2015年9月8日火曜日

果たされた救いの計画(二)

果たされた救いの計画(二)
2015年9月8日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ヨハネ
1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。

聖書を知らない人は、この今、読まれた箇所、ヨハネ伝1章1節から、いくら読んでもピンとこない。いったいどういうことか?みことば、みことば、神、神。いったいどういうこと。けれども、14節を見るといっぺんに明らかになる。イエス様か。

このヨハネ伝は、主イエス様の神性が、とくに記されている書物です。たとえば、イエス様の潜在について、1章の30節に次のように書かれています。

ヨハネ
1:30 『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ。』

バプテスマのヨハネは、イエス様のことを指して、こう言ったのです。

ヨハネ
8:58 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」

当時のユダヤ人は、それを聞いた時、よろこんで受け入れた人はあまりいなかったようです。狂っている。あり得ない。けれども、イエス様は、もちろん、真理を語ったのです。

ヨハネ
17:5 今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。

17:24 父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。

こういうふうにイエス様は、自分の潜在、神性について語ったのです。それから、同じくヨハネ伝の中で、イエス様は自分の権威についても語ったのです。

ヨハネ
5:27 また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。

さばきを行う権威を持っているのは、主イエス様です。それから、イエス様の先見、前もって知ることについても、同じくヨハネ伝に書かれていますね。

ヨハネ
6:64 「しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」――イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである。――

13:11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない。」と言われたのである。

18:4 イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので、出て来て、「だれを捜すのか。」と彼らに言われた。

19:28 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。

それから、イエス様は、言うまでもなく、自分の悩み、自分の苦しみを予言したのであります。

ヨハネ
3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。

見ることとは、正しく見ることとは、結局、信じることを意味しているのです。それから、イエス様は、自分の取り去られることを、もちろん、知っておられ、予言したのであります。

ヨハネ
7:33 そこでイエスは言われた。「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。」

14:28 『わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る。』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。

17:11 わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。

イエス様は、もちろん――こういう箇所を見ても分かります――生けるまことの神の御子です。それは事実です。ある人は、不可能だと言うかもしれないけど、私たちがそれを信じようが信じまいが、事実です。

たとえ、私たちが、イエス様は神の御子であるという事実を信じなくても、この事実は、事実として残ります。ただ、信じなければ、その事実は、全く我々の役に立たないだけです。その道は、信仰です。けれども、信仰は、事実を現実としません。事実は現実です。けれども、信仰は、我々の経験によって、事実を現実とします。

今、二つのことについてちょっと考えてまいりましたが、すなわち、イエス様の人間となることを預言されたこと、二番目、イエス様は神性を啓示されたこと。今度は、イエス様の人間性を実行されたことについて、考えてみたいと思います。

イエス様は、人間になられたのです。

へブル
2:14 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、
2:15 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。
2:16 主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。
2:17 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。
2:18 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

イエス様の人間的な体は、もちろん、食べ物と水分を必要としました。イエス様の従順、イエス様の謙遜、より頼むこと、従属も真の証明です。次の聖句を読むと、イエス様の従属がよく解ります。

ヨハネ
6:38 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。

7:16 そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。」

7:28 イエスは、宮で教えておられるとき、大声をあげて言われた。「あなたがたはわたしを知っており、また、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わした方は真実です。あなたがたは、その方を知らないのです。
7:29 わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わしたからです。」

似ている箇所は、このヨハネ伝の中にたくさんあります。

ヨハネ
8:28 イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。
8:29 わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです。」

5:30 わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。

イエス様の全生涯は、そういう願い、心からの叫びでした。イエス様は、完全な人間でした。なぜなら、イエス様は、霊と魂と肉体を持っていたからです。イエス様はまず、霊を持っていたのです。

ルカ
23:46 イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

けれども、イエス様は、霊だけではなく、魂も持っていたのです。

ヨハネ
12:27 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。

もちろん、イエス様は、霊だけではなく、魂だけではなく、肉体をも持っておられました。

ヨハネ
26:12 この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。

イエス様は、罪なく、従属した、勝利に満ちた人間性を持っていました。だから、イエス様は、三位一体の救いの計画の実行能力を持っていたのです。イエス様の受肉、すなわち、人間になられた事実は、どのような時代でも天下であり、あらゆる愛の中で最高であり、あらゆる救いの初めであり、あらゆる礼拝の中心です。

このイエス様の犠牲の死こそが、聖書の中心です。この犠牲の死について考えたいと思います。三位一体のご計画を実行するために、イエス様は人間の形をとらなければならなかったのです。神として、もちろん、死ぬことができない。人間になると、死ぬ可能性がある。イエス様は、死ぬために人間になられました。

ピリピ
2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

同じくパウロは、コリントにいる兄弟姉妹に、このすばらしいイエス様の犠牲の死の大切さについて書いたのです。コリント第一の手紙の十五章、いわゆる、よみがえりの書と呼ばれています。

