2017年12月2日土曜日

絶えず祈れ[1]絶えず祈れ

絶えず祈れ[1]

絶えず祈れ


絶えず祈りなさい。(1テサロニケ5・17)

いつでも祈るべきであり、失望してはならない。(ルカ18・1)

「絶えず祈りなさい」という聖書のみことばこそが、この本ぜんたいをとおしての大きな、そして基本的なテーマです。まことの祈りと悔い改めがどれほどたいせつなものであるか、それはいくら強調しても強調しすぎることはありません。そのことを私たちは、この本の全編をとおして聖書からごいっしょに学んでみたいと思います。

あるとき、イエス様を信じているひとびとが集まってお祈りをする「祈り会」で、八十歳をこしている男のかたがとつぜん立ちあがって、話しはじめました。


「みなさん、私が最近体験したすばらしい喜びを聞いてください。いまから六十五年まえのことですが、クリスチャンだった私の母は、臨終の床で私に言いました。『おまえは家族のなかでたったひとり、イエス様を信じています。おまえには弟や妹たちが救われることについて、大きな責任があるのですよ。弟や妹たちがひとりのこらずイエス様を知り、そして信じるようになるまで、絶えず祈りつづけなさい』。そして母は亡くなりました。それからというもの、私はこの母の言葉に従って祈りつづけました。その結果、私の弟や妹がつぎつぎに信仰に導かれていきました。そしてけさ、私は弟のひとりから手紙をもらいました。その手紙には、かれもまたイエス様を信じる者とされたと書いてあったのです!」

このかたは、なんと六十五年もの長いあいだ、弟や妹たち全員が救われることを根気よく祈りつづけたのです。私たちの周囲にも、まだイエス様のことを知らない家族や親戚、友人のかたがたがおおぜいおられるはずです。しかし、私たちはほんとうにそういうかたがたのことを、真剣に考えているのでしょうか。そのかたがたのために、真剣に「祈りつづけ」ているのでしょうか。

これらのかたがたのことをほんとうに愛しているなら、私たちはこのかたがたが救われないでいることに無関心ではいられないはずです。私たちはとうぜんのことながら、これらのかたがたがみんなイエス様を知り、信じる者になるまで根気よく祈りつづけなければなりません。

いまのときこそ、イエス様のすばらしさ、その救いのみわざ、福音が宣べ伝えられなければならないときです。というのは、主がすべてのかたがたが救われて真理を知るようになることを望んでおられるからです。そしてそのために、主は私たちひとりひとりを役立て、もちいたいと願っておられます。あなたをとおしてひとりでも多くのかたがイエス様を知り、救われなければならないのです。

では、私たちはどうすればいいのでしょうか。どのように祈ればいいのでしょうか。その答えは旧約聖書のゼカリヤ書に見いだすことができます。

「権力によらず、能力によらず、わたし(主)の霊によって。」(ゼカリヤ4・6)

この聖句は私たちに、たいせつなただひとつのことを示しています。つまり、第一に祈り、第二にも祈り、第三にも祈り、ただひたすら「祈る」ということの重要性です。つぎに、これらの祈りの重要性についてもっとくわしく、ごいっしょに考えてみましょう。もっともたいせつなこは、つぎの三項目です。

主は祈るひとを必要としておられます。
主はお約束をお与えになっておられます。
主は私たちに願っておられます。


1.主は祈るひとを必要としておられます


それではまず、「主は祈るひとを必要としておられる」ということについて、ごいっしょに聖書から見ていきましょう。

私たちは聖書によって、全世界のどこにでも存在しておられる全知全能の神=主について、たくさんのことを知ることができます。私たちは、主なる神がなにもかもすべてをこぞんじであることを確信しています。主なる神は、私たちの心の奥底も、私たちの隠された思いも、私たちの行動の動機も、すべてをよくこぞんじであり、主なる神のまえではなにひとつ隠しおおせるものはありません。主は、どこにでも臨在しておられ、きょう、この瞬間にも私たちのそば近くにおられ、私たちに直接語りかけたいと願っておられるのです。私たちの主は全能のおかたであり、なんでもできるおかたです。主のご命令によって、いままでまったく存在しなかったものが存在するようになることなど、いともたやすいことなのです。主なる神は無限の力を自由にふるうことがおできになるかたです。

