2015年5月17日日曜日

牧者のところへ行こう

牧者のところへ行こう
2015年5月18日、秦野家庭集会 
ゴットホルド・ベック

詩篇
23:1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

今の詩篇は、非常に有名なところです。聖書をあまり知らなくても、この二十三篇を聞かせると、『あ!聞いたことがある、いいですね』と言われます。

ダビデとは、こういうふうに心から告白しました。自分の持っている問題、悩みとは、別に大切ではない。牧者なる主は近くにおられる、必要な助けを必ず与えると、ダビデは確信しました。

確かに今の世界とは、ひとつの大きな病院です。なぜならば、人間は悩むものであるからです。あらゆる人間は、悩んでいるものであり、重荷を負っているものであり、失望、絶望をしているものです。それだけではなくて、どうしたらいいか分からないのが人間です。結果として、人間は孤独であり、今、話したようにさまよえる羊のようなものです。そして、さまよう羊の救いとは、羊飼いの近くにいることです。ダビデは、もう三千年前に言うことができたのです。『主は私のものです。主が私の牧者であるから、私には乏しいことがない。もう満足している』と、言うことができたのです。

ダビデは、私そのものは確かに助けのない、おろかな、無力な羊であるからこそ、どうしても、羊飼いを必要とすると。自分自身のみじめさを良く知っているものは、よく羊飼いなる主のところに来て、全てをその羊飼いにゆだねられます。よき牧者であるイエス様は徹頭徹尾、自分を無にして、羊たちである我々、一人ひとりの幸いだけを考えます。二千五百年前に書かれた約束は、確かにすばらしいものです。

エゼキエル
34:15 わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。――神である主の御告げ。――
34:16 わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。

本当にすばらしい呼びかけであり、約束です。

あまり、おもしろくない知らせとして、聖書は言っています。『私たちはみな、例外なく、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かっていった』(イザヤ53:6)。しかし、それだけではなく、喜びの訪れも書かれています。『しかし、父なる神は、私たちのとがを十字架につけられた主イエスにおわせた。』イエス様の弟子であるペテロは、次のように告白したことがあります。

第一ペテロ
2:25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

イエス様は、ご自身のいのちを与えてくださったよき牧者であるだけではなく、今日もなお、目に見えませんけど、我々の近くにおられ、人間一人ひとりのために生きておられ、一人ひとりのことを考えてくださり、一人ひとりのことを配慮しておられます。そして、聖書の招きの言葉とは、ありのままの状態で、まさに、そのままの状態で、私たちはイエスさまの御許に行くことを許されています。イエス様は待っておられ、決して、拒むことを、誰に対してもなさいません。イエス様は赦してくださり、解放してくださり、本当に新しくしてくださいます。

唯一の救い、すなわち、罪の許し、主なる神との平和、また、永遠のいのちを与えようと望んでおられるイエス様は言うまでもなく、宗教とまったく、関係のない方です。いつも言いますけど、聖書の中で、『宗教』という言葉は、一回も出てきません。まことの神は、宗教とまったく関係のないお方であり、従って、主なる神の御言葉である聖書も、宗教と関係のない書物です。宗教は、人を惑わし、間違った仕方で安らぎを与え、人を惑わして、お金を取るものにすぎません。

イエス様とは、もちろん、当然ですけど、まったく宗教と関係のないお方です。無宗教です。このお方は、人間から何も要求しません。宗教はみんな、要求します。勉強して、分からないとダメ。分かるものではないのに。努力して、完璧にならないとダメ。完璧になるものではないよ。それから、お財布を忘れないで。宗教とは結局、そういうものです。

まことの神の呼びかけとは、『ああしなさい、こうしなさい、ああしてはいかん』などではない、まことの神の呼びかけとは、人間一人ひとりに対する呼びかけとは、『わたしは、あなたを愛している。』どうしてか、なぜか、分かりません。考えられない。憎まれて、捨てられても、当然ではないですか?けども、嘘を知らない主は、『わたしはあなたを愛している』と、約束しておられます。

十字架上におけるイエス様の代わりの死、すなわち、人間一人ひとりの身代わりとなって、我々のわがままを贖ってくださったイエス様こそが、はっきりと啓示された父の愛、そのものです。万物は、創造主なる神によって造られ、この偉大なる主は、ご自分の被造物のことを配慮しておられます。そして、この主は、人間一人一人に対して、関心を持っておられます。ちょっと考えられないことですけど、そうです。我々もこの主によって、深く、心から愛されているということです。

