2017年12月7日木曜日

絶えず祈れ[6]イエスのみ名によって祈る

絶えず祈れ[6]
イエスのみ名によって祈る

「絶えず祈れ」。「イエスのみ名によって祈れ」。これこそ、いま、キリスト者に与えられているもっともたいせつな主のご命令です。

「わたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」(ヨハネ14・13、14)

主は私たちの祈りを聞きとどけたいと思っておられます。たとえどんなに大きな願いでも、またどんな小さな願いでも、「イエスのみ名によって祈る」なら、かならず聞きとどけられます。イエス様ご自身が、この聖句のなかでそのことをはっきりと約束してくださっているのです。
「イエスのみ名によって祈る」ということは、祈りのおわりに決まり文句として「イエスのみ名によって」とつけ加えることではありません。「イエスのみ名によって祈る」とは主の栄光のために祈ることです。それは私たちに提供されている主なる神の豊かさをくみとることであり、イエス様の代理人として祈ることです。そしてまた、さらにそれ以上の意味でさえあります。パウロは当時の信者たちにつぎのように言っています。


私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。(ピリピ1・9~11)

これはパウロの証しであると同時に、かれの祈りでもありました。パウロは当時の救われているひとびとのために、このように心をつくして祈りつづけたのです。

「イエスのみ名によって」という表現は、聖書のなかになんどもなんどもでてきます。そのひとつにつぎの箇所があります。ここにはペテロとヨハネが「イエスのみ名によって」どのように行動したか、その実例がでています。

ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。(使徒3・1~8)

ペテロとヨハネはこのように「イエスのみ名によって」、つまり主イエス様の力により頼んで行動したと書いてあります。

「イエスのみ名によって祈る」ためには、なによりもつぎの七つのことがたいせつです。


  • 主のうちにとどまること。
  • 主の支配下にいること。
  • 主の勝利をあきらかにすること。
  • すべての信者のために祈ること。
  • 十字架につけられること。
  • 聖霊に満たされること。
  • 絶えず祈ること。


この七つの項目について、順をおって考えていきましょう。

1.主のうちにとどまること

「イエスのみ名によって祈る」とは、いったいなにを意味するのでしょうか。

まず第一に、「主のうちにとどまること」が、「イエスのみ名によって祈る」ことの前提です。イエス様のからだの一部となっている者、イエス様と生き生きとつながっている者だけが、「イエス様のみ名によって祈る」ことができるのです。

ひとは罪人としてイエス様のみもとに来ると、イエス様のお約束によって自分は受け入れられ救われていると知ります。そのひとは高められたイエス様と結びついているのです。

パウロはつぎのように書いています。

しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。(1コリント6・17)

私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。(1コリント12.13)

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。(エペソ1・22、23)

このように、イエス様に受け入れられている者の罪は赦されています。そのひとはイエス様のからだの一部です。そしてイエス様のみ名はただかしらであるイエス様おひとりだけのものではなく、イエス様のからだの一部であるひとりひとり、からだぜんたいにも属しているのです。このように、かしらと多くの部分とがひとつになって、キリストを構成します。もういちどつぎの聖句を見てください。とてもたいせつなところです。

私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。(1コリント12・13)

だからこそ、イエス様と生き生きと結びついていることが、イエス様のみ名によって祈る前提なのです。イエス様はこのことをぶどうの木とその枝というたとえを使って説明されました。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」(ヨハネ15・5)とイエス様は言われました。つまり「あなたがたはわたしと結びついている者です」と言われたのです。

キリスト者はイエス様のうちに存在しています。キリスト者はイエス様と結びついています。ちょうどぶどうの枝がぶどうの木と結びついているのとおなじように、またからだの部分がかしらと結びついているのとおなじように、そのようにキリスト者はイエス様と結びついているのです。だからイエス様はつぎのように約束してくださったのです。

「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ15・7)

このように、イエス様のうちにとどまることは主のみ名によって祈るためのたいせつな前提です。私たちはイエス様のからだの一部として祈り、イエス様に属し、結びついている者として祈るのです。私たちは主のからだの一部、主のからだなる教会の一部であることをゆるされています。そして主のからだなる教会とは、主の満ちておられるところです。ですから私たちは主にたいするおそれと主を崇拝する心とをもって祈りましょう。

