2015年6月29日月曜日

罪人の友であるイエス

罪人の友であるイエス
2015年6月29日、秦野家庭集会 
ゴットホルド・ベック

ルカ
7:24 ヨハネの使いが帰ってから、イエスは群衆に、ヨハネについて話しだされた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。
7:25 でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。きらびやかな着物を着て、ぜいたくに暮らしている人たちなら宮殿にいます。
7:26 でなかったら、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。
7:27 その人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。
7:28 あなたがたに言いますが、女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています。
7:29 ヨハネの教えを聞いたすべての民は、取税人たちさえ、ヨハネのバプテスマを受けて、神の正しいことを認めたのです。
7:30 これに反して、パリサイ人、律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けないで、神の自分たちに対するみこころを拒みました。
7:31 では、この時代の人々は、何にたとえたらよいでしょう。何に似ているでしょう。
7:32 市場にすわって、互いに呼びかけながら、こう言っている子どもたちに似ています。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、泣かなかった。』
7:33 というわけは、バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、『あれは悪霊につかれている。』とあなたがたは言うし、
7:34 人の子が来て、食べもし、飲みもすると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言うのです。
7:35 だが、知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します。」

今日の集いもそうですし、大切なのは、人間は何を信じるべきか、人間は何をやるべきかなのではない。イエス様は、どうしようもない人間のために、いかに苦労したのか、犠牲を払ったかということです。

宗教は、人間から要求します。真の神は要求しません。主なる神の呼びかけとは、『疲れているから、さみしいから、おいで!わたしは永遠の愛をもってあなたを愛している。』考えられない呼びかけです。

すなわち、主イエス様とはどういうお方でしょうか?今、言われたように、イエス様とは、罪人の友です。裁き主ではない。イエス様の当時の敵は、イエス様をいつも、罪人の仲間だと呼びました。すばらしい真理です。罪人の友を見るために聖書を求めなくてはならない。今、読んでもらいました箇所の中に書かれていますね。

ルカ
7:34 人の子が来て、食べもし、飲みもすると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言うのです。

7:39 イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。

似ている箇所は、いっぱいあります。いわゆるザアカイの救いについても、ルカ伝19章に書いてあります。

ルカ
19:7 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。

よろこぶべきだった。イエス様があの家に入ることによって、結局、あの持ち主であるザアカイは、変えられました。その時まで彼は、ひとつの目的しか持っていなかった。お金、お金、お金!金があれば心配しなくてもいい。しあわせ。けど、彼は金持ちにはなったけど、幸せではなかったのです。けども、イエス様は、結局、自分自身を案内したんです。彼の家に行って、彼と何と何を話されたのかはわからない。けど、その日から、彼は全く違う人間になったのです。

人がその友のためにいのちを捨てるという、これより大きな愛は誰も持っていません。イエス様は、まだ私たちが罪人であったとき、私たちのために死なれました。自分のために死なれたとは、ちょっと想像できません。考えられない。我々が立派だったら、まあまあ・・・・でしょうけど、誰でも分かるでしょう、人間なんてゴミみたい、捨てられてもいいんじゃないの?どうせ、役に立たない。けども、聖書には、主イエス様は、罪人の友なんですとあります。

パウロは長いあいだ、イエス様のことを無視したんです。イエス様を信じるものを迫害したんです。なぜならば、このイエスとは、詐欺師で、大噓つきで、無視したほうがいいといったんです。けど、彼は愛弟子であるテモテに書いたんです。

第一テモテ
1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

『いちばんひどいのは私だよ!』と、彼は言うようになりました。考えられない変化です。

確かにイエス様は罪人の友です。聖書を通して紹介されたイエス様とは、全人類の罪を己が身に引き受けられるために、どうしようもない人間、すなわち、罪人とひとつになられたのです。もし、私たちが罪人であると認めるならば、我々もイエス様の友なんです。イエス様は何というすばらしい友でありましょうか。

罪人のためにのみ、すばらしい福音があります。主なる神が、自分について仰ったことを認めるべきです。そうしたら、イエス様を友として迎えることができます。主なる神は、すべての人は罪人であると言っておられます。もし、私たちがそれを認めるなら、その時、イエス様は我々の友となります。