私たちはまた、聖書のなかで、この主が「驚かれるかた」であることも知ることができます。

主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。(イザヤ59・16)

主なる神は、とりなす者のいないのに「驚かれた」・・・。私たちは、イザヤの時代にはたしかにそのとおりであったことを知っています。というのは、イザヤの時代はまだイエス様がこの地上に来られるまえであり、聖霊がそそがれるまえの時代だったからです。聖霊こそが私たちに祈ることを教えてくださるのであり、私たちの弱さを助けることがおできになり、私たちのためにとりなしをしてくださるのです。しかしイザヤ書が書かれたそのころは、イエス様がくださった、祈りについてのすばらしいお約束が私たちに与えられるまえの時代だったのです。

私たちはここで真剣に、ひとつの質問を自分自身につきつけてみる必要があります。

「イエス様がきょう、私たちをご覧になるとき、『驚かれる』のではないだろうか?イザヤの時代、まだイエス様がこの地上に来られるまえの、つまり聖霊がそそがれ、すばらしい祈りのお約束が与えられるいぜんの時代とおなじように、イエス様は私たちの不信仰な状態に『驚かれる』のではないだろうか?私たちはほんとうの『祈りの生活』を、はたして知り、おくっているのだろうか?」

という質問です。

ここで問題になっている「祈りの生活」とは、私たちが「ときどき祈るかどうか」などということではありません。「ほんとうに祈りの生活をおくっているかどうか」がたいせつなのです。「朝晩かるく祈る」というようなことではないのです。「私たちの全生涯が祈りによ.って動かされているかどうか」が重要なのです。自分の生活のなかで「祈り」がいちばんたいせつなことがらになっていない信者は、主にもちいられません。

もちろんあらゆるキリスト者は、主なる神を信じ、自分の罪が赦されており、主イエス様によって永遠のいのちをいただいているということを知っています。またあらゆるキリスト者は「祈りの必要性」をも知っています。しかし残念なことには、あらゆるキリスト者がつねに「祈りの力」を信じているというわけではありません。

ここで私は、ただひとつの事実だけを強調したいと思います。それは、「すべてのことがただ祈りにかかっている」という事実です。

現在、なぜ、非常に多くのキリスト者たちが打ちのめされているのでしょうか?

なぜなら、そのひとびとはほとんど「祈らない」か、ほんのわずかしか「祈らない」からです。

なぜ、多くのキリスト者たちがにがい敗北を経験するのでしょうか?

なぜなら、そのひとびとは、ほとんど「祈らない」か、祈ったとしてもほんのわずかしか「祈らない」からです。

なぜ、多くの努力にもかかわらず、私たちをとおしてほんのわずかなひとびとしか、暗闇から主イエスにある光のなかに導かれないのでしょうか?

なぜなら、私たちはほとんど「祈らない」か、あるいは祈ったとしてもその「祈りがすくなすぎる」からです。

イエス様は、むかしもいまも、変わることなく全能のおかたです。そしてそのむかし、聖書が書かれた時代とおなじように、またそれ以上に、いまも「苦しんでいる、弱っている、あえいでいる多くのひとびとをひとりのこらず救いたい」と願っておられるのです。しかしまた、聖書はつぎのようにも述べています。

見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。(イザヤ59・1、2)

主のみ手がみじかすぎて私たちを救えないのではありません。主が期待されるように私たちが「祈らない」ので、主はお働きになることができないのです。つまり、すべての失敗の原因は、「私たちの不十分な祈りの生活」にあるのです。