どうか主があらたに私たちの心の目を開いてくださり、「私たちはイエス様に属している」ということをわからせてくださいますように。

つきることのない富が、イエス様をとおして私たちに提供されています。私たちがイエス様のみ名によって祈るとき、その富は私たちのものとなるのです。

2.主の支配下にいること

「イエスのみ名によって祈る」ことの第二の前提は、「主の支配下にいること」です。

イエス様のみ名による祈りの第一の前提は主のうちにとどまることでした。そして主のうちにとどまるということは、つまり「主の支配下にいる」ということでもあります。

意識してかしらであるイエス様の一部として祈るとき、私たちは「主の支配下にある」者として祈っています。主のご支配を認めるとは、つぎのようなたいどをとることです。「主よ。私はなにをしたらいいのでしょうか。どうか私に教えてください。私はあなたに従いたいのです」。

「自分のことは自分で決めたい、自分の思ったとおりにしたい」と思っているかぎり、私たちは主のうちにとどまってはいません。そういうとき、「イエスのみ名によって祈る」ことは不可能です。そのようなときには、祈りはむなしい形式にすぎなくなってしまうのです。

どんなときにもイエス様が第一とならなければなりません。まいにちまいにち、イエス様のご支配を認め、イエス様を第一として生活することこそがたいせつです。それはつまり、「私たちはもう自分ではなにもできない」ということです。私たちはつぎのように思うべきです。「私は自分ではなにもできない。だからなにがなんでもかしらであるイエス様により頼みたい」。

イエス様の支配下にあるひとびとは、もう自分かってな願いを祈ることができません。主が望んでおられることしか祈ることができないのです。主の支配下にいるひとびとにとって、イエス様はすべてを超越したおかたなのですから。

つぎの聖句はキリスト者にとって非常にたいせつです。後半はさきほど見たところとかさなっていますが、もういちど見てみましょう。

また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。(エペソ1・19~23)

すべてのもののうえにあるかしらとして主を見上げるとき、私たちはつぎのことを知ることができます。主にとって不可能なことはなにひとつありません。だから、主はかならず私たちの祈りを聞きとどけてくださるのです。私たちが主の支配下にいるとき、私たちの願いは聞きとどけられます。私たちのためではなく、主イエス様のために聞きとどけられるのです。

イエス様が私たちのうちに内住しておられるだけでは十分ではありません。イエス様が私たちの支配者になられるとき、私たちははじめて「イエスのみ名によって祈る」ことができるのです。

3.主の勝利をあきらかにすること

イエス様のみ名による祈りは、「主の勝利」、また「主の支配」をあきらかにします。というのは、イエス様は私たちのかしら、あらゆる信者のかしらであるばかりでなく、いっさいのもののうえに立つかしらだからです。

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。(エペソ1・22)

「キリスト」という名まえは、もとは「支配するために油そそがれた者」という意味です。私たちはこのキリストとひとつにされています。そしてかしらにとってからだがたいせつであるように、キリストにとって私たちはたいせつなのです。イエス様はご自身をわかち与え、啓示するために私たちを必要としておられます。イエス様はご自身を啓示する器として、からだを必要としておられるのです。なんとすばらしいことではありませんか。イエス様はご自分おひとりだけで王座につきたい、支配したいと思ってはおられません。イエス様は私たちをご自身の近くにおらせたいと願っておられます。私たちとともに支配したいと思っておられます。

もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。(ローマ5・17)

「イエス・キリストにより、いのちにあって支配すべきである」。これが主の望んでおられることです。もちろんイエス様は罪人を救いたいと願っておられます。そして罪の赦し、永遠のいのち、神との平和を提供しておられます。けれどもそれだけではないのです。救われた罪人は、イエス様のいのちにあって、イエス様とともに支配することになるのです。

あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。

それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(1ペテロ2・9)

ここで私たちは、選ばれた種族、つまり主のいのちにあって「王である祭司」とされている、つまり支配する者であると書かれています。

(イエス・キリストは)また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。(黙示1・6)

さらに、パウロはイエス様のからだである教会の使命について、つぎのように書いています。

これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためである。(エペソ3.10)

