2015年3月31日火曜日

もっとも大切なものは何?

もっとも大切なものは何?
2015年3月31日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ヨハネ
12:1 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
12:2 人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。
12:3 マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。
12:4 ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。
12:5 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
12:6 しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。
12:7 イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。
12:8 あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」

マルコ
14:3 イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。
14:4 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。
14:5 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。
14:6 すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。
14:7 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
14:8 この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。
14:9 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」

今、最後にお読みになりました箇所をもう一回、読みましょうか。

マルコ
14:9 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも(・・・・吉祥寺でも!・・・・)、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。

そうすると、今日はマリヤの記念会かな?

イエス様は、彼女を見て、非常に喜んだのです。他の人々は、今、読まれました箇所によると、彼女をひどく責めた。彼女のやっていることは、滅茶苦茶、もったいない!と思った人もいたようです。

彼女の成したことは、主の成されることと常にいっしょであるべきであると、イエス様は言われました。彼女は、家に小さな石膏の壺を持って入って来、たいへん高い匂い油が、その中に入っていました。そして、どのように壺を割って、イエス様の頭に油を注いだかというようなことどもを、私たちは、聖書を通して知っています。

彼女の弟のよみがえりのことについての詳細は、ヨハネ伝12章を見ると解ります。

その家族は、とくに金持ちではなかったことを知ります。姉と妹は家の仕事を自分でしなければならなかったし、妹のマリヤは、300デナリもする匂い油を石膏(のつぼ)の中に、持っていました。そして、イエス様にその全部を捧げました。もちろん、強制されたからではない。自発的に喜んでやったことです。イエス様に全部、捧げた。彼女は、一度に全部をイエス様に与えた。

人間的な考えでは、これは本当に多すぎると言うでしょう。この考え方は、ユダが他の弟子たちに、「彼女はむだなことをした」、と言い始めた理由であります。

今や私たちは、イエス様が現代において、むだという言葉を強調されようとしていることを信じます。むだということの単純な意味は、多すぎるということです。百円で間に合うところを、三千円を与えるとしたならば、ちょっと、むだなのではないでしょうか。一日で終わる仕事を、五日とか、一週間かかるとしたら、ちょっとおかしいのではないでしょうか。

むだということは、少しで済むのに、多すぎるほど与えることです。また、誰かが、そんなにたくさんの価値がないのに、価値以上のものを贈ることを言います。これが、むだです。

けれども、ここでイエス様がは、『福音が語られるところ、どこにおいても、そのむだということが示されるべきである』といったような意味のこと言われたのです。福音が語られる所どこでも、人々はこのような所に来て、彼の上に、彼ら自身をむだにすべきであると、希望なさいます。

主は、まちがいなく、今日も、このような喜んですべてを捧げる人々を、探し求めておられるのではないでしょうか。

本当の献身とは何でしょうかね?むだなものです。私たちは、イエス様のために、むだについて、次の質問に目を注がなければならない。それは、二つの側面からです。ひとつは、ユダに取りあげられ、そして、もうひとつは、他の弟子たちによって取りあげられるのです。ご存知のように、彼らはみな、それがむだであると思ったのです。ユダにとっては――彼は、我々の主を、『主』とは一回も呼んだことがない――主イエスの上に注がれたすべてのものは、むだであると、彼は思ったのです。匂い油だから、むだであったというのみでなく、水であったとしても、やはり、むだとみなしたでしょう。

この世にとっては、イエス様への奉仕、そして、イエス様へ我々自身を与えることは、むだと見えるでしょう。彼は、決して、愛されませんでした。そして、当時の人々の心の中には、決して、心を得ませんでした。従って、彼に与えられる何ものも、むだとなるわけです。多くの人々は、次のように言うでしょう。これこれの人が、世において良いことを成す。けれども、それは、その人がクリスチャンでない場合なのです。その人がクリスチャンであって、イエス様に奉仕する場合、生まれつきの良い技量も、世の中にあって何事か成しても、すべてむだであると、されてしまうのです。ユダは、それが、むだのごとく、感じました。

私たちは、お金について、それが他の違ったものに用いられるように、取り扱うことができます。たくさんの悩んでいる人々がいるし、私たちは、それを憐れみをもって与えることができる。社会的な奉仕ができる。もっと実際的な方法で、人々を助けることができる。なぜ、それをイエスの足元に注ぐことをしたのか。あなたの生活のため、もっと良い用途を探せなかったのか、自分のため、もっと良いことができなかったの?

これがユダの考えたところでした。そして、それが、もちろん、主を知らない人々の考えるところなのではないでしょうか。私たち自身を、主に与えることは多すぎる。けれども、一度、イエス様の価値、すばらしさのために、我々の目が開かれた時、決して、そうではない。イエス様のために多すぎるということは、ひとつもありません。

ホセア
5:12 わたしは、エフライムには、しみのように、ユダの家には、腐れのようになる。

我々にとって、主イエス様は、どんな価値があるのでしょうか?しみのように、または、腐れのようにつまらない存在にすぎないのでしょうか。私たちは、ユダのように、金(かね)や他の人物が、主よりまさっていると思っているのでしょうか。私たちは、すばらしい尊い血潮を、欲しているのでしょうか。イエス様は、我々のすべての罪を取り去ることを、希望なさっています。「来たれ、そして、汝の罪を彼に捧げよ。汝の全生涯をイエス様に捧げよ。そして、イエス様のみが価値がある。イエス様のみが価値がある」と、喜びながら歌うことができます。

しかし、私たちは、ユダの態度について、そんなにたくさん思いめぐらすことはしません。先に進んで、他の弟子たちの態度は、どうであったのでしょうか。見てみましょう。なぜなら、私たちが、まことに主のものである時、ユダの態度より、この方が我々にとって、もっと意味があるからです。

我々にとって、世の言うところは、そんなに気にかかりませんが、他の弟子たちの言うところは、非常に心を惹かれるのです。彼らは、ユダと同じことを言いました。そして、そう言うのみでなく、怒りによって動かされました。彼らは、怒りました。「それは、むだである」と、皆、思ったのです。彼らは、「あなたは、この匂い油を三百デナリに売って、貧しい人々に与えるべきだ」と思ったのです。

何が、主の願いなのでしょうか。貧乏人たちが助けられたかということは、本当は問題ではない。問題は、主が満足なさっているかどうかということです。私たちが主のために働くというのではない。主に対して奉仕するということは、大切かもしれないけど、それは、主に対して仕えるということでしょう。

主を褒めよ。主が望まれることは、主にすべてを与えることです。人々が、「あなたは、何もしていない」と言うとしても、我々の主に対する奉仕は、取引的なことでない。それは、主を喜ばせつるということです。

私たち夫婦にとって、いちばん大切な聖書の箇所は、結婚指輪にも刻まれている箇所です。

コロサイ(口語訳)
1:10 主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせよ。

これは、本当に大切な心構えの現れです。多くの用いられ得る、また、生き得る集会があります。仕える多くの会があります。導き得る多くの喜びの集いがあります。それができるというのは、それを、私たちが自分で仕え得るというのでもなく、また、それを自分で運営するのに、私たちが有益であるというのでもなく、実に、主が我々の立場を、主の御足の前に求め、我々の油注ぎを、主の頭(こうべ)に求めておられます。

いかなる種類の石膏のつぼを私たちが持っていようと、たとえば、