2015年5月15日金曜日

主を知るすばらしさ

主を知るすばらしさ
2015年5月15日、市川家庭集会
ゴットホルド・ベック

マルコ
14:3 イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。
14:4 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。
14:5 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。
14:6 すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。
14:7 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
14:8 この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。
14:9 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」

ヨハネ
12:1 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
12:2 人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。
12:3 マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。
12:4 ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。
12:5 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
12:6 しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。
12:7 イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。
12:8 あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」

聖書の宝物と呼ばれている本があります。詩篇です。想像できないほどすばらしい宝ものです。悩むとき、苦しむとき、寂しくなるとき、詩篇を読むと、また、元気になると言うことです。確かに古いものです。三千年前に捧げられた祈りのことばです。このダビデはどうして祈ったかといいますと、困ったから。何の心配も、苦しみもなければ、誰も助けを求めないし、助けを求めなければ、助け主を知る可能性はない。その意味で、いろいろなことで悩むのは確かにいやです、おもしろくない。けど、必要です。

ダビデは主を呼んだとき、主を『恵みの神』と言ったのです。『私の恵みの神は、私を迎えに来てくださる』と、彼は確信をもって言うことができたのです。将来、私たちは何を経験するようになるのか、今はもちろん、分からない。よろこびを与えるものなのでしょうか。悲しみになるのか。まったく分かりません。けど、ひとつのことだけを我々は知っている。すなわち、主ご自身が迎えに来てくださると言うことです。忘れないようにしましょう。イエス様は、今日、または、明日、もしかしたら、明後日、我々を迎えに来てくださる。

ある人が、次のように証ししました。

急な山道を登るとき、
主はちからを持って迎えに来てくださる。
暗闇の道に行くとき、
主は光を持って迎えに来てくださる。
つらい道を歩むとき、
主は慰めを持って迎えに来てくださる。
寂しい道を歩くとき、
主は愛を持って迎えに来てくださる。
危険な道を歩むとき、
主は勝利を持って迎えに来てくださる。
だから、もう心配する必要はない。

心配したから、元気になったと言える人はいない、まったく意味のないことです。今、読まれた二箇所の中で、いわゆるマリアと言う女性について書かれています。もう一回、読みます。イエス様は次のように言われました。

マルコ
14:9 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。

そうすると今日は、マリヤの記念会かな。

イエス様は、マリアが高価な匂い油を注いだことは、福音の物語の行くところに常に伴うことを言われました。彼女の成したことは、イエス様の成されることと常にいっしょにあるべきであると書いてあります。それは、イエス様ご自身が言われました。彼女は、家に小さな石膏の壺を持って入って来て、たいへん、高い匂い油がその中に入っていました。そして、どのように壺を割って、イエス様の頭(こうべ)に油を注いだかというようなことどもを、私たちはよく知っていると思います。

彼女の弟、ラザロのよみがえりのことについて、書かれています。今、読んでもらいましたヨハネ伝12章ですね。1節から8節に書かれています。その箇所を見ても分かるように、この家族はとくに金持ちではなかったのです。姉、妹は、家の仕事を自分たちで、しなければなりませんでした。妹のマリヤは、三百デナリもする匂い油を、石膏の中に持っていました。そして、イエス様にその全部を捧げたんです。彼女は一度にそれを壊し、全部をイエス様のこうべに捧げました。人間的な考えでは、これは本当に多すぎる・・・・と言うでしょう。この考えは、イエス様の一人の弟子、ユダだけではなく、他の弟子たちもそう思ったんです。「マリヤは無駄な事をした」と、思ったんです。

今や私たちは、主が現代において、無駄という言葉を強調させようとしていることを思います。無駄ということの単純な意味は、「多すぎる」ということではないでしょうかね。百円で間に合うところを、三千円を与えるとしたら、それはちょっと多すぎる。無駄なのです。一日で終わる仕事を、五日とか、一週間かかるとしたら、無駄なことなのではないでしょうか。無駄ということは、少しで済むのに多すぎるほど与えることを言います。また、誰かが、そんなにたくさんの価値がないのに、価値以上に贈ることを言います。これが、「無駄」です。

けれども、ここで主が福音を語られるところ、どこにおいてもその『無駄』ということが示されるべきである、といったような意味のことを言われたのです。福音を――イエス様のことを――紹介されるところどこでも、人々はイエス様のところに来て、彼の上に、彼ら自身を無駄にすべきであると希望なさいます。今日、ここにおいても、そのような人々を追い求めているのではないでしょうか。

