2015年5月19日火曜日

罪の創設者である悪魔(二)

罪の創設者である悪魔(二)
2015年5月19日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

エゼキエル
28:11 次のような主のことばが私にあった。
28:12 「人の子よ。ツロの王について哀歌を唱えて、彼に言え。神である主はこう仰せられる。あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった。
28:13 あなたは神の園、エデンにいて、あらゆる宝石があなたをおおっていた。赤めのう、トパーズ、ダイヤモンド、緑柱石、しまめのう、碧玉、サファイヤ、トルコ玉、エメラルド。あなたのタンバリンと笛とは金で作られ、これらはあなたが造られた日に整えられていた。
28:14 わたしはあなたを油そそがれた守護者ケルブとともに、神の聖なる山に置いた。あなたは火の石の間を歩いていた。
28:15 あなたの行ないは、あなたが造られた日からあなたに不正が見いだされるまでは、完全だった。
28:16 あなたの商いが繁盛すると、あなたのうちに暴虐が満ち、あなたは罪を犯した。そこで、わたしはあなたを汚れたものとして神の山から追い出し、守護者ケルブが火の石の間からあなたを消えうせさせた。
28:17 あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、王たちの前に見せものとした。
28:18 あなたは不正な商いで不義を重ね、あなたの聖所を汚した。わたしはあなたのうちから火を出し、あなたを焼き尽くした。こうして、すべての者が見ている前で、わたしはあなたを地上の灰とした。
28:19 国々の民のうちであなたを知る者はみな、あなたのことでおののいた。あなたは恐怖となり、とこしえになくなってしまう。」

イザヤ
14:13 あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。
14:14 密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』
14:15 しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。

最近、私たちは今まで、三つの点について、一緒に考えてまいりました。すなわち、三位一体の神についてでした。それから、天地の創造の前に、主なる神は何をなさったかについて、そして、天地の創造についてでした。

今日からは、あまりおもしろくないテーマについて考えたいと思います。すなわち、罪の創設者である悪魔についてです。聖書の中で、悪魔は存在すると明らかに記されています。イエス様も、使徒たちも、悪魔が存在すると信じました。私たちは、イエス様を信じ、悪魔は信じないなどと言うことはできません。使徒たちの告白とは次のようなものでした。三人だけちょっと見たいと思います。ヤコブ、ペテロとパウロです。ヤコブは、次のように書いたのです。

ヤコブ
2:19 あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。

4:7 ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。

ペテロも、もちろん、同じく悪魔のこと信じました。

第一ペテロ
5:8 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。

こういうふうにペテロは、当時の信じる者を励ましたり、注意したのであります。もうひとつ、今度はパウロですね。良く知られているエペソ書の6章を見ると、パウロはエペソにいる兄弟姉妹に次のように書いたのであります。

エペソ
6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
6:14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

悪魔は、一つの人格です。単なる影響、単なる悪い力ではありません。もう一箇所、読みます。今度はマタイ伝の4章からです。

マタイ
4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
4:2 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
4:5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
4:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」

悪魔は、聖書の言葉を武器として使っていますね。

4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」
4:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
4:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」
4:11 すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。

イエス様は、どうしてこの世に来られたのでしょうか?ひとつの目的は、悪魔のわざを滅ぼすためと書かれています。ヨハネ第一の手紙、ひと文章だけですけども、次のように、ヨハネは書き記したのであります

第一ヨハネ
3:8 ・・・・神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。

聖書を見ると、悪魔は、生じてから滅びるまで、六つの段階を通ります。この段階の長さは各々、違います。この六つの段階について、今から、少しづつ学んでみたいと思います。

第一番目、もっとも高い天にいる、油注がれた守護のケルブ。二番目、低い天上にいる悪魔。三番目、地上の悪魔。四番目、底知れぬところに投げ込まれた悪魔。五番目、再びこの地上にやって来る悪魔。そして、六番目、火の池にいる悪魔。

このあいだ、私たちは天使、すなわち、天の御使いたちについて、考えてまいりました。けど、天使たちは、我々の歩みを見守る者であり、我々の主なる神の使者であります。私たちが困った時の助力者、我々の最後の勝利のために戦う者、主なる神の世界秩序の守護者、主なる神の審判の執行者、そして、主の贖いの御業のための礼拝者であるということについて、聖書には詳しく書かれています。