イザヤの時代に、主はほんとうに祈るひとがひとりもいなかったので「驚かれ」ました。

主イエス様がこの地上におられた時代には、主イエス様は大きな奇蹟を行なうことをさまたげた、ひとびとの不信仰に「驚かれ」ました。

それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。イエスは彼らの不信仰に驚かれた。(マルコ6・5、6)

主イエス様が、きょう、私たちの状態、私たちの心の状態をご覧になるとき、やはりおなじようにその不信仰に『驚かれ」、深く悲しまれるのではないでしょうか。

しかし、あなたの御名を呼ぶ者もなく、奮い立って、あなたにすがる者もいません。(イザヤ64・7)

キリスト者がぜんぜん祈らなかったり、わずかしか祈らないことほど、主を「驚かせる」ことはありません。私たちはほんとうに祈りの力を信じているでしょうか。愛するみなさん、私たちはいま、終末の時代に生きているのです。イエス様はまもなくおいでになります。のんびりした生活をおくっているときではありません。いまなにより必要なのは、「祈りのひと」なのです。

祈りは、この地上でもっとも大きな力です。祈りは、宇宙さえも動かされる主のみ手を動かすのです。正しく祈らない者は、正しく生活することができず、正しく主に仕えることができません。イエス様は私たちにはっきりとしたお約束を与えてくださっています。

イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」(マタイ21・21、22)

このお約束によると、主の奇蹟を体験する前提は、「信仰と祈り」です。私たちが「信じて祈り求める」なら、なんでも与えられるのです。またヨハネの手紙第一にはこう書いてあります。

愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。(1ヨハネ3・21、22)

ここに書かれていることにくらべて、私たちはなんとわずかしか、主のお約束を信じていず、お約束を自分のものとしていないことでしょうか。私たちはなんとわずかしか、ほんとうに信じることをしていないことでしょうか。だからこそ主は、きょうも私たちの不信仰に「驚かれる」のです。なんの奇蹟も起こらないのは私たち自身の責任です。私たちは、いまののんびりした状態から、いっときもはやく目を覚まそうではありませんか。

いっぽう、悪魔は私たちをめくらにしようとしています。悪魔はなによりも「祈り」を憎みます。悪魔は私たちが主のために働きたいと思うことはさまたげようとしませんが、「祈りの生活」だけは、必死になってさまたげようとしているのです。悪魔は私たちが聖書を読んだり学んだりすることについてはじゃまをしようとしませんが、「ほんとうの祈り」だけは、なんとしてもじゃまをしようと一生懸命になるのです。悪魔は私たちの努力を笑い、私たちの知恵をあざけりますが、私たちの「まことの祈り」のまえには、なすすべを失って恐れおののくのです。

私たちは、主のため、またひとのために、私たちにできるもっとも大きなことは「祈り」であることを、ぜったいに忘れてはなりません。「祈り」によって、主のためのいわゆるご奉仕によるよりも、はるかに大きなことがなされるのです。「祈り」によって、私たちは神の全能なる力を目のあたりに体験することができるのです。それは私たちが祈るとき、全能のかたである主が奇蹟を行なってくださるからです。あとに残る実、成果は、いつも真剣な祈りの結果です。


2.主はお約束をお与えになっておられます


さてつぎに、「主はお約束をお与えになっておられる」ということについて、聖書から学んでみましょう。

やがて主のみもとで大きな栄光に包まれるようになったとき、私たちは自分自身がこの地上でいかに祈りのとぼしい者であったかにわれながら驚くことでしょう。ほんとうのとりなしをするために、ほんのわずかの時間しか使わなかった自分自身のことを、信じられない思いでふりかえることでしょう。そのとき、主ではなく私たち自身が自分の不信仰に驚くことになるのです。

私たちのイエス様は、十字架につけられるまえに、すばらしく大きなお約束をしてくださいました。このお約束の内容は、疑問のよちなく明快です。このイエス様が死の直前に与えてくださったお約束について、ヨハネの福音書から順をおって見ていきましょう。

「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」(ヨハネ14・13、14)