言いたいのは、本当の献身は、無駄なものであるということです。私たちは主イエス様のために、無駄について、次の質問に目を注がなければならない。それは二つの側面からです。ひとつは、ユダと言う弟子に取りあげられ、そして、もうひとつは、他の弟子たちによって取りあげられました。ご存知のように、彼らはみな、例外なく、それが無駄である・・・・と思ってしまったのです。ユダにとって――彼は我々の主イエス様を主とは決して呼びませんでした――主の上に注がれたすべてのものは無駄であると、彼は思ってしまったのです。匂い油だから無駄であったというのみでなくて、水であったとしても、やはり無駄となしたことでしょう。

この世にとっては、イエス様への奉仕、そして、イエス様へ我々自身を与えることは、無駄と見えるでしょう。彼(主)は決して愛されませんでした。そして、この人々の心の中には決して、心を得ませんでした。従って、彼(主)に与えられる何ものも無駄となるわけです。

多くの人々は次のように言うでしょう。これこれの人が、世において良いことを成す。けれども、それはその人がイエス様を信じるものでない場合なのです。その人がイエス様を信じるものであって、イエス様に奉仕する場合、生まれつきの良い技量も、世の中にあって何事か成しても、すべて無駄であるとされてしまうのです。ユダは、それは無駄のごとく感じました。

私たちはお金について、それが他の違ったものに用いられるように取り扱うことができる。たくさんの貧乏な人がいる。私たちはそれを、憐れみをもって与えることができる。そして、社会的な奉仕ができる。もっと実際的な方法で、人々を助けることができる。なぜ、それをイエスの足元に注ぐことをしたのか。あなたの生活のため、もっと良い用途を探さなかったのか。自分のため、もっと良いことができなかったのか?これがユダの考えたところでした。そして、それがもちろん、主を知らない人々の考えるところなのではないでしょうか。

あなた自身を主に与えることは多すぎる。けれども一度、イエス様の価値のために我々の目が開かれたところは、決してそうではありません。イエス様のために多すぎるというものはひとつもありません。

ホセア
5:12 わたしは、エフライムには、しみのように、ユダの家には、腐れのようになる。

私たちにとって、イエス様はどんな価値があるのでしょうか。しみのような、または、腐れのようにつまらない存在にすぎないのでしょうか。我々はユダのように、金や他の人物が主より、まさっていると考えているのでしょうか。私たちは、すばらしい尊いイエス様の流された血潮を知っているのでしょうか。イエス様は、我々のすべての罪、過ち、わがままを取り去ることを希望しているのでしょうか。「♪来たれ、そして、汝の罪を彼に捧げよ。汝の全生涯をイエス様に捧げよ、そして、イエス様のみが価値がある、イエス様のみが価値がある」と、よろこびながら歌うに違いない。

けども、私たちはユダの態度について、そんなにたくさん思いめぐらすことを欲しません。先に進んで、他の弟子たちの態度がどうであったか、ちょっと考えてみたいと思います。なぜなら私たちが、まことに主のものである時、ユダの態度より、この方が我々にとって、もっと意味があるのではないでしょうか。我々にとって、世の言うところは、そんなに気にかかりませんが、他の弟子たちの言うところは、非常に心を惹かれるのです。

他の弟子たちは、ユダと同じことを言いました。そして、そう言うのみでなくて、怒りによって動かされたのです。彼らは怒りました。「それは無駄である!」と考えたのです。彼らは、「あなたは、この匂い油を三百デナリに売って、貧しい人たちに与えるべきだ」と言いました。何が主の願いなのでしょうか。貧乏人たちが助けられたかどうかは問題ではない。問題は、主が満足なさったかどうかです。

私たちが主のために働くというのではありません。主に対して奉仕するということは大切でしょう。それは、主に対して仕えるということです。主を褒めよ。主が望まれることは、主にすべてを与えることです。人々が、「あなたは、何もしていない」と言うとしても、我々の主に対する奉仕は、取引的なことでありません。それは主をよろこばせるということです。

コロサイ書の中で次のような箇所があります。家内と私の結婚指輪に書かれている言葉です。コロサイ書、1章の10節、『主の御心にかなった生活をし、真に主を喜ばせよ。』これは、我々のもっとも愛する御言葉のひとつです。『主の御心にかなった生活をし、真に主を喜ばせよ。』

多くの用いられ、また、行きうる集会があります。使える多くの会議があります。導きうる多くのよろこびの集いもあります。参加しうる多くの運動もあるでしょう。それができるというのではなく、それを私たちが自分に使え得るというのではなく、また、それを運営するのに私たちが有益であるというのでもなく、実に、主が我々の立場を、主の足の前に求め、我々の油注ぎを主の頭(こうべ)に求めておられます。

いかなる種類の石膏の壺を私たちが持っていようと、たとえば、もっともすばらしいこと、我々にとって愛すべきこと、我々の全生涯などのようなものであっても、それをすべて主に捧げるのです。それは確かに無駄なように見えるかもしれない。けど、それこそが主の求めておられるものです。

