2015年9月29日火曜日

果たされた救いの計画(五)

果たされた救いの計画(五)
2015年9月29日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ピリピ
2:1 こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2:2 私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。
2:3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
2:9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

我々の主、イエス様の墓は、悪魔の偽の勝利を意味しています。イエス様は確かに、十字架につけられ、殺されてしまいました。多くの群衆を同情を込めて見たイエス様のその目は、今や閉じてしまったのです。

イエス様が墓に横たわった時、かつて、メクラ、オシ、ツンボ、足萎え、また、らい病人を癒したその御手は、力なく萎えていました。波を静め、死人をよみがえらせ、また、いのちと希望を語った声、悪霊を追い出したあのイエス様の声は、もはや聞こえなくなりました。少し前に、「わたしは、よみがえりであり、いのちである」と言われたイエス様は、亡くなられました。

イエス様は、墓の中に横たわり、墓の入り口には、大きな石がころがされていたのです。もし、ピラトが、墓の表に看板をかけたとしたら、間違いなく、「ユダヤ人の王イエス」と書いたのではないでしょうか。もし、悪魔が、墓の表に看板をかけたとしたら、「私に負けたナザレのイエス」と書いたでしょう。もし、主なる神が、墓の表に看板をかけたとしたら、「この中に罪にまみれた人類あり」と書いたに違いない。

イエス様は、確かに殺されました。イエス様は、この地上に人間のからだをとって来られましたが、いのちを与える力を持っておられたのです。だからイエス様は死なれた後、よみがえることができたのです。

イエス様は、亡くなられたからこそ、今でも、欲する人に永遠のいのちを与えることがおできになるお方です。

ヨハネ
12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

もし、一粒の麦が死んだなら、豊かな実を結ぶようになるのと同じく、イエス様は亡くなられて、信じる者すべてに、永遠のいのちをお与えになります。

使徒行伝
2:32 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。

聖書を読むと、たくさんの奇蹟について、報告されています。けれども、その中でいちばん大きな奇跡は、間違いなく、イエス様のよみがえりの奇蹟です。イエス様のよみがえりは、世界の歴史の中で、いちばん大きな出来事です。

イエス様のよみがえりは、イエス様だけが救いに至る道であるといういちばん大きな証拠です。イエス様のよみがえりは、主なる神の力のいちばん大きな現れです。また、これは、福音のもっとも偉大な真理です。

イエス様はよみがえられた。復活なさったのです。パウロは、当時の信じる者に次のように書いたのです。

『もしキリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰もまた空しいはずです。もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは今なお、罪の中にいることになります。また、キリストを信じて死んだ人々は、滅んでしまったことになります。もし、わたしたちがこの世の生活で、キリストにあって単なる望みを抱いているだけだとすれば、私たちは、すべての人々の中でもっとも憐れむべき存在です。けれども、イエス様は復活なさいました。よみがえられました。』

【参考】第一コリント
15:14 もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。

15:17 もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。
15:18 そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。
15:19 もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。
15:20 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。

これこそが、我々の喜び、我々の拠り所、また、力です。このイエス様のよみがえりの目的について、聖書は何と言っているのでしょうか。イエス様のよみがえりは、父なる神が生贄(いけにえ)としてのイエス様を受け入れた証拠です。そして、主なる神は、それを三つの大きな事実によって、証明してくださいました。

第一番目、神殿の幕を裂くことによって、証明してくださったのです。エルサレムの神殿の中の幕は、いわゆる聖所と至聖所(しせいじょ)を分けていたのです。そして、当時の大祭司は毎年、一回だけ、流された罪のない動物の血を携えて、その至聖所に入ることができたのです。

主なる神は、その至聖所で、ご自身のご臨在を啓示されたのです。イスラエルの民は、罪を犯したため、その至聖所に入ることが許されなかったのです。大祭司でさえ、毎年一回、入ることが許されただけでした。そして、流された血を持って行く時だけ、入ることができたのです。流された血は、自分の罪のために、他の者が代わりに死に、自分の罪を贖ってくれたことを意味しています。

イエス様のよみがえりは、イエス様がまことの救い主であることの証拠です。イエス様が救いの道を開かれたから、神殿の幕が裂かれたのです。隔ての壁が取り除かれたのです。流されたイエス様の血に基づいて、私たちは毎年一回だけではなくて、毎日、何回も、安心して、喜びをもって、聖なる主に近づくことができるのです。想像できない特権です。

確かにイエス様の復活が、主なる神が生贄としてのイエス様を受け入れた証拠です。

また、空の墓によっても、主なる神は、イエス様の身代わりの死が全人類を救うために充分であると証明してくださったのです。イエス様の墓は、悪魔の偽の勝利にすぎなかったのです。墓があったけれども、その中に死人はいませんでした。

