2012年12月18日火曜日

よろこべ

よろこべ
2012年12月18日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ルカ
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」

第二コリント
8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

9:15 ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。

いわゆるクリスマスのメッセージとは、「恐れるな、大きなよろこびを。あなたのために救い主がお生まれになった。」私のためか・・・・と思う人がいるかもしれないけど、そうなんです。考えられない愛の現れなのではないでしょうか。


この愛を体験的に知るようになった人々の証しこそが大切です。一人の年配と一人の若い人の証しを紹介します。

一人は、沖縄集会の『集会のお母さん』と言ってもいいですけど、大城キミ子姉妹。本当に、主を心から愛した姉妹で、彼女と出会った人々は、もう忘れられない。九十四歳で、先にゴールインしたのであり、彼女の証しは、いつも励ましになります。

「主の御名を賛美します。今、私は、まだ元気です。けれども、いつ召されるかわからないので、皆さんに最後のことばを残しておきたいと思います。私の今の気持ちは、詩篇二十三篇の、『たとい死の陰の谷を歩くことがあっても、私は災いを恐れません。あなたが私と共におられますから』という通りです。また、『私の杯はあふれています』とのみことばは、何と嬉しいことでしょう。私も、そのように言えるように導いてくださったのはイエス様です。ありがたいことです。主イエスがいつも共にいてくださるその人生は、何とすばらしいことでしょうか。私はそのよろこびで、平安で、希望で満たされています。ですから、今、何の心配もありません。思い煩いがありません。天国に行くことをよろこんでいます。」

すばらしい証しなのではないでしょうか。若い六歳の近藤めぐみちゃん、彼女に聖書をあげたことがあるんです。答えは、「聖書をありがとうございました。大事に使います。私はイエス様が大好きです。困ったり、悩んだりした時に、いつもイエス様にお祈りしています。イエス様、大好き。」若い方と年配の方の証しであります。

我々の主とは、大いなる贈与者です。与えたくて、与えたくてしかたがないお方です。言うまでもなく、与えたいのは偽物ではない。本物です。本物があれば、もちろん、偽物もあります。偽物を欲しいと思えば、確かに簡単ではない。勉強しないと、解からないとダメ。偽物を欲しいと思えば、大変だよ。いい子にならなくては、完璧にならなくてはならないからです。それだけではなく、偽物はタダではない。金も要求されています。本物はタダ。罪の赦し、主との平和、永遠のいのちは全部、タダです。どうせ金では買えないから。ですから、クリスマスの良き知らせとは、すごい、すばらしいものなのではないでしょうか。

初めての人間は、創世記、二章八節によると、「神である主は、東の方、エデンに園を設け、そこに、主の形造った人を置かれた」と、簡単にあります。エデンという言葉を訳すと、「好ましいよろこびの国」ということになります。エデンの園には、人間の霊、人間の魂、人間の肉体を完全に満足させるものが備わっていました。

このすばらしい環境の中で、アダムは、主との完全な交わりを持っていました。アダムは、主なる神を完全に信頼し、完全に服従していました。ダビデは言いました。

詩篇
16:11なたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

そして、アサフは言いました。

詩篇
73:28 私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。

彼らは、この世にいるあいだに天国のすばらしさを、よく知るようになったのではないでしょうか。主との交わりは、もっともすばらしい、もっとも尊いものです。

もし、あなたが、本当にすばらしい贈り物をもらうと、何とするでしょうか。いうまでもなく、与えられた贈り物を大事にします。大切に保存します。けども、初めての人間であるアダムは、このすばらしい贈り物を、すなわち、主との交わりを大切にしなかったのです。

罪を犯すようになり、与えられた『主との交わり』という贈り物をなくしてしまいました。結果として、彼は、エデンの園から追放されました。このアダムの堕罪(だざい)は、もちろん、全人類に影響を及ぼしたのです。

創世記
1:21 それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよしとされた。

1:24 ついで神は、「地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。」と仰せられた。するとそのようになった。

ここで二回も、「種類にしたがって」と書いてありますが、どんな植物でも動物でも、各々(おのおの)の種類にしたがって繁殖します。植物は、いつも植物の生命を持ち、動物は、いつも動物の生命しか持っていません。人間は、いつも人間の生命を持っています。したがって、植物が動物になることは絶対にないし、動物が絶対に、人間になることはありません。ユリの種はいつもユリを生じ、鳥を生み出すなどということはあり得ない。スズメはスズメです。スズメが、人間を生み出すことはできません。同じように、人間は、人間の生命だけを生み出します。ユリがスズメを生み出すことができないと同じように、人間は神の永遠のいのちを造り出すことはできません。これは、はっきりと定められている、いわゆる遺伝法則です。