主は教会をからだとして、また器としてもちいたいと望んでおられます。そしてからだである教会をとおしてご自身の勝利、ご自身の支配をあきらかにしたいと願っておられます。私たちがイエス様と結びつき、イエス様の支配下におかれていることをとおして、イエス様の勝利があきらかにされなければなりません。そしてその勝利は、私たちがイエス様のみ名によって祈ることをとおして実現されるのです。

イエス様は私たちひとりひとりをとおして、ご自分の勝利をあきらかにしたいと願っておられます。そしてそれは、私たちが日々あらたに自分の霊とたましいとからだとを主の支配下におくときにだけ、可能になるのです。権威のもとに立つ者は、権威を持っています。つまり、すべてのもののうえに立つかしらであるイエス様に服従する者には、イエス様の勝利を経験することがゆるされているのです。

4.すべての信者のために祈ること

イエス様のみ名によって祈るということは、また、「すべての信者のために祈ること」です。

主のうちにとどまり、生き生きと主に結びついており、意識して自分を主の支配下におくとき、私たちはごく自然に、すべての信者のために祈るようになります。そのとき私たちは、すべての信者とひとつになっているのです。信者ひとりひとりがイエス様の支配に服従するとき、そこにはほんとうの一体感が生まれます。そしてそのように信者がひとつになっていることは、この世にたいする大きな証しです。

ドイツの、またスイスの集会のキリスト者たちは、私たち日本のキリスト集会のみなさんのために熱心に祈ってくれています。かれらは自分たちのためにも、日本のキリスト者たちが祈ってくれることを願っています。このように世界中のすべての信者がひとつになっておたがいに祈りあうことは、ほんとうにたいせつです。なぜならひとりでも一致していない信者がいれば、けっきょく信者ぜんたいがひとつになることができず、ばらばらになってしまうからです。すべての信者がひとつになり、心をひとつにして祈ることは、なによりも強い証しになります。「見よ。かれらはおたがいになんと愛しあっていることだろう」。初代教会を見た未信者たちは、こう言わずにはいられませんでした。

イエスのみ名によって祈ることは、つぎのことを意味しています。私たちはもはやひとりで支配したり、ひとりで治めたいとは思いません。私たちはかしらであるイエス様によって導いていただきたいのです。そのことをとおして、私たちは、おなじようにかしらであるイエス様の支配に服従している、からだのほかの部分とひとつになるのです。

私たちはみな、かしらであるイエス様とはなれていてはイエス様のみ名によって祈ることはできないことをよく知っています。しかしそれだけでは十分ではありません。私たちはつぎのこともおなじようにはっきりと知らなければなりません。つまり心のなかでほかの信者にたいして反対の気持ちを持っているときにも、私たちはイエス様のみ名によって祈ることができないのです。

このことは、つぎの聖書の箇所を見るとよくわかります。

「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18・15~20)

これはほんとうにすばらしい主の約束です。

信者がひとつになっているということは、ほんとうにたいせつなことです。信者がひとつになっているときにだけ、まわりのひとびとも罪から自由になって解放されることができるのです。あなたがほかの信者にたいして心のなかで反対の気持ちを持っているなら、それがたとえどんなに小さなことであっても、イエス様のみ名によって祈ることができなくなってしまいます。私たちはもっとも弱く、もっともきらいな信者とも、ひとつにならなければなりません。羊の群れのなかには、毛がもじゃもじゃしてきたない反抗的な羊もいれば、とことことかってに好きなほうに走っていって道に迷ってしまう羊もいます。おなじように信者のなかにも変わったひとがいます。けれどもまさにそのようなひとたちこそ、とくべつに配慮されなければなりません。

私たちはかしらであるイエス様により頼んでいるだけではなく、からだのほかの部分である信者にもより頼んでいるのです。ですからただかしらに服従するだけではなく、おたがいに仕えあうこともたいせつです。

パウロは当時の信者にあてた手紙のなかでつぎのように書きおくっています。

キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。(エペソ5・21)

このみことばのなかの「互いに」ということばは、とてもたいせつです。

あなたがたは、このような人たちに、また、ともに働き、労しているすべての人たちに服従しなさい。(1コリント16・16)

妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。(コロサイ3・18)

同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。(1ペテロ5・5)

「神は敵対する」と書かれています。「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられる」。まことにきびしいことばです。けれどもここにはすばらしい約束が含まれているのです。

