2015年6月30日火曜日

人間の創造(三)

人間の創造(三)
2015年6月30日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

創世記
2:9 神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、命の木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。

2:15 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
2:16 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

3:1 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」
3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
3:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
3:9 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
3:10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」

神の御心とはいったい何なのでしょうか。一文章で言いますと、主なる神によって造られた人間が、永遠の命を持つ――これが主の御心です。

ある人は告白しました。どなたかな?「私は心配しています。」どなたでしょうかね。パウロの告白です。「私は心配しています。」よみましょうか。

第二コリント
11:2 というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。
11:3 しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。

可能であるから!主なる神は、人間を肉体的にも霊的にも完全な者として造られた。完全なる者は、不完全な人間に造られません。私たちは、天使と動物と人間のあいだに大きな相違のあることをすでに見てきました。

人間は、どういう点で創造主なる神に似せて造られたか・・・・という問いについても、考えてまいりました。すなわち、主なる神は、考え、愛し、志すことのできる人格です。同じように、アダムは考え、愛し、志すことのできる人格として、創造されました。けれども、主なる神は、永遠から永遠に至る、造られたことのない命を持ち、これに対し、アダムは、造られた命しか持っていなかったのです。

主なる神は、アダムをご自身の性質に預かることのできる人間に造られたのです。アダムは、神の性質を持っていませんでしたが、神の性質に預かる能力を持っていた。アダムは神によって造られた命を持っていました。しかし、神の命を持っていなかったのです。すなわち、造られたことのない命を持っていませんでした。

多くの人は、救いとは、アダムが罪を犯す前の状態に、人間を引き戻すことであると思っています。確かに、アダムは罪を持っていませんでしたが、アダムの命は造られた命でした。これに対し、救いを計画された人は、永遠の命を持っています。すなわち、アダムより、より良いものを持っているのです。

今日の題名は、「主なる神の願いは、いったい何でしょうか」と。もし、私たちが、自分は何も困難を持っていない、自分はこれで満足だと思うならば、それは、決して良くない。悪魔によってメクラにされていることでしょう。けれども、もし、私たちが色々な困難、まだ答えをもらっていない疑問、主なる神の御心を知りたいという憧れを持っていると、本当に幸いです。

主なる神の御心は、いったい何でしょうか。主によって造られた人間が永遠の命を持つ、これが主なる神の御心です。人間は、主によって造られた者ですから、永遠の命を持っておられるように、子にも、自分の内に命を持つようにしてくださったのであります。

ヨハネ
5:26 それは、父がご自分のうちに命を持っておられるように、子にも(・・・・すなわち、イエス様にも・・・・)、自分のうちに命を持つようにしてくださったからです。

けれども主なる神と同じように、アダムも永遠の命を持つようになることが、主の御心でした。アダムは、神の被造物でしたが、神の子ではなかったのです。なぜなら、神の子ならば、神の命、すなわち、永遠の命を持っているはずだからです。

神の被造物としてのアダムは、もちろん、完全でした。そして、アダムの環境も完全でした。私たちが想像できないほど、エデンの園は、美しかったでしょう。エデンの園は、天国と同じだったに違いない。雑草もなかったはずです。完全でした。主なる神ご自身が、エデンの園をお歩きになったと、聖書は言っています。

創世記
2:9 神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、命の木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。

多くの木は、人間が、その実を食べるために造られたものです。この中に、二本、特別な木があったのです。それは、命の木と善悪を知る木でした。これは、アダムとエバにとって、何を意味していたかと言いますと、ひとつの提供、ひとつの大きな恵みの提供でした。

木を造られた目的は、いったい何だったでしょう。聖書には、「命の木と善悪を知る木」と、命の木の方が先に書いてあります。これは、命の木の方が大切だから。アダムは、これを知っていたはずです。主なる神は、この命の木をアダムがいつも見えるように、いちばん大切な場所である園の中央に生えさせたのです。