アダムとエバは罪を犯すことによって、罪の性質を持つようになりました。ですから、アダムとエバの子供も罪にまみれた単なる罪の性質しか持っていなかったのです。アダムの子孫は全部、彼と同じ性質、すなわち、罪の性質、罪にまみれた性質を持つようになりました。これも、はっきりと定められている遺伝法則です。ですから、全人類は、罪だらけの性質を持っています。パウロは、この事実を次のように書き記したのです。

ローマ
5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。

次の三つのことは確かでしょう。第一番目、罪があるということは事実です。人間は罪人です。聖書だけではなく、どの人間の生活を見ても、それが立証されています。

二番目、どんな人間でも罪人です。「義人はいない。一人もいない。すべての人は迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない」と、聖書は言っています。

三番目、どんな人間も、罪を犯す前に、もうすでに罪人であるということです。罪とは、行ないだけではなく、状態です。人の心の内にある誤った方向をいいます。人間は、罪の本質を受け継いでいます。ヨブ記を見ると次のように書かれています。

ヨブ
14:4 だれが、きよい物を汚れた物から出せましょう。だれひとり、できません。

人間は罪人です。多くの人々は、私ではないと思っているのです。なぜなら、罪とは、行ないであると思っているからです。けど、行ないではない。ただ、主から離れている状態です。

ある人は、確かに、自分、自分、自分のことばかり、考えています。そういう人と主との間の壁は、ずいぶん厚いでしょうね。三メートル五十一センチの厚さかもしれない。けども、まじめに生活して、別に迷惑をかけないで、人間的に考えるなら立派な人格者の場合は、主との隔たりは五センチだけかもしれない。けど、主の目から見ると同じ。壁があれば、交わりはあり得ない。

イエス様は、初めて紹介されたとき――親戚でもあったのですけど――バプテスマのヨハネは叫んだんです。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」結局、人間と主との間の壁を取り除かれた約束された救い主です。

アダムの持っている本質は、罪を犯したことによって汚れました。また、アダムは、自分のかたちのような子供を生んだと聖書は言っています。この子供たちは、もちろん、父、アダムの罪の本質を受け継いでいます。このようにして、罪の毒が全人類に入り込みました。しかし、主なる神は、人間にエデンという好ましいよろこびの国をお与えになっただけではなく、次の第二番目の大きな子供の贈り物を与えられました。この贈り物とは何でしょうか。皆さん、暗記している箇所です。

ヨハネ
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

主なる神の御心は、堕落した人間を救うことでした。救いとは、主との交わりをもたらすことです。救いとは、いのちの泉との交わりを持つことです。人間は、このいのちの泉との交わりを持つならば、生き返り、救われます。しかし、誰が人間を救い得るのでしょうか。死人は決して、神のいのちとの交わりをもたらしません。すべての人は、罪の本質を持っており、霊的に死んでいますから、人間を救うことはできません。人間は自分で、いのちの泉への道を見いだすことはできません。どんな宗教も、主なる神との交わりへの道を見つけ出そうと試みているかもしれない。また、それを人間の力で成そうと試みていますが、それは全くむだです。

聖書の中で、良きサマリヤ人の場合、半殺しにされた旅人は、自分で自分を救うことはできなかった。この旅人を救ったのは、他国の人でした。同じ国の人、また、いかなる宗教も、旅人の絶望状態を救うことはできなかったのです。ちょっと見てみましょうか。

ルカ
10:30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
10:31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
10:34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
10:35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』

人間は、決して同じ人間を救うことはできません。主なる神の側からの働きかけがなければいけない。主は、自分から離れ、罪人となった人間を探しておられます。主は、人間、一人ひとりを救おうと願っておられます。救うためにご自分の持っておられたいちばん尊いもの、いちばん愛されているもの、すなわち、ご自分の御子である主イエス様をお与えになりました。

どうしてこれが必要だったのでしょうか。聖書のどこを見ても解かりますが、主なる神は、全く聖なるお方であると、はっきり記されています。聖さは、罪との交わりを持つことができません。主なる神は、罪を妥協することのできないお方です。主なる神は、したがって、罪を罰し、罪人を追放せずにはおられないお方です。もし主なる神が、罪を罰しないならば、罪と妥協することになります。これは、考えることのできないことです。主なる神ははじめは、人間の親しい友であり、人間を愛しておられた創造主でしたが、罪によって人間の審判者となったのです。

