2017年12月5日火曜日

絶えず祈れ[4]真剣な祈り

絶えず祈れ[4]
真剣な祈り

祈りとはいったいなんでしょうか。祈りとは、私たちと生けるまことの神との「結びつきのあらわれ」です。祈りのなかで、私たちは主の愛と恵みを心から感謝します。祈りのなかで、私たちは幼子のようにすなおに自分の願いを主にうちあけます。したがって「祈りとは、たましいの呼吸である」ということができます。

呼吸ができないと、ひとは死にます。おなじように、キリスト者でありながら祈らないなら、つまりたましいの呼吸をしないなら、そのひとはかならずまちがった状態におちいります。

前章において学んだとおり、祈りによって、宇宙を支配しておられるおかたのみ手が動かされます。祈りによって、私たちには驚くべき主の力が提供されるのです。「主なる神は私の祈りを聞きとどけてくださる」。この幼子のような信頼が私たちの特徴となるべきです。

主の恵みによって自分のほんとうの状態に目が開かれ、自分のわがままや罪を認め、救われたいと願う者は、だれもが「祈りの力」を体験します。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」というすすめに応じてイエス様のみもとにくる者は、イエス様が罪の赦し、心の平安、そしてほんとうの喜びを与えてくださることを体験します。


まえの章では、「主イエスのみ名によって祈るとはどういうことか」を考えました。「主イエス様のみ名によって祈る」ということは、「ひとは自分のてがらや功績によってではなく、ただイエス様がご自身の死をとおしてなしとげてくださった救いのみわざによってのみ、主なる神のみもとに行くことができる」ということです。

私たちにとってなによりたいせつなのは、信じて疑わず、イエス様に大きなことを期待する、というたいどです。

聖霊のはたらきによる祈りはすべて聞きとどけられます。つまり、自分の利益のためではなく、ただイエス様の栄光のためだけを願い求める祈りは、すべて聞かれるのです。いっぽう、み心にかなっていない祈りは、たとえ聞かれることがあったとしても、それはけっきょくそのひとの益にはならず、むしろ害になります。不純な動機で祈ったり、許したくないという気持ちで祈ったりするひと、また深く考えないで軽率に祈るひとは、なにも得ることができません。

1.真剣な祈りの必要性

それでは「絶えず祈れ」ということについて、「真剣な祈りの必要性」という観点からごいっしょに考えてみましょう。「真剣な祈りの必要性」は、言いかえると「祈りにおける戦い」です。「真剣な祈り」とは、祈りの時間的な長さが問題なのではありません。たいせつなのは祈りの長さではなく、私たちが、祈っていることをほんとうにそのとおりだと確信しているかどうかということなのです。

ジョン・ハイドは、インドにおいてもちいられ、大いに主に祝福された宣教師でした。かれはなによりも祈りを第一にしたひとでした。かれにとっては祈りこそが信頼できるなによりもたいせつなものだったのです。祈りを第一にしたその結果、かれは祈りの答えとして、多くの奇蹟を
体験することができました。

ジョン・ハイドのように真剣に祈るひとは、あまりいません。それどころか多くの信者は、「ほんとうに私たちもジョン・ハイドとおなじように祈らなければいけないのだろうか」と考えることでしょう。この疑問にたいして私たちは、まずつぎのことを知る必要があります。寝食を忘れて長いあいだ熱心に祈りつづけるひとは、自分でそのように決心してやっているのではないのです。自分の思いではなく、聖霊がそのようにさせたからこそ祈っているのです。つまりそのひとは、聖霊がそのように導かれたために、熱心に祈りつづけないではいられなかったのです。

