2017年12月3日日曜日

絶えず祈れ[2]まことの祈り

絶えず祈れ[2]
まことの祈り

「祈り」は、私たちが主のため、またひとびとのためにすることができるもっとも大きなことです。祈りをとおして、主のためにご奉仕をするよりもはるかに大きなことがなされます。私たちが祈るとき、全能なる主は奇蹟を行なうことがおできになり、永遠に残る実を結ぶことがおできになるのです。

私たちは、ただ救われるためだけに救われたのではありません。私たちをとおして、ほかのひとびともまたイエス様のみもとに導かれなければなりません。あなた自身をとおして、さらに福音が宣べ伝えられなければなりません。福音が宣べ伝えられることは、主の大きな目的なのです。

では、福音が宣べ伝えられ、多くのひとびとが主のみもとに導かれ、まことの実を結ぶためには、私たちはどうしたらいいのでしょうか。その答えは、一にも二にも祈ることであり、まことの祈りの生活をおくることです。この章では、「絶えず祈れ」というテーマをさらに一歩すすめて、より深く、つぎのふたつのことについて考えてみましょう。


「しるし」を求めて祈ることはゆるされているか。

「まことの祈り」とはなにか。

多くのひとびとは、「祈りははたして聞かれるのでしょうか」とたずねます。また口にこそださないけれど、「祈りには意味があるのだろうか」とひそかに考えているひとびともいます。しかし、このように祈りにたいして懐疑的な考えを持っているかたがたでも、ひとたびほんとうの苦しみや危機に直面したときには、ためらうことなく神に助けを呼び求めます。このようなひとびとも、心の底では神が存在していることを知っており、神が私たちを助けてくださるかたであり神には奇蹟を行なう力があることをよく知っているのです。


「しるし」を求めて祈ることはゆるされているか

1.私たちは祈りによってためされる

あるキリスト者は、「私たちはしるしを求めて祈ったり、神様をためしてみることがゆるされているのでしょうか」とたずねます。そこでまず「神様をためしてみることがゆるされているか」という問いについて考えてみましょう。聖書はこの間いに肯定の返事を与えています。しかし実際には「私たちが神をためす」のではなく、「私たちが神にためされる」というほうが正しいのです。それはどういう意味かというと、私たちが祈っても主が答えてくださらないとき、それは主の責任ではなく、私たちの責任だということなのです。私たちが祈り求める動機が不純だから、または私たちが光のうちを歩んでいないから、主は答えてくださらないのです。ここでよく注意しなければならないのは、私たちの生活のなかに罪や不信仰や不従順があるばあい、すべての祈りがなんの価値も持たず、どんなに祈ってもむなしい結果に終わってしまうということです。ですから、私たちは祈りによって、神をためすというより自分自身がためされるのです。私たちの祈りをとおして、あとに残る実がなにひとつもたらされないときは、神にたいする私たちの関係が正しい状態ではないのです。

私たちは、祈りをとおして主と私たちとの関係が正しい状態かどうかを知ることができます。私たちが主に願い求めているものを主が与えてくださるときは、私たちがただ主のこ栄光のみが現わされるようにと願い、自分自身のことをなにひとつ求めていないときです。そして私たちが祈ってもかなえられないとき、私たちはダビデのように、主につぎのように願い求めるべきではないでしょうか。

神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇119・23、24)

主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。(詩篇26・2)

それではつぎに、「しるしのために祈ること」はゆるされるのでしょうか。聖書によると、これもまたゆるされています。私たちは聖書のなかにいくつかの実例を見ることができます。たとえばギデオンのばあいも、そのよい例です。

ギデオンは神に申し上げた。「もしあなたが仰せられたように、私の手でイスラエルを救おうとされるなら、今、私は打ち場に刈り取った一頭分の羊の毛を置きます。もしその羊の毛の上にだけ露が降りていて、土全体がかわいていたら、あなたがおことばのとおりに私の手でイスラエルを救われることが、私にわかります。」すると、そのようになった。デオンが翌日、朝早く、その羊の毛を押しつけて、その羊の毛から露を絞ると、鉢いっぱいになるほど水が出た。ギデオンは神に言った。「私に向かって御怒りを燃やさないでください。私にもう一回言わせてください。どうぞ、この羊の毛でもう一回だけ試みさせてください。今度はこの羊の毛だけがかわいていて、土全体には露が降りるようにしてください。」それで、神はその夜、そのようにされた。すなわち、その羊の毛の上だけがかわいていて、土全体には露が降りていた。(士師6・36~40)