私の神学校の創設者は、死ぬときにある日、妻に大喜びで言ったんです、「私は詩を作ったよ!」この方は、非常に頭がよくて、ユダヤ人で、七ヶ国語を流暢に話すことができた大学者でした。けど、彼の作ったこの詩は、とても簡単な詩でした。奥さんはもちろん、たいへん、いぶかって、どんな種類の詩なの?と、きいたんです。その詩は次のような詩でした。

主イエスは、私を友と呼んだ。
私を友と呼んだ。
主イエスは、私のために十字架の上で亡くなられた。
イエスは、私を友と呼んだ。

この詩は、確かに、たいへん簡単ですけど、このように言える人は、もっとも幸福です。この方は、死の直前に、「私は、主イエスを見、主イエスの声を聞きます。主イエスの血潮による罪の贖いは、栄光の冠です」と言いました。

主イエスは、もうすでに、私たち一人ひとりの友となっているのでしょうか。

イエス様とは、いったいどのような友でしょうか。第一の答えは、イエス様は、辛抱強い友です。パウロは、イエス様の忍耐を体験しました。愛弟子であるテモテに、彼は書いたんです。

第一テモテ
1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
1:16 しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。

パウロは、イエス様の忍耐を褒め称えました。パウロは、罪人のみが、イエス様の忍耐を経験することができる、また、罪人のみが、主エス様を友として受け入れることができると言いました。パウロは、信じる者のためにテサロニケ第二の手紙の中で、次のように書いたのです。

第二テサロニケ
3:5 どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように。

私たちは、イエス様の再臨を待ち望んでいます。けど、なぜイエス様は、今までお出でにならなかったのでしょう?イエス様は、結局、辛抱強いお方であるからなのではないでしょうか。

第二ペテロ
3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

主は、忍耐深いお方です。イエス様は、父、母、親戚、知り合いの人々を救われたいために、今日まで、まだ、お出でになっておられないのでしょう。イエス様は、忍耐強い友です。私たちは、しばしば、忍耐強くなくなります。他の人は、我々に対して忍耐を持っていないかもしれない。イエス様は、決して、焦ったことはありません。いつも、忍耐強くあられますから、私たちがどんな心の状態で、イエス様の前に出ようとかまいません。

イエス様の釘を打たれた御手は、いつも涙をさそいます。イエス様は、我々に対して、いつも忍耐強くあられました。そして、私たちは、イエス様の忍耐を考えると、より忍耐強くあることができます。

二番目、イエス様はどういう友なのでしょうか。すなわち、力強い友です。

多くの友を持つということは、大切ではありません。けど誰が友であるかということは、大切です。イエス様は、我々が考えている以上に力強いお方です。イエス様は、私たちに約束されたことを、必ず与えることができるお方です。イエス様は、我々にお与えになったものを、もちろん、守ることができるお方です。

イエス様は私たちを完全に救うことができます。我々の代弁者であられます。また、我々の代表者でもあられます。イエス様は、何という力強い友でありましょうか。

イエス様は、地上におられた時、ご自分でその力を証明されました。イエス様は、メクラの目をあけました。悪霊に話し、悪霊は逃げました。イエス様は、死んだ人を呼び、再び生かされました。イエス様は、海と風に命じ、静められました。

もっとも偉大な行ないをイエス様は、いわゆる小羊として完成されました。イエス様の流された血は、今日、なお、同じ力を持っています。罪人を聖なる神と和解させる力を持っています。私たちは、聖なる神のもとへ出入りすることが許されています。これは、もっとも偉大な奇蹟です。救いは、もっとも偉大なる奇蹟です。悪魔の奴隷が、神の子となるのです。

イエス様は、我々の債務を一身に負われました。ですからイエス様は、我々を救う力をお持ちです。イエス様の恵みは、ただ自分の債務を認めた人のためにのみあるのです。また、罪人のためにのみ、イエス様は友であります。イエス様は、今、話したように、罪人の友です。