聖書では、善悪を知る木を、命の木の次に言っており、主なる神は、この善悪を知る木を、園の中央には生えさせなかったのです。神は命の木からは取って食べても良いと、人間に許しを与えたのですけど、善悪を知る木からは、取って食べてはいけないと、はっきり言われました。

もし、ご自身の命令に不従順ならば、その裁きがどのようなものかも、主なる神はあらかじめ、言っておられました。ひとつの許し、また、ひとつの戒めがあったのです。主なる神は、人間が、神の御心を知るために、いつも何か、象徴を用いて、語りかけてくださるのです。たとえば、主はモーセに幕屋を作るように命令され、その大きさ、材料などを詳しく教えられたのです。この幕屋は、救いを象徴するものでした。主なる神は、イスラエルの民に、ご自身の救いの計画を知らせるために、この象徴をお与えになったのです。また、イエス様はパンを裂いて、「これは、わたしの砕かれた体の象徴だ」と言われ、ぶどう葡萄酒をもって、「これは、わたしの流す血の象徴だ」と、言われました。

主なる神は、エデンの園に永遠の命の象徴として、命の木を置かれました。永遠の命は、主なる神の内にのみあります。この命をアダムに与えるのが、神の御心でした。アダムとエバは、その木が、永遠の命の象徴であることを知っていたはずです。

命の木は、父なる神の象徴でした。主なる神は、命であり、命の泉です。そして、その木の実は、イエス様です。木は食べることはできません。けれども、その実は食べられます。誰も、父なる神を受け入れることはできません。けれども、イエス様を受け入れることはできます。木を食べることはできませんが、木の実を、すなわち、イエス様を受け入れ、自分のものにすることができます。

受け入れられる形の神がイエス様です。主なる神は、エデンの園の中央に、命の木を置かれたのですが、アダムとエバに、食べることを強制はしませんでした。それは、人間が神に似せて造られたからです。人間は、考え、愛し、志すことのできる人格です。だから、主なる神は、人間に強制しません。

もし、アダムとエバが、命の木の実を取って食べたなら、主なる神の命、すなわち、永遠の命を持つようになりました。アダムとエバは、自分たちのために用意された命、すなわち、主イエス様を信仰によって持つに至ったのです。アダムとエバは、毎日、命の木の実を食べていたなら、だんだん、主イエス様の御姿に似た者となったことでしょう。それは、主なる神の御心そのものでした。

もし、アダムとエバが、命の木の実を食べたならば、永遠の命を選び取ることによって、神の子になったのです。けれども、その永遠の命を子孫に受け継がせることはできません。アダムとエバの子は、両親と同じく、罪なく完全な者だったのですが、両親と同じく永遠の命を、命の木の実を食べることによって、獲得しなければならなかったはずです。永遠の命は、いつも、主の贈り物として与えられますから、それを受け継ぐことはできません。

人間は、御霊によって生活するように造られたのです。人間は、永遠の命を持つ能力、また、永遠の命を選び取る能力を持って造られました。けれども、人間は、自分で選ばなければならない。アダムは完全な者として造られたから、罪とは何かを知らず、また、善悪も知らなかったはずです。それではいったい、アダムはどうしたら、良いものを選ぶことができるのでしょうか。どうしたら、悪いものを嫌うことができるのでしょうか。アダムは、自分で何も知りませんでしたから、主なる神のところへ行って、主に尋ねなければなりません。主は、全知全能の方であられるから、アダムの問いに答えることができます。アダムがそうしたならば、アダムの命は、完全に創造主なる神に依存した命だったのです。主なる神は、今日も、ご自身に完全に依存する命の持ち主を求めておられます。

主なる神は、ご自身に依存することを、誰にも強制はしません。主なる神は、奴隷を持つことを欲したまいません。自分で、永遠の命を選び取り、主を愛する者を求めておられます。だから、選ぶ機会が必要だったのです。この選ぶ機会を通して、与えられたのが善悪を知る木だったのです。