ギデオンははっきりとした約束を与えられていました。それは「主はかならず助けてくださる」という約束であり、また「主はつねにギデオンとともにいてくださり、ギデオンをとおしてイスラエルを救われる」という約束でした。しかしギデオンにとってはこの約束だけでは十分ではなく、かれはさらにこのことについての証明、すなわち「しるし」がほしいと思いました。そして主は二回もギデオンのこの願いをかなえてくださったのです。

このように、ためらっているひとが全能なる神に願い求めたとき、全能なる神はギデオンの願ったとおりのことをしてくださいました。このときギデオンはきっと、「自分もこの羊の毛とおなじような者だ」と考えたことでしょう。なぜなら、このみことばのなかにでてくる「水でいっぱいになった羊の毛」は、神の霊でいっぱいに満たされている状態を意味しているからです。主なる神の霊が満ちるとき、なにひとつ不可能なことはなくなり、イスラエルは救われるのです。そしてギデオンはこの「神の霊に満たされる」ことを身をもって体験したのです。

主の霊がギデオンをおおったので・・・・。(士師6・34)

聖書のこの部分は、日本語の訳では「主の霊がギデオンをおおった」となっていますが、原語を見ると「主の霊がギデオンを着た」または「まとった」としるされています。ギデオンという人間を着られた「主の霊」こそが中心であり、人間はたんに主の霊に「着られた」にすぎないのです。このことから「たいせつなのはギデオンではなく、かれは器にすぎない」こと、そして「ギデオンという器のなかに住む主の聖霊こそがたいせつである」ことがわかります。

それではふたつめのしるし、「羊の毛はかわいていたのにそのまわりの土はぬれていた」ことはなにを意味するのでしょうか。ここで「かわいた羊の毛」は私たちの状態を、また「ぬれているまわりの土」は主のすばらしいみわざを現わしています。それはどういう意味かというと、たとえ私たちがまったくからっぽの状態で、なんの喜びも力も感じず、自分自身が無価値なものと思われるようなときでも、主は、私たちのまわりの滅びに向かっているおおぜいのひとびとが真剣に主を求める気持ちを持つように、またみことばによって生かされるようにすることがおできになり、そして主の民を解放することがおできになるということです。ただし、この「みことばによって生かされるようになること」は、未信者のあいだでではなく、眠っている信者のあいだでなされることなのです。

イスラエルは主の民であり、主の救いにあずかったものでした。信者の群れでした。しかしギデオンの時代にはかれらは自由ではなかったのです。かれらはなんの証しにもならず、神のこ栄光のために役立つ者ではありませんでした。というのは、当時イスラエルはとりこになっていて自由がなく、主のためにもちいられない者になっていたからです。それで主は、まずギデオンがみことばによって生かされるようにされ、ついでギデオンを解放されました。そしてギデオンをとおして、主の民ぜんたいも生かされる者となったのです。

私たちはときにはなんの喜びも感じなかったり、また聖霊の満たしをぜんぜん感じないことがあるかもしれません。しかしたいせつなのは私たちの感情ではありません。約束を与えてくださり、その約束をかならず成就してくださる主こそがたいせつなのです。主は決していつわりません。この主なる神の約束を信頼する者はほんとうにさいわいです。そのひとは奇蹟を体験します。

ところがギデオンは、主を百パーセント信頼しなかったので、ふたつのしるしを求めました。聖書のべつのところには、つぎのように書かれています。

ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。(ヤコブ1・6、7)

少しも疑わずに、信じて願いなさい・・・・。しかし主は、ギデオンが主を「ためす」ことをおゆるしになりました。またギデオンだけではなく、主はペテロにも、主をためすことをおゆるしになったのです。

夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。(マタイ14・25~29)

イエス様はこ自身を現わしてくださり、弟子たちみんなに「わたしである」と言われました。しかしペテロはイエス様のみことばを百パーセント信じることをせず、「もしあなたならば」と言ってしまったのです。その結果、ペテロは波のなかに沈んでいきました。

ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」(マタイ14・30、31)

「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」。イエス様はそう言われました。「薄い信仰」はすぐに疑いとなり、疑う者はイエス様からなにも得られないのです。

疑う人は、・・・・主から何かをいただけると思ってはなりません。(ヤコブ16、7)

けれどもイエス様は、ペテロに「なぜあなたは来たのか、舟のなかにとどまっていたほうがよかったのに」とはおっしゃいませんでした。むしろイエス様はペテロのしたことを喜ばれたのです。なぜならペテロはイエス様のみことばに従ったからです。イエス様は「なぜあなたは小舟からおりてきたのか」ともおっしゃらず、ただ「なぜあなたは疑ったのか」と言われたのです。

こんにち、しるしを願い求めることは、主にたいして完全に信頼していることをあらわす最上の証しにはなりません。なぜなら私たちは、主からたくさんの約束を与えられていて、主は決していつわらないと知っているからです。ですから私たちは、いま、目に見えるしるしを見なくても、主に信頼することができるはずです。まえの章で学んだマラキ書の聖句をもういちど思いだしてみてください。

「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」(マラキ3・10)

このみことばのなかに二回も「わたしをためしなさい」とあります。「わたしをためしなさい」。たしかにこれは主なる神のみ心です。しかしつきつめてみれば、主が答えてくださるまえに、まず私たち自身がためされることに気がつきます。

私たちは主に属するものを完全に主におわたししているのでしょうか。私たちの所有物、時間や力、そして子どもたちなど、すべてのものはただ主からゆだねられているにすぎません。これらすべてのものはほんとうは私たちのものではなく、すべて主のものなのです。主はこ自身のものであるそれらすべてをみ心のままに自由におできになるのでしょうか。そうであるならば、またそうであるときにだけ、あふれるばかりの祝福が約束されているのです。なんの祝福もないとしたら、主のせいではなく私たちのせいです。私たちが自分のことばかり考えたり、自分のためにいろいろなものをほしがることによって、主のみ手がしばられることになってしまうのです。

あなたはいつ主にはっきりとしたしるしを求めましたか。あなたはいつ非常にはっきりとしたものを主に呼び求めましたか。多くの信者はただばくぜんと祝福を求めるのですが、求めること自体がはっきりとしていないことが多いのです。多くの信者にとって、祈りはたんなるひとつの形式にすぎず、たくさんのひとびとの名まえが、ただ機械的にあげられるだけといったぐあいになってしまっています。はっきりとした具体的な目的、目標のもとに祈り求められていないなら、その祈りが聞きとどけられないことはなんら驚くにあたりません。


2.祈りが聞きとどけられていることを確信すべきです


ここにひとつの重要な質問があります。「あなたは祈ったあとで自分の祈りがすでに聞きとどけられたということを確信しているでしょうか?」。あなたが祈ったあと、たとえそれまでとおなじようになにも目に見える変化やしるしがあらわれなくても、たとえば夫の救いを祈ったあとで、あなたの夫がまえとおなじように主に逆らっているとしても、あなたは自分の祈りがすでに聞きとどけられたということを確信しているでしょうか。たいせつなのは、どんな状態であっても、祈ったあとで「私の祈りと願いは聞きとどけられている」と確信することです。

この確信があれば心から主に感謝することができます。私たちの主イエス様は絶えずこの確信を持っておられました。

イエス様は神であられたのに、人間の姿をとってこの地上に来てくださいました。そしてイエス様はこの地上での全生涯をとおして、絶えず聖霊により頼んだ生活をなさったのです。

あるときイエス様はラザロの墓のまえでつぎのように叫ばれました。

そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」(ヨハネ11・41、42)

このとき、イエス様はどうしてみんなのまえで、みんなに聞こえるように主に感謝なさったのでしょうか。その理由を、このみことばのなかでイエス様ご自身があきらかにしておられます。「この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるため」であると。

愛するみなさん。キリスト者としての私たちの最大の課題は、祈ることです。ユダの手紙には、

しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、(ユダ20)