浮き袋は、ただ溺れている人のためにだけ必要です。イエス様は、罪人のためにだけ、必要です。イエス様には、救う力があります。

死につつある強盗は、イエス様に祈ったんです、「私を想ってください。」と言いました。聖なる神の一人子であるイエス様は、何を答えたかと言いますと、「あなたは今日、わたしと共にパラダイスにいるようになる」と言われました。何というすばらしい罪人の友なのでしょう。イエス様は、ある罪深い女に、「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」と言われました。また、イエス様は、騙しとって金持ちになったザアカイに、「今日、あなたの家に泊まるから」と言われました。また、「今日、救いがこの家に来た」と、言うことができたのです。姦淫の場で捕まえられた女がいました。人々は、彼女を石で打ち殺そうとしました。人々は、彼女を軽蔑しました。彼女が罪深い女だったからです。イエス様は、「わたしは罰しない」と彼女に言ったのです。おかえりなさい。今後はもう、罪を犯さないように。

『人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれにもない(ヨハネ15:13)』とあります。けども、パウロは、ローマにいる兄弟姉妹に書いたのです。

ローマ
5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

イエス様は、罪人のために亡くなられました。私たちが罪人であった時に亡くなられたのです。何という喜びの知らせでありましょうか。

昭和十四年から二十年までの第二次世界大戦は、私たちが、それを信じようが信じまいが、もちろん、事実――歴史的な事実です。今から数百年前に、ナポレオンというフランス人が、いろんなことをやりました。もう戦争して、よく勝ったんです。これもまた、私たちが信じようが信じまいが、歴史的な事実です。今より二千年前に、イエス様がゴルゴタの丘の上で亡くなられたのも、私たちが信じようが信じまいが、厳然たる歴史的事実です。

イエス様は、私たち一人ひとりのために亡くなられました。イエス様は、我々の罪のために、犠牲になったのです。私たちは、イエス様を十字架につけられた罪人の友として、心の目で見たことがあるのでしょうか。結局、イエス様は、我々ひとりひとりのために、ご自身のいのちを与えられました。イエス様が、保釈金を払われましたから、私たちはもはや、罪の奴隷ではない。イエス様は、罪人である我々のために亡くなられました。ですから、私たちはもはや、自由と平安のないままでいる必要もない。

罪人の友、主イエス様は、救う力を持っておられます。何でもできるお方です。それを信じる者は、イエス様を友として持っている人です。私たちが、イエス様の救いを信じるならば、その救いの確信、すなわち、罪の赦しの確信を持つことができます。この確信を持っていなければ、それを延ばし延ばしにしてはいけません。

今日でも、イエス様に祈って、感謝したらいいと思います。「イエス様、あなたが罪人である私のために、十字架の上で、お架かりになり、その血潮によって、私の罪を赦してくださったこと、また、あなたを私を友と呼んでおられることを感謝します。」このようにゆうことができれば、本当に幸いと思います。

イエス様は、救う力を持っています。イエス様は、あらゆる問い、あらゆる問題に対して答えを与えられます。イエス様は、人間一人ひとりを導く力も持っています。実際は、力強いお方です。

もうひとつ、イエス様とはどういうお方なのでしょか。三番目、イエス様は、実際におられるお方です。

長い祈り、祈りに祈って三十分もしてから、イエス様はおられると気づくのは、ちょっとおかしい。良くないことです。イエス様は、近くにおられます。信じる者の内におられます。我々の内におられるイエス様ご自身、栄光の望みである。私たちは、イエス様と一つになっています。私たちはイエス様の肢体です。イエス様は、我々とひとつになっています。

私たちは、イエス様の後ろを追う必要はない。イエス様は、近くにおられます・・・・と、絶えず覚えるべきなのではないでしょうか。イエス様は言いました、「わたしはあなたを見放さず、あなたを決して捨ない」と、約束してくださったのです。『決して』は、『決して』です。また、イエス様は約束してくださった、「わたしは、世の終わりまであなたがたと共にいる」と、約束してくださったのです。これは、イエス様の約束です。イエス様は嘘つきではありません。

イエス様は、我々を永遠に変わらない愛をもって、愛しておられます。イエス様は、我々をご自身の血で贖われ、ご自分のいのちをお与えになりましたから、イエス様は、我々を一人ぼっちにさせられることはない。私たちは、決して、一人でいることはありません。イエス様が近くにおられるからです。