私たちは主のためになにをなすべきでしょうか。どうしたら未信者が救われるでしょうか。私たちはどれほど長い時間祈りつづけるべきでしょうか。こういったことはたしかにたいせつな問題ではあります。しかしなによりもたいせつなことは、私たちが主のみ心を知ることです。主のみ心のまんなかにあることこそが、いちばんたいせつなのです。主に仕えたい、主のためになにかをしたいという願いはたいせつです。しかしそれよりもっとたいせつなのは、「主なる神のみ心だけが私たちを動かしている」という状態です。もし、まいにち千人ものひとが私たちをとおして救われることがあれば、それはたいへんなことでしょう。しかしそれよりもっとたいせつなのは、私たちをとおして神のみ心だけが実現されることです。「主よ。あなたはなにを望んでおられるのでしょうか。私がなすべきことはなんでしょうか。どうか私を導いてください」。これこそなによりもたいせつなことなのです。そのことを正しく知るなら、私たちは祈りはじめ、主が私たちに語りかけてくださり、そして主のみ心が私たちをとおして実現されるのです。

2.真剣な祈りへのまねき

「絶えず祈れ」と、主は私たちに呼びかけておられます。主がこのように言われるのは、私たちに重荷を負わせようとしたり、私たちを束縛しようと思っておられるからではありません。私たちが喜びに満たされ、神の力に満たされることを望んでおられるから、主は呼びかけておられるのです。主は私たちが祈りをとおしてあわれみを受け、恵みをいただき、おりにかなった助けを受けることを望んでおられるのです。

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4・16)

祈りについて語られると、たいていのキリスト者は良心のやましさを覚えます。だれもが「私はもっと祈らなければ:::」という思いをいだくにちがいありません。たしかにそのとおりでしょう。しかし、もし私たちが良心のやましさを感じた結果、恐れをいだくようになり、天にいらっしゃる私たちの父である主のみもとに行かなくなってしまうならば、それこそたいへん悲しいことです。親はひとりのこらず、愛するわが子の幸せを考えます。もし子どもがなにかのハンディを負っていれば、親はたいそう心をいためます。そしてその子の幸せのためなら、すべてを犠牲にするでしょう。これこそ愛にほかなりません。人間の親でさえそうなのです。ましてや天にいらっしゃる父である主は、どれほど私たちのことを考えていてくださり、私たちのほんとうの幸せを願っておられることでしょうか。

私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。(ローマ8・32)

現代は「忙しすぎる」時代です。しかし、たとえひまな時間があったとしても、私たちはきっと祈らないで、べつのことをしてしまうでしょう。

人間は、なにをどのように祈ったらよいのか自分ではわかりません。だからこそ「祈りの助け手」として、聖霊があらゆる時代のあらゆる信者に与えられているのです。

そこでつぎのことをよく考えてみましょう。

私たちはいろいろなひとびととかかわりを持っています。むかしからの知りあいもおおぜいいることでしょう。そして、これらのひとびとと知りあったことも、決して偶然ではありません。すべてが聖霊の導きによるのです。ですから私たちは、キリスト者として、そのようなひとたちが救われることにたいして責任があるのです。なによりもまず、そのひとたちに福音が宣べ伝えられなければなりません。

サムエルという預言者はつぎのように告白しました。

私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。(1サムエル12・23)

このみことばによると、私たちにかかわりのあるひとびとの永遠の救いについて真剣に心配しないのは、主にたいして罪を犯すことであり、主のはたらきをさまたげることにほかなりません。

またいっぽうでは、仕事に追われ、心身ともに疲れはててしまい、主に申しわけないと感じているキリスト者もいます。しかし、主なる神は私たちの父なのです。黙示録のなかで、主はくりかえしくりかえし言っておられます。「私は知っている」「私は知っている」と。主は肉体的な状態や仕事はもちろん、私たちのすべてをこぞんじなのです。ですから、重荷となっていること、自分を圧迫していること、なんでもすべてを主にうちあけようではありませんか。

3.祈りによる勝利の生活

ここでちょっとパウロのことを考えてみましょう。パウロは主のみ心にかなう祈りびとでした。かれは、ひとりで祈ろうとしてもひとりでは祈ることができないような状態におかれていました。というのは、パウロはしばしば牢獄に入れられていて、昼も夜もひとりのローマ兵に監視されていたからです。このようにパウロは、ひとりになることもできない苦しい状態にありました。しかしそれにもかかわらず、かれはその牢獄のなかでも、各地の教会にあててすばらしい手紙を書きつづけました。それらの手紙には、パウロの祈りも書きこまれています。そしてそれは、ただ手紙のなかのことだけではなく、パウロが実際に祈っていた祈りにほかならないのです。