主イエス様は、ここでまず、「あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう」。そしてもう一回、「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう」と、二度、くりかえしておっしゃっておられます。これはじつにすばらしいお約束です。このお約束よりも大きな約束がありうるでしょうか。そしてまた、いままでにいったいだれが、このような約束をなしえたでしょうか。

イエス様がこのお約束をなさったとき、弟子たちはだれひとりとしてその意味が理解できず、ひとつのなぞのまえに立たされたのでした。そのときにはまだ、かれらは自分たちに与えられたお約束がどのようなものであるかを理解することができませんでした。そしてあとになってはじめて、かれらはイエス様がご自身の約束を守られたことをつぶさに体験したのです。「わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう」。このすばらしいお約束は、当時の弟子たちばかりでなく、もちろん私たちにも与えられているのです。

イエス様は、このときいちどだけではなく、このすぐあとにもなんどもくりかえして約束をお与えになっています。

「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(ヨハネ15・7、8)

イエス様はいつも弟子たちに、くりかえしくりかえし「願い求めなさい」という命令をお与えになりました。またイエス様は、イエス様と私たちが友としてつながっていることのしるしは、私たちがイエス様の命令、つまりみ心に従い、イエス様が望んでおられるとおりに行動することであると言われました。ヨハネの福音書にはこうあります。

「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。」(ヨハネ15・14)

つづいてイエス様は、ご自分が求めておられることについてつぎのように言われました。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15・16)

イエス様は「私たちに祈ることを望んでいる」ことを、このみことばによってはっきりと示されたのです。「わたしはあなたがたの祈りを必要としている。あなたがたが祈らないならば、なにも得られない」と、イエス様ご自身が言われたのです。そしてさらにもういちど、イエス様はほとんどおなじことをつぎのように言っておられます。

「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」(ヨハネ16・23、24)

このときほど、イエス様がお約束、つまり祈りの必要性を強調なさったことはありませんでした。六回も、イエス様は「何でもあなたがたのほしいものを求めなさい」と言われました。これこそ、人間に与えられた祈りのお約束のうち、もっとも大きなお約束です。

エペソ人への手紙三章にはこう書いてあります。

どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に・・・・栄光がありますように。(エペソ3・20、21)

しかし、たいていのキリスト者が、このイエス様のお約束にとくに注意をはらうこともなく、とおりすぎてしまうのはどうしたことでしょうか。イエス様は、十字架に釘づけられるまえに、さらにもういちどおっしゃいました。

「その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。・・・父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。」(ヨハネ16・26、27)

みなさんもこぞんじのように、イエス様は十字架のうえで七つのことばを叫ばれました。この七つのことばについては、多くのひとびとが考え、本を書き、説教し、また作曲してきました。しかし、いままでごいっしょに見てきた、ヨハネによる福音書十四章から十六章にしるされている七つの祈りへのまねきのみことばについてはどうでしょうか。私たちはそれらのだいじなまねきのみことばについて、ほんのわずかな時間でも考えてみたことがあるでしょうか。

イエス様は、きょうもすべてのうえに君臨しておられます。イエス様はすべての力を持っておられます。そしてイエス様は、私たちがいだいているいろいろな願いごとをイエス様にすべて申しあげることを望んでおられ、豊かな栄光のうちに私たちに答えたいと思っておられるのです。イエス様は、「私たちの強さと喜びは、私たちの祈りの生活にかかっている」と、はっきり言われました。もういちど、ヨハネによる福音書の十六章を思いだしてみてください。そこにはこう書かれています。

「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」(ヨハネ16・24)

しかし、実際にはどうでしょうか。悪魔は私たちをほとんどまいにち、誘惑してきます。私たちは日常生活において、しばしばつぎのように考えたり行動したりしているのではないでしょうか。「イエス様に祈るよりも、人間の力や努力に頼るほうが大きなことができる」、または「イエス様に祈り、語りあうよりも、人間どうしがつきあい、語りあうほうがもっと大きな成果が得られる」と。もちろんこのようなことを口にだして言うクリスチャンはいません。しかしたいていのクリスチャンの日常生活を見ると、言わず語らずのうちにこのことがたいどにあらわれているのではないでしょうか。

