2015年6月28日日曜日

いつも喜んでいなさい

いつも喜んでいなさい
2015年6月28日、吉祥寺福音集会
ゴットホルド・ベック

第一テサロニケ
5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

聖書が、どうしてこんなにすばらしいものであるかと言いますと、大切なのは、我々人間が何を知るべきか、何をなすべきかではないからです。大切なのは、主イエス様が、どうしようもない我々のために何をなさったかということではないでしょうか。もちろん、考えるともう、言葉がない。恥ずかしくなる。どうしてイエス様は犠牲になったのでしょうか?

今日、考えてみたい言葉は、今、読んでもらいました箇所です。皆、何回も何回も、お読みになった箇所なのではないでしょうか?
 
イエス様に出会った人々の祈り、また、切なる願いは、イエス様をまだご存じない方々が、主なる神との和解を受け、イエス様の提供されている赦しを受け取り、主なる神との平和をご自分のものにされ、永遠のいのちを持っているという確信を持つまで、真の救い与えられるお方を切に求めて、いただきたいということです。

私たちは、口をそろえて、言うことができれば、すなわち、『イエス様は、なんでもできるお方であるから、私たちはこの主に頼ろう、新たに決心する』と、思うことができれば、本当にありがたい。もちろん、イエス様のない人生はおもしろくない。無価値、無意味なものです。なぜならば、イエス様だけが永遠のいのちをお与えになり、本当の満足を与え、すべての問題を解決する力を持つお方であるからです。

私たちが集まるときは、いつも喜びの集いです。どうして?悔い改められるからです。へりくだれば、オーケー。告白すると、イエス様は赦してくださるだけではなくて、忘れます。『わたしは、あなたの罪を思い出さない。』すごい!すばらしい事実なのではないでしょうか。

そうすると、今日の集いは、イエス様の忠実さを褒め称えるお祝いでもあるのではないでしょうか。イエス様は、今日、我々一人一人に、『わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない。』イエス様は、自分の約束を守るお方です。

このテサロニケ第一の手紙の5章16節から18節まで、確かに私たちは何回も読んだでしょうし、聞いたでしょう。パウロがテサロニケにいる兄弟姉妹に書き送った言葉です。それも、必ず祈りの結果だったでしょう。こういうふうに書きなさいよ!彼らには、これがどうしても必要であるからです。

人間は幸せになりたいのであり、なぜならば幸せになれなければ、全てはおもしろくない、意味のないものです。『これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです』と書いてありますが、いったい、主なる神は、何を望んでおられるのでしょうか?いうまでもなく、宗教を持つことではない、キリスト教に入ることでもない。特別な教えを信じ込むことでもない。また、自分の知恵、自分の力に頼って、より良い人間になることでもありません。主なる神の要求、また、主なる神の命令は、この言葉によると三種類のものですね。

第一番目、『いつも喜んでいなさい。』たまにではない。一日おきでもない。いつも。喜ぶことの大切さ、喜びということは、旧約聖書の中で358回、出てきます。すごいのではないでしょうか。新約聖書の中で133回、喜びという言葉が出てきます。合わせて523回、喜ぶことの大切さが述べられています。いちばん大切な言葉は、『キリスト・イエスにあって』ということばです。

すなわち、この誰からも奪われることのない喜びの秘訣は、イエス様を知ることであるから。イエス様を知り、生き生きとした交わりを持つことによって、あらゆる人間の思い、例えば、孤独、傲慢、自分中心の利己主義、無味乾燥な悲哀感、絶望などあらゆる悩みが解消してしまうのです。そして、他方においては、本当の喜び、平安、満足が与えられます。

イエス様は、我々にまことの救い、すなわち、罪の赦しを与えるために、この世に来てくださり、救いの代価として、自分のいのちを捨ててくださいました。このイエス様を体験的に知るということは、永遠のいのちを持つことに他ならない。イエス様との交わりの中にこそ、本当の喜び、絶えざる喜びの源があります。すなわち、イエス様こそ、いのち、希望、喜び、平安の泉、そのものであるからです。すなわち、イエス様によって、すべての悲しみは喜びに変わります。仕事の重荷が、喜びに変わります。疲れ果てた者が新しい力を受けます。あらゆる人間的な努力の空しさやあせりが、全き平安と安らぎの静けさに変わるのです。イエス様こそ、考えられないほど、すばらしいお方です。