としるされています。私たちには聖霊が与えられています。私たちは聖霊の宮です。そして聖霊は、なによりもまず、私たちが祈りの生活にはいるように、祈りの助け手として与えられているのです。イエス様がなさったように、私たちも聖霊によって祈りましょう。そのとき、まわりのひとびとは、私たちは主によって遣わされた者であり、私たちの祈りが聞かれていることに気がつくのです。

聖書のみことばにもとづいて、主のみ心がなんであるかを知るとき、私たちは大胆に祈ることができます。主が、「私の祈りは聞きとどけられている」という確信を与えてくださるまで祈りつづけるべきです。「私の祈りは聞きとどけられている」と確信したときから、もう、ああしてほしい、こうしてほしいと祈る必要はなくなります。そのときには、私たちは、まもなく奇蹟を体験することができると信じているので、ただ感謝し、喜ぶことができるのです。

主は私たちにつぎのような約束を与えてくださっています。

「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」(マルコ11・24)

これはつまり、「あなたの信じたとおりになる」ということです。私たちは、主によって遣わされた者として、祈りが聞かれていることを確信すべきです。イエス様がつぎのようにおっしゃっておられるのですから。

「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」(ヨハネ17・18)


3.確信の結果


私たちのまわりにいるひとびとは、いつ、主の呼びかけに目が覚めるのでしょうか。いつ、真剣にイエス様のことを考えるようになるのでしょうか。いつ、救われたいと思うようになるのでしょうか。

「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13・35)

注意して聖書のこの部分を読んでください。「もし・・・・なら」という条件がついています。「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら」、「それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認める」とはっきり約束されています。このことからよくわかるのですが、私たちがたがいに愛しあうこと、たがいに信頼しあうことは、決してどうでもよいことではありません。それどころか、私たちが愛しあい、信頼しあうことは、多くのひとびとがイエス様のみもとに来て救われるようになる秘訣です。

では、ひとはいつ、イエス様を真剣に求める気持ちになるのでしょうか。

私たちのまわりのひとびとが私たちをとおして、イエス様が祈りをほんとうに聞いてくださるという実例をその目で見るとき、そのひとびとはイエス様を心から信じます。ですから、私たちが祈るかどうか、そして私たちが、祈りが聞かれることを実際に体験するかどうかは、たいへんたいせつなことです。たくさんのひとびとが私たちの祈りをとおして救われるべきなのですから。イエス様もまた祈られました。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです」。

あるとき、有名な伝道者のジョージこミュラーは、近くせまった航海のために、特別な椅子を注文しました。かれは、「その椅子を持っていくことを、主は望んでおられる」と確信していたのです。やがて出航の日がきましたが、椅子はまだ届きませんでした。船が出る時間がどんどん近づいても、まだ椅子は届きません。それでひとびとはかれに、いそいでべつの椅子を買うようにと忠告しました。しかしジョージ・ミュラーは「椅子がくることを私は確信しています」と答えました。出航がいよいよせまって、乗客全員はとっくに船に乗りこんでいました。そのとき、とつぜん一台の車が疾走してきました。椅子を届けにきたのです。みんなは口々に「これは奇蹟だ」と語りあいました。しかしジョージ・ミュラーにとっては椅子がまにあうことはあたりまえだったのです。主はかれに確信を与えてくださいました。かれはかならずそのとおりになると、一瞬たりとも疑わなかったのです。

かれはまた何千人という孤児たちを、ただ主に祈り求めることだけによって養育することをとおして、祈りはかならず聞きとどけられるということを証ししたひとでもあります。

私たちがイエス様を信頼せず、祈らないなら、イエス様は私たちのために奇蹟を行なってくださることができません。

何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。(1ヨハネ5・14、15)

ほんとうにすばらしいみことばですね。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」。私たちはこの確信を持っているのでしょうか。もし持っていないのなら、それはなぜでしょうか。


4.主のお約束を信じ、支配権を主にあけわたす


私たちが「主が私たちの祈りを聞きとどけてくださるとは、なんとすばらしいことか」と言うとき、それはある意味で私たちの不信仰のあらわれともいえるのです。というのは、主にとって、私たちの祈りを聞きとどけることはあたりまえのことだからです。