天使たちは、いつ造られたか。聖書は言っていないから分かりません。ヨブ記、38章4節から7節までを読むと、この天地が創造される前に、すでに天の使いたちが、天のしもべたちがいたことがわかります。

【参考】ヨブ
38:4 わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。
38:5 あなたは知っているか。だれがその大きさを定め、だれが測りなわをその上に張ったかを。
38:6 その台座は何の上にはめ込まれたか。その隅の石はだれが据えたか。
38:7 そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ。

天と地の創造される、どのくらい前に、天の使いたちがいたのか、もちろん、わかりません。けれども、天の使いたちは、どんなものでしょうか。天使は、神によって造られたものです。天使が、からだを持っているかのように聖書は、言い表していますけど、実際には、からだを持っていないようです。植物は、植物体を持っています。動物は、肉体と魂のようなものを持っています。人間は、肉体と魂と精神を持っています。これに比べて、天使は、魂と精神だけを持っています。

天使の意味は、使いという意味です。天使たちは、自分の造り主に仕えています。天使は、自分で自分の仕事を選ぶことはできません。天使は、神から与えられた仕事だけをやります。たとえば、ある使いは、絶望しているエリヤに、パンを食べるように言いましたし、また、ある主の使いは、救い主の誕生を告げ知らされました。聖書を読むと、天使には、それぞれ違いがあることがわかります。すなわち、ケルビムがいます。セラフィムがいます。天使のかしらがいます。天使がいます。霊がいます。

また、天使たちは、いろいろな役目を持っています。たとえば、支配、主権、権威、権力、権勢などの役目を持っています。もっとも上の天使は、ケルビムです。ですから、ケルビムは、いちばん大切な使命を持っています。これに関する二、三の例を見てみましょうか。

ケルビムのいのちの木を守らせられたのです。有名な箇所です。

創世記
3:24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

二番目、ケルビムは贖罪所を守りました。

出エジプト記
25:18 槌で打って作った二つの金のケルビムを『贖いのふた』の両端に作る。
25:19 一つのケルブは一方の端に、他のケルブは他方の端に作る。ケルビムを『贖いのふた』の一部としてそれの両端に作らなければならない。

それだけではなくて、三番目ですけど、ケルビムは、至聖所の幕に織り込まれたのです。

出エジプト記
26:31 青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で垂れ幕を作る。これに巧みな細工でケルビムを織り出さなければならない。

それだけではなくて、四番目、ケルビムは、神殿の壁に刻まれたのです。

第二歴代誌
3:7 この神殿の梁にも、敷居にも、壁にも、とびらにも金を着せ、壁にはケルビムを刻んだ。

(五番目)似ている箇所はいっぱいあります。もう一箇所、エゼキエル書を見ると次のように書かれています。

エゼキエル
10:20 彼らは、かつて私がケバル川のほとりで、イスラエルの神の下に見た生きものであった。私は彼らがケルビムであることを知った。

10:19 彼らが主の宮の東の門の入口で立ち止まると、イスラエルの神の栄光がその上をおおった。

もうひとつ、六番目ですけど、ケルビムは、空の墓を守りましたとあります。もちろん、イエス様の墓であります。

ヨハネ
20:12 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。

もうひとつ、七番目ですけども、ケルビムは、神の御座を回ります。

黙示録
4:6 御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。
4:7 第一の生き物は、ししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶわしのようであった。
4:8 この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。」

今の悪魔は、このようなケルビムの一人でした。そればかりでなく、悪魔は、油注がれた守護のケルブでさえあったのです。

エゼキエル
28:14 わたしはあなたを油そそがれた守護者ケルブとともに、神の聖なる山に置いた。あなたは火の石の間を歩いていた。

このように、高いところに位(くらい)する天使は、非常に大切な仕事をしていました。ですから、このような天使は、油注がれたのです。このような天使は、主なる神とのもっとも密接な関係を持つために造られました。この天使は、たくさんの特権を持っていました。悪魔になった天使は、自分の油注ぎを失いました。自分の知恵を失いました。自分の務めを失くしました。彼は、全部を失くしてしまったのです。けど、その前には、知恵に満ち、美の極みであり、責められるところなく、完全だったと聖書は言っています。

エゼキエル
28:15 あなたの行ないは、あなたが造られた日からあなたに不正が見いだされるまでは、完全だった。

他の造られたものとは比べものにならないほど、堕落する前の悪魔は、主なる神との親しい関係、また、交わりを持っていたのです。聖書の中で、悪魔を『この世の君』と呼んでいます。パウロは、コリントにいる兄弟姉妹に、次のように書いたのです。

