2015年9月15日火曜日

果たされた救いの計画(三)

果たされた救いの計画(三)
2015年9月15日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

マタイ
27:27 それから、総督の兵士たちは、イエスを官邸の中に連れて行って、イエスの回りに全部隊を集めた。
27:28 そして、イエスの着物を脱がせて、緋色の上着を着せた。
27:29 それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」
27:30 また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。
27:31 こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物を脱がせて、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出した。
27:32 そして、彼らが出て行くと、シモンというクレネ人を見つけたので、彼らは、この人にイエスの十字架を、むりやりに背負わせた。
27:33 ゴルゴタという所(「どくろ」と言われている場所)に来てから、
27:34 彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。
27:35 こうして、イエスを十字架につけてから、彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、
27:36 そこにすわって、イエスの見張りをした。
27:37 また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである。」と書いた罪状書きを掲げた。
27:38 そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。
27:39 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、
27:40 言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」
27:41 同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。
27:42 「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。
27:43 彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」
27:44 イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。
27:45 さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。
27:46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。
27:47 すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを呼んでいる。」と言った。
27:48 また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。
27:49 ほかの者たちは、「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう。」と言った。
27:50 そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。
27:51 すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。
27:52 また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。
27:53 そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都にはいって多くの人に現われた。
27:54 百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった。」と言った。

この間、始まったテーマ、すなわち、「果たされた救いのご計画」について、少し学び続けたいと思います。

何年か前に読んだ話ですけど、コーカサスの国の解放者であるカミルという男は、その勇敢さ、また、誠実さで、彼の国の英雄になりました。みんなから尊敬され、大好きになったのです。彼がその国の君主になった頃、国民のあいだで博打(ばくち)が盛んになり、非常な勢いで広まってしまったのです。あらゆる人が、この博打を打ち、この悪癖が広がりました。これによって、国民の滅亡がやって来ようとしていたようです。

カミルは、国民をたいへん愛していたので、ひとつの法律を制定し、国民の遊び癖を止めようとしました。法律を制定した後、この法律を初めて犯した人は、いったい誰だったでしょうか。法律の制定者、カミルのお母さんだったのです。それを知るようになった息子、カミルの驚きは、いかばかりだったでしょう。

彼は、お母さんを非常に尊敬し、愛していました。このような場合にも、法律が執行されなければならないのでしょうか。カミルはたいへん動揺し、二日間、一室に閉じこもり、お母さんの逃れ道はないかと、そればかりを考え続けました。彼は、お母さんの子供であったばかりでなく、国民の主でもあったのです。彼は、自分でその法律を制定し、違反者を見つけたのです。ですから、違反者を許すことができません。もし、例外を認めるならば、彼は、決して、良い君主と言えないからです。

彼は、その二日の後、もうすでに、決心がついていたのです。長老たちを集め、母を法廷に引き出しました。お母さんは、柱に縛りつけられていました。鞭打つために、兵隊がついていました。兵隊がお母さんを鞭打とうとして手を上げた時、カミルは、「やめろ!」と命令しました。そして、カミルは裸になり、母の代わりに、自分の手を柱に結びつけ、鞭打つように命令しました。彼は、自分の母を愛していました。だから、母の刑罰を自分の身に背負ったのです。

これと同じことが、もちろん、イエス様についても言えます。イエス様は、我々の代わりに、自分から刑罰をお受けになりました。私たちは罪を犯して、主なる神の敵となってしまったので、聖書は言っています。「罪を犯した魂は、必ず死ぬ。罪の支払う報酬は死です」と。

聖なる神は、罪を罰せずにはおられません。愛なる神は、罪人を救おうと思っておられます。主なる神は、ご自分の愛と義が満たされるように、人間を救う道を設けられたのです。すなわち、御子なる神であられるイエス様は、この暗い世の中にお出でになり、十字架で、我々の罪を担われました。

ヨハネ
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を(・・・・人間ひとりひとりを・・・・)愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

第二コリント
5:19 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。

カミルが、百鞭、打たれた後で、カミルのお母さんはどうしたでしょうか。お母さんは、もちろん、言葉で言い表せないほどに、息子に感謝したのです。どうでしょうか。私たちは、イエス様の犠牲のために、今まで、心から感謝したことがあるでしょうか。イエス様は、我々一人ひとりのために刑罰をお受けになり、罪そのものとされたと、聖書は言っています。