真剣に祈ることなくして、主に仕えることは不可能です。あるかたは「私はまだいちども祈りがきかれたためしがありません」と告白しました。実際、私は多くのばあいがそうなのではないかと心配しています。いったい、どうしてでしょうか。いったい、どこに責任があるのでしょうか。主なる神はうそつきなのでしょうか。イエス様は信頼できないかたなのでしょうか。イエス様のお約束はあてにできないのでしょうか。イエス様はこ自分が約束なさったことを、ほんとうはしようと考えておられないのでしょうか。

主のためになにかをしたいと思うなら、私たちはまず祈らなければなりません。そして私たちが祈っても聞きとどけられないとき、その責任は決して決して主にあるのではなく、私たち自身にあるのです。主は私たちの祈りに答えるお気持ちがないどころか、主にとって祈りに答えることは最大の喜びなのです。主は私たちが主に祈り求めることを、それもたくさんのことを祈り求めることを望んでおられます。なぜならば、そのことによって主は誉れと栄光をお受けになるからです。

もちろん私たちのうちのだれひとりとして「イエス様のお約束がうそである」などと言うひとはいません。しかしそれならどうして、私たちはもっともっと祈ろうとしないのでしょうか。

私たちはたとえすこしでも、イエス様の愛を疑うことができるでしょうか。できるはずがありません。私たちにはとてもそんなことはできません。というのは、イエス様は私たちのためにご自身のいのちをささげてくださることによって、イエス様ご自身が私たちを深く愛しておられることをあきらかにしてくださったからです。

私たちはたとえすこしでも、父なる神の愛を疑うことができるでしょうか。そんなことはできるはずがありません。というのは、主イエス様ご自身がこう言われているからです。「父なる神があなたがたを愛しておられる」。イエス様が、はっきりとそう言っておられるのです。

それでは私たちはたとえすこしでも、主の力を疑うことができるでしょうか。いいえ、決してそんなことはできません。というのは、私たちはすべての力が、天上においても地上においても、イエス様に与えられていることをよく知っているからです。

それでは私たちはすこしでも主の知恵と導きを疑うことができるでしょうか。いいえ、決してそんなことはできません。たしかに私たちには理解できない多くのことがあります。しかし私たちは主の導きが完全であり、主の知恵は測り知れないことをよく知っているからです。

クリスチャンなら、だれひとり、つぎのように言うひとはいないでしょう。「祈ることなど、たいしたことではない。祈ることよりもたいせつなことがある」。しかし、たとえ口にだして言わなくても、たいていのクリスチャンの実際の生活は、このことをもの語っているのです。

主はまた、ご自身がお約束を守られるかどうか、言われたとおりのことをほんとうにしようと考えておられるかどうか、私たちに「ためしてみるがよい」と力強く語りかけておられます。

「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。万軍の主は仰せられる。わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」(マラキ3・10)

このような大きな確信をいただいた以上、私たちは、主なる神がお約束をお与えになるとき、パウロのように大胆に言おうではありませんか。

ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています。(使徒27・25)

愛するみなさん、このように見てきたからには、私たちはいますぐにでも祈りの生活をはじめたいと思わないでしょうか。いまほど恵まれた時代はありません。いま、すぐにはじめてください。主は私たちが祈ることを望んでおられます。すべてのことは、私たちの祈りにかかっているのです。あふれるばかりの主の祝福が、約束されています。ただ祈ることをしないために、私たちはこの祝福を受けることができないでいるのです。

「あなたは一日のうちどれくらい祈りますか」とたずねられたあるご婦人は、すぐにこう答えました。「三回祈ります。朝、昼、晩の三回祈りますが、でもそのあいだにも祈りつづけます」。このご婦人は絶えず祈らざるをえなかったのです。私たちにとって祈りとはなんでしょうか。義務でしょうか、必要でしょうか、特権でしょうか、楽しみでしょうか、喜びでしょうか。

