2015年6月16日火曜日

人間の創造(一)

人間の創造(一)
2015年6月16日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

創世記
1:26 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。
1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

2:7 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。
2:8 神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。

今まで、いろいろなテーマを取り上げて、一緒に考えてまいりました。初めに、神のいわゆる三位一体について、考えてまいりました。それから、天地創造前に主なる神は、いったい何をなされたか、また、宇宙の創造、罪の創設者である悪魔、それから、地が始まってから終わるまで、そういうことについて、一緒に考えてまいりました。

今日までの話で、問題は、世界の支配だということが解りました。この世界の支配の問題は、恐るべき戦い、そのものです。主なる神と悪魔との戦いです。しかも、この戦いは、この小さな地球で行われています。私たちは、悪魔が堕落する六つの段階を見てきました。また、黙示録で、救われた者の喜びの歌も見ました。なぜなら、主イエス様の十字架が、悪魔に完全に打ち勝ち、悪魔は、だんだん、力を失っていきますから。また、私たちは、この地球は、火によって洗い清められ、主なる神の御座が、この地上に設けられ、この後に、天国になる日が来ることも、すでに考えてまいりました。

今日のテーマは、人間の創造についてです。人間の創造は、主なる神の永遠のご計画でした。主なる神は愛の神です。だから、主なる神は、ご自分の家族を持ちたく思っておられます。主なる神は、ただ創造したかったのではなく、ご自分のいのちを宿した人間を欲しかったのです。

これから、人間の創造について、次の三つの点に分けて、ちょっと一緒に考えてみたいと思います。第一番目、主なる神は、人間を造りたかった。これは、神の永遠のご計画でした。二番目、主なる神は、この人間を、とくにご自分のかたちに似せて、造りたかった。そして、三番目、主なる神は、どうして人間を造られたのかについてです。

まず、第一番目、今、話したように主なる神は、人間を造りたかったのです。今、読みました聖書の中でしたが、創世記一章二十六節、そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう」云々とあります。

悪魔の支配により、神によって造られたすばらしい地は、荒廃してしまったのです。人間は、この地を統べ治める能力を、もちろん、備えておりました。主なる神が、命令されたのですから、人間はその命令に従う力も、持っていたはずです。

主なる神は、アダムを造られました。主なる神は、人間を頼りない子供のような状態に創造されたのではなく、肉体的にも、霊的にも完全な人間として、人間を創造されたのです。アダムは、地上のすべての動物、空のすべての鳥の名前をつけました。その能力を持っていました。これは、今の大学教授でもできないことでしょう。

アダムの子孫は、大きな町を作り、また、楽器や鉄製品も作り出したのです。

ノアは、自分の家族とすべての動物を、その中に収めて、一年間、水の上に浮かんでいられるくらい良い舟を作りました。その頃の人間の寿命は、だいたい、千年近くありました。ですから、ノアの洪水の前の人間は、肉体的にも、知的にも非常に優れていたとわかります。

これは、もちろん、進化論と全く対立する考えです。人間は、動物からではなく、決して、動物から発展してきたものではありません。実際には、人間は、主なる神によって、一瞬のうちに、完全なものとして造られたのです。それが、罪のために、だんだん、だめになってしまいました。

主なる神は、初めの人間を完全な者として、造られたのです。そして、神は、その人間をアダムとつけられましたが、アダムとはただ、人間という意味です。この人間は――このアダムは――神のもとにこの地を支配し、主なる神との交わりを持つことのできる力を持っていました。アダムは、主なる神との完全な交わりを持っていたのです。彼は、主なる神を完全に信頼し、完全に服従していたのです。

植物は、植物体を持っています。動物は、肉体と魂らしいものを持っています。天の使いたちは、霊と魂を持っています。人間は、霊と魂と肉体を持っています。

天の使いたちは、人間ではありません。天使たちは、主なる神の創造された者です。天使たちは、地から造られた者ではありません。天使たちは肉体を持っていない霊です。したがって、性別がなく、天使たちは、死ぬこともありません。天使たちは、本質的に人間と違っています。しかし、天使たちは、自分でやりたいと欲することができますから、人間と同じように、人格を持っています。

人間は、天使たちより、低い存在でしょう。人間は、地から造られた者です。しかも、この人間は、イエス様によって、天使たちより、高くなりました。神の子と呼ばれる身分になったのですから、信じる者は、神の子として、神の性質にあずかる者となると書いてあります。信じる者について、聖書は、天使たちを裁く者、また、イエス様に似る者となると書いてあります。

次に、人間は、動物ではありません。動物は、主なる神によって造られたのです。動物は、肉体と魂を持っていますけど、精神を持っていません。主なる神は、人間だけに息を吹き入れたと、書いてあります。ですから、人間と動物の間には大きな違いがあります。人間はどれだけ高く、動物がどれだけ低いなどという問題ではなく、人間と動物は本質的に違っています。