次に、カミルのお母さんは、息子に言いました。「私は、私の犯した忌まわしいことを嫌います。そのために、あなたは、そんなに苦しんだのですから」と。私たちも、イエス様に、「私は自分の罪、また、わがままを嫌います。そのために、あなたはそんなに苦しみ、また、十字架の上で死ななければならなかったからです」と。人間の魂が、滅びから救われる道は、ただひとつです。すなわち、主イエス様に、自分の罪を赦していただく以外に道はありません。

今までに、イエス様を信じ、受け入れていない方々は、どうか、今日、この偉大なる救い主であるイエス様を受け入れてください。そうしたら、救われ、永遠のいのちを持つことができるようになります。イエス様は、人間一人ひとりを、探し求めておられます。人間ひとりひとりを、心から愛しておられます。我々を、自分のものにしたいと思っておられます。

カミルのお母さんには、逃れ道がただひとつ残されていたのです。それは、その国の君主である息子が、お母さんに代わって、刑罰を受けることでした。初めての人間であるアダムも同じでした。彼は罪を犯し、創造主と離れ、絶望的な状態にありましたが、主なる神は、このアダムに皮の衣を作って、着せられたと聖書にあります。

アダムの子供であるアベルは、主なる神の約束を信じ、小羊を捧げました。アベルの罪が覆われるために、罪のない者の血が流されなければならなかったのです。旧約時代の信者たちはみな、このようにして、自分の罪を覆うために、小羊を捧げたのです。そうして初めて、義とされたのです。この生贄の動物の血は、もちろん、罪を赦すことはできませんでした。この血は、イエス様の血潮の象徴にすぎなかったからです。

それでは、旧約時代の信者たちは、いかにして義とされたのでしょうか。彼らは、主なる神の約束を信じ、それを行ったのです。主なる神の言葉の通りに、小羊を生贄として捧げたのです。旧約時代の信者たちは、身代わりの小羊の血を信じていました。それにより、永遠のいのちをもらったのです。彼らは、生贄の動物の血は、イエス様の血の象徴にすぎないことを知っていたのです。

アブラハムという男は、今より四千年前に、すでにイエス様の日を思っていたと、聖書は言っています。

ヨハネ
8:56 あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。

堕落した人類の逃れ道は、イエス様の受肉――人間になられたこと――でした。イエス様の受肉は、どんな時代であっても、もっとも大きな転換であり、いかなる愛にも勝って大きな愛を示しており、あらゆる救いの起点であり、あらゆる礼拝の中心点です。

イエス様は、まことの神であり、また、まことの人間です。イエス様は、罪なき人間でした。イエス様は、処女マリヤから生まれ、血と肉よりなる、我々と同じ肉体を持った人間だったのです。

ピリピ
2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

イエス様は、聖霊によって身ごもったので、原罪は持っておられませんでした。イエス様は、まことの人間として、精神、魂、肉体を備えていたのです。イエス様は、その内に、永遠のいのちを持ち、罪を知らなかったのです。

ですから、死は、イエス様に対して、何ら力を持っていなかったのです。だから、イエス様は、死ななくてもよかったのです。けれども、イエス様は、我々一人ひとりの身代わりになって死に、世の罪を負う者として、亡くなられたのです。イエス様は、人類の罪のために、心を悩ませ、弱り果てて、亡くなられたのです。イエス様は、全人類の罪の刑罰を負い、亡くなられたのです。

バプテスマのヨハネは、初めてイエス様を紹介した、主の僕(しもべ)でした。彼は、次のようにイエス様を紹介したのであります。

ヨハネ
1:29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」

結局、何千年か前に約束された、遣わされた救い主、この救い主について、もうすでに、イザヤ書の中で預言されたのです。よく引用される箇所です。

イザヤ
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての(・・・・大部分ではなく、すべての・・・・)咎を彼に負わせた。

へブル
2:9 ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

イエス様は、永遠のいのちを持っておられたから、死ななくてもよかったのです。けれども、全人類の罪を担って、十字架で亡くなられました。罪の支払う報酬は死であると、書かれています。

イエス様は、全人類の罪を担って、人類の身代わりとなられたから、最後のアダムと呼ばれています。最初のアダムは、全人類と共に悪魔に降参しました。最後のアダムは、罪の刑罰を受け、全人類のために、救いの道を開かれたのです。

