2012年12月4日火曜日

静まれ

静まれ
2012年12月4日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

イザヤ
40:25 「それなのに、わたしを、だれになぞらえ、だれと比べようとするのか。」と聖なる方は仰せられる。
40:26 目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。
40:27 ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」と。
40:28 あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。
40:29 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。
40:30 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
40:31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。


41:1 島々よ。わたしの前で静まれ。諸国の民よ。新しい力を得よ。近寄って、今、語れ。われわれは、こぞって、さばきの座に近づこう。

詩篇
37:7 主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。

今、読んできてくださいました箇所は、非常によく知られて、多くの人々にとって、大好きなことばのひとつなのではないかと思います。「目を高く上げて」、それから、「わたしの前で静まれ。」二つの提案というよりも、主の命令です。人間の幸せのために、主は、こういうふうな命令をなさったのです。「わたしの前で静まれ。」これは、主の呼びかけです。エレミヤ哀歌の中で、似ていることばが出てきます。

哀歌
3:26 主の救いを黙って待つのは良い。

『主の救いを黙って待つのは良い。』ダビデという詩篇の作者も、このみことばを聞いて、聞く耳を持つ方として祈りました。

詩篇
62:1 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。

主の前で静まることの大切さ、必要性を、私は最近、あらためて、教えられました。なぜならば、『ただ、静まれ』、『待ち望め』、『主にすべてを委ねなさい』という命令は、我々の解放なのではないでしょうか。現代人が、いちばん必要としているものは、静まることなのではないでしょうか。

同じイザヤ書の四十章の最後の節を見ると、そこには、疲れとか無力さ、あるいは、たゆむことなどが記されているのがわかります。もしも、私たちが、本当に、正直に偽ることなく、主の前に出るならば、私たちは、自分が疲れて、無能力で、たゆむ者であることを、もちろん、告白せざるを得ないのではないでしょうか。このことは、次の三つのことによって証明されています。

すなわち、その第一は、神のみことばがそのことをはっきり言っているから、否定できない事実であります。第二の証明は、他の信者たちを見ることによって、わかることです。皆、主を信じながら悩む者です。第三は、私たち、自分の経験によって教えられるということです。

主のことばは、主の民の中にも、疲れている者、無力な者がいるとはっきり言っています。私たちは、確かにしばしば疲れ、疲労困憊し、力も勇気も失われてしまっている状態に陥ることがある。現実だけを見ると。

三十節によると、多くの信者の特徴は、疲れ、たゆみ、つまずき倒れることであることが解かります。そして、それこそが、敗北の原因であると、みことばは語っています。私たちは、自分自身のことや、他人のことを見ると、そこに、無力さが支配していることを見ることができ、しかも、主の大いなる力よりも、人間の無力さの方が、目に映るのではないでしょうか。

そういったことは、誰も認めたくないことでしょう。しかし、それは、厳粛な事実であり、問題は、私たちがそれを考えたり認めたりするか、しないかではなく、それが、不動の事実であるということです。

私たちが率直に反省するならば、実際に、多くの者が疲れ、無力でたゆんでいることを認めざるを得ません。わずかな信者だけしか、鷲のように、翼をかって上ることができるということを、自分のものとしているのです。この鷲のように翼をかって上ることこそが、あらゆる勝利の秘訣です。

そこで、次に、ひとつの大切な問いについて考えてみることにしましょう。すなわち、いったい、私たちの敗北の原因は何でしょうか。何故、私たちは、疲れ、たゆむのでしょうか。

その原因の第一は、私たちを本当に満たしてくれるものの源泉を知らないことであり、第二の原因は、提供されているものを受け取ることを怠ってしまうことです。知らないこととは、どうでもいいことではない。無知とは、何か恐ろしいもの、悲劇的なもの、許すべからざるものを意味します。ホセアという預言者は、次のように告白したのであります。

ホセア
4:6 わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしはあなたを退けて、わたしの祭司としない。あなたは神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れよう。

これは本当に重大なことばです。そこで、ここに書かれていることについて、内容的に、その順番を追って、考えてみることにしましょうか。

まず第一に、未信者ではなく、主の民に属する信じる者が、知識を退けた。すなわち、上からの光を退けたとしるされていることに注意すべきなのではないでしょうか。その結果、知識がないという状態に、必然的におちいってしまうのです。しかし、それだけではなく、主なる神は、そのような信者を退けてしまうと、書かれています。その意味は、永遠のいのちにあずからないとか、永遠の滅びに至るとかいうことではなく、そのような信者は主の祭司となることができない――主に用いられないということを意味しています。そして、また、そのような信者は、主の教えを忘れてしまうと、みことばは言っています。

自分の思っていることは正しいと思う人は、本当に知らないうちにメクラにされてしまいます。同じことをイエス様は、当時の聖書学者、パリサイ人、律法学者たちに向かって言われました。すなわち、『そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないから。』