本当の喜びの泉は、イエス様ご自身です。イエス様が、この地上に来られた時、御使いが宣言したんですね、『恐れることはありません。今、わたしは、この民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ、主キリストです(ルカ2:10~11)。』

変わらない喜びがなければ、人生は全く重苦しいものになってしまいます。変わらない喜びがなければ、人生は退屈なものになります。主のみことばである聖書を通して提供されているすばらしい喜びは、言うまでもなく、単なる楽しみではない。一時的な問題の解決よりも、ずっと大切なものです。

聖書を通して、提供されているすばらしい喜びは、絶えざる幸せを、心の底から感じさせるものであり、そして、全き平安に導き、完全に父なる神の御手の中に守られていることを確信することです。

『マリヤは、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その罪から救ってくださる方です(マタイ1:21)』とあります。あらゆる人間にどうしても必要なものは、罪の赦しを得ることです。なぜならば、罪が赦されると、主なる神との交わりが可能であるからです。そして、父なる神との交わりによってのみ、人間は満たされ、幸福とされ、幸わせになります。すなわち、誰からも奪われることのない喜びの根拠は、罪の赦しです。罪は、人間とまことの神とのあいだにある隔ての壁です。

けれども、イエス様の犠牲によって、イエス様の身代わりの死によって、この人間と神との隔ての壁が取り去られました。身代わりとなる方がなければ、罪のない方が代わりに死ななければ、救いの道がない。罪の赦しはないと聖書は、はっきりと言っているのです。

イエス様が十字架で死んでくださった時、イエス様は私たちの死なれました。すなわち、イエス様の死は、罪に対する罰、また、裁きでした。イエス様の死によって、罪は罰せられたから、今になって聖なる主なる神は、我々の罪を赦すことができるようになったのです。

主なる神の約束を信じる者はオーケー。受け入れられ、救われます。結果として、罪は赦され、神との平和を、また、永遠のいのちを持っていることになります。そして、これこそが真の喜び、誰からも奪われることのない喜びの根拠です。

変わらない喜びは、私たち自身の中にあるのでもなく、また、私たちが持っているものや、周囲のものの中にあるのでもなく、ただ、イエス様ご自身の中にあるのです。イエス様に結びついていることが許されているということこそ、本当の喜びを意味しています。すべての他の喜びは、過ぎ行くものであり、永遠に続く喜びではありません。

『いつも喜んでいなさい』と、主は命令しておられます。これこそが、主の思いであり、主の望んでおられることです。悲しさ、落胆、敗北感は禁じられています。主は、私たちがいつも喜ぶべきであると、強く言っておられます。この主の命令に対して、不従順な態度を取ることは、罪です。

二番目の命令は、絶えず祈りなさい。祈ることこそが、人間にとって、もっとも大切です。祈らない者は、みじめであり、あわれむべき存在です。祈らない者には、本当の喜びを知らないし、実を結ばないし、主によって用いられ得ないのです。

なぜ、多くの人々は、打ちのめされているのでしょうか?ほとんど祈らないか、ほんのわずかしか祈らないからなのではないでしょうか?なぜ、多くの敗北を体験するのでしょうか?ほとんど祈らないか、祈ったとしても、ほんのわずかしか祈らないからです。なぜ、わずかな人しか、暗闇から主の光の中に導かれないのでしょうか。ほとんど祈らないか、あるいは、祈りが少なすぎるからです。

天国へ行ったとき、私たち一人一人は必ず後悔します。もっと祈ったらよかったのに!主は働こうと思ったのに、私たちは祈らなかった。主はいつも祈りの答えとして、答えてくださいます。