第二コリント
4:3 それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。
4:4 そのばあい、この世の神が(・・・・結局、悪魔が・・・・)不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。

悪魔は、どうして、この世の神と呼ばれたのでしょうか?これは、主なる神が天と地をお造りになった後、地球の支配を、堕落する前に委ねておられたことを暗示しています。ルカ伝の4章6節を見ると次のように書かれています。悪魔の言っていることですね。

ルカ
4:6 こう言った。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。」

こう悪魔は言ったのであります。堕落する前の悪魔は、何のために造られたかと言いますと、主の栄光を現すため、主なる神の御名を全宇宙に高め、広むるために造られました。主なる神は、天の使いたちを造られた時、タンバリンや笛も、ともにお造りになったと聖書は言っています。ですから、堕落する前の悪魔は、全宇宙が歌う、主を褒め称える歌を指揮していたことが想像されます。私たちも、これと同じように、主なる神に対する賛美のいけにえを捧げるべきなのではないでしょうか。ヘブル人への手紙の中でこの表現が出てきます。

へブル
13:15 ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。

これを通して、私たちが主を賛美し、褒め称えることを、悪魔がたいへん嫌うのも理解できるでしょう。

以前にもまして、私たちは、主を賛美し、褒め称えようではありませんか。もし、私たちが、主に感謝し、主を賛美するならば、悪魔は逃げ去ります。なるほど、堕落する前の悪魔は完全でしたけど、やはり、神に造られた者でしかありませんでした。造られた者は、造り主に仕え、従わなければなりません。造られた者は、その造り主に頼らなければなりません。

ここまで、もっとも高い天にいる油注がれた守護のケルブについての悪魔を、ちょっと簡単に考えたんですけど、次にもうひとつ、第二の段階になりますけど、もっとも高い天より追放され、現在、天上にいる悪魔を観察してみましょうか。大変なことが起こりました。すなわち、神の光を持つ天使が、神の敵となってしまったです。これが罪の始まりです。どこから、どのようにして罪が来たのか、全く不可解です。

もっとも高い君(きみ)として、悪魔は、神によって創造されました。主なる神によって造られた者は、みな、例外なく完全です。なぜならば、完全なる神は、不完全な者を造ることができないからです。外からの試みが全然、無いのに、どうして、完全なものから悪が生じたのか、全く理解に苦しみます。この完全な天使は、罪を犯し、神の敵となってしまったのです。これは、聖書が我々に言っている事実です。説明ではない。事実です。

エゼキエル
28:15 あなたの行ないは、あなたが造られた日からあなたに不正が見いだされるまでは、完全だった。
28:16 あなたの商いが繁盛すると、あなたのうちに暴虐が満ち、あなたは罪を犯した。そこで、わたしはあなたを汚れたものとして神の山から追い出し、守護者ケルブが火の石の間からあなたを消えうせさせた。
28:17 あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、王たちの前に見せものとした。

これを見ると、この光輝く、油注がれた天使は、自分の美しさ、自分の知恵、自分の輝きを見て、それらが自分のものであり、自分の手柄であると思い込んだのです。主から与えられた贈り物を誇り、主なる神ご自身を褒め称えることを、止めたのです。与えた方を考えず、与えられたものだけを見るのは、結局、堕落への道です。滅びへの道です。この天使は結局、傲慢になりました。

パウロは愛弟子であるテモテに、この事実について、次のように書き記されたのであります。

第一テモテ
3:4 自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。
3:5 ――自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。――
3:6 また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。
3:7 また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。

パウロはこう、テモテに書いたのであります。傲慢は、自分を高くすることに通じています。高ぶる結果は、主と異なる意思、すなわち、自己の意思です。

もう一回、イザヤ書の14章に戻りますと、同じことが書かれています。

イザヤ
14:12 暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。
14:13 あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。
14:14 密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』

自己の意思は、主に逆らいます。そのようにして、神の栄光の光を持ち運ぶ者は、神に敵する者になってしまったのです。悪魔が心の内に、主に反し、「自分がやりたい」と言った時、罪が始まりました。傲慢、自分を高めること、自分の意思、神に対する抵抗、このようにして、神の光を持ち運ぶ者が、悪魔になってしまいました。