主なる神は、非常に人間を愛しておられるから、人間を罰しないと言っている人もいますが、これは全く誤りです。主なる神は、全く聖なるお方だから、罪を裁かれずにはおられないのです。主なる神は、全く聖なるお方であると同時に、全き愛の持ち主です。主なる神は、全く聖なるお方ですから、人間の審判者になりました。けども、主なる神は、全き愛の持ち主であるから、救い主ともなったのです。

どうしたら、この聖さと主の愛が、両立することができるのでしょうか。

ある男が、友だちを持っていました。この人は、その友を非常に愛し、お互いに会い、たいへんよい交わりを持っていました。しかし、ある時、その友は悪い行ないをして、多額の負債を作ってしまったのです。この人は、負債をおった友を非常に怒りました。けれど、一方、この友を非常に愛した。ところが、この人の愛とこの人の正しさは、どうしたら調和することができるのでしょうか。

この人は、友を叱るとともに、その友の負債を全部、支払ってやりました。ここに、この人の正しさと愛が始めて調和したわけです。ここには、ただひとつの道がありました。それは、捧げることです。この捧げることにより、その友は、悔い改めに至ったのです。

主なる神は、堕落した人間を愛すると同じように、堕落した人間の罪を憎みます。主なる神は、堕落した人間の審判者であるばかりでなく、救い主でもあったのです。ご自分の御子をお与えになることによって、救いの道を開かれました。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」これは、クリスマスの奇跡です。もし、主が、そのひとり子をお与えにならなかったならば、救いは、我々に訪れなかったでしょう。御子、イエス様は、天にある栄光を捨てて、我々と同じ人間になりました。御子イエス様は、神の性質を持ってはおられましたが、しかし、神の力と栄光を捨てて、人間になられました。これは、何という人間の罪に対する主の答えなのでしょうか。私たちが、どんな悩みにある時にも、どんな難しい問題にある時でも、それに対する主なる神の答えは、いつもイエス様です。イエス様は、我々の身代わりになって永遠の贖いの業を成し遂げられました。

主なる神が、御子イエス様の血潮は、人間のすべての罪を取り除くのに充分であると言っておられます。主なる神は、第一の人に好ましいよろこびの国、また、ご自分との交わりをお与えになりました。しかし、アダムはこの贈り物を大切にしませんでした。

もし、あなたが、自分の好きな人に尊い贈り物をあげるならば、そして、この人はそのために、全然、感謝しないでその贈り物を大切にしないと、ちょっと悲しくなるのではないでしょうか。主なる神は、我々を救うために、ご自分の持っておられたいちばん尊いもの、いちばん愛されているもの、すなわち、イエス様をお与えになりました。この贈り物を受け入れることこそが、もっとも大切なのではないでしょうか。イエス様を生んだマリヤは告白しました、「私のたましいは主をあがめ、私の霊は、救い主なる神をたたえます」と。

私たちは、いかにしてこの大いなる贈り物を受け入れることができるのでしょうか。まず、感謝することによってです。感謝をしないことは罪です。イエス様は、私たちがまだ、罪人であったとき、我々の罪のために人間になり、ご自分のいのちを捨ててくださいました。私たちは、この主に対し、心からなる感謝を捧げているのでしょうか。感謝しないことは罪であり、感謝をしない生活は、天の窓を閉じてしまいます。

詩篇
50:23 感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。

このみことばを逆に考えるなら、『感謝のいけにえをささげない者は、わたしを侮り、自分の行ないを慎まない者は、神の救いが示されない』ということになります。

感謝することは、考えられないことです。私たちは、主にあまり感謝しない罪を、新たに言いあらわし、主にお詫びしたいのではないでしょうか。主は、我々が心をもって、くちびるをもって、感謝のいけにえを捧げることを待っておられます。パウロは書いたのです。「ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します」と、よろこびの声をあげることができたのです。

音楽家であるヨハン・セバスチャン・バッハは、次のような言葉を使ってすばらしいカンタータを作ったのです。ことばは、「私は、私の生活を見ると、私の口から次の言葉が出てきます。主よ、私の神よ、あなたは私のために何をなされたのでしょうか。たとえ、私の舌が千枚あっても、あなたのなされたことを言い表すことができません。あなたは、何と善良なのでしょうか。あなたの愛は、何と豊かでしょう。だから、あなたに賛美と栄光の歌を歌います。」

私たちは、主に対して、心からなる感謝を捧げているのでしょうか。私たちは、いかにして提供された贈り物を、自分のものにすることができるのでしょうか。今、話したように、感謝することによって。