マタイ
22:29 しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。」

知らないこと、すなわち、無知であることは、非常に恐ろしい結果をもたらすことが解かります。すなわち、その結果は思い違いをして、間違った方向に行ってしまう、的外れの人生を歩むことを意味しています。

前に読んでもらいましたイザヤ書、四十章の二十八節、二十九節に同じことを見ることができます。すなわち、「あなたは知らないのか、聞いていないのか」と、主は無知を責めておられます。私たちは、いったい何を知るべきなのでしょうか。私たちは、我々を満たしてくれるものの源、すなわち、主ご自身を知るべきです。主についての知識を得るよりも、主ご自身を体験的に知ることです。

その答えは、同じく四十章二十九節に見いだすことができます。すなわち、それは、「主は永遠の神、地の果てまで創造された方、力と活気を持つお方」を知ることです。我々の神は、永遠の神です。その神は、初めも終わりも持っておられません。その神は変わることがなく、永久に変わらざるお方です。

【参考】イザヤ
40:28 あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。

そして、また私たちの主なる神は、万物の造り主であられます。すなわち、そのお方は、過去において、目に見えるもの、目に見えないもののすべてを造られただけではなく、今は無い新たなるものをお造りになっておられる、生きておられる方です。

前に沖縄で、大学の教授だったんですけど、とんでもない事故に出会いまして、病人になりました。簡単に証ししたことがあるんです。「イエス様といっしょですから、病気になったのは良かった。奇跡を経験するよりも、自分は奇跡にならなければならないのではないか」と、言われました。

我々の神は、無い者を有る者のようにお呼びになるお方でもあります。詩篇三十三篇九節に、ダビデはこのように言ったのです。

詩篇
33:9 ・・・・主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ。

主なる神が仰せられ、命じられると、無から有が出現し、死んでいた者が生き返ることが実現されるのです。そして、この主は力と活気を持っておられるお方であると、聖書は言っているのです。我々の側はどうかと言いますと、ただ無力さ、疲れなどが満ちておりますが、主の側はどうかと言いますと、そこに全知全能の力があることが解かります。そして、その永遠なる神、造り主なる神、全知全能なる神は、我々の敗北を勝利へと変えてくださると、すばらしい約束を我々になさっておられます。

力と強さの尽きざる豊かさが、我々に提供されています。そして、私たちは、この提供されたものを受け取らなければなりません。すなわち、私たちは、主と結びつくことによって、超人間的な力を体験することのできる者の源と結びつきうることです。したがって、私たちは、今や、我々の敗北の原因を考察することになります。

第一番目の原因は、我々を満たしてくれるものの源を知らないことでした。それに対して、第二番目の原因は、主によって提供されたものを、受け取ることを怠ることです。

これもまた恐るべきこと、悲劇的なことです。二十九節を見ると、私たちは、主は、私たちにとって必要なものを、すなわち力と強さを我々に与えよう、提供することを約束してくださっていることがわかる。主なる神は、与えてくださる。そして、私たちは、それをいただく、受け取る、自分のものにする必要があります。これこそ、我々に与えられている約束です。主の提供に対する答えであるべきことです。問題は、『受け取る』とは何を意味し、どのようにしたならば、それを自分のものとすることができ、どうすれば、提供されたものを自分のものとすることができるのかという問いです。

その答えは、私たちは前に読みました三十一節に見いだすことができます。すなわち、主を待ち望むことです。

では、いったい主を待ち望むとは、どういうことでしょうかね。それは祈ったり、礼拝したり、集会を訪ねたり、聖書を読んだりすることを意味するのでしょうか。もちろん、それらのことも当然、含まれるわけです。しかし、ここでいちばん、大切なことは、この四十一章の一節にあるように、神の前で静まることです。これは、今日、いちばん大切ことなのではないでしょうか。ダビデ王は、このことを知り、そして、それを実行しました。詩篇の六十二篇を読むと分かります。

詩篇
62:5 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。
62:6 神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。
62:7 私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。
62:8 民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。

ダビデは、それを自分で経験したから、こういうふうに、イスラエルの民を励ますことができたのです。

このダビデの息子であるソロモン王は、次のように言ったのです。

箴言
8:34 幸いなことよ。日々わたしの戸口のかたわらで見張り、わたしの戸口の柱のわきで見守って、わたしの言うことを聞く人は。

聞こうと望む人は、聞く耳を持つようになります。主の前に静まらないキリスト者は、主の語ることを聞くことができない。また、主の語ることを聞かない者は、主に従うこともできません。その不従順の結果は、主の祝福にあずからないことです。

主を待ち望むということは、すべてを主に明け渡すこと、徹頭徹尾、主に拠り頼むこと、主のみことばに従うこと、そして、主と主の導きに、本当に信頼することを意味しています。そして、また、主に拠り頼むこと、主に信頼することは、自分自身を意識的に信頼しないこと、また、あらゆる人間的な助けに拠り頼まないことを意味しています。