なるほど私たちはたしかに主を信じています。しかし、本気になって主のお約束を自分のものにしようとしているでしょうか。もし私たちが本気になって、主のお約束のとおりになるようにと祈りつづけていないなら、私たちは主をほんとうに愛してはいないのです。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。」(ヨハネ14・23)とイエス様は言っておられます。そしてイエス様のいましめは「絶えず祈れ」ということです。

主を愛する者は、自然に祈りの生活を行ないはじめます。ほんとうに主のお約束を信じる者は、祈らないではいられません。祈りの生活を行なわない者は、主がみことばをとおして言われることを、ほんとうの意味では信じていないのです。主のみことばをほんとうに信じ、その信仰を祈りのかたちであらわす者は、奇蹟を体験します。

主なる神を信じるということは、主なる神のお約束を百パーセント信頼するということです。アブラハムは、そのたいへんよい例です。新約聖書のなかで三回、ほとんどおなじようなことばでアブラハムについて書かれています。

聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた。」とあります。(ローマ4.3)

「聖書は何と言っていますか」。これはほんとうにすばらしい表現ですね。どんなばあいでも、ほかのひとがなんと言っているか、自分はどう思っているかはまったくたいせつではないのです。「聖書はなんと言っているか」がすべてなのです。主はなんと言われるのか、主のお約束はどういうものであるかがたいせつなのです。

また、アブラハムについて、ほかのところでもつぎのように書かれています。

アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。(ガラテヤ3・6)

そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。(ヤコブ2・23)

主を信じるということは、たとえ現実とまったく矛盾するように思えても、徹頭徹尾、すこしも疑わないで神のお約束を信じることです。そして、目に見えるしるしがなくても、主がお約束のとおりにしてくださったと、感謝することです。

主を愛する者は、主のご栄光が現わされることをめざさなければなりません。そして私たちがすなおに主に信頼し、大きなものを主に待ち望み、主に期待するときに、主の栄光がもたらされます。私たちは主に信頼することによって、また主に支配権をあけわたすことによって、主を「ためす」べきです。そしてそのばあい、主こそが第一のものとならなければいけないのは言うまでもありません。

「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6・24)

このように、主こそが第一とならなければなりません。主イエス様を第一とし、すべてを主にあけわたす者は、祈りが聞きとどけられることを経験します。「求めなさい。そうすれば与えられます」。「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答えよう」。「わたしをためしなさい」。というみことばは決してむなしいお約束ではありません。まことの信仰とは、「神にとって不可能なことはない」と信じるだけのものではありません。「神にはできる」ということだけではなく、「主はかならずわたしの祈りを聞きとどけてくださる」ということを信じることです。

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。(1ペテロ3・9)

主はこ自分の約束を遅らせたりしないおかたです。だから私たちは、主のお約束を自分のものにして、大きなものを期待しようではありませんか。

多くのキリスト者が祈りが聞きとどけられることを体験します。しかしその反面、祈りが聞きとどけられることを体験しないキリスト者もいます。これはどうしてでしょうか。主なる神は、あるひとだけを特別に愛して、そのひとの祈りにはとくに耳を傾けられるのでしょうか。決してそんなことはありません。ただ、いっぽうのひとは祈り、もういっぽうのひとは祈らないでてきとうにやっているので、なにも得られないのです。

さあ、いまからさっそく祈りの生活をはじめようではありませんか。主のお約束を信じ、自分のものとしようではありませんか。

ここで二種類の信者について考えてみましょう。ある信者は、主が祈りの生活へと導くことができます。その結果、そういう信者は主によってもちいられます。もう一種類の信者は、主によって、苦しみや悩み、問題や病気をとおして「祈りの生活へと強制」されなければならないのです。というのは、主が、そういった信者が実を結ばないままで終わってしまうことのないように、ひとりひとりに心をくだいてとりはからってくださるからです。祈らなければ実を結ぶことができないので、主は、そのひとびとを「祈りの生活へと強制」せざるをえないのです。

私たちは、信者としての自分の生活をふりかえるとき、祈りが欠けていることに恥ずかしくなります。それと同時に、私たちは、私たちにたいする主のこ真実と忍耐がいかに大きなものであるかを知ることができます。私たちはしばしば主のご配慮とお導きを疑ったのに、主は私たちをお捨てになりませんでした。そしてなんどもなんども、くりかえしくりかえし、いつも赦してくださいました。