主は決して私たちにむりな要求をなさいません。主は私たちが眠りや栄養を無視して、からだをこわすようなことをするのを望んではおられません。とはいうものの、キリスト者のなかには朝はやく起きて長い時間聖書を読んで祈るひとがいます。そしてそのようなひとのなかには、主が驚くほど豊かな力を与え、はげましてくださることを体験したひともすくなくありません。

ドイツで豊かにもちいられたあるキリスト者は、よくつぎのように言っていました。「朝、神のみことばと祈りなしにはじめた一日は、完全な敗北の一日である」と。

勝利の生活の条件は、朝はやく起きることです。主よりも自分を愛する者は朝寝坊です。自分よりも主を愛する者は早起きです。主に祝福され、もちいられるキリスト者は朝はやく起きます。夜はやく休むからこそはやく起きられるのです。私たちのからだは聖霊の宮です。だから朝はやく起きることにたいしても、またからだが十分な睡眠と栄養をとることにたいしても、私たちには責任があるのです。

4.祈りながら働く

いつでも祈るべきであり、失望してはならない。(ルカ18・1)

「絶えず祈れ」と聖書は言っています。しかしこれは、いつもひざまずいて祈ってばかりいなさいという意味ではありません。私たちは与えられた仕事を良心的にしなければなりません。「祈らなければならないから、仕事をおろそかにする」というひとは、まちがった祈りをします。そして正しく祈る者は、よりよく、よりたくさん働きます。

勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。(ローマ12・11)

また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。(1テサロニケ4・11、12)

私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました。(1テサロニケ3・10)

パウロはこのようにはっきりと書いています。

与えられた仕事は、主のまえに、また主のために身を入れてしなければなりません。与えられた仕事は、自分の責任を自覚し、祈りのたいどをもってしなければなりません。つまり私たちは「主よ。私は自分自身により頼むことはできません。私はあなたを信頼します。どうか私に必要な知恵、力、喜び、そして平安を与えてください」と祈りながら、与えられた仕事をするべきです。そして、祈るとき、つぎのことをたいせつにしましょう。すべてをこぞんじである主は、私たちのすぐそばにおられます。

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4・4~7)

ここには「主は近いのです」と書かれています。主は近い。主は私のそばにおられる。この聖句は、主の再臨が近いという意味だけでなく、きょうも、いまも、主は私たちの近く、つまり「ここにおられる」という意味でもあります。主は弟子たちに「わたしはいつもあなたがたとともにいる」と約束されたのです。

またこの聖句から、つぎのようなことがわかります。それは、私たちは心配するか、祈るかのどちらかだということです。祈りとは、すべての心配を主にゆだねることです。だから私たちは、祈ることにより主の平安に満たされるか、それとも心配のあまり疲れはて、羊飼いのいないばらばらの迷った羊のような状態になるかのどちらかなのです。

5.祈りの土台

ここでもういちど「祈りとはなにか」を考えてみましょう。

祈りとは、イエス様のみもとに行くことであり、イエス様に私たちの願いを申しあげることです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11・28)というイエス様の呼びかけは、祈りへのまねきです。子どもが母親にしがみついて自分の願いをうちあけるのとおなじように、私たちはイエス様のみもとに行き、すべてを主にうちあけることがゆるされています。

私たちは、祈るとき、自分のほしいものがなんであるかをはっきりとイエス様に申しあげなければなりません。つまり私たちの祈りは、はっきりとしたものでなければならないのです。というのは、いろいろな悩みや苦しみ、困難に追われ、私たちがイエス様を見あげるまなざしがぼやけてしまうことこそ、悪魔が望んでいることだからです。

約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。(ヘブル10・23)

「約束された方は真実な方です」とあります。愛するみなさん。このことばをこそ、私たちは、どんなことがあっても確信しとおさなければなりません。なぜなら、これこそ私たちの祈りの土台だからです。

