2015年5月5日火曜日

罪の創設者である悪魔

罪の創設者である悪魔
2015年5月5日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

イザヤ
14:13 あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。
14:14 密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』
14:15 しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。
14:16 あなたを見る者は、あなたを見つめ、あなたを見きわめる。『この者が、地を震わせ、王国を震え上がらせ、
14:17 世界を荒野のようにし、町々を絶滅し、捕虜たちを家に帰さなかった者なのか。』

エゼキエル
28:11 次のような主のことばが私にあった。
28:12 「人の子よ。ツロの王について哀歌を唱えて、彼に言え。神である主はこう仰せられる。あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった。
28:13 あなたは神の園、エデンにいて、あらゆる宝石があなたをおおっていた。赤めのう、トパーズ、ダイヤモンド、緑柱石、しまめのう、碧玉、サファイヤ、トルコ玉、エメラルド。あなたのタンバリンと笛とは金で作られ、これらはあなたが造られた日に整えられていた。
28:14 わたしはあなたを油そそがれた守護者ケルブとともに、神の聖なる山に置いた。あなたは火の石の間を歩いていた。
28:15 あなたの行ないは、あなたが造られた日からあなたに不正が見いだされるまでは、完全だった。
28:16 あなたの商いが繁盛すると、あなたのうちに暴虐が満ち、あなたは罪を犯した。そこで、わたしはあなたを汚れたものとして神の山から追い出し、守護者ケルブが火の石の間からあなたを消えうせさせた。
28:17 あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、王たちの前に見せものとした。
28:18 あなたは不正な商いで不義を重ね、あなたの聖所を汚した。わたしはあなたのうちから火を出し、あなたを焼き尽くした。こうして、すべての者が見ている前で、わたしはあなたを地上の灰とした。
28:19 国々の民のうちであなたを知る者はみな、あなたのことでおののいた。あなたは恐怖となり、とこしえになくなってしまう。」

私たちは最近、三つの点について、一緒に考えてまいりました。すなわち、三位一体の神について、それから、天地の創造の前に、主なる神は何をなさったかについて、そして、天地の創造についてでした。

今日は、全く違うテーマについて考えたいと思います。おもしろくないでしょうけど、悪魔についてです。悪魔は、罪の創設者です。聖書の中で、悪魔は、もちろん、存在すると明らかに記されています。イエス様も使徒たちも、悪魔が存在すると、もちろん、信じていました。私たちは、イエス様を信じ、悪魔は信じないなどとは、言うことができません。ヤコブは、何と書いたかと言いますと、次のように書かれています。

ヤコブ
2:19 あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。

4:7 ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。

こういう箇所を見ると、ヤコブは、もちろん、悪魔、悪霊の働きのことを知っていました。今度は、ペテロの言っていることを見てみたい。

第一ペテロ
5:8 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。

こういうふうにペテロは、当時の信じる者に書き記したのです。もう一箇所、今度はパウロです。良く知られているエペソ書の6章を見ると、彼は信じる者に、注意するように、次のように書いたのです。

エペソ
6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

散歩道でもない。遠足、ピクニックでもない。戦いであると、ヤコブもペテロもパウロも書いたのです。聖書がはっきり言っているのは、今、話したように悪魔は存在する。すなわち、悪魔は、一つの人格です。単なる影響、単なる悪い力ではない。

イエス様も、悪魔に導かれたことがあるのです。有名なマタイ伝4章から、ちょっと読みましょう。

マタイ
4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
4:2 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
4:5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
4:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」

悪魔は、聖書を使ったんですね!

4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」
4:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
4:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」
4:11 すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。

イエス様は、ヨハネ第一の手紙によると、悪魔のわざを滅ぼすために来られた。

第一ヨハネ
3:8 ・・・・神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。

聖書を見ると悪魔は、生じてから滅びるまで、六つの段階を通ります。この段階の長さは各々、違います。この六つの段階について、考えたいと思います。

第一番目、もっとも高い天にいる油注がれた守護のケルブ。二番目、低い天上にいる悪魔。三番目、地上の悪魔。四番目、底知れぬところに投げ込まれた悪魔。五番目、再びこの地上にやって来る悪魔。そして、六番目、火の池にいる悪魔について、聖書は多くのことを言っているのです。

この前の回、天使、すなわち、天の御使いたちについて、考えてまいりましたが、天使たちは、我々の歩みを見守る者、我々の主なる神の使者、遣わされる者であると、聖書は、はっきり言っているのであります。私たちが困った時の助力者、私たちの最後の勝利のために戦う者、主なる神の世界秩序の守護者、主なる神の審判の執行者、そして、主の贖い、御業のための礼拝者であるという七つの点について、聖書の中ではっきり書き記されています。

天使たちは、いつ造られたのか、確かに聖書は言っていないから分かりません。ヨブ記の38章4節から7節を読むと、この天使が創造される前に、すでに天の使いたちがいたことがわかります。