主のみ心にかなう祈りをするためには、私たちは開かれた心の目を持つことが必要です。では「開かれた心の目を持つ」とはどういうことでしょうか。それはつまり、私たちのすばらしい主にたいして、また主が私たちに与えたいと思っておられる測り知れない豊かさにたいして、開かれた目を持つ、ということです。そしてまた、主はこの世の悩みにたいしても私たちの心の目を開いてくださいます。その結果はどうなるでしょうか。主イエス様と主の豊かさを見ると、私たちは自然に主を礼拝せざるをえなくなります。またこの世の悩みを見ると、私たちは心からとりなしの祈りをせざるをえなくなります。

私たちの周囲にはいたるところに悩みがあります。家族や親戚、友人のなかにも、また未信者ばかりでなくクリスチャンのあいだにさえ多くの悩みがあります。また世界中には、まだイエス様の福音を聞いたことがないひとびとが何億人もいるのです。これらの悩みは私たちをかりたてて祈りへと導くはずです。主は真剣な祈りにはかならずお答えをくださいます。主は祈りにたいする答えとして奇蹟を行なってくださいます。祈らない者は、もはやどのようないいのがれをすることもゆるされません。なぜなら祈りの助け手として聖霊が私たちに与えられているからです。

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。(ローマ8・26、27)

そして聖霊の導きのもとに、初代教会の主イエス様の弟子たちはつぎのような決心をしました。

私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。(使徒6・4)

この聖句のなかの「祈り」と「みことばの奉仕」の順番に注目してみてください。「私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにする」。まず「祈り」、それから「みことばの奉仕」の順番です。第一にたいせつなことは「祈り」です。そしてこの「祈り」は、だれにも見えず、だれにも気づかれません。「みことばの奉仕」つまり世のなかに福音を告げ知らせることは、そのあとなのです。

主のために、朝から晩まで働くかたがたがいます。かれらは聖書を研究するためにたくさんの時間を使い、すばらしい説教をします。もちろんこのようなことは正しくりっぱなことです。けれどもそのかたがたが祈りを忘れ、かれらの生活のなかで祈りが第一のものになっていないならば、まことにわざわいです。すこししか祈らないということはすこししか実を結ばないということを意味しています。いっぽう、たくさん祈るということは、大きな影響力を持つことを意味し、そのことによって多くのかたがたが主のもとに引き寄せられるのです。イエス様のすばらしさに目を見ひらくという霊的な目覚めは、多くの祈りの結果なのです。またあらゆる回心もおなじように真剣な祈りの結果です。祈らないことは罪です。この罪が告白されないと主との交わりが不可能となり、主との交わりがなければとうぜんながら実を結ぶことはありません。

愛するみなさん、私たちはいますぐ、祈りの生活をはじめようではありませんか。クリスチャンのなかには、朝、学校や仕事に行くまえに聖書を読んで主が語られるお声に耳をすますことがなく、祈りによって主のまえにまごころをそそぎだすことをしないかたがたが多いのです。それらのかたがたにはなんの成長も祝福も見られず、また実を結ぶことも見られないのはとうぜんで、なんら驚くにあたりません。私たちの主イエス様は、一晩中祈られたことがありました。イエス様は完全なかたであったにもかかわらず、イエス様にとって祈りはどうしても必要なことだったのです。ましてや私たちは、意識して主により頼み、主との交わりをたもつべきではありませんか。イエス様は父なる神のみ心を行ないたいという心からの願いをいつも持っておられました。だからこそ、主に祈られたのです。私たち自身はどうでしょうか。私たちにとっても、主のみ心を行なうことはなによりもたいせつなことであるはずです。私たちはほんとうに自分自身を百パーセント主にあけわたしたのでしょうか。自分自身を百パーセント主にあけわたすことこそが、聖霊が私たちのなかで祈られることができる前提なのです。私たちには、はたしてその用意ができているのでしょうか。