イエス様は、我々の代わりの天罰をお受けになり、呪われ、捨てられ、殺されたのです。それから、墓に葬られました。このイエス様の墓について、ちょっと考えてみましょうか。イエス様の墓は、悪魔の偽の勝利を意味しています。イエス様の十字架は、生と死の言い表すことのできないほど、すごい争いを現しています。

コロサイ
2:14 いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。
2:15 神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。

イエス様の墓は、悪魔の偽の勝利を意味しています。イエス様は、確かに殺されてしまいました。多くの群衆は、同情を込めて見た。イエス様、その目はいまや、閉じてしまったのです。イエス様が墓に横たわった時、かつて、メクラ、オシ、ツンボ、足萎え、また、らい病人を癒したその御手は、力なく萎えていました。波を静め、死人をよみがえらせ、また、命と希望を語った声、悪霊を追い出したあのイエス様の声は、もはや聞こえなくなってしまいました。少し前に、「わたしは、よみがえりであり、いのちである」と言ったイエス様は、亡くなられたのです。

イエス様は、墓の中に横たわり、墓の入り口には、大きな石がころがされていたのです。もし、当時のピラトが、墓の表に看板をかけたとしたら、きっと、次のように、書いたでしょう。「ユダヤ人の王――イエス」と書いたに違いない。実際に、そうだったから。もし、悪魔が墓の表に看板をかけたとしたら、「私に負けたナザレのイエス」と書いたでしょう。もし、主なる神が、墓の表に看板をかけたとしたら、「この中に罪にまみれた人類あり」と、書いたでしょう。なぜなら、イエス様は、我々の罪のために死なれたばかりではなく、罪人と共に亡くなられたのであるからです。

罪のない、最後のアダムとしてのイエス様は、全人類と共に十字架につけられたのです。ですから、イエス様は、私たちの罪のために死んだばかりでなく、我々と共に死なれたのです。私たちの罪が覆われるために、イエス様の血が流されたのです。そして、我々の古き人が取り去られるために、イエス様が十字架にお架かりになったのです。

イエス様は死にました。我々の古き人も、共に死にました。これは、私たちが信じても信じなくても、事実です。けれど、私たちが、この事実を信じるならば、これは、自分の経験となります。私たちにとって、もっとも大切なものは、したがって信仰です。有名な箇所です。

使徒行伝
16:30 そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。
16:31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。
16:32 そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。
16:33 看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。
16:34 それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。

けれども、イエス様は、墓の中にそのまま、いることなく、よみがえられたのです。イエス様のよみがえりは、創造主なる神の目に見える勝利です。ひとつの質問を読みます。イエス様の味わった死は、いったいどんな死だったでしょうかね?

罪人は、主なる神との交わりを持つことができません。この不可能は、主なる神との分離を意味しています。人間に関しては、この分離は永遠の分離を意味しています。人間は、自分の努力で、永遠のいのちを獲得することは、決して、できません。主なる神からの永遠の分離は、永遠の死を意味しています。この永遠の死を、イエス様は味わわれたのです。

もし、イエス様が、ヨセフとマリヤの子供であり、神が奇跡を行い、イエス様を罪なき人としたとしても、イエス様は普通の人間ですから、よみがえらなかったはずです。けれども、実際には、イエス様は神の御子であり、永遠のいのちを持っていました。ですからイエス様は、死を味わいましたが、死の下に留まらなくてもよかったのです。

イエス様は、この地上に人間の体をとって来られました。しかし、いのちを与える力を持っておられたのです。ですから、イエス様は死なれた後、よみがえることができたのです。イエス様が亡くなられたからこそ、今でも、欲する人に、永遠のいのちを与えることがおできになります。

ヨハネ
12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

もし、一粒の麦が死んだなら、豊かに実を結ぶようになるのと同じく、イエス様は亡くなられて、信じる者すべてに、永遠のいのちを、お与えになるのです。イエス様は亡くなられ、同時に我々の古き人も、亡くなりました。イエス様がよみがえられ、同時に、我々も新しき人として生まれ変わったのです。もし、私たちがこの事実を信じるなら、それは自分の生活で経験となります。

