました。自分の王国を失うのではないかと思ったゆえに、彼は、このことを聞いて、不安を感じました。ヘロデ王は、この贈り物が、彼に対して、永遠の王国に至るための戸を開けるであろうということを、全く知らなかったのです。

マタイ
2:8 そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」

2:13 彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現われて言った。「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」
2:14 そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、
2:15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した。」と言われた事が成就するためであった。
2:16 その後、ヘロデは、博士たちにだまされたことがわかると、非常におこって、人をやって、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた。

当時の羊飼いたちは、目で見、耳で聞き、そして、急ぎ足で主を賛美しながら、ベツレヘムへ向かったとあります。

ルカ
2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
2:15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
2:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
2:17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
2:18 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。

また、博士たちについても、書かれています。

マタイ
2:10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
2:11 そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。

シメオンという老人は、待ち望む思いに満ち溢れた、そして、彼は、いまや長いあいだ、待ち望んでいた救いを見ることができました。彼は、幼子を腕に抱き、主なる神をほめたたえたとあります。

ルカ
2:27 彼が御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、はいって来た。
2:28 すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
2:29 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。
2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。」

もう一人の年配の方がいまして、ハンナという方です。彼女も、主に感謝を捧げ、そして、この幼子のことを、エルサレムの救いを待ち望んでいる全ての人々に語り聞かせたと書いてあります。

ルカ
2:37 その後やもめになり、八十四歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。
2:38 ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。

当時、自分の救いの必要性を認めた全ての人々は、救い主の出現を、心から待ち望んでいました。そして、約束された救い主の出現を待ち望んでいた全ての人々は、この方が出現されたとき、その方がどういうお方であるか、ということを知ることができたのです。そして、そのことを知ることができた人々は、誰でも、この方を喜んで受け入れました。けど、大多数の人々は、この方、すなわち、イエス様を受け入れようとしなかった。拒んだのです。

ヨハネ
1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

彼らの心の目が暗くされていたから、自分たちがイエス様を必要としているということがわからなかったのです。宗教的な指導者たちは、無関心であり、イスラエルの民は、悔い改めようとしなかったし、ヘロデ王は、この方を殺そうとしたのです。

イエス様を待ち望まないということ、また、イエス様を求めないということは、イエス様を拒んでいることであり、これほど愚かなことはありません。我々の場合はどうでしょうか?私たちは、主なる神の大いなる贈り物について、この贈り物に対して、どのような態度を取るのでしょうか?

マリアのように驚き、そして、「お言葉通りなりますように」と願うでしょうか。ヨセフのように、びっくりしてから従順に従うのでしょうか。エリザベツのように、全く幸いなものと唱えられるのでしょうか。宿屋の主人のように、理解することができなかったり、ヘロデ王のように、ひどく残酷な気持ちを持つのでしょうか。羊飼いたちのように、目で見ることができ、博士たちのように、大いなる喜びに満たされるのでしょうか。シメオンのように、再臨される主イエス様を待ち望み、ハンナのように、主なる神に感謝を捧げ、賛美するのでしょうか。

【祝福式】

私たちは、今日、クリスマスの大いなる奇蹟について、いっしょに考えたのですけど、最後に、二人の与えられた子供のために祈りたいと思います。二人の子供とは、ヒカリちゃん、そして、ユリちゃんのためです。どこにいるんですかね?多分、下じゃないでしょうかね?ちょっと、来られたら、前まで来てくださいますか?通りにくいねえ。ユリちゃんたちは、どうでしょうかね?逃げたかな?・・・・飛んできたね!ここで、撮りましょうか。ここのほうがいい。

この二人の子供も見ると分かるでしょう。ぜんぜん、心配していない。だから、聖書の中で、『小さい子供のようにならないとダメ!』とあります。

その祝福する日のことで、三つのことを言っているのであります。まず、その両親のよろこび、両親の証し、そして、両親の願いなのではないかと思います。子供が、ヒカリちゃんとユリちゃんが与えられたのは、本当にありがたい。