そのような態度の結果は、どのようなものなのでしょうか。そして、主を待ち望む者は、どのようなことを体験するのでしょうか。言い換えれば、主の前に静まる者は、何を経験するのでしょうか。そして、そのことは、目に見えるもの、すべてのものから目を離し、ただ、主にのみ意識して、拠り頼むこと、ただ、主の御心にのみお従いする備えがあることを意味します。

主の前に静まる兄弟姉妹は、次のようなことを体験します。それらのすべては、前に読みました三十一節に記されています。まず、私たちの弱さの代わりに、主ご自身の力が現れるということです。すなわち、めちゃくちゃな努力の代わりに、主の創造的な力が現れます。何という違いなのでしょうか。私たちは、なぜ、敗北してばかりいるのかということを考えたことがあるのでしょうか。それは、私たちが、自分の力に拠り頼むからであり、そのことが、主の働きを妨げ、私たちの行ないが、主の御手を縛ってしまうような結果をもたらすのです。

自分の不完全さを知っている者は、本当に幸いです。その人は、主の御前に静まり、主の力と強さを豊かに経験することが許されています。それでは、いったい主は、我々にどのような強さを提供してくださるのでしょうか。

第一は、肉体的な力でもあるのではないでしょうか。詩篇の作者であるダビデは、元気になったんです。いろいろなことで悩みました。どうして、なぜ云々(うんぬん)と思ったに違いないけど、彼は、元気になりました。彼の証しは詩篇の十六篇に書かれています。詩篇十六篇、有名な箇所です。『私はいつも』・・・・週に二、三回だけではない。『私はいつも、私の前に主を置いた。』気持ちの問題ではない。意思の問題です。

詩篇
16:8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。

16:11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

ドイツのアドルフ・ヒトラーは、宣伝文句としてよく言いました。どういうことであるかと言いますと、『喜ぶことによって力が出る。』こういう宣伝文句でした。もちろん、彼は、知らないうちに聖書の言っていることを言ってしまった。ネヘミヤ記の八章十節、「主を喜ぶことは、あなたがたの力です。」喜ばなくなる人は、もうぺっちゃんこになります。落ち込むようになります。ダビデは、「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」主を仰ぎ見ることによって、彼は、元気になりました。肉体的な力は、確かにもう必要です。

第二番目、主は、魂の力をも与えたいと望んでおられます。主ご自身が、我々の知恵の源であり、私たちが、自分の能力に基づかず、主にのみ拠り頼む時、主は、私たちが考え、感じ、欲することを導いてくださるに違いない。このことをパウロは、次のようなことばで表現したのです。

ローマ
12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

他の者と違う心を持ちなさい。エペソ書の中でも、似ている箇所があります。

エペソ
4:23 またあなたがたが心の霊において新しくされ、
4:24 真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。

この新しい人は、もちろん、イエス様です。また、パウロは愛弟子であるテモテへの第二の手紙に、次のように書いたのであります。

第二テモテ
1:7 神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。

第三に、主は、道徳的、また、霊的な強さをも与えてくださるのです。しばしば、罠が待ち受けているこの地上では、私たちは、この強さを必要とします。だから、パウロは、愛弟子であるテモテに、「そこで我が子よ、キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい」(第二テモテ2:1)と、書いたのであります。

有名なエペソ書、六章の中にも、似ていることばがあります。

エペソ
6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。

我々の主は、霊的な力、すなわち、主の霊の力を与えてくださいます。ルカ伝の中で、イエス様は、弟子たちに言われました。

ルカ
24:49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。

この預言のこの約束が満たされた時とは、五旬節の時、使徒行伝の一章八節、『しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。・・・・』あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまりなさい。

使徒行伝
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

イザヤ書、三十章の十五節にもすばらしいことばが書き記されています。

イザヤ
30:15 神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたは、これを望まなかった。
30:16 あなたがたは言った。「いや、私たちは馬に乗って逃げよう。」それなら、あなたがたは逃げてみよ。「私たちは早馬に乗って。」それなら、あなたがたの追っ手はなお速い。

そして、パウロは、この力を経験し、次のように、告白したのです。有名なすばらしい箇所です。彼は、ご存知のように自分の問題について、自分の病気については、あまり、誰にも話さなかったようです。けども、この十二章を見ると解かります。

第二コリント
12:7 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。(・・・・彼は、病気になってしまった・・・・)それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタン(・・・・悪魔・・・・)の使いです。
12:8 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

主を待ち望む者、主の前に静まる者、意識して主に拠り頼みたいと思う者は、いったい何を経験するのでしょうか。今、何回も言いましたように、我々の弱さの代わりに、主の力が現れるのです。

おわり

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