もし、悪魔が人間の内に完全な力を奮えば、その人間は非常に動物に似てきます。主なる神は、人間をこの地の完全な支配者としてお造りになりました。しかし、悪魔と罪は、この人間に何をやったのでしょうか。人間は、自分の快楽の憐れむべき奴隷となり、病気の体を携えて、この世を終わり、また、地に身をかがめ、汗を流し、涙を流す憐れな様となりました。

人間は、被造物を完全に支配していません。むしろ、恐れおののいています。人間は、太陽の熱さを恐れ、寒い空気を恐れ、火を恐れ、水を恐れ、動物を恐れ、いのちを恐れ、死を恐れます。人間は、いろいろな病気の病原菌をどうすることもできません。また、いなご、その他の害虫をどうすることもできません。地の支配者はどこへいってしまったのでしょうか。これは、全く悪魔と罪の結果です。

しかし、今なお、人間は本来の人間たる威厳を持っています。人間は、零下六十度のシベリヤにも住んでいますし、四十二度のアフリカにも住んでいます。シベリヤの人が、アフリカに行っても、別に死にませんし、アフリカの人がシベリヤに行っても死にません。他の動物で、このような能力を持ったものがいるでしょうか。決して、ありません。高い山の上に住んでいる人もいれば、九百メートルも深い地の底で働いている人もいます。動物は、そのようなことはできません。人間だけが、火を用いることができます。また、良心を持っているのは、結局、人間だけです。

今日、会話能力も、人間だけが持っています。言葉も人間の持っているものです。主なる神は、この人間を、とくに、ご自分のかたちに似せて造られたとあります。

いわゆる三位一体のことばが、確かに、人間をお造りになったことばです。創世記一章二十六節を見ると、それが良く、わかります。なぜなら、主なる神は、ご自分を、「われわれ」という複数で呼んでいたからです。造り主なる神、救い主なるイエス様、いのちを与える聖霊、この三位一体の神が、人間をお造りになったのです。すなわち、神のかたちに、神に型どって人をお造りになりました。

けれども、主なる神と人間は、どういう点で似ているのでしょうか。初めに、神について語り、次に、比較するために、アダムについて考えてまいりました。アダムという人間は、主なる神にたいへん良く似ていたと、聖書は言っています。創世記、一章二十六節に、「かたち」とありますが、それは、元来、ヘブル語では、影という意味が含まれています。ですから、人間は、神の影であると言っているわけであります。神とアダムはそれほど似ていました。けれども、どういう点が似ていたのでしょうか。主なる神は、いったいどんな方なのでしょうか。誰が神をお造りになったのでしょうか。

創世記一章一節に、「初めに神」と書いてあります。すなわち、主なる神は造られませんでした。主はモーセに、「わたしは、あってあるもの」と言われたのです。モーセは、イスラエルの民に、「わたしはあるという方が、私をあなたがたの所に遣わされた」と言ったのです。主なる神には、初めがなく、終わりもありません。主なる神は、永遠から永遠に至るお方です。主なる神は、造られたものではありません。いつも存在するお方です。いのちの泉そのものです。詩篇の作者であるダビデは、次のように書いたのです。

詩篇
36:9 いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。

主なる神のいのちについて、聖書はいったい、何と言っているのでしょうか。六つの点に分けて、簡単に考えてみましょうか。

第一番目、主なる神のいのちには、初めがありません。

創世記
21:33 アブラハムはベエル・シェバに一本の柳の木を植え、その所で永遠の神、主の御名によって祈った。

申命記
33:27 昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に。

主なる神のいのちは、初めがありません。

それから、主なる神のいのちには――二番目ですけど――終わりがありません。

出エジプト記
3:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」

モーセも、同じことを言ったのです。

詩篇
90:2 山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。

(三)主なる神は、他からご自分のいのちをもらいませんでした。ご自分のいのちにいのちを持っておられたと、聖書は言っています。イエス様は、告白しました。

ヨハネ
5:26 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。

1:4 この方にいのちがあった。

四番目、主なる神のいのちは、満ち足りています。詩篇の作者であるダビデは、次のように告白しました。

詩篇
50:12 わたしはたとい飢えても、あなたに告げない。世界とそれに満ちるものはわたしのものだから。

24:1 地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。

五番目、主なる神のいのちは変わりません。

マラキ
3:6 主であるわたしは変わることがない。

へブル
13:8 イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。

六番目、主なる神のいのちは、受け継ぐことができないものです。いわゆる甦りの書と呼ばれたコリント第一の手紙にこうあります。

第一コリント
15:50 兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。

また、ヨハネ伝のイエス様と、聖書学者であるニコデモの話の中でも、出てくることばです。

ヨハネ
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。

主なる神のいのちは、象徴として、円のようなものです。円は、初めがなく、終わりがありません。主なる神のいのちも、同じように、初めがなく終わりもありません。

ここまで主なる神は、永遠から永遠に至る神であることを、一緒に考えてまいりました。いったいどうして、初めの人、アダムが神に似た者として造られたと、聖書は記されているのでしょうかね?主なる神は、聖書の中で、ご自身を、決して、説明していません。ご自身を啓示されるだけです。主なる神は、ご自身を啓示なさるので、私たちは、主なる神を知ることができるのです。