我々の心の内に、この傲慢の毒があるのでしょうか。私たちは何と、自分、自分、自分のことばかりを望むことでしょうか。何と私たちは、初めから終わりまで、自分、自分、自分で過ごすことでしょう。悪魔と同じように、『自分、自分、自分がやりたい』と思うのが、人間の本質ではないでしょうか。私たちは、自分で作った計画を持っているのでしょうか。なるほど、我々の望むところは良いことかもしれませんけど、それが自分の意思ならば、主に逆らっていることになります。

罪の本質は、傲慢です。自分を高くすること、それが傲慢です。傲慢はだんだん、発展します。すなわち、自分を高くすることが、実際になると、主に逆らうことになります。その結果は、主からの分離です。なぜなら、そこには、二つの意思が生じますから――主の意思と自己の意思が、二つできるわけです。ここで、何が罪かが分かるね!多くの人々は、罪を行いと考えます。けど、罪は、第一に、態度であることがわかります。

悪魔が罪を犯す前に、罪はもうすでに、悪魔の心の内にあったんです。悪魔は、心の中で、「自分がやりたい!」と思っていました。罪とは、主に対する意識的な自発的な反抗です。主なる神の御前では、人間が何をやったかが問題ではなく、人間とは何かが問題です。主なる神の場に自らを置く、人間は罪人です。罪とは、神をないがしろにすることです。

もっとも大きな罪は、今、何回も話したように、傲慢です。傲慢によって、光を運ぶ者は、悪魔になってしまいました。傲慢により、人類は、堕落してしまったのです。ですから、イエス様は、地上に来られた、いちばん低い場所につかれました。イエス様は苦しんで、殺されてしまったのです。悪魔は、いと高き者のようになろうと思いました。けど、イエス様は、神と等しくあることにこだわらなかったのです。悪魔は、自分は上に登りたいと、心に思ったのです。イエス様は、これに対して、ご自分の身を低くされました。悪魔は、自分の位を高くしようとしました。イエス様は、これに対して、自ら奴隷のような方になりました。

ピリピ
2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
2:9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

悪魔は堕落する前に、いちばん高い天にいました。けど、この悪魔は、罪のためにいちばん高い天から追放されました。

ルカ
10:18 イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。」

天使であったものは、すなわち、天使の極みであったものが、罪人の初めとなったのです。罪人は、主のご臨在のうちに生きることはできません。悪魔はもっとも高い天から、低い天上に追放されました。悪魔は、空中の権威を持つ君と呼ばれたのです。パウロは、エペソにいる兄弟姉妹に、この事実について、次のように書いたのですね。

エペソ
2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

今日でも悪魔は――悪霊たちは――天上にいます。

エペソ
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

堕落する前、悪魔は他の天使たちに、自分は神の場所に付き、全宇宙を支配することができると思ったのです。そして、主なる神は、悪魔が自分のその能力をあらわすことを許しました。主なる神は一撃でもって悪魔を滅ぼそうとしなかったのです。悪魔が、神なしに何かをやることができる――それをあらわすことを、神はお許しになりました。

世界の歴史こそが、それを物語っています。神の光を運ぶ者が、悪魔になってしまいました。悪魔、あるいは、サタンという言葉は、ギリシャ語の『ディアブロ』という言葉から来ています。そして、これは、元来、『ごちゃごちゃになる』という意味です。また、他の意味として、『悪い意図をもって訴える、嘘もつくし、本当のことも言う』という意味です。

悪魔は今や、もっとも高い天にはおらず、低い天上におります。けど、悪魔は、今日なお、天の御座に入ることが許されています。悪魔は、日夜、信じるものを、創造主なる神の前に訴えているとあります。

もう一箇所、読んで終わりましょうか、黙示録12章ですね。次のように書かれています。本当は、未来のことになるでしょう。

黙示録
12:10 そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。」

今、話したように、現在ではない、将来そういうふうになるとあります。

悪魔が、嘘を付くのは、仕方がないでしょう。けど、もし我々の生活に、真実のみがなかったなら、悪魔は本当のことを言って、それを訴えます。これは災いです。私たちが、御言葉を自分のものにすることは、あまりにも少ないのではないでしょうか。私たちが、祈りのよろこびをあまり持っていないのではないでしょうか。我々のあいだには、いろいろな束縛、拘束があるのではないでしょうか。いったい、どうしてでしょう。悪魔が、本当のことを言って、我々を主なる神の御前に訴いるからなのではないでしょうか。

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