創世記
3:5 (蛇は女に言った)あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。

もし、アダムとエバが善悪を知る者となったら、神は必要でなくなります。なぜなら、神を尋ねなくても、善悪をわきまえ知ることができるようになるから。アダムとエバが、神をのけ者にして、何かをすることは、悪魔の意図するところでした。

第一の人アダムは、何をやったのでしょう。彼は、主なる神に頼ったのでしょうか。あるいは、主に逆らったのでしょうか。これこそ、大切な選択だったのです。結局は、災いとなった選択になってしまったのです。

創世記
1:28 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

これは、主なる神によって与えられたアダムの成すべき使命でした。すなわち、『地を従わせよ、治めよ!』と、命令してくださいました。この地を支配するのは人間の成すべき使命でした。

エデンの園は、主によって特別に造られたものだったのですから、考えられないほどすばらしかったに違いない。それに対して、エデンの園の外の地は、そんなにきれいではなかったでしょう。けれども、主なる神は、人間を通し、主のこの地上における支配をだんだん拡張し、ついには、地の果てまで、その支配を及ぼそうという御心でした。もし、アダムが命の木の実を食べたなら、永遠の命を受けることによって、アダムの精神は、新しく生まれ変わり、アダムの魂は、利己主義から解放され、アダムの肉体は、死から免れ、永遠の命を持つようになったでしょう。けれども、アダムは、選択を誤って、どうしようもない罪人になってしまったのです。

創世記
3:1 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」

「本当に神は言われたのですか?」悪魔は、神のことばの終わりに、疑問符を打ちます。試みるのは、いったい誰だったでしょう。ここに、蛇と書いてあります。その頃の蛇は、たぶん地上で、いちばん美しい動物であり、地上を這ってはおらず、人のように立って歩いた者だったのではないかと考えられます。

けれども、言えることは、いちばん美しい動物でさえ、自我意識を持っていません。しかし、このエデンの園の蛇は、自我意識を持っていました。自分の意思を持っていました。それだけではなくて、神を意識する意思を持っていました。ですから、この蛇は、単なる動物ではなく、悪魔の使い、悪魔の道具として使われたものです。

イエス様の時代には、悪霊が動物の中に入ったことが記されています。

ルカ
8:31 悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願った。
8:32 ちょうど、山のそのあたりに、おびただしい豚の群れが飼ってあったので、悪霊どもは、その豚にはいることを許してくださいと願った。イエスはそれを許された。
8:33 悪霊どもは、その人から出て、豚にはいった。すると、豚の群れはいきなりがけを駆け下って湖にはいり、おぼれ死んだ。

創世記三章一節の蛇は、黙示録の十二章、また、二十章に出てくるものでしょう。古い蛇、すなわち、悪魔、サタンと呼ばれている者です。

黙示録
12:9 こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。

20:2 彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕え、これを千年の間縛っ(た。)

人間が、地の支配者という使命を持っていることを、悪魔は知っていました。そして、また、人間が神に頼るならば、その使命を成し遂げることができることも、悪魔は知っていました。したがって、悪魔の目的は、神なしに、自分で何かをやることでした。

問いを三つ、設けましょうか。第一番目、悪魔の目的とは、いったい何だったの。二番目、悪魔はどんな手段を用いたのでしょうか。三番目、悪魔はいかにして、アダムとエバに勝ったのでしょうか。

悪魔の目的とは、何だったのでしょうか。悪魔は、主なる神をその御座から落とし、自分が神になろうという目的を持っていました。悪魔は、世界を支配することを望み、その協力者として、人間が必要だったのです。悪魔は、自分の目的を達成するために、人間を、神から引き離そうとしたのです。ですから、悪魔は、人間が主なる神から離れて、物事を行うことを求めました。人間の神に対する信頼を断ち切り、人間を不従順と不信仰に陥れるのが、悪魔の目指す目的だったのです。

悪魔は、どんな手段を用いたのでしょうか。悪魔は、エバに、『神は、被造物に対する支配の権利を持っていない』などとは言いませんでした。この代わりに、悪魔はエバに、「おまえは満足していないか」とささやき、間違った希望を与えたのです。悪魔は何とかして、主なる神と人間と霊の交わりを断ち切らねばならなかったのです。