私たちはかつて、主に与えすぎたことがあるのでしょうか。主の奉仕においては、無駄ということの原則は、力の根源です。真に主の手の中にあって有益なものは、無駄ということになります。私たちがより多く考え、より多く成すこと、そして、自分の賜物を自分で用いることによって、私たちはそれらが世の原則にすぎないことを見出すでしょう。それは、主の原則ではありません。あらゆることを充分に成し、また、動きまわることではなく、我々はよろこんで、我々のすべてを主に捧げ、我々の奉仕によって主をよろこばせることが大切なのではないでしょうか。

我々の言うところは、何もしない・・・・というのではなく、第一のことは主ご自身であって、主の仕事ではないというわけです。だから、イエス様はこう言われました。「彼女は、わたしに対して成した」と。

もしも、私たちの目が開かれていさえすれば解るはずです。すなわち、主は我々にいわゆる業(わざ)を求めないで、私たちが主に対して何であるかという事実を求めたもうのです。それで、主は、『なぜ、彼女を困らせるのか、わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人たちは、いつもあなたがたと一緒にいるから、したい時にはいつでも良いことをしてやれる。しかし、わたしは、あなたがたといつも一緒にいるわけではない』と、イエス様は言われました。

このマリヤは、匂い油が入った石膏の壺を壊し、それをイエス様の頭に注ぎました。数日後、朝早く、主の体に油を注ごうと道を進む数人の婦人たちがおりました。彼らは、それを成したでしょうか?よみがえりの日に、彼らは成功したのでしょうか?いいえ、イエス様の体に油を注ぐことに成功した人物は、ただ一人でした。その方は、その時より前に、イエス様に油を注いだのでした。他の人々は、主の体に油を注ぐことに成功しなかったのです。主は、よみがえってしまっていたのでした。

根本的な質問は、今日(こんにち)、主に対して、私たちが何を成そうとしているかにあります。人は、主のために捧げることは、あまり多すぎるというかもしれない。また、私たちは我々の生涯を無駄にしているというかもしれない。あるいはまた、このこと、あのことをいろいろと語るかもしれないけど、「主よ、あなたに対してあまりに多すぎるというものはひとつもないのです」と、言おうではないでしょうか。

ある人がこのように言いました。『私たちが主に捧げるということは、彼が価値があることを、いかに多く考えているかを示すのである。』間違いなくそうです。もしも、主が価値ある方ならば、どうしてそれが無駄ということがあり得ましょうか。主は、そのように仕えられる価値のある方です。主は、それほどに価値のある方ですから、私たちは主のために生きているのです。世が何と言おうとかまいません。主は価値ある方です。

主は、「彼女を困らせてはいけない」と言われました。ですから、人々が何を言おうと、困らせられないようにしましょう。そして、私たちは、この立場を堅く守りましょう。主は、次の意味のように語られました。『それは良い業である。あらゆるまことの業は、貧しい人に何か成したというのではない。あらゆる良い、そして、まことの業は、私に対して成されることこそ、それなのです。』

イエス様は、「それは、私たちに対してである」と、認められたのです。イエス様は、「それは良い」と言われました。我々の目は、我々を救ってくださる方のすばらしさを見るために開かれているのでしょうか。私たちは、もっとも深い、もっともすばらしい、そして、もっとも値(あたい)のかかるものが、主を満足させるということを知っているでしょうか。

私たちは、貧しい人たちのための仕事、人々の魂のための仕事、そして、世の福祉のための仕事などは、主に対する業とは比べることはできないことを知っているのでしょうか。主は、我々の目を、ご自身の価値を見るために開かれなければならない。もし、ここに何か非常にすばらしいものがあるとしたら、千円、一万円、また、百万円を払ったとしても、それは無駄であると言えるでしょうか。無駄という思想は、私たちが主に対して低く見積もるために来るのでしょう。

全体の条件は―全ての要点は――、イエス様が我々のために、いかなる価値があるかということなのではないでしょうか。イエス様が、我々の魂にとって、真に尊い方であれば、あまりに良すぎるというものはひとつもありません。あまりに高いというものもひとつもありません。我々のあらゆるものは、それがもっとも深く、もっともすばらしくあっても、主に対して捧げます。

そして、私たちがこのような贈り物を与えることを恥ずかしいことであるとは言わないでしょう。もし、私たちが主について十分に、考えなければ、何ものも無駄となるでしょう。そこで、主はこのように言われましたね。『彼女は、できる限りのことをしたのだ。』これは何を意味しているのでしょうか。それは、マリヤが彼女のすべてを捧げ尽くしたということを意味しています。それは、彼女にできるすべてでした。それ以上はできませんでした。けど、彼女はそれをなしたのです、そして、主は大いによろこばれたのです。

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