二番目、主を礼拝することによってです。イエス様は、我々のために人間になり、我々の代わりに罰を受けました。主なる神は、我々の罪のために、イエス様を罪とされました。これに対して、心からなる礼拝を捧げようと思わないでしょうか。イエス様のものすごい苦しみを考えると、自分の罪を嫌いませんでしょうか。

問題は、全くはっきりしています。それは、自分とイエス様とのあいだの問題です。イエス様を受け入れたいのか、それとも、拒みたいのかのどちらかです。クリスマスの呼びかけとは、イエス様を受け入れなさい。父なる神の賜物である主イエス様を受け入れなさいという呼びかけであります。そうすれば、永遠のいのちが自分のものとなります。これは何という贈り物なのでしょうか。何という救いの計画なのでしょうか。だから、自分自身を主に明け渡すこととは、もっとも重要なのではないでしょうか。

クリスマスのよろこばしい知らせとは何でしょうか。イエス様は、我々一人ひとりのためにベツレヘムでお生まれになりました。しかし、もし、イエス様が千回もベツレヘムでお生まれになったとしても、自分の内に生まれなければ、自分にとって、何の価値もありません。主なる神は人間、一人ひとりにイエス様の内にある永遠のいのちを差し出しておられます。イエス様の弟子たちは、イエス様を見て、彼のうちにいのちがあると証ししました。本当にそうです。

イエス様は、人間に永遠のいのちを与えるために、この世に来られました。イエス様は、よく言われました、「わたしは、いのちそのものです」と。ことばに表わせないほどの賜物を、受け入れるか拒むかのどちらかです。イエス様は、すでに十字架で、ご自身のいのちを捧げました。イエス様は、こうして悪魔に打ち勝ちました。ですから、人間はもはや、悪魔の奴隷でいる必要はない。また、イエス様は、全人類の債務を担われたのです。ですから、誰でもが聖なる神に近づくことができます。イエス様の完全な救いのために感謝すれば、絶対に後悔しません。提供されている救いへの道は信仰です。

ヨハネ
20:31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

申命記
30:19 私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生きるようになるために。

今、話したように、第一の人は死を選びました。我々は、どちらを選ぶのでしょうか。主なる神の贈り物を、いかにして受け入れることができるのでしょうか。今、話したように、感謝することによって。二番目、主を礼拝することによってです。

最後にもう一つ、イエス様を愛することによってです。イエス様を愛する者は、必ずみことばを、聖書を愛する者です。どうですかね。私たちは、飢え渇きを持って毎日、聖書を読むのでしょうか。聖書を読まない怠慢も罪であると言えます。私たちは、日々、また、何週間もよろこびを持たないで、聖書を読んでいる時がないでしょうか。

もし私たちが、飢え渇きを持って聖書に接しなければ、また、みことばを深く味わわなければ、霊的に一歩も前進しないからといって、不思議ではない。イエス様に対する愛の欠乏は罪です。イエス様は、私たちが心を尽くして、精神を尽くして、ご自分を愛することを願って、待ち望んでおられます。単一な心を持って、主を愛することを願っておられます。

聖書の中に、主はねたむ神であると書かれています。妻が夫を、夫が妻を半分だけしか愛さなければ、他の人を愛したら、妬むでしょう。もし、私たちが、心を尽くして、主を愛さなければ、主は悲しまれます。私たちは、イエス様の血潮によって贖われた者であり、私たちのすべては主のものです。私たちの愛も、ひたすら、主に注がれなければなりません。私たちは、仕事や両親、また、自らの思いに忠実であり、主よりも、これらにより忠実に歩んでいる者でしょうか。

イエス様に対する愛の欠乏は罪です。愛の欠乏を主に言い表しましょう。また、主に頼らないことも罪です。主は今日、ご自分に頼る人を望んでおられます。私たちが、イエス様に頼ることが主のご栄光を現す唯一の道です。もし、私たちが、イエス様をのけ者にして、一人で何かをやるなら、それはイエス様の恥となります。私たちは、本当に主に頼っているのでしょうか。もし、そうなら私たちは、自分で何か役割を演じることはできないでしょう。けども、イエス様は、ご自身の栄光を現されるでしょう。イエス様のご栄光が現れること、これこそがいちばん大切です。もしイエス様のご栄光が現れたら、自分は変わることのないよろこびと、イエス様ご自身の平安を得、自分のからだから生けるいのちの水が流れ出ると約束されています。

もう一回、ルカ伝、二章十節を読んで終わります。


2:10 ・・・・恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

おわり

0 件のコメント:

コメントを投稿