2012年12月11日火曜日

必要な交わり

必要な交わり
2012年12月11日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

第一ヨハネ
1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
1:2 ――このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。――
1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。

1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

今、読んできてくださった箇所は、イエス様の弟子であるヨハネの書いたものです。何歳だったか、解からない。ある人々は、百歳くらいだったのではないかと言うのです。


他の弟子たちは、みな殺されてしまった。彼だけ残されて、ひとつの小さな島、パトモス島に追放されてしまったのです。暇人になったから、こういう手紙を書くことができたのです。もちろん、黙示録も、あの寂しいところで書くようになりました。

ここで、「私たちの交わり」という表現が出てきますし、また、「私たちの喜びが全きものとなる」と、書いてあります。もちろん、聖書全体の必要な交わりについて、書き記されています。

確かにある人々は、「けっこうです。家で聖書を読んだり、祈ったりすれば充分でしょう。」重病人の場合はしかたがない。けど、健康人にとって、交わることは、やっぱり必要なことだと思います。ずっと一人ぼっちだったら、確かに平安かもしれない。喧嘩相手がなければ。けれども、おもに、使徒たちの書いた手紙の中で、交わることこそが大切であると言ったのであります。

ドイツで、ずっと年配になって、ボーデル・シュヴィンクという男がいまして、彼はひとつの町を作ったんです。ベーテルという町です。孤児たちを集めて、何千人いました。みなを食べさせるのは考えられないことでした。けども、毎日、必要なものが与えられた。奇跡の連続でした。彼は、年配になって、耳が聞こえなくなった。けど、関係なし、集会のとき、いつも現れたんです。ある人は、多分、字に書いて、聞いたでしょう。「あなた何も聞こえないのに、どうして来るの?」答えは、信じる者の交わり。

交わることこそが大切です。孤独な人間にとって、どうしても必要なのは、交わりなのではないでしょうか。使徒行伝に出てくる、主の恵みによって救われた人々の交わりのようなものはどうしても必要です。この交わりとは、もちろん、本当の交わりでした。本当の交わりとはどうでしょうか。使徒行伝を見ると、もちろん、わかります。

使徒行伝
2:42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
2:43 そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。
2:44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
2:45 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
2:46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
2:47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

ここに出てくる信徒たちは、あの五旬節のときに救われた人々なんですけど、ここで彼らは、「使徒たちの教えを守った」と書かれています。この『使徒の教え』とは何でしょうかね。使徒が伝えたのは、もちろん、イエス様の教えでした。教えというよりも、イエス様ご自身でした。

終わりの時代に生きる私たちに、どうしても必要なのは、この使徒の教えに留まることではないでしょうか。ですが、私たちは、それとともに、信徒の交わりとは、いかなるものであるかを知っているのでしょうか。この信徒の交わりを、本当の意味で知るべきです。使徒の教えが、イエス様ご自身であるなら、信徒の交わりも、イエス様との交わりを意味しているのです。

聖書を見ると、聖書にはただ一つの交わりが書かれています。それは、父、ならびに、御子、主イエス様との交わりです。

第一コリント
1:9 神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。

この御子、主イエス様との交わりこそ、信徒の交わりの源(みなもと)です。私たちは、本当に、父なる神、ならびに、主イエス様との交わりを知っているのでしょうか。この交わりは、表面的な気分によって生まれるものではありません。この交わりは、教理を同じくするという理由で生まれたり、また、会議を通して決議された結果、生まれるというものではありません。

この交わりは、いのちと霊の交わりです。この交わりのあいだには、少しの暗いところも陰もあってはなりません。父、ならびに、御子イエス様との交わりには、完全な信頼がなければなりません。父は、御子であるイエス様を心から信頼され、ご自分の計画を全部、教えてくださり、これに委ねられました。全部の計画を、少しの不安もなく、委ねることができました。

反対に、イエス様の父に対する態度も、全く同じでした。イエス様は、父なる神に、完全に拠り頼み、少しも疑わず、父の御心を行なわれたのです。あのように驚くべき深い悩みの中にあるときも、十字架に向かって歩まれた時も、少しも疑わないで、全き信頼を父においておられました。イエス様と父なる神は、お互いに、それほど信頼しあっておられたので、そのあいだは、いつも絶えざる平安と静けさがあったんです。このお互いの信頼が交わりです。

この父と御子のすばらしい交わりに、人間も加わることができるとは、驚くべきことです。主は、何ゆえに、この交わりに召してくださったか、知ることができません。ただ一つ、解かることは、計り知れない主のご愛のゆえであるということです。イエス様は、この交わりに私たちを招いてくださるために、この世においでくださいました。イエス様が、地上におられたとき、願っておられたことは、第一に、弟子たちが、この交わりに入ることができるようになることでした。