主は私たちを祝福しようと心から望んでおられます。

主のお約束は、いまもなお有効なのです。

「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」(ヨハネ14・14)


まことの祈りとはなにか

1.主ご自身との交わりを持つこと

まことの祈りとはなんでしょうか。

くのひとびとは「祈りとは、主になにかを願い求めることである」と言います。しかしほんとうは祈りはそれ以上のものです。祈りとは、主ご自身との交わりを持つことなのです。そして主との交わりを持つ者は、その交わりのなかに自分が必要とするすべてのものを見いだすのです。

主よ。私のたましいは、あなたを仰いでいます。わが神。私は、あなたに信頼いたします。(詩篇25・1、2)

ダビデは祈りについてこう言っています。このような心で主に近づくなら、主は私たちにご自身を現わしてくださり、み心をあきらかにしてくださいます。そしてそういうときにこそ、主は私たちを器としておもちいになることができるのです。私たちは祈ることによってのみ、主の奇蹟を体験することができるのです。

祈りとは、私たちがほしいものを主に強制しようとすることではありません。祈りとは、私たちが主のみ心を知り、私たち自身を主にあけわたし、主のみ心が成就することです。自分自身のわがままな意思をおしとおしたいと思う者は、いつもそんをします。たとえば聖書のなかのイスラエルの民の歩みからもそのことがわかります。イスラエルの民が荒野でわがままな祈りをしたとき、たしかにその祈りは聞きとどけられました。しかし、結果は祝福ではなく呪いにほかなりませんでした。

そこで、主は彼らにその願うところを与え、また彼らに病を送ってやせ衰えさせた。(詩篇106・15)

多くのひとは、祈りとはただ苦しいときだけのものだと思っています。たとえば危険に直面したときとか、重病にかかっているときとか、困難におちいったときとか、まったく望みのない状態にいるとき、そのようなときにだけ祈りが必要だと思っています。しかし祈りはそれ以上のものです。祈りとは主により頼むこと、主からはなれたらなにもできないと知ること、そして主に信頼することを意味しています。祈りとは主との交わりです。つまり祈りとは、主にたいして一方的に語ることではなく、主とともに語る、つまり主と語りあうことなのです。この交わりをとおして、ひとは主をよりよく知ることができます。そしてこれこそが祈りの大きな目的なのです。

パウロは祈って、「主を体験した」、つまり主を見た、と聖書に書かれています。

こうして私がエルサレムに帰り、宮で祈っていますと、夢ごこちになり、主を見たのです。主は言われました。(使徒22・17、18)

またイザヤについてもおなじように、イザヤは祈った、そして「王の栄光を見た」、と書かれています。

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。(イザヤ6・1)

祈る者は「主を体験」します。そして主を体験しない者は、失われていくたましいにたいして責任を感じず、とりなしの祈りをしないという罪を主にたいして犯しているのです。

「主はここにおられる」。この意識とこの確信こそが「祈り」なのです。ひとりのひとがその友と語りあうように主と語りあうことこそが「祈り」なのです。


2.主の栄光を見ること


まことの祈りは、「賜物を得たい」と願うよりも、まず第一に「主との交わりをとおして、賜物をくださるかたをよりよく知りたい」と願います。

ここでたいせつなことは主の栄光と主の恵みをはっきりと認識することです。私たちはいったいだれにたいして祈っているのでしょうか。私たちが祈っているおかたは「主の主」「王の王」です。私たちは王様のなかの王様のところに行くのですから、大きな期待を持っていいのであり、また多くのことを願い求めていいのです。というのは、主は無限の力と測り知れない富を持っておられるおかただからです。

望遠鏡や顕微鏡は、私たちに自然界における創造主のみわざの偉大さ、すばらしさを教えてくれます。私たちはこの偉大なる創造主のみわざに驚嘆しないではいられません。私たちはこの主の偉大さを認識したとたん、どうしても自分自身を主にささげないではいられなくなるのです。驚嘆に満ちて主を礼拝しないではいられなくなるのです。