【参考】ヨブ
38:4 わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。
38:5 あなたは知っているか。だれがその大きさを定め、だれが測りなわをその上に張ったかを。
38:6 その台座は何の上にはめ込まれたか。その隅の石はだれが据えたか。
38:7 そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ。

天と地の創造される、どのくらい前から、天の使いたちがいたかは、もちろん、わかりません。けれども、天の使いたちとは、どんなものなのでしょうか。天使は、主によって造られたものです。天使が、からだを持っているかのように聖書は、言い表していますが、実際には、からだを持っていません。植物は、植物体を持っています。動物は、肉体と魂を持っています。人間は、肉体と魂と精神を持っています。これに比べて、天使は、魂と精神だけを持っています。

天使の意味は、使いという意味です。天使たちは、自分の造り主に仕えています。天使は、自分で自分の仕事を選ぶことはできません。天使は、主から与えられた仕事だけをやります。たとえば、ある使いは、絶望しているエリヤに、パンを食べるように言いましたし、また、ある主の使いは、救い主の誕生を告げ知らせました。聖書を読むと、天使には、それぞれ違いがあることがわかります。すなわち、ケルビムがいます。セラフィムがいます。天使のかしらがいます。天使がいます。霊がいます。

また、天使たちは色々な役目を持っています。たとえば、支配、主権、権威、権力、けん制などの役目を持っています。もっとも上の天使はケルビムと呼ばれています。ですからケルビムは、いちばん大切な使命を持っています。これに関する二、三の箇所をちょっと見ましょうか。

ケルビムのいのちの木を守らせました。

創世記
3:24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

二番目、ケルビムは贖罪所を守りました。

出エジプト記
25:18 槌で打って作った二つの金のケルビムを『贖いのふた』の両端に作る。
25:19 一つのケルブは一方の端に、他のケルブは他方の端に作る。ケルビムを『贖いのふた』の一部としてそれの両端に作らなければならない。

三番目、ケルビムは、至聖所の幕に織り込まれたとあります。

出エジプト記
26:31 青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で垂れ幕を作る。これに巧みな細工でケルビムを織り出さなければならない。

四番目、ケルビムは、神殿の壁に刻まれたのです。

第二歴代誌
3:7 この神殿の梁にも、敷居にも、壁にも、とびらにも金を着せ、壁にはケルビムを刻んだ。

五番目、ケルビムは、神の御座と関係があります。

エゼキエル
10:20 彼らは、かつて私がケバル川のほとりで、イスラエルの神の下に見た生きものであった。私は彼らがケルビムであることを知った。

10:19 彼らが主の宮の東の門の入口で立ち止まると、イスラエルの神の栄光がその上をおおった。

六番目、ケルビムは、空っぽになった墓を守ったと、書かれています。

ヨハネ
20:12 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。

もうひとつ、七番目ですけど、ケルビムは、神の御座を回ります。

黙示録
4:6 御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。
4:7 第一の生き物は、ししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶわしのようであった。
4:8 この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。」

今の悪魔は、このようなケルビムの一人でした。そればかりでなく、悪魔は、油注がれた守護のケルブでさえあったのです。

エゼキエル
28:14 わたしはあなたを油そそがれた守護者ケルブとともに、神の聖なる山に置いた。あなたは火の石の間を歩いていた。

このように、高いところに位置する天使は、非常に重要な仕事をしていました。ですから、このような天使は、油注がれたのです。このような天使は、主とのもっとも密接な関係を持つために造られました。この天使は、たくさんの特権を持っていました。悪魔になった天使は、自分の油注ぎを失ってしまいました。自分の知恵を失いました。自分の務めを失くしました。彼は、全部を失くしてしまったのです。けれども、その前には知恵に満ち、美の極みであり、責められるところなく、完全だったと聖書は言っています。

エゼキエル
28:15 あなたの行ないは、あなたが造られた日からあなたに不正が見いだされるまでは、完全だった。

他の造られたものとは比べものにならないほど、堕落する前の悪魔は、主なる神との親しい交わりを持っていたのです。聖書の中で、悪魔を、『この世の君』と呼んでいます。パウロは、コリントにいる兄弟姉妹に書いたのであります。

第二コリント
4:3 それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。
4:4 そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。

悪魔は、どうしてこの世の神と呼ばれたのでしょうか?これは、主なる神が天と地をお造りになった後、この地球の支配を、堕落前の悪魔に委ねておられたことを暗示しています。

ルカ
4:6 こう言った。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。」

こういうふうに悪魔は言ったのであります。堕落する前の悪魔は、何のために造られたかと言いますと、神の栄光を現すため、また、主なる神の御名を全宇宙に高め、広めるために造られました。主なる神は、天の使いたちを造られた時、タンバリンや笛も、ともにお造りになりました。ですから、堕落する前の悪魔は、全宇宙が歌う、主を褒め称える歌を指揮していたことが想像されます。私たちも、これと同じように、主なる神に対する賛美のいけにえを捧げるべきです。