子供が与えられたことは本当にありがたい。少なくとも、聖書はそう言っています。現代人の多くは、『作らない方がいいよ。金がかかる。忙しくなる』というかもしれないけど、聖書の考え方は違います。『見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である』(詩篇127:3)と、神の御言葉である聖書は言っています。

二番目、親の証しとはいったい、何なのでしょうか?結局、ここにいる親たちは、結局、何を思っているかと言いますと、やはり、イエス様に祝福してもらいたい。自分たちは大丈夫、できると、今は思っても、少し待つと、どうしようという気持ちになる。自分の子供をうまく育てることのできる親は存在していません。そんなものではないよ。けど、イエス様にゆだねれば安心です。結局、大切なのは、東大に入れることではない。金持ちになってもらいたい、おそらく、そう言うことでもない。大切なのは、主の祝福です。イエス様の時代の親たちは、それが分かったようです。聖書は言っています。

マルコ
10:13 さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。

意味は、『怒った。』今は、二人だけで、非常に静かです。イエス様のときは、おそらく、何十人、もしかすると、何百人も集まったかもしれない。一人、二人が叫ぶと皆、始まるんです。もう大騒ぎになる。ですら、弟子たちが怒ったのは当然だよ。『あの子供には、どうせ何も分からないから、少なくとも、幼稚園に入ってから連れてきなさい。今はダメ。』弟子たちは怒ったんです。

マルコ
10:14 イエスはそれをご覧になり、憤って(・・・・今度は、イエス様が怒った!・・・・)、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。

それからまた、マタイ伝にも書いてあります。

マタイ
18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」
18:2 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、
18:3 言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」

子供は贈り物です。この子は、本当は病気なんです。普通の子供のように歩いたり、話したりすることは、おそらく無理。けども、宝物だよ。主によって与えられた宝物だと考えれば、ありがたい。結局、何があっても、主から受け取れば祝福がある。

金はかかるかもしれないよ。けども、やはり、主から与えられたものですから、家族の宝物であると考えれば、本当にありがたい。

聖書の中で、あるずるい男について書いてあるんです。ヤコブ。神を信じない彼は、大嘘つきでした。自分、自分、自分のことしか、考えなかったんです。確かに人間的な賢さによって金持ちになった。うまくいったそうです。けども、やはり、間違っていた・・・・と、認めざるえないようになりました。そこで彼は、すばらしい祈りを捧げたんです。『私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ(創世記32:26)。』結局、金か、名誉か、健康か、関係ない!主が祝福してくだされば、心は満たされると、確信するようになりました。

ソロモンという男は、『主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない(箴言10:22)』と確信して、告白したのであります。

いっしょに祈りましょう。

愛する主イエス様、あなた様は、ヒカリちゃん、ユリちゃんのことを、知っておられます。あなた様によって与えられた宝物です。確かにうまく育てようと思っても無理。あなたが導いて、助けてくださらなければ、何もならない・・・・と、ご両親も思うようになったから、本当に感謝します。この子供はあなた様にとって尊いものです。この子供のためにも、あなた様は犠牲になり、無視されても、罪の塊にされても・・・・と、思われたことを本当に感謝します。何でも、御手にゆだねることができるから、本当に感謝し、尊いみ名によってお祈り申し上げます。アーメン。

(二組の両親の祈り)

子供の歌を歌いましょう!205番、『子どものようにならない限り。』

1.「子どものようにならない限り、
天の御国にはいれません。」と、
約束をしてくださったのは、
大好きな大好きなイエスさま、ありがとう

2.私のうちは親や兄弟、
みんな仲良く一つに暮らす。
そんなおうちを下さったのは、
大好きな大好きなイエスさま、ありがとう

3.うれしいときも悲しいときも、
すぐイエスさまにお話しよう。
耳かたむけて聞いてくださる。
大好きな大好きなイエスさま、ありがとう

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