私たちのイエス様は、くりかえしくりかえし、「わたしである」「わたしである」「わたしである」と言われました。聖書にはつぎのような箇所がくりかえしでてきます。
「わたしは道そのものである」。
「わたしは真理そのものである」。
「わたしはいのちそのものである」。
「わたしはいのちのパンそのものである」。
「わたしはいのちの水そのものである」。
「わたしは天国に行く道の門そのものである」。
「わたしはよみがえりそのものである」。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14・6)

「わたしがいのちのパンです。」(ヨハネ6・35)

「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4・14)

「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。」(ヨハネ10・9)

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11・25)

主はこれらのことばをとおして、ご自身を現わされたのです。

祈りのなかで、私たちは「主よ。あなたこそすべてにまさる主です」と告白するべきです。

すべてがうまくいかず、八方ふさがりで、のがれ道さえも見えなくなったときには、あなたの願いを主に申しあげるだけではなく、「主よ。あなたこそすべてにまさる主、王の王、主の主です」と告白しましょう。

主イエス様の名は、すべての名にまさる名です。すべての力は主イエス様に与えられています。そして、まず、これらの事実が祈りのなかで言いあらわされなければなりません。そうしてはじめて、私たちは、自分の問題や悩みを心から言いあらわすことができるのです。

「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」(マタイ6・8)

イエス様は、私たちがなにごとかを願うよりもさきに知っておられます。それでもやはり、祈りは必要です。しかし、それはイエス様になにかを教えてさしあげるためではありません。なぜならイエス様は、すべてのことをとっくにごぞんじだからです。ですから私たちの祈りは、まず私たちがイエス様と結びついていることをあらわす告白であるべきです。そして祈りは、イエス様が偉大なおかたであり、すべての権威をもっておられることを確信している告白であり、私たちの信頼の証しでもあるべきです。

6.イエス様の祈りから学ぶ

イエス様は、ご自分の地上でのご生涯をとおして、真剣な祈りの必要性を私たちに示してくださいました。

このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。(ルカ6・12)

さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。(マルコ1・35)

私たちの主、イエス様は完全なおかたでした。しかしそれにもかかわらず、イエス様は多くの時間を祈るために使われました。忙しすぎることは祈る時間がない理由にはなりません。イエス様は一日中、おおぜいのひとの相手をなさいました。ですから自分のことを考えておられる時間などなかったのです。いつも多くのひとびとがでいりしていたので、休む時間もないありさまでした。

群衆を帰したあとで、(イエスは)祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。(マタイ14・23)

イエス様に助けていただきたいひとびとはたくさんいましたから、そのひとびとのためにしなければいけないことはいっぱいありました。しかしイエス様にとっていちばんたいせつなことは祈りでした。

しかし、イエスのうわさは、ますます広まり、多くの人の群れが、話を聞きに、また、病気を直してもらいに集まって来た。しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。(ルカ5・15、16)

なぜイエス様は、集まってくるひとびとをよそに、荒野で祈っておられたのでしょうか。

祈りこそ、すべてにまさってたいせつなことだからです。そしていちばんたいせつなことのために、まず時間が使われなければならないのです。

祈る者は、なにも失わないのです。祈る時間がないと考えているひとびとは、まちがっています。私たちの主、イエス様は、忙しければ忙しいほどますます祈られたのでした。

そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。(マルコ6・31)

イエス様はいそがしくて、食事をする時間もないほどでした。しかしイエス様は祈りのためにはなにをおいても時間をおつくりになり、それもしばしば長い時間祈られました。私たちがもし「真剣な祈りがなくてもなんとかやっていける」と考えているようなら、イエス様は私たちをおもちいになることができません。

7.主のお約束を信じて祈りつづける

祈ることをとおして、私たちは主ご自身に近づくのです。私たちは主ご自身が私たちに与えてくださった約束によって、主に近づくのです。「主よ。あなたが約束してくださったことに感謝いたします。あなたはかならず約束を守ってくださるから感謝いたします」。これこそが私たちが祈るときの心がまえでなければなりません。

小切手を持って銀行に行くとき、私たちはとうぜんそれとひきかえにお金がもらえるものと期待します。それとおなじように、私たちは期待をもって祈らなければなりません。主はかならず答えてくださいます。「私は祈り願ったものを、かならずいただける」。この確信こそ、私たちの信仰生活の特徴となるべきです。