第一コリント
15:45 聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。

15:47 第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。

けれども、御子、主イエス様は、人間の形をとったばかりでなく、全人類、人間一人ひとりの罪のために犠牲になり、代わりに罰せられ、亡くなられたのです。ペテロも、このすばらしい事実について証ししました。

第一ペテロ
2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
2:25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

イエス様は、我々の罪を担ったばかりではなく、我々のために、我々の代わりに、亡くなられたのです。どのような人間も罪人です。罪を犯した魂は、必ず死ぬとエゼキエル書、18章4節に書かれています。また、ローマ書6章の最後の23節、「罪の支払う報酬は死である」とあります。

【参考】エゼキエル
18:4 見よ、すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。

【参考】ローマ
6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

私たちはみな、罪人ですから、死ななければなりません。けれども、イエス様が我々の代わりに亡くなって、罪とされたと、聖書は言っています。第二コリントの五章、すばらしい事実です。

第二コリント
5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

御子イエス様は、我々の罪を担われたから、聖なる神から離れなければなりませんでした。主なる神の聖さと全人類の罪は、交わりを持つことができないから。

マタイ
27:46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。

十字架につけられる二、三週間前のイエス様のことばを読みましょう。

ヨハネ
11:41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
11:42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」

これは、イエス様の罪のない人間の本性のみ声でした。しかし、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という声は、これは、主なる神から離れ、罪に堕落した全人類の叫びだったのです。

神は、罪を知らない、罪を犯す可能性を持っていなかったイエス様を、人間一人ひとりの代わりに罪のかたまりとされた。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

イエス様の死について考えると、必ず誰でも、イザヤ書の五十三章を思い出すのではないかと思います。

イザヤ
53:1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。
53:2 彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
53:8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
53:9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。

御子イエス様は、全人類の罪を担われました。御子イエス様は、罪のかたまりにされたのです。御子イエス様の神性は、罪に触れませんでしたが、けれども、我々の代わりに、呪われた者になったのです。私たちは、イエス様の苦しみを、もちろん、想像することができません。

御子イエス様は、決して、罪を犯しませんでした。けれども、十字架の上で、一人の人間の罪だけではなく、全人類の罪を担うようになったと聖書は言っています。主イエス様は、我々の自己意思、我々のわがまま、全人類の傲慢を担われたのです。神から離れたいちばん大きな罪人として、イエス様は十字架にかかられました。私たちは、イエス様の苦しみ、イエス様の痛み、イエス様の悲しみ、イエス様の孤独を、決して、わかることができません。

突然、イエス様は、大きな声で、「すべてが終わった。完了した。救いの御業が成し遂げられた!」と、叫んだのです。救いのご計画が、実行されたのです。救いの働きが終わったのです。それから、平和な声で、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言われたのです。

イエス様は、どうして、亡くなられたのでしょうか。専門家、すなわち、医者に聞くと、皆、イエス様は弱り果てた心のために死んだ。十字架による肉体的な苦しみではなくて、弱り果てた心のために亡くなったと。この証拠として、兵隊が槍でそのわきを突き刺すと、すぐに血と水が流れ出たと、聖書は言っています。

イエス様の死は、ゲッセマネの園で始まったでしょう。イエスは、苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしずくのように地に落ちたと書いてあります。その時、イエス様の心は、ほとんど弱り果てました。全人類の罪が、イエス様を圧迫したのです。その時、御使いが天から現れて、イエス様を力づけたと書いたあります。なぜなら、イエス様はゲッセマネではなく、十字架で死ぬように定められていたからです。

それから、イエス様は、安心して、おおぜいの群衆に現れ、ピラト、叫んでいる民、祭司たちとパリサイ人たちの前に立って、証しなさいました。睡眠せず、考えも及ばないほどの苦しみの後で、イエス様は、十数キロ、ゴルゴタまで歩かれたのです。

私たちの罪、我々のわがままは、イエス様の心を弱り果てさせたのです。我々のわがままのために、イエス様は、十字架にかからなければならなかったのです。

御子イエス様は、神の呪いのもとに、ものすごく苦しみました。着物は全部、盗まれたのです。血だらけの顔と体を想像することができません。前に読みましたイザヤ書五十三章の二節の預言が成就されたのです。「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない」とあります。たしかに、十字架につけられたイエス様には、我々の見るべき姿もなく、威厳もなく、我々の慕うべき美しさもなかったのです。

イエス様は、私たちの代わりに罰を受けました。主なる神は、我々の罪のために、イエス様を罪のかたまりとされたのです。これに対して、心から感謝したことがあるのでしょうか。なければ、今日、初めて、新たに感謝しようではありませんか。

イエス様のものすごい苦しみを考えると、自分のわがままを嫌いませんでしょうか。問題は全く、はっきりしています。それは、我々とイエス様のあいだの問題です。私たちは、イエス様を救い主として受け入れたいのか、それとも、拒みたいのか。イエス様を受け入れてください。そうすれば、永遠のいのちを自分のものにすることができます。この永遠のいのちとは、何という贈り物なのでしょうか。何という救いの計画なのでしょうか。この主に、自分の命を新たに明け渡す人は、本当に幸せなのではないでしょうか。

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