だから、悩んでいる人間は絶望しなくてもいい。なぜならば、孤独から解放される可能性があるからです。あらゆる重荷から解放される可能性も、存在しているからです。そして、債務からの解放も提供されているのであり、主はすべての罪、過ち、わがままを赦そうと望んでおられます。

もちろん、今日の集いも、何千年前に約束され、そして、預言どおりに、この世に来られ、人間の代わりに十字架の上で、我々の本来、受けるべき天罰をお受けになり、復活し、救いの道をお開きになり、昇天なさり、そして、再び、また、お出でになるイエス様を紹介するための集いです。

我々にとって、もっとも大切なものはいったい何でしょうかね?肉体上の健康でもなければ、たくさんのお金を持つことでもない。また、多くの友だちを持ったり、権力や名誉を持つことでもありません。大切なのは、人間が債務の重荷から解放されることです。そして、救い主なる神が自分のわがままを赦してくださり、自分に永遠のいのちを与えてくださったという確信を持つことです。

イエス様を受け入れて、そして、その後で後悔した人は、この世に一人もいません。なぜならば、イエス様は、限りなく豊かに恵んでくださるお方であるからです。本当の救いとは、あらゆる心配、恐れ、思い煩いからの解放です。救われるということは、主なる神の愛を体験することです。人間によって作られた宗教に入ることによって、あるいは、人間に作られた神々を拝むことによって、何の愛も体験せず、何らの救いも与えられません。

傷ついた心は解放され、癒されるべきです。かたくなになった心は、主の愛によって克服され、新しくされるべきです。満たされない心は、この世に来られた救い主であるイエス様によって、満たされるべきです。したがって、人間にとって大切なのは、主を知ることなのではないでしょうか。主を知る結果とは何でしょうか。悩みながら、喜ぶことができる、問題を持ちながら、平安に満たされることであり、そして、生き生きとした希望を持って、将来に向かうことができるのです。

だいたい、二千年前に、ある地震を通して、まことの救いを得た事実について、書かれています。

使徒の働き
16:19 彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕え、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った。
16:20 そして、ふたりを長官たちの前に引き出してこう言った。「この者たちはユダヤ人でありまして、私たちの町をかき乱し、
16:21 ローマ人である私たちが、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しております。」
16:22 群衆もふたりに反対して立ったので、長官たちは、ふたりの着物をはいでむちで打つように命じ、
16:23 何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。
16:24 この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。
16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。
16:26 ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。
16:27 目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。
16:28 そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」と叫んだ。
16:29 看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。
16:30 そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。
16:31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。
16:32 そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。
16:33 看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。
16:34 それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。

このピリピの獄吏は、『救われるために、何をしなければならないのでしょうか』ときいたのです。それを知らなければ、もう見込みがない。希望がない。光もない。この疑問の叫びから、ひとつの言葉を取り出して、観察してみましょうか。『私は』という言葉です。私は救われるために何をすべきでしょうか。ここで言っている『私は』とは、誰でしょう。この『私』とは、失われている人であり、罪、悪魔、自己の奴隷です。彼は、主を見ることのできないメクラでした。霊的に死んだ者でした。主から出るいのちから、遠く離れていたのです。

聖書の言っている霊的な死とは、いったい何でしょうか。霊的死とは、生まれながらのいのちを持っていることです。この刑務所の責任者は、霊的に死んでいたのです。なぜならば、救い主を知らなかったから。このピリピの獄吏が救われた時、彼は、自分がどうしようもない、わがままな者であり、罪人であることを認めました。もし救われたいと思えば、自分が失われている者であり、メクラであり、奴隷であり、また、霊的に死んでいる者であるという事実を避けてはいけません。

次に、観察したい言葉は、『救われる』という言葉です。私は救われるために何をすべきでしょうか。獄吏は、『自分が良いものになるために何をすべきでしょうか』と叫んだのではない。自分は、救われるために何をすべきかと叫んだのです。獄吏は、私はいかにしたら、奴隷の身から解放されるでしょうか。私はメクラの身から、目開きの身になることができるのでしょうか。私は、死の様から生きることができるのでしょうか。

三番目の言葉は、『成す』という言葉です。『する』という言葉です。私は救われるために何を成すべきでしょうか。鎖で縛られた奴隷が、自分の身を自由にするのに何ができましょうか。メクラが見えるようになるために、自分で何ができましょうか。死人が自分で生きることが、どうしてできましょうか。もちろん、絶対に何もできません。