聖書にはまた、「祈りがさまたげられる可能性」についても書かれています。

それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。(1ペテロ3・7)

また聖書には、ひとびとの心にまかれたものを悪魔がきて奪っていくことも書かれています。

「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。」(マタイ13・19)

さらに、ダニエル書のなかには、悪魔のはたらきによって、ダニエルの祈りに三週間ものあいだ答えがなかったことがしるされています。

彼は私(ダニエル)に言った。「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。ペルシヤの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシヤの王たちのところに残しておき、・・・・」(ダニエル10・12、13)

悪魔は私たちの祈りをさまたげようと死にものぐるいになっています。なんとかして、私たちが本気になって主のお約束に頼りきることを妨害しようと一生懸命なのです。ですから、悪魔に妨害する機会を与えないためにも、私たちはくりかえしくりかえし、私たちの願いを主に申しあげ、真剣に祈ることがたいせつです。

8.祈りつづけることのたいせつさ

主が罪人の死を望んでおられないことは、聖書のなかにはっきりと書かれています。しかし、だからといって、私たちは自分の家族の救いのために、たったいちどだけ祈ればいいということにはなりません。祈りが聞きとどけられるまで、ずっと祈りつづけることがたいせつです。たとえばジョージ・ミュラーというひとは、ある友人の救いのために、六十年以上も祈りつづけました。また「祈りつづけることのたいせつさ」を、イエス様はふたつの例をとおしてはっきり示しておられます。

また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。」(ルカ11・5~8)

けっきょくこのひとは、友人からパンをもらうことができました。なぜでしょうか。ここには、「あくまで頼み続けるなら」、つまりあきらめないでなりふりかまわずくりかえしくりかえし頼みつづけるなら、「そのためには」、つまりその執拗な願いには、ついに「起き上がって、必要な物を与える」と、はっきりとしるされているのです。

もうひとつの例を見てみましょう。

いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。」(ルカ18・1~7)

このたとえのなかにでてくるやもめは、うるさいほどひっきりなしに頼みました。そしてその結果、彼女の願いどおりになりました。

またこのなかで主は、つぎのように言っておられます。「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか」。この「夜昼呼び求める」ということは、私たちに、いかに絶えず祈ること、真剣に祈ることがたいせつであるかを示しています。

これらふたつの例のほかにも、マタイの福音書の十五章には、カナン入の女が、あきらめないで最後まで願いつづけたようすがしるされています。イエス様は「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように」。と言われました。このことから、その女が最後まであきらめないで願い求めつづけたことを主が喜ばれたことがわかります。

ひとの祈りの真剣さは、あきらめずにくりかえしくりかえし祈りつづけることにあらわれます。私たちの主、イエス様もそのように真剣に祈られました。聖書からその箇所を見てみましょう。

イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。(マタイ26・44)

パウロもまた、自分の病気をとりさってほしいと真剣に三度も祈りました。

このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。(Ⅱコリント12・8)

私たちもまた、あきらめないで真剣に祈りつづけるべきです。しかし、祈りの答えとして、いつでも私たちの願いどおりになるとはかぎりません。主は、私たちの願いをそのときすぐにはかなえてくださらないかもしれません。私たちには、まだ賜物を受けとるそなえができていないかもしれません。また、主は、私たちが願うものよりももっと良いものを与えるために、私たちの願いを聞きとどけてくださらないこともあるのです。

9.私たちは祈りにおける戦いを知っているか

絶えず真剣に祈ることはなによりたいせつです。たとえばあなたの家族のだれかが、不当にも無実の罪で刑務所に入れられていて、いつ死刑になるかわからないとしたらどうでしょうか。そういうとき、あなたは「主よ。私のたいせつな家族を救ってください」とたった一回祈っただけですませるでしょうか。まさかそんなことはないでしょう。あなたはきっと、絶えず主に求めつづけるにちがいありません。

ペテロが牢獄に入れられたときも、ちょうどそういう状況だったのです。

こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。(使徒12・5)