へブル
13:15 ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。

これを通して、私たちが主を賛美し、褒め称えることを、悪魔がたいへん嫌うのも理解できます。

いずれにしても、私たちは、主を賛美し、褒め称えようではありませんか。もし、私たちが、主に感謝し、主を賛美するならば、悪魔は逃げ去ります。なるほど、堕落する前の悪魔は完全でしたけど、やはり、神に造られた者でしかありませんでした。造られた者は、造り主に仕え、従わなければなりません。造られた者は、その造り主に頼らなければなりません。

ここまで、もっとも高い天にいる油注がれた守護のケルビムである悪魔について、ちょっと考えましたし、次に、第二の段階として、もっとも高い天より追放され、現在、天上にいる悪魔を観察してみたいと思います。結局、大変なことが起こりました。すなわち、神の光を持つ天使が、神の敵となったのです。これが罪の始まりです。どこから、どのようにして罪が来たのか、全く不可解であります。

もっとも高い君(きみ)として、悪魔は神によって創造されました。主なる神によって造られた者は、みな完全です。なぜならば、完全なる神は、不完全な者を造ることができません。外からの試みが全然無いのに、どうして、完全なものから悪が生じたのか、全く理解に苦しみます。この完全な天使は、罪を犯し、神の敵となりました。これは、聖書が我々に言っている事実を意味しています。説明よりも、事実です。

エゼキエル
28:15 あなたの行ないは、あなたが造られた日からあなたに不正が見いだされるまでは、完全だった。
28:16 あなたの商いが繁盛すると、あなたのうちに暴虐が満ち、あなたは罪を犯した。そこで、わたしはあなたを汚れたものとして神の山から追い出し、守護者ケルブが火の石の間からあなたを消えうせさせた。
28:17 あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、王たちの前に見せものとした。

これを見ると、この光輝く、油注がれた天使は、自分の美しさ、自分の知恵、輝きを見て、それらが自分のものであり、自分の手柄であると思い込み、主から与えられた贈り物を誇り、主なる神ご自身を褒め称えることを、止めてしまいました。与えた方を考えず、与えられたものだけを見るのは、堕落への道です。滅びへの道です。この天使は結局、傲慢になりました。

第一テモテ
3:4 自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。
3:5 ――自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。――
3:6 また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。
3:7 また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。

傲慢は、自分を高くすることに通じています。高ぶる結果は、主なる神と異なる意思、すなわち、自己の意思です。イザヤ書の中で、この悪魔の堕落について、また、書かれています。

イザヤ
14:12 暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。
14:13 あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。
14:14 密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。

自己の意思は、主に逆らいます。そのようにして、神の栄光の光を持ち運ぶ者は、神に敵対する者になってしまいました。悪魔が心の内に、主に反し、「自分がやりたい」と言った時、罪が始まりました。傲慢、自分を高めること、自己の意思、神に対する抵抗、このようにして、神の光を持ち運ぶ者が、悪魔になりました。

我々の心の内に、この傲慢の毒があるのでしょうか。私たちは、自分、自分のことばかりを望むものなのでしょうか。何と私たちは、初めから終わりまで、自分、自分、自分で過ごすことでしょう。悪魔と同じように、『自分、自分、自分がやりたい』と思うのが、我々の本質ではないでしょうか。私たちは、自分で作った計画を持っているのでしょうか。なるほど、我々の望むところは良いことかもしれませんが、けれども、それが自分の意思ならば、主に逆らっていることになってしまいます。

罪の本質は、傲慢です。自分を高くする――それが傲慢です。自分を高くすることが、実際になると、主に逆らうことになります。その結果は、主からの分離です。なぜなら、そこには、二つの意思が生じますから――主の意思と自己の意思が、二つできるわけです。ここで、何が罪かがわかります。多くの人々は、罪を行いと考えますけど、罪は、第一に、態度であることがわかります。

悪魔が罪を犯す前に、罪はもうすでに、悪魔の心の内にあったのです。悪魔は、心の中で、「自分がやりたい!」と思ったのです。罪とは、主に対する意識的な自発的な反抗です。主なる神の前には、人間が何をやったかは問題ではなく、人間とは何かが問題です。主なる神の前に、人間は罪人です。罪とは、主をないがしろにすることです。

もっとも大きな罪は、言うまでもなく、傲慢です。傲慢によって、光を運ぶ者は、悪魔になってしまいました。傲慢により、人類は堕落したのです。ですから、イエス様は、地上に来られ、いちばん低い場所につかれました。苦しんで、殺されたのです。悪魔は、いと高き者のようになろうと思いました。イエス様は、神と等しくあることにこだわりませんでした。悪魔は、自分は上へ登りたいと、心の内に思いました。イエス様は、これに対して、ご自分の身を低くされました。悪魔は、自分の位を高くしようとしましたが、イエス様は、これに対し、自ら奴隷のような態度を取られました。

最後に、もう一箇所、読んで終わります。

ピリピ
2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
2:9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

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