私たちは、救われるために救われただけではありません。この交わり、このすばらしい交わりにあずかるために、救われました。我々は、良心の咎めが消され、救いの確信を得るために召されただけではない。この交わりにあずかるために召されました。もし人が、父なる神、御子、イエス様との交わりに入りますと、使徒行伝にある信徒の交わりに入ったことになるわけです。使徒行伝に出てくる信者たちは、別に特別な人々では、ありませんでした。使徒たちは、同じく特別な人々ではありませんでした。けど、使徒は、いかに造られたのでしょうか。使徒は、主に選ばれ、とくに召された人々です。

マルコ
3:13 さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。
3:14 そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ(るためであった。)

イエス様は、これを見ますとわかりますように、使徒たちをまず、第一に、ご自分のみもとに置くために召された。その次に、遣わすために召されたことがわかります。イエス様は、ご自分が永遠の昔から持っておられた、父との交わりに、使徒たちも入ることを願われました。

イエス様は、今日も、全く当時と同じように、この交わりに、私たちがあずかることを願っています。父、ならびに、主イエス様との交わりにあずかることができるとは、何というすばらしい特権でありましょうか。この交わりを喜ばずして、他のもので満足することがあっては残念です。

私たちは、イエス様に仕えることがいちばん、大切であると考えます。主の考えは、もちろん違います。イエス様にとっては、まず、ご自分との交わりを持つように、我々に求めておられます。人々は、熱心に働く人ならば、良い働き人だと言いますが、主の考えは、全く違います。主のために熱心に奉仕をしますが、主との親しい交わりを持っていない人々がたくさんいるでしょう。これは、哀れなことです。

私たちは、弟子と同じように、この世と罪から逃れるために選び出されましたが、けど、それだけではない。父、ならびに、御子イエス様との交わりにあずかるべく召されました。信徒の交わりは、父、ならびに、御子イエス様との交わりであり、これは、いのちと霊の交わりです。

イエス様のからだの交わり、すなわち、信徒のあいだの交わりは、霊の交わりですから、そこには、制限がなく、不安がなく、疑いがなく、全き信頼がなければならないはずです。この交わりに、我々も召されています。けども、問題は、どうして、この交わりに、この全き信頼に、入ることができるかということです。

弟子たちは、最初は、イエス様と親しい交わりを持っていませんでした。一緒にいました。夜昼、三年半。当初はただ、イエス様と関わりあいがあるといった態度にすぎなかったのです。イエス様は、弟子たちを召し、彼らは、確かに三年半のあいだ、イエス様とともに生活しました。

この間、イエス様は、ご自分のご目的を、弟子たちに明らかにするために、何とかして弟子たちの親しい交わりに入ろうとなさいました。イエス様は、彼らを父なる神との交わりに導こうとなさいました。しかし、弟子たちはダメでした。全く理解できませんでした。イエス様は、弟子たちと少しの疑いもない、全き信頼をおく交わりに入りたかったのですが、いざ、イエス様が、深い御心を示そうとなさると、弟子たちは、イエス様を誤解してしまいました。弟子たちは、そればかりではなく、お互いのあいだにも本当の意味での交わりがなかったんです。ただ、関わりあいがあるといった程度にすぎなかったのです。あいだには、交わりがなかったばかりでない、ときどき、喧嘩(けんか)をしました。喧嘩しなければならないといった有り様でした。

十二人の弟子は、ユダを除いて、心からイエス様を愛していました。そのために、すべてを捨てて、イエス様に従ったのです。それにもかかわらず、彼らのあいだには、本当の交わりがなかったんです。お互いに妬み、誤解し、争いました。ヤコブとヨハネは、自分がいちばん、偉くなりたいと思い、他の人々を除け者にして、二人で相談しました。

マルコ
10:35 さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」
10:36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」
10:37 彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」
10:38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」
10:39 彼らは「できます。」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。
10:40 しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」
10:41 十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。

このように弟子たちのあいだには、本当の交わりがなかったのです。しかし、やがて、五旬節のときが来ました。五旬節が来たとき、弟子たちは、いっぺんに変わりました。このときから彼らは、本当の交わりを持つようになりました。ペテロが立ち上がったとき、皆も、他の十一人も共に立ち上がったと使徒行伝に書かれています。ペテロが立ったとき、他の者も一緒に立ったのですけど、これは、前もってそのように相談していたわけではない。自発的に、自然にそうなったのです。十二人の使徒は、もはや、十二人の一人ひとりではなく、十二人がひとつのからだをなしたのです。