3.主は私たちに願っておられます


最後に、「主は私たちに願い求めておられる」ということについて、ごいっしょに聖書から見てみることにしましょう。

「わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。」(詩篇2・8)

主なる神は、私たちが主に「求める」ことを願っておられます。というのは、主は「与えたい、おくりものをしたい、幸せにしたい、ご自身を現わしたい」と願っておられるからです。主なる神は私たちが主に祈り、願い求めることを、それもたくさん祈り、たくさん願い求めることを望んでおられます。わずかな実しか結ばない者はわずかしか祈りません。わずかしか祈らないにもかかわらず多くの実を結ぶことがあるなら、それは隠れたところで多くのひとびとが祈りつづけていてくれるからなのです。天国では、この地上でいちばんよく説教をしたひとではなく、いちばんよく祈ったひとこそがいちばん報われるのです。あらゆる回心はキリスト者の祈りに答えてくださる聖霊のすばらしいみわざです。

さきほどの聖句のなかで、主は「わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える」と、約束しておられます。これは主の願いであると同時に、主の啓示です。私たちははたしてこの主の願いどおりに祈り、求めているのでしょうか。私たちははたしてこの主の啓示によく従っているのでしょうか。パウロは、「私はこの天からの啓示にそむかなかった」と言うことができました。くりかえして言いますが、私たちが天国に行ったとき、なにか後悔することがあるとするなら、それはきっと、自分がこの地上で祈りをおろそかにしたことでしょう。主は「わたしに求めよ。わたしは与える」と言っておられます。しかしたいていのキリスト者は、自分自身の日常生活のなかで、悩みや問題を主にうちあけようとしません。そしてキリスト者の十人のうち九人までは、まだ福音を聞いたことがないほかの国々の何億というひとびとのためにぜんぜん祈らないのです。主にとっては「地の果て果て」までが重要なのです。私たちの祈りによって、「地の果て果て」にまで大きなことが起こらなければなりません。私たちは主のこの「祈り」へのまねきに喜んで応じる用意があるのでしょうか。イエス様は、ご自身がこの地上におられるあいだになさったことよりももっと大きなみわざを、私たちキリスト者にしてくださる、と約束してくださいました。そしてこの大きなみわざこそが、まことの祈りにたいする答えです。

私たちの人生の目標はなんでしょうか。それは権力でも名誉でも地位でもなく、「いつまでも残る実を結ぶこと」にあります。そして、ぶどうの木であるイエス様に結びついているときにのみ、この実を結ぶことができるのです。イエス様と結びついていなければ、そして祈りの生活がなければ、決していつまでも残る実を結ぶことはできないのです。あなたが祈ったならば、いつまでも残る実が与えられ、祈らなかったならば、すべての行為も努力も、けっきょくはむなしいものになってしまうのです。

あるとき聖霊は、ある女性のクリスチャンに、もっと祈りなさいという主の願いをあきらかにされました。長いあいだためらったあと、彼女はこの主の願いに従ったのです。するとどうでしょうか、数週間のうちに多くのかたがたが信仰に導かれ、またそれだけではなく、この地方のひとびとのすべてがイエス様のみことばにたいして耳と目をひらき、真剣に福音を求める気持ちを持つようになったのです。

なぜ、私たちのまだ救われていない家族の多くは、イエス様のみことばをもっと聞きたいという求める気持ちを持たないのでしょうか。なぜなら、私たちが祈ろうとしないからです。