ですから、悪魔は、アダムとエバの霊までも犯しました。悪魔は人間に、神と同じ認識に至るであろうという、誤った希望を与えることにより、人間の霊を犯したのです。人間は、自分の霊を通して、主を認めることができる。これは、主から人間に与えられたいちばん大きな贈り物です。

けれども、悪魔は人間に、『神は人間に最良のものを与えなかった』と言ったのです。悪魔は人間の霊を犯すに先立って、まず、人間の魂を犯しました。まず、人間の感情が魅惑させられたのです。エバは、賢くなりたいと願いました。エバが、その木を見て、美しいと思い、その実を欲しいと思うように、まず、彼女の目が開かれねばなりませんでした。

悪魔は、人間の魂に対する攻撃を、人間の五感を用いて行いました。悪魔は、エバの肉体を通して、その精神までをも犯したのです。悪魔は、外から来て、人間の肉体を犯し、魂を犯し、精神を犯したのです。

悪魔はいかにして、アダムとエバに勝ったのでしょうか。

創世記
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。

これは、主の人間に対する戒めでした。人間が主の戒めに逆らったら、罪人になります。罪を犯す機会とは、主に逆らうことです。罪を犯す機会は、これだけしかありませんでした。だから、悪魔は、このただひとつの点に攻撃を集中しました。悪魔は、アダムとエバの神に対する信頼を断ち切り、主なる神の言葉に対する疑いを起こさせ、アダムとエバに、自分で何かしようとする気持ちを起こさせました。創世記、三章一節ですね、「本当に、神は言われたのでしょうか?」悪魔は、主のことばの終わりに、疑問符を打ちます。

聖書は、主のことばです。ある人は、キリストの教えは良いものですけど、実際の生活に、役に立たないと言います。これは悪魔の働きです。たとえば、ローマ書に次のように書かれています。

ローマ
8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

このことばに疑問符を打ち、イエス様は嘘つきだ・・・・と言う人がたくさんいます。

悪魔は絶えず、エバに善悪を知る木について話しました。なぜかと言いますと、それは、エバが命の木を忘れるようにするためでした。創世記3章3節の後半で、エバは、『神がこの木の実に触れるなと仰せになった』と言ったのですけど、これは、神のことばではなかったのです。これから考えますと、エバの本当の気持ちは、善悪を知る木に触れることも見ることも、また、それから取って食べることもしたくなかったに違いない。

悪魔は、エバの目に力を及ぼしました。エバは、善悪を知る木を見ました。これは、悪魔の策略です。同じく悪魔の奸計(かんけい)により、エバは神のことばを疑いました。悪魔はエバに、『神のことばは嘘、あなたは決して死なない!』と言ったのです。神のことばに代わって、自分の言葉を言ったのです。エバは、罪を犯したくなかったのです。けれども、悪魔の策略で騙されてしまいました。

けれども、アダムは意識して、エバからその実をもらい食べました。ですから、アダムは意識して、主の御心に逆らったのです。この二人の罪は何であったかと言いますと、今まで持っていた主のことばを離し、悪魔の言葉を受け入れたことです。その結果、主との関係をなくしてしまいました。

悪魔は、人を誤った方向に導く時、いつも、神のみことばの後ろに疑問符を打ちます。悪魔は、今日も、これと同じ方法で、私たちを試みます。まず、肉体が試みられ、次に、魂が犯され、最後に、霊が打ち負かされる・・・・これが、罪を犯す道順です。

ダビデという男は、主のみことばの大切さを経験しました。

詩篇
119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

パウロは、また、テモテに次のように書いたのです。聖書のすばらしさ、大切さについてです。

第二テモテ
3:15 聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。

最後に、もう一箇所、エレミヤ記の十五章、多くの人々の大切なみことばのひとつなのではないでしょうか。

エレミヤ
15:16 私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。

みことばこそが、最高の宝物なのではないでしょうか。

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