五旬節の日の立役者は、確かにペテロでした。聖書を見ると、ペテロだけが目だったわけではなかったことが解かります。人々は、みなこれを見て驚いたと書いてあります。ペテロだけを見たのではない。

五旬節は、教会の誕生日です。このまことの教会とは、ひとつの宗教団体でもないし、ひとつの組織でもありません。この時から、信者たちは、もはや一人ひとりばらばらでなく、イエス様を頭とする肢体に綴りあわされたのです。ペテロと他の人たちはひとつでした。霊の交わりを持っていました。使徒たちは、お互いに全く信頼し、そこには、他の人たちと互いに喧嘩し、お互いを恐れるといったことは見受けられませんでした。

五旬節の前までは、このような交わりは、天の父とイエス様とのあいだにしかありませんでしたが、この日から、多くの人々も、この交わりに入ることになったのです。三千人の人々がこの交わりにあずかったと、記されています。これらの人々は、使徒の教えを守り、信徒の交わりを成したと聖書は言っています。

彼らは、イエス様のみことばを自分たちの生活の基準として受け入れ、自分たちはすでに、信徒の交わりにあずかっているという自覚を持っていました。この交わりは、外から来るのではなく、内に住んでおられる御霊のゆえに生まれた交わりでした。エペソ書の四章の中で、この交わりについて、また、次のように書かれています。

エペソ
4:4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。

これは彼らのひとつになった親しい交わりの源(みなもと)でした。交わりとは、すべてのものを共有するということです。初代教会の兄弟姉妹はそうしていました。

使徒行伝
2:44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。

誰も、自分の持ち物を主張する者なく、日々、心をひとつにしたと、書かれています。彼らは、霊において、ひとつであるばかりでなく、考えも願いも心もひとつでした。これこそ、信徒の交わりであり、イエス様のからだとしてあるべき姿です。私たちの一人ひとりも、使徒たちの教えを守り、信徒の交わりを成したと言える状態になったら、本当に幸いなのではないでしょうか。

使徒たちは、イエス様と共に過ごした三年間、このまことの交わりを知らずに過ごしていました。これは、交わりに入る準備のときでした。この三年間は、実りのない三年間のように見える。しかし、この三年間の年月のあいだ、彼らの古い性質は、少しずつ取り除かれていったのです。

もし弟子たちが、イエス様に従わず、自分の職を持っていたなら、彼らは信心深い人々として、必ず尊敬されながら、生涯を終わったことでしょう。しかし、イエス様と共に歩んで行った。彼らは自らの姿を教えられ、主の御許(みもと)で本質的に造り変えられていきました。主の光に照らされ、彼らの心の暗いところは、だんだん取り扱われ、明るみに出されてきました。彼らの心に隠された思いが、現されてきました。

もちろん、弟子たちは、他の人々より悪い人々ではありませんでした。しかし、主の光に照らされたとき、絶望的な自らの真相を教えられたのです。イエス様が十字架におかかりになったとき、彼らは、全く絶望してしまいました。そのとき、彼らは、ばらばらになって逃げてしまいました。交わりの秘密はどこにあるのでしょうか。

第一ヨハネ
1:7 もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

しかし、私たちが今、持っている悩みは、光の内を歩むどころか、光の中に立つことすらできないでいるのではないでしょうか。イエス様の光に照らされますと、我々の生まれながらのものは、徹底的にダメであり、役に立たない、汚れたものであることが解かります。もし、イエス様との交わりが正しくなると、お互いの横の交わりも正しくなると言えます。

御霊は、我々の上に注がれ、私たちはひとつのからだとなるように、まことのバプテスマを受けました。パウロは、有名なガラテヤ書、二章二十節にこの事実について、もちろん、違うことばを使ったんですけど、次のように言ったのです。信じる者にとって、おそらく、いちばん大切な箇所ではないかと思います。

ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

この事実が土台になって初めて、まことの交わりが生まれてきます。私たちが日々、この立場を取り、認め、主の御前にすべてを明け渡すとき、御霊は豊かに私たちを満たしてくださり、父、ならびに、御子イエス様との豊かな交わりにあずからせてくださいます。

まとめてみると、この交わりとはどういうものでしょうか。第一番目、光の交わりです。二番目、いのちの交わりです。三番目、愛の交わりです。もし、この交わりが我々の中に起きると、『主、そこにいます』と呼ばれるほど、主の御栄(みさかえ)を現す我々となることができます。

神の家とは、生ける神の教会のことであって、それは、真理の柱、真理の基礎であるとあります。私たちも、このような教会になりたいものです。私たちを召し、父、ならびに、御子イエス様との交わりに入れてくださった主に、本当に心から感謝しようではないでしょうか。

おわり

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