我々にとって、何としばしば、他のものがイエス様より、現実的であることでしょう。母親は、その子を捨てることもしますが、イエス様は、決して捨てないと約束されています。もし、私たちがいつも、主イエス様の御心にかなった生活をするならば、いつも慰められていることができます。イエス様は、実際におられる友です。

昔、多くの人々は、ドイツの宗教改革者であるマルチン・ルターを異端者として訴えました。大部分の聖書のみを信じた人々は、異端者と呼ばれ、火あぶりの刑に処せられました。ルターの友だちは、彼に言ったんです。「君はどうするの?」彼は答えたんです、「私は、本当に楽しく、慰められている。イエス様は、実際におられる友であり、私はイエス様の御手の内にあるから、心配はない。決して、一人ぼっちではない。それを固く信じましょうよ」と。たとえ、悪魔が、私たちに逆らいたくても、私たちが何も感じなくても、イエス様はここにおられる・・・・、とルターは、確信を持って、言うことができたのです。

結局、イエス様は、辛抱強い友だけではなく、また、我々の力強い友であるばかりではなく、また、実際におられる友であるだけではない。四番目です。イエス様は、我々の尊い友です。

イエス様は、信じる者にとっては、尊い存在です。イエス様は、我々にとって本当に尊い存在なのでしょうか。

主イエス様は、我々を救い、我々を愛し、我々の側に立っておられます。イエス様は、我々にとって尊い存在であるべきです。私たちは心から、「私は主イエス様を愛します」と、言えるでしょうか。私たちは、イエス様を知っているのでしょうか。イエス様を知ることとは、主を愛することです。私たちがイエス様を知れば知るほど、もちろん、主を愛さざるを得なくなります。

私たちは、他の何ものにも増してイエス様との交わりをよろこぶでしょうか。我々にとって、イエス様のご臨在は、他の富よりも大切なのでしょうか。もしも、主イエス様が、我々の友であるならば、他のことは何もかまわなくていいんです。もしも、私たちが、主のご臨在の内にあるならば、私たちは、どこに住んでも、何をしてもかまいません。

イエス様は、尊い友です。イエス様は、この地上における、もっとも美しい方でした。イエス様のからだは、罪を知らなかったのです。イエス様は、父なる神の心にかなったお方でした。いつも、『お父さん、どうしましょう。教えてください、導いてください』と祈り続けたのが、イエス様なんです。イエス様は、父なる神の本質の姿だったと書いてあります。

子供がイエス様を追いかけ、多くの人々がイエス様について行きました。イエス様は、尊い友です。もし、イエス様を見るならば、あらゆる飢え渇いている者の心は満たされます。なぜイエス様は、我々にとって尊いのでしょうか。イエス様は天国の栄光を捨てて、この地上に来られたから、イエス様は肉の姿をとられ、自分自身を空しくして、僕(しもべ)のかたちをとられたから、尊いのです。イエス様は、その愛と十字架のゆえに、我々にとって尊いです。イエス様は、再び来られ、イエス様がどんなお方か、再び見られるから尊いです。

イエス様は、本当に尊い友です。私たちは、イエス様を友として受け入れているのでしょうか。イエス様のお約束が本当であることを、私たちは信じているのでしょうか。イエス様は、罪人の友です。イエス様は、一人ひとりにとって、今日、尊い存在でしょうか?もし、自分にとって、イエス様が価値あるものであるならば、イエス様は自分の心を開く、その結果、自分は今日、イエス様を尊いお方として知ることができます。

もし、イエス様が、自分にとって尊い存在であるならば、自分を通して、他の人々にも尊い存在となるに違いない。イエス様は、他の人に救いの道を示すために、自分をお救いになったのです。このイエス様を紹介することができるのは、本当にありがたい。イエス様はある時、言いました、「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った。」また、「わたしについて来なさい」と言われただけではなく、「わたしはあなたを、人をとる漁師にしてあげる」と言われたのです。

イエス様が、我々の友となる前に、私たちは、イエス様をおもちろん、受け入れなければ、イエス様に頼らなければならない。結果として、もちろん、確信できます。イエス様は、罪人の友です。もし私たちが、イエス様を辛抱強い友、力強い友、そして、実際にある友、また、尊い友として、新しく体験することができれば、本当に幸いと思います。

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