「熱心に祈り続けていた」。この熱心な祈り、絶えざる祈りというのは、真剣な祈りという意味です。イエス様についてもつぎのように言われています。

イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。(ルカ22・44)

このみことばのなかで「切に祈られた」と言われているのは、やはり熱心に、真剣に祈られたという意味です。これこそ祈りの戦いです。私たちはこの祈りの戦いを知っているのでしょうか。

私たちの主、イエス様はそれを知っておられました。パウロも知っていました。自分のまわりのひとびとの救いをほんとうに心から考える者は、この戦いを知るでしょう。

モーセもこの戦い、つまり祈りの真剣さを知っていました。

今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものならー。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。(出エジプト32・32)

モーセはこのように真剣に祈りました。

パウロもまたこの戦い、つまり祈りにおける真剣さを知っていました。

私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。(ローマ9・2、3)

私たちの主、イエス様ご自身もまたエルサレムのことを思って泣かれました。

キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。(ヘブル5・7)

イエス様はこの地上におられたとき、「大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげてくださった」とあります。祈りにおけるこの懇願と戦い、失われたたましいの救いのため、またキリスト者の霊的成長のためになされる涙と戦いは、こんにちどうしても必要です。

10.祈りにおける格闘

どうして祈りにおける戦いが必要なのでしょうか。主が私たちの祈りにお答えになりたくないからではありません。そうではなくて、キリスト者の真剣な祈りが不可能を可能にするということを知って、悪魔が攻撃をしかけてくるからです。

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6・12)

ここでは戦いは「格闘」と書かれています。愛するみなさん。この悪霊にたいする格闘は、まず第一に、祈りの格闘なのです。

私たちが、失われたたましいにたいして無関心でいるとき、それは悪魔のわなにおちいりやすい、いちばん危険な状態です。私たちにとって、自分の家族のなかにまだ救われていないひとがいるということが最大の悩みとなっていないなら、そのひとはたとえ救われているとしても、主とのほんとうのつながりを持っていないのです。なぜなら、主はひとつのたましいすら失われることがないようにと望んでおられるからです。

ほんとうにこのことを、深く心に刻んでいただきたいと思います。祈りの格闘なしには、失われたたましいをイエス様の救いのうちに入れることはできません。祈りの格闘なしには、キリスト者は決して霊的に成長しません。

パウロはつぎのように告白しています。

あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。(ガラテヤ4・19)

このなかでパウロは「再び」ということばを使っています。なぜでしょうか。パウロはまず最初に、失われたたましいが新しく生まれかわるために祈りの戦いをしました。そしてさらに、このときには、救われたたましいが霊的に成長するために、「再び」祈りの戦いをしているのです。

また、主にもちいられたネヘミヤというひとについて、聖書はつぎのように語っています。

私(ネヘミヤ)はこのことばを聞いたとき、すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈った。(ネヘミヤ1・4)

このことから、ネヘミヤもまた祈りの戦いの必要性を十分に知っていたこと、また実行したことがわかります。

パウロは「私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。」(ローマ15・30)と言っています。日本語で「力を尽くして」と訳されているところは、原語では「格闘」という表現が使われています。

あなたがたとラオデキヤの人たちと、そのほか直接私の顔を見たことのない人たちのためにも、私がどんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。(コロサイ2・1)

このように、パウロは各地の教会にあてて書いた手紙のなかで、これらの信者のためのかれの祈りを「苦闘」であると言っています。パウロの同労者であるエパフラスも、祈りの戦いにはげむひとでした。

あなたがたの仲間のひとり、キリスト・イエスのしもベエパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼はいつも、あなたがたが完全な人となり、また神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるよう、あなたがたのために祈りに励んでいます。(コロサイ4・12)

このみことばのなかの「祈りに励んでいます」という部分は原語では「祈りのなかで格闘しています」というふうに書かれています。

みなさんが霊的に成長するためには、このように祈りのなかで格闘するかたが必要なのです。私たちのなかのいったいだれが、この「祈りにおける格闘」のために自分をささげる用意があるのでしょうか。