イエス様のみ名による祈りは、すべての信者のための祈りです。そして、自分が好きでないひとのために祈るひとこそ、主の奇蹟を経験するのです。

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。(1ヨハネ4・19~21)

5.十字架につけられること

イエス様のみ名による祈りはまた、「十字架につけられた」ひとびとによって祈られます。聖書のなかには何回も「古い人を脱ぐ」とか「新しい人を着る」という表現がでてきます。私たちは「古い人を脱いで」「新しい人を着る」ように要求されているのです。

互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。(コロサイ3.9~11)

その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。(エペソ4・22~24)

イエス様のみ名によって祈る者は、イエス様がなさったとおなじようなたいどで祈るのです。

イエス様は、ただたんに私たちの罪の負いめをぬぐいさるためにだけ十字架の死におもむかれたわけではありません。十字架のみわざは、「古い人」にたいする神の容赦ないさばきでもありました。私たちのなかからでてくるものはなんであれ、すべて役にたたないのです。すべてが死にわたされることこそ、正当なのです。

パウロはつぎのように書きしるしています。

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。(ガラテヤ5・24)

イエス様のみ名によって祈りたいと思う者は、もはや自分のことをたいせつにはしません。また自分の名誉や地位などを求めなくなります。聖書のなかにでてくる「肉」ということばは、「人間からでてくるすべてのもの」、「自分かってなわがまま」や「自分自身の力からでてくるもの」などを意味しています。パウロはピリピ入への手紙のなかで、そのことをあきらかにしています。

神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。(ピリピ3・3)

自分の国籍、自分の社会的地位、宗教的な背景、教養、自分の目的、自分の義。パウロはいぜんはこういったすべてのものをたいせつにしていました。こういうすべてのもの、つまり「肉」的なものにより頼み、それを誇りにしていたのです。けれどもイエス様と出会ってからは、かれは意識的に「肉」により頼むことをしなくなりました。「肉」にではなく主により頼みたいと願うようになったのです。いま読んだみことばのつづきを見るとそのことがよくわかります。

ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。(ピリピ3・4~8)

主にであったあとは、パウロはこのように証しするようになったのです。

自分自身を否定することは、非常にたいせつです。

つぎのみことばはキリスト者にとって、もっともたいせつなところです。まえにもなんどか見ましたけれども、もういちど見てみましょう。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラテヤ2・20)

「私ではなく、キリスト」。これこそ、主のみ名によって祈ることができるようになるための秘訣です。

主のみ名による祈りは、「主とともに十字架につけられた」ひとびとによって祈られます。私たちの弱さも強さも、私たちの知恵も愚かさも、すべてはイエス様とともに十字架につけられました。つまり、もはやそれらのことのすべては、ぜんぜんたいせつではなくなったのです。私たちのただひとつの誉れはイエス様です。そしてイエス様だけが私たちのただひとつの誉れであるなら、たとえ私たちが苦しみに満ちた状態のなかにあっても、自分の無力さと弱さがあきらかになるのではなく、イエス様のいのちが現われるのです。

6.聖霊に満たされること

イエスのみ名によって祈ることは、「聖霊に満たされて祈ること」です。

ヨハネの福音書の十四章から十六章のなかで、イエス様はのちに起こることについて、はっきりと語ってくださいました。そのなかでイエス様は聞きとどけられる祈りについて話されました。

イエス様がおっしゃったのはつぎの三つのことです。


  • わたしはあなたがたとわかれて、父のみもとに行きます。
  • それからわたしはあなたがたのうえに、父の聖霊をそそぎます。
  • 聖霊はあなたがたを、聞きとどけられる祈りの生活に導きます。


イエス様にとっては、「信者が聖霊によってもちいられるようになる」こと、また「聖霊のはたらきによってすべての信者のうちにイエス様のいのちが現われる」ことこそがたいせつでした。

聖書によるとイエス様は、まずはじめに三年半のあいだ弟子たちとともにいてくださいました。そして五殉節いらい、弟子たちとともにいてくださるだけでなく、聖霊をとおしてかれらのうちに生きてくださるようになったのです。弟子たちはひとりひとりが聖霊をとおしてイエス様のからだである教会の一部となり、ぜんたいがひとつになってキリストを形成しました。

ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。(1コリント12・12)