今日、ゆっくり読む時間がないけれども、家で、創世記一章一節から二十五節までをずっと読むと、次のことばが出てきます。「神は言われた」、「ご覧になった」、「分けた」、「造られた」、「司られた」、「創造された」、「祝福された」などという言葉を見出すことができます。

主なる神は『言われた』と書いてありますから、我々は、この主の考え方を知ることができます。主なる神は『祝福された』と書いてありますから、神は愛したはずです。主なる神は『創造された』とありますから、神は意図されたはずです。これを考えると、神は人格であることが解ります。

主なる神は、考え、愛し、志すことができる人格です。ここから、主なる神について、二つの事柄が解ります。ひとつ目に、主なる神は、造られたものではなく、永遠から永遠に至る神であり、いのちの泉です。二番目、主なる神は、考え、愛し、志すことのできる人格の神です。

前の質問に帰ります。すなわち、主なる神と人間は、どういう点で似ているのでしょうか。主なる神について、まず、神は造られたものではないことを見ました。この点では、アダムと神は似ていません。

創世記
2:7 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。

甦りの書であるコリント第一の手紙にこうあります。

第一コリント
15:47 第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。

主なる神は、人間の創造者です。人間は生きた者となりました。人間は土から造られた者です。アダムは地から出て、土に属する者です。これを見ると、主なる神とアダムの本質が違っています。神は造られたものではありません。人間は造られた者です。

主なる神は無限であり、人間は有限です。主なる神は、天に属するのであり、人間は地に属する者です。主なる神は神聖であり、人間は人間的です。これを考えると、主なる神と人間との間には、非常に大きな相違があると解ります。主なる神は、超人間ではなく、逆に、人間は小さな神ではありません。

けれども、神とアダムはどういう点で似ているのでしょうか。どういう点で、人間が神の影と言われたのでしょうか。それは、主なる神の人間へのすばらしい贈り物、人格という点で、人間は神に似た者となったのです。主なる神は、考え、愛し、志すことのできる人格の神です。主なる神は、ご自身にかたどって人間を造ったとありますが、人間は、神と同じように、人格の持ち主であらねばなりません。したがって、人間は、考え、愛し、志すことができます。

次の聖句を見ると、アダムの考えたことが解ります。

創世記
2:19 神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。
2:20 こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。

アダムは、考えたばかりでなく、感情を持っていて、神から与えられた妻を愛しました。

2:24 それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。

このアダムとエバは、考え、愛することができただけではなく、志すこともできました。二人は、禁じられた木の実を取って食べてしまったと、聖書は言っています。

主なる神は、永遠のいのちという土台の上で考え、愛し、志していてくださったのですけども、これに対して、人間は、造られたいのちを土台として考え、愛し、志しました。神は造り主であり、アダムは造られた者でした。神は支配者であり、アダムはこれに仕える者でした。アダムは造られた者ですから、造り主に従わなければなりませんでした。ですから、アダムの考え、愛し、志すことは、主の支配の範囲内においてのみ、許されるべきでした。

アダムは考え、愛し、志す本当の自由を持っていました。しかし、それは神の御心の範囲内から出てはいけないものだったのです。主なる神は、造られたいのちを持っておらず、アダムのいのちは造られたいのちでした。人間のいのちについて、同じように六つのことを述べて終わります。

第一番目、アダムのいのちは初めがありました。

創世記
2:7 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。

二番目、アダムのいのちは、終わりがありました。

創世記
3:19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。

5:5 アダムは全部で九百三十年生きた。こうして彼は死んだ。

三番目、アダムのいのちは、主から与えられたものでした。

使徒行伝
17:24 この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。
17:25 また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。

四番目、アダムのいのちは、主なる神に、より頼んでいたのです。

ヨブ
12:10 すべての生き物のいのちと、すべての人間の息とは、その御手のうちにある。

五番目、アダムのいのちは、変わりうるものでした。詩篇の作者であるモーセは書いたのです。

詩篇
90:10 私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。

六番目、アダムのいのちは、誕生によって受け継がれるものでした。

創世記
5:3 アダムは、百三十年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。

主は生きておられます。支配しておられます。この主の御手におられるのは、本当に最高の宝物なのではないでしょうか。

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