エパフラスは祈りのなかで格闘しました。おなじことばは私たちの主についても、もちいられています。

イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。(ルカ22・44)

これはつまり祈りのなかで戦った、格闘されたということですね。祈りとはキリスト者の習慣でもなければ一種の義務遂行でもなく、戦いであり、格闘なのです。

11.まことの祈りびとが求められている

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。(エペソ6・18)

祈りが聞きとどけられるまで祈りつづけるということは、祈りが戦いであることを意味しています。私たちのまわりには、山のような困難が、また多くの解決できない問題があります。だからこそ私たちは、主のまえに立ちつづけ、祈りつづける必要があるのです。

私たちはみな、祈りがいかに必要であるかをよく知っています。私たちはみな、私たちの主が祈りを聞きとどけてくださると確信しています。しかし実際には、ほんのすこししか祈りが聞きとどけられたという経験をしていないかたがたもまた多いのです。それはいったいなぜでしょうか。その理由は、祈りが戦いであることをよく知らないからなのです。

祈りとは戦いです。第一に、目に見えない世界や悪霊にたいする戦いです。第二に、目に見える世界、つまり自分の楽な生活にたいする戦いです。自分が楽をしたいという気持ちにたいして戦いを宣言し、自分かってでわがままな気持ちを捨てようとしてはじめて、キリスト者は霊的に成長することができるのです。

アブラハムは神のみ心にかなった祈りびとでした。かれはソドムという町のために神に懇願しました。かれは七回も、くりかえし自分の願いを主のまえに申しあげたのです。かれは主のまえに立ちつづけました。このアブラハムの断固として変わらないたいど、べつの言葉で言えば熱心な執拗さを主は喜ばれたのです。そしてその結果アブラハムの甥のロトも救いに導かれました。

アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」主は答えられた。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」アブラハムは答えて言った。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。もしや五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町の全部を滅ぼされるでしょうか。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが四十五人を見つけたら。」そこで、再び尋ねて申し上げた。「もしやそこに四十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その四十人のために。」また彼は言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせてください。もしやそこに三十人見つかるかもしれません。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが三十入を見つけたら。」彼は言った。「私があえて、主に申し上げるのをお許しください。もしやそこに二十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その二十人のために。」彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」(創世記18・23~32)

現代、私たちが生きている世界は、聖書にあるソドムそのものです。この世は恐ろしいさばきの日まで、しばらくたもたれているにすぎません。ですからこの世には、ヤコブがしたように「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」(創世記32・26)と懇願し、祈るひとびとがなにより必要なのです。「私の家族、友だち、知りあいのひとを救ってくださらなければ、私はあなたを去らせません」と懇願するひとびとが必要なのです。

エリヤという預言者は、主が雨を降らせてくださるということを知っていました。しかしかれは、そのためにくりかえし祈らなければなりませんでした。最初に祈ったとき、かれはつぎのような答えを聞かされました。「なんにも見えません」。しかしエリヤはあきらめませんでした。かれは召使に「もういちど行きなさい」と言いました。それだけではなく、七回もおなじことをくりかえしました。すると雨が降りはじめたのです。

つぎのみことばを見ると、エリヤも、私たちとおなじようなひとであったことがわかります。

エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。(ヤコブ5・17、18)

「エリヤは、私たちと同じような人でしたが:::」、つまり、かれもなにをどのように祈ったらよいかわからなかったのです。しかしかれは聖霊の導きに従う用意がありました。その結果、かれは真剣に祈ったのです。エリヤは真剣に祈ることがいかにたいせつかをよく知っていただけではなく、実際にそうしたので、あふれるばかりの恵みの雨を降らせていただいたのです。

このあふれるばかりの恵みを体験するために、ヤコブは私たちに「おたがいに祈りあいなさい」とすすめているのです。

エリヤの主は私たちの主です。この主は、きょうも、あふれるばかりに豊かな恵みをふりそそぎたいと望んでおられます。しかしエリヤのように、祈りが聞きとどけられるまで祈りつづけるひとはどこにいるのでしょうか。主は、私たちが主に多くのことを期待し、大いなることを求めることを望んでおられるのです。

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