このことをとおして、私たちは「イエスのみ名によって祈る」という権利を与えられているのです。つぎの聖句をもういちど見てみましょう。

「その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。」
「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」(ヨハネ16・26、24)

ただ聖霊だけが、私たちがみ心にかなった祈りをすることを可能にしてくださいます。「私たちが主のみ名によって祈るために、聖霊が与えられた」と、聖書にはっきりと書きしるされているとおりです。

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。(ローマ8・26、27)

イエスのみ名によって祈ることは、聖霊に満たされて祈ることです。そして聖霊に満たされるということは、聖霊によって導かれることであり、聖霊によって支配されることです。それはつまり、主のみ手に支配権をおわたしすること、主のみ心に服従すること、自分の意志を砕いていただくことを意味しています。

7.絶えず祈ること

イエスのみ名によって祈ることはまた、「絶えず祈りつづけること」です。

イエスのみ名による祈りとは、ただたんに祈るというひとつの行為だけを意味しているのではありません。それどころか、イエスのみ名によって祈るということは、「私たちの全生涯がイエス様のみ名によって生かされる」ということにほかならないのです。

私たちはイエス様の代理人として、この地上で生活しなければなりません。すべてのことがイエス様のみ名によってなされなければなりません。

パウロはコロサイにいるクリスチャンたちにつぎのように書きおくっています。

あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。(コロサイ3・17)

私たちはなにをするときでも、いつもつぎのことをしっかりと頭にいれて行なうべきです。

「私はイエス様のからだである教会の一部です。
私は自分かってに行動することができません。
私は自分のしたいことをすることができず、
私が正しいと思うことをすることもできません。
私はただ、かしらであるイエス様の思いどおりに動きたいと思います」。

私たちが考えること、話すこと、行動することなどは、はたしてイエス様に結びついていることの現われになっているでしょうか。

むすび

イエス様のみ名によって祈ることは、なにを意味しているのでしょうか。いままで見てきたことをここにまとめてみましょう。

すべてのことについて、私たちは主とひとつであるべきです。私たちはかしらである主のからだの一部分です。

すべてのことについて、主の支配があきらかになるべきです。

すべてのことについて、私たちは主によって支配すべきであり、勝利者となるべきです。

すべてのことについて、私たちはすべての信者のことを考えるべきです。

すべてのことについて、十字架が私たちのうちに働くべきであり、私たちは自我に死ぬべきです。

すべてのことについて、聖霊のはたらきによって主のこ栄光だけが現わされるべきです。

すべてのことについて、私たちは絶えず祈るべきです。

このようにまとめてならべてみると、「私にはとてもできない」と思うかたがあるかもしれません。あきらめてしまうかたがいるかもしれません。けれども、「私たちがどのような者であり、私たちになにができるか」はたいせつではありません。「イエス様はどういうおかたであり、イエス様はなにがおできになるか」がたいせつなのです。もういちどつぎのみことばを思いだしてください。

「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ15.7)

これこそが祈りの秘訣なのです。「イエス様により頼むこと」、そして「イエス様に結びついていること」です。イエス様により頼む者にとっては、イエス様こそがすべてのすべてです。

あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。(1コリント1・30)

そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。(コロサイ2・10)

キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。(ヘブル10・14)

イエス様は私たちのかしらであり、私たちに服従するための力を与えてくださいます。

イエス様は私たちの王であり、私たちに支配するための力を与えてくださいます。

イエス様は十字架につけられたおかたです。そしてイエス様は、イエス様とともに十字架につけられた私たちもまた、イエス様の復活の力を知るように望んでおられます。

イエス様は私たちを聖霊で満たしてくださいます。だから私たちは満たされています。

イエス様は父を完全に満足させておられます。だから私たちも主に喜ばれる者となるのです。

たいせつなのは主イエス様のうちにとどまることです。私たちが主イエス様と結びついているならば、聖霊が私たちを満たしてくださいます。そうすれば、私たちは「イエスのみ名によって祈る」ことができるのです。

私たち人間には、自分の力で「イエスのみ名によって祈る」ことは決してできません。けれども私たちにはできないことを、聖霊が可能にしてくださいます。ほんとうに私たちが主のみことばに従い、そして主との交わりを求めるとき、聖霊が働いてくださるのです。

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