イエス様が暗闇から光へ、奴隷から解放へ、死からいのちへ導いてくださったことが、信じる者がみな、体験したところです。

使徒行伝
2:32 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。

聖書を読むと、たくさんの奇蹟について報告されています。けど、その中でいちばん大きな奇跡は、イエス様のよみがえりの奇蹟です。イエス様のよみがえりは、世界歴史の中でいちばん大きな出来事です。イエス様のよみがえりは、イエス様だけが救いに至る道であるという、いちばん大きな証拠です。イエス様のよみがえりは、主なる神の力のいちばん大きな現れです。また、これは、福音のもっとも偉大な真理そのものです。

よみがえりの意味について、ちょっと考えてみましょうか。我々、信じる者にとって、イエス様のよみがえりは、本当に、考えられないほど大切です。イエス様は、ご自分の弟子たちに、自分が死ぬことを告げた時、必ずいつも、よみがえりのことも話されました。

マタイ
16:21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。

17:22 彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは彼らに言われた。「人の子は、いまに人々の手に渡されます。
17:23 そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると、彼らは非常に悲しんだ。

20:17 さて、イエスは、エルサレムに上ろうとしておられたが、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。
20:18 「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。
20:19 そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」

もし、我々の十字架につけられた救い主が、墓の中に入ったままなら、我々に、何の役に立ちましょうか。もし、イエス様が、墓の中に入ったままだったら、それは、自分の罪のために死んだのであり、我々の救い主とはならなかったのです。

罪の支払う報酬は死である。すべての人が罪を犯したので、死が全人類に入り込んだのであると、書かれています。人間はみな、例外なく、過ちを犯す者で罪人です。すなわち、主なる神から離れている者です。主から離れている者は、他の離れている者を救い、また、解放することはできません。メクラは、他の目の不自由な人に道を教えることは、もちろん、できません。ですから、主なる神が、一人子である主イエス様が、我々を救うために、この地上に来られなければならなかったのです。ですから、人間が自分や他の人を救いに導こうとする努力は、全くむだです。

マホメットは、人類を救おうと思った。孔子も人類を救おうとしたでしょう。ブッダ、仏も人類を救い、解放しようとしました。しかし、これらの人々は、人間であり、すなわち、神から離れた者たちだったのです。

すべての人が罪を犯したので、死が全人類に入り込んだのであるとあります。マホメット、孔子、釈迦、その人たちは、過ちを犯したから死んだのです。すなわち、彼らは、自分の罪のために死んだのですけど、自分の罪のために死んだ者が、他の人々を救いに導かれるはずがありません。マホメットは、よみがえりませんでした。孔子も、よみがえりませんでした。釈迦も、死んだままです。イエス様だけが、よみがえられました。

使徒行伝
2:32 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。

ルカ伝の24章34節にも同じことが書かれています、『ほんとうに主はよみがえった』とあります。もし、イエス様がよみがえられなかったなら、イエス様は神の御子、すなわち、神によって遣わされた救い主ではなく、ただの人間だったはずです。イエス様が、この地上に生きておられた時、はっきりと、「わたしは、神の子であり、約束された救い主である」と言われました。そして、イエス様は、神の御子として、主なる神だけが成し得る、力ある業を成されたのです。

けれども、当時のパリサイ人たち、宗教家たちは、イエス様が神の御子であることを、信じようとしませんでした。そして、彼らはイエス様が本当に約束された救い主であるというしるしを求めたのです。イエス様の答えは、次のようなものでした。

マタイ
12:39 しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。
12:40 ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。」

イエス様は、「もしわたしが、よみがえったなら、約束された救いの神である」と言われました。この意味は、我々のよみがえりは、私たちが神の御子であることの証拠であると言えます。そして、イエス様は、実際に復活なさいました。よみがえられたのです。なぜなら、イエス様は約束された救い主であったからです。

また、イエス様のよみがえりは、イエス様が我々の罪を担われた証拠であります。もし、イエス様が、よみがえられなかったなら、イエス様は、結局、自分の罪のために死んだことになり、我々には、救いが来なかったでしょう。

イエス様のよみがえりは、死に対する勝利でもあります。イエス様は、罪を犯されませんでしたので、死は、イエス様の前には何の力も持っていませんでした。パウロは、当時の信じる者に次のように書いたのです。

第一コリント(口語訳)
15:14 もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい(はずです)。

15:17 もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることにな(ります)。

また、キリストを信じて死んだ人々は、滅んでしまったことになります。

15:19 もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在(です)。

けど、イエス様はよみがえりました。これは、我々の喜び、拠り所、また、力です。

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