何でもできるお方は、以前と同じように、今もなお、全能なるイエス様です。以前と同じように、今もなお、人を救おうと願っておられます。すなわち、主の御手が短すぎて、助けることがおできにならないのではない。すべての失敗の原因は、我々の不十分な祈りの生活に他なりません。祈りによって、我々は、全能なる主の力を用いることができます。すなわち、私たちが祈る時、全能なる主は奇蹟を行ってくださいます。残る実は、いつも真剣な祈りの結果です。

我々の人生の目標は、いったい何でしょうか。それは、知恵でも、名誉でも、力でもない。永遠のものでなくてはならない。そして、この実は、ただぶどうの木であるイエス様と結びついている時にのみ、実を結ぶのです。主と結びついていなければ、そして、祈りの生活がなければ、後で残る実を結ぶことはできません。

絶えず祈りなさい。これは、主の望んでおられることです。主の恵みによって、祈りの人になりましょう。そうしたら、私たち自身、変わります。家族も友だちも、知り合いの人々も変わります。絶えず祈ることは、自分勝手な行いをせずに、主にのみ拠り頼むことです。主に拠り頼むこととは、大いなる特権なのではないでしょうか。

私たちが、祈るか祈らないかということは、我々にとってどうでもいいことではない。絶えず祈ることは、主の命令です。そして、主の命令に従わないことは、祝福され得ないのであり、罪です。

三番目、すべてのことについて、感謝しなさい。もし、『たまに喜びなさい。日曜日ごとに喜べ』と言われれば、『なるほど!』と、誰でも思うでしょう。けど、主は、『いつも喜びなさい』と、命令しておられます。もし、『時々、祈りなさい、少なくても朝と晩』と言われれば、『まあ、そうでしょう』と皆、思うでしょう。けれども、主は、『絶えず祈りなさい』と命令しておられます。そして、今度は、『あることについて感謝しなさい』と言われれば、『わかった、わかった』と、誰でも賛成するでしょう。けど、主は、『すべてのことについて、感謝しなさい』と、命令しておられます。

すべてのことについて感謝しなさい。『すべて』と書かれています。すべてのことを通して、私たちは、イエス様をより良く知るべきなのではないでしょうか。イエス様をより良く知ることとは、もっとも価値のあることなので、私たちは意識して、すべてのことについて、感謝しようではありませんか。

私たちは、いつも喜ぶことができる。絶えず祈ることができる。すべてのことについて、感謝することができると思っているからではなく、絶対にできないと確信しているのではないでしょうか。

私たちは、イエス様の言葉を覚えています。信じています。イエス様が何と告白したかと言いますと、『わたしを離れては、あなたがたは何もすることができません。』イエス様から離れては、誰からも奪われることのない喜びを知ることができないし、絶えず祈ることもできないし、そして、すべてのことについて、感謝することはできません。

有名なヨハネ伝15章の姿を見ると、『イエス様ご自身がまことのぶどうの木であって、そして、あなたがたはその枝である』と言われました。木の幹がその枝に力を送って、枝が多くの実を結ぶことができます。ぶどうの幹には、力といのちが満ちています。

そして、イエス様は約束してくださいました。『人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は、多くの実を結びます。』イエス様から離れては、私たちは本当の意味で、信じることも、祈ることも、悔い改めることも、愛することも、感謝することもできません。少しもできません。イエス様は、そう言われたのです。そして、イエス様は、何ごとでも大仰には言われません。

私たちは、告白すべきです。すなわち、私たちは、主の願っていることをちゃんと分かっている。けど、守ろうと思っても無理です。まったく、不可能です。だから、私たちは、何でもできるお方に頼る。自分たちはみじめ、貧しい者であるから、全能なる主に頼る。

主に頼ること、主に寄りかかることは、泉に連なることを意味しているのです。我々の学ぶべきことは、ペテロの経験したことなのではないでしょうか。

もう一箇所、読んで終わります。ヨハネ伝21章で、ペテロに言われた言葉です。

ヨハネ
21:18 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。

全く主に寄りかかるということが、実を結ぶこと、また、祝福された生活の秘訣です。イエス様によりかかることこそが、本当の自由、そのものを意味しているのです。

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