マリヤはつぎのように祈りました。

わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。(ルカ146、47)

またダビデはつぎのように祈りました。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。(詩篇103・1)

わがたましいよ。主をほめたたえよ。わが神、主よ。あなたはまことに偉大な方。あなたは尊厳と威光を身にまとっておられます。(詩篇104・1)

そして、まえにも読みましたように、イエス様はつぎのように祈られたのです。

「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。」(ヨハネ11・41、42)

感謝することと賛美することは、私たちに豊かな祝福がそそがれる道です。

私たちは祈るまえに、だれに祈るかをはっきり知らなければなりません。私たちが祈っているそのおかたこそは、栄光の主です。パウロはつぎのように書いています。

というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ11・36)

主は、私たちが主の栄光にあずかる者となることを望んでおられます。そして私たちは、祈ることによって主の栄光にあずかることができます。モーセはつぎのように祈りました。

どうか、あなたの栄光を私に見せてください。(出エジプト33・18)

この願いは満たされたのです。モーセは神の栄光を見、神の栄光にあずかりました。しかも、かれの顔はひかりかがやきました。それは、神の栄光がモーセをとおして現われたからです。

それから、モーセはシナイ山から降りて来た。モーセが山を降りて来たとき、その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。(出エジプト34・29)

またイエス様の弟子たちはイエス様との交わりを持ち、そしてつぎのように言いました。「私たちは主の栄光を見た」。かれらは教養のない漁師でした。しかし、まもなくみんなは、かれらがイエス様とともにいたことを、つまり神の栄光を見たことを認識せざるをえなかったのです。

彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。(使徒4・13)

かれらがイエス様とともにいたということは、かれらは神の栄光を見たということです。私たちが祈り、ヨハネが証ししたように「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」(1ヨハネ1・3)ということを体験するとき、私たちのまわりのひとびとは、私たちが主なる神とともにいることを知るのです。イエス様のみまえにまこころをそそぎだし、イエス様との交わりを持つ者は、変えられます。そしてまわりのひとびともそのことに気づくようになります。このことは決して隠しておくことができないのです。イエス様が高い山で祈られたとき、そのみ顔は変えられ、太陽のようにかがやきました。私たちもまた、おなじことを体験しなければなりません。ほんとうの祈りの生活を知って、それを行なうとき、私たちはいままでとは根本的に変えられていくのです。

自分自身のいまの霊的な状態に満足してしまっている者は、祈らなくてもいいのです。

自分の未信者の家族が救われなくてもいいと思う者は、祈らなくてもいいのです。

しかし、イエス様に従っていきたいと思う者、イエス様とおなじようになりたいと思う者、みことばによって生かされるようになりたいと思う者は、主の霊が十二分にお働きになれるよう、祈りによって自分のすべてを主にあけわたさなければなりません。「主なる神の霊が、私たちのうちで、私たちをとおして、祈ることができる」。このことこそが、なによりもたいせつなのです。


むすび


「まことの祈り」とはなんでしょう。それは「霊的ないのちの現われ」です。ほんとうに祈るとき、主はこ自身を現わしてくださいます。

私たちはみな、聖書のなかの放蕩息子の話を知っています。かれは自分かってな道を行き、かれのわがままは聞きとどけられました。しかしこのわがままが聞きとどけられたことは、かれに苦しみだけをもたらしたのです。

まことの祈りの生活を見るとき、私たちはみな、放蕩息子のようなものではないでしょうか。つまり私たちは、わがままばかりを願い、ほんとうの意味で祈ることをもっともおろそかにしているのではないでしょうか。そのことに気がついたなら、私たちも放蕩息子とおなじように、つぎのように言おうではありませんか。

「立って、父のところに行って、こう言おう。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。』」(ルカ15.18)

放蕩息子はこう呼びかけています。「おとうさん」。父なる神に呼びかけ、父なる神のところに行くことこそが、祈りなのです。主は私たちが、いま、あらたにこのようにはじめることを望んでおられます。私たちは自分の罪を告白しようではありませんか。「私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました」と。そして私たちもいま、当時のイエス様の弟子とおなじように、つぎのように言おうではありませんか。

主よ。・・・・私たちにも祈りを教えてください。(ルカ11.1)

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