インドで、千数百人の児童がいる学校がありました。ここの子どもたちのなかに、イエス様を信じていて祈りが大きな力を持っていることをよく知っている数人の子どもたちがいました。ある日この子どもたちは宣教師のところにやってきて、宣教師の仕事のために祈ってよいかどうかたずねました。しかし宣教師は、そのことをあまり喜びませんでした。宣教師は、子どもたちにとっては祈ることよりも勉強することのほうがだいじだと考えたのでした。けれども最後にはしかたなく祈ることをゆるしました。子どもたちは祈りはじめました。するとその日のうちに、ひとりのクリスチャンが自分の罪を告白するためにその宣教師のところにやってきました。またそのすぐあとで、こんどは教会の長老が罪を告白するためにやってきました。そしてこのようなことがつぎつぎに起こって、すべてのひとびとが自分の罪を認めるようになったのです。このようにして主からはなれていたひとたちが回復され、信者たちも霊的に成長し、多くのひとびとが生き生きしたまことの信仰に導かれたのです。これはただ二、三人の子どもたちが心から祈ったことによって起こったのです。子どもたちのうちのひとりは、五百人もの名まえがしるされている祈りの名簿を持って、夜、ローソクの光のなかで何時間も祈りつづけたのです。これらの子どもたちが祈り求めたときには、いつでもどこでも奇蹟が起こったのです。

神のまえでは、人間の外見などたいせつではありません。子どもであろうがおとなであろうが、男だろうが女だろうが、金持ちだろうが貧乏人だろうが、教養があろうがなかろうが、そういったことはまったくたいせつではありません。ただ主なる神が示される条件が満たされるとき、神は答えてくださるのです。

イギリスのウェールズという地方で、あるとき霊的な覚醒が起こり、何千人ものひとびとが救われたとき、そのことを聞いたインドで働いている宣教師たちは、インドでもおおぜいのひとびとが救われるように自分たちのためにも祈ってほしいという手紙をウェールズのひとびとに出しました。それからというもの、ウェールズに住んでいる鉱山労働者たちは、毎朝仕事がはじまるまえに三十分間、インドのひとびとのために祈りました。するとまもなくインドから、主の祝福がインドにも起こったという知らせがウェールズにとどいたのです。

私たちの祈りによってほかの国々にいるクリスチャンたちが祝福され、また多くの未信者たちが救われるのです。私たちは、インドやアフリカや中国にいる何億人もの、まだ福音を聞いたことがないひとたちのことを考える必要があります。この何億人ものひとびとを見て、主はつぎのように言っておられるのです。「わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える」。

主なる神は私たちが祈ることを望んでおられます。なぜなら主なる神はあふれるばかりの祝福を、私たちにそそごうとしておられるからです。祈りこそ神の富のための鍵なのです。そして信仰は、祝福が私たちのうえにそそがれるとびらをあけるのです。

愛するみなさん、私たちはいま、ひとつのわかれ道のまえに立っています。すべての失敗、すべての敗北、すべての実りのなさは、祈らないことにその原因があるのです。それらの問題は、私たちの生活のなかで祈りが最優先となるとき、いますぐにでも解決するのです。純粋に、心から信じつつ祈ることは奇蹟をもたらします。

マタイの福音書には、つぎのように書かれています。

イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、言った。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。(マタイ8・5~13)

このローマの百人隊長はみ心にかなう純粋な心を持っていました。だからイエス様はかれが話したことを聞いて「驚かれた」のです。イエス様はおっしゃいました。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません」。そしてそのあとで、イエス様は言っておられます。「たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます」。東からも西からも来て・・・・とイエス様は言われましたが、この「東」のなかには、とうぜん日本も含まれているのです。イエス様はこの百入隊長の信仰の告白を聞いたとき驚かれ、そしてたいへん喜ばれて、「あなたの信じたとおりになる」と言われました。私たちもこの百人隊長とおなじように、信仰告白ができればほんとうに幸せだと思います。

最後にもういちど、たいせつな聖書のなかのイエス様のお約束をまとめてしるしておきます。

「わたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。」(ヨハネ14・13)

「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」(ヨハネ14・14)

「何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ15・7)

「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15・16)

「あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。」(ヨハネ16・23)

「求めなさい。そうすれば受けるのです。」(ヨハネ16・24)

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