本当の救いの本質とは、いったい何なのでしょうか。最後に、三つのことを言えます。

本当の救いの本質とはまず、第一に、本当の救いは、主なる神の満足される充分なる救いでなければならない。人間がいかにして、誰によって救われるかは主なる神だけが知っておられます。獄吏は、自分の身を救うために、自分の道を行くことは許されませんでした。ただ、主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。この獄吏は、この言葉によって導かれ、救われました。自分を救うために、自分勝手な道を選ぶことはできません。我々の救いの道は、十字架であり、また、十字架の上で代わりに犠牲になられた主イエス様です。

まことの救いの本質は何でしょうか。今、話したように、主なる神の満足される充分な救いでなければならない。

第二番目、真の救いは、罪と共に罪の結果も消滅してしまうような、完全な救いでなければなりません。救いは、人の罪を消し去り、その人に新しいいのちを与えるものでなければなりません。獄吏の場合も、獄吏の罪が赦され、彼の内に新しい創造が、信仰によって成されなければならなかったのです。私たちの罪も、十字架で贖われ、我々の内に新しい創造が始められなければなりません。

まことの救いの本質は何でしょう。もうひとつ、救いとは、罪に対して成された死刑の執行でなければなりません。主なる神は、一度、罪を犯した魂は、必ず死ななければならないと言っています。罪の刑罰を受けなければならない。刑罰は、執行されなければならない。獄吏は、イエス様の身代わりの死を信じました。これこそ、彼の喜びの光になったのです。もし私たちが、主の救いを自分のものにしようと思うならば、十字架の上で代わりに死なれたイエス様のもとに来なければならない。

イエス様とは、いったい、どういうお方でしょうかね?

まず、イエス様は、約束してくださるお方です。すなわち、私たちが自分の最後までわがままを告白するとき、完全に清めてくださいます。従って、罪の許しを自分のものにすることは、簡単なものです。イエス様は自分の債務を正直に告白すること以外には、何も望んでおられません。すなわち、正直に自分自身のだめな状態を認め、打ち砕かれる備えを持つことが要求されています。弟子の一人であるヨハネは、次のように書いたのです。

第一ヨハネ
1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

結局、へりくだれば、オーケー!私たちは、この約束を心から喜ぼうではありませんか。

二番目、イエス様は、確約してくださるお方です。すなわち、私たちがもう罪を犯さなくてもよいように、すべてを成してくださったのです。イエス様は、ただ単に罪の債務からだけではなく、罪の力からも贖ってくださいました。けど、私たちが、倒れた時にも、配慮してくださるのです。

第一ヨハネ
2:1 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。
2:2 この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。

もうひとつ、イエス様は招いていてくださるお方です。すなわち、イエス様の御許(みもと)に立ち返り、戻るようにと招いておられます。その際、イエス様は、私たちが主の恵みに与かることを保証してくださるのです。旧約聖書から、よく引用される箇所です。

イザヤ
55:6 主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。
55:7 悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。

本当に、すばらしい呼びかけです。それだけではなく、イエス様は、我々に願い求めておられるお方です。すなわち、主に立ち返り、主が、すべての障害物は完全に取り除かれ、傷は癒されると約束してくださるのです。すべてのことが絶望的に思われ、回復の可能性が全く考えられないような時でも、主は奇蹟を行うことができるお方です。

エレミヤ
3:22 背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう。今、私たちはあなたのもとにまいります。あなたこそ、私たちの神、主だからです。

これは、唯一の救い主なる神の約束です。「今、私たちはあなたのもとにまいります」と記されていますが、我々が皆、この態度を取ることを、主は切に望んでおられます。それだけではなく、主は待ち望んでおられるお方です。しかも、両手を大きく開いて、待っておられます。『わたしのもとに来なさい』と、主はしばしば、おっしゃいました。イエス様は、ただ単に口だけの約束ではない、真剣に、人間一人ひとりのことを考えて、待っておられます。

『わたしの所に来る者を、わたしは決して捨てません。』イエス様の御許に行く者は、受け入れられ、永遠の救いを持つ者となり、罪の赦しと永遠のいのちを持つようになります。私たちは、これらの事実を大切にする時、主の恵みに圧倒されます。主の恵みは、我々に理解できないほどすばらしいものです。我々のただひとつの望みでもあります。

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