なるほど墓の中に、亜麻布はありましたが、屍(しかばね)はありませんでした。空の墓は、主なる神がご自身の全能を現された場所です。空の墓は、救いが確実なものとなったと言っています。空の墓は、主なる神がイエス様の成した救いの働きを認めたことを証明しています。空の墓は、イエス様がよみがえった証拠です。空の墓は、預言が成就された場所であります。空の墓は、私たちに何を物語っているのでしょうか。

マタイ
28:6 ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。
28:7 ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」
28:8 そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。
28:9 すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう。」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。
28:10 すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」
28:11 女たちが行き着かないうちに、もう、数人の番兵が都に来て、起こった事を全部、祭司長たちに報告した。

空の墓は、希望の場所です。6節ですね、「前から言っておられたように、よみがえられたからです。」空の墓は、喜びの場所です。彼女たちは、『大喜びで、急いで走って行った』とありますね。空の墓は、慰めの場所です。『恐れてはいけません。』空の墓は、崇拝の場所です。彼女たちは、イエスを拝んだとあります。空の墓は、奉仕の場所です。『行って、わたしの兄弟たちに言いなさい』とあります。

今まで考えたように、神殿の幕を裂くことによって、そして、空の墓によって、主なる神が犠牲としてのイエス様を受け入れたことを知ることができます。父なる神は、イエス様がよみがえられた後、ご自分の右をイエス様の座としてお与えになったと、聖書は言っています。右の座は栄光の場所です。右の座は力の場所です。右の座は尊厳の座です。

へブル
1:3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

イエス様は、実際によみがえりました。このイエスを、神はよみがえらせて、そして、『私たちはみな、その証人なのです』と、当時の人々は告白しました。イエス様はよみがえられたので、私たちはまた、イエス様が再臨される証拠をも、与えられています。イエス様は、今日、来られるかもしれない。

イエス様は、この地上に人間のからだをとって来られましたけど、いのちを与える力を持っておられたのです。ですから、イエス様は死なれた後、よみがえることができたのです。イエス様は犠牲になり、救いの代価を払って亡くなられたのですが、しかし、復活なさったイエス様は、今、欲する人に、罪の赦しだけではなく、変わらない喜びだけではなく、永遠のいのちを与えることがおできになります。

ヨハネ
12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

一粒の麦が死んだなら、豊かな実を結ぶようになるのと同じように、イエス様は亡くなられて、信じる者すべてに永遠のいのちをお与えになるのです。イエス様が、暗闇から光へ、奴隷から解放へ、死からいのちへ導いてくださったことは、信じる者みなが体験したところです。

イエス様の墓は、悪魔の偽の勝利にすぎなかった。イエス様のよみがえりこそが、主なる神の目に見える勝利でした。そして、イエス様の昇天と引上げられたことは、主なる神の栄光の現れだったのです。イエス様は、よみがえられて後、四十日間、まだこの地上におられたのです。よみがえられてからイエス様は、弟子たちにご自身にふれることをお許しになり、ご自身の傷に弟子たちがさわることをお許しになり、また、イエス様は、弟子たちと共に食事をし、弟子たちのために朝飯をお作りになったと、書いてあります。

四十日後で、イエス様は弟子たちの目の前で昇天されたのです。

使徒行伝
1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。
1:10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。
1:11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

へブル
9:24 キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです。

昇天は、何というすばらしいイエス様の帰郷だったのでありましょうか。昇天の三十三年前、イエス様は処女から生まれるべく、天の栄光をお捨てになって、この地上に来られたのです。イエス様は、父に栄光を帰し、父の救いのご計画を果たした時、天に帰られました。イエス様は天に帰られて後も、傷と傷跡をお持ちになっているほどです。イエス様がお帰りになった時の天の歓迎は、何というすばらしいものだったでしょうか。

詩篇
24:7 門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。
24:8 栄光の王とは、だれか。強く、力ある主。戦いに力ある主。
24:9 門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。
24:10 その栄光の王とはだれか。万軍の主。これぞ、栄光の王。

父なる神は、天に帰られたイエス様に、栄光の御座、父の御座をお与えになりました。イエス様は、すべてのものにまさる名前をいただき、また、すべてのものの主なる冠をいただきました。

もう一箇所、読みます。エペソ書一章、イエス様の偉大さを表す言葉のひとつです。

エペソ
1:20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、
1:21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
1:22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

ピリピ書の二章、よく読まれるすばらしい箇所です。

ピリピ
2:9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

イエス様は、天においても地においても、いっさいの権威を授けられました。十字架につけられた救い主は、今やすべてのものにまさる主であられます。使徒行伝の中で、ペテロは次のように五旬節の日、述べ伝えたのです。

使徒行伝
2:36 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。

イエス様のうちに、永遠のいのちがあります。したがって、イエス様を救い主として受け入れた人は、もちろん、聖霊の働きにより、同じいのち、永遠のいのちを持っています。主なる神の救いのご計画は、完全に果たされました。永遠のいのちを選ぶ人のために、永遠のいのちがもうすでに備えられています。だから、ヨハネは書いたのです。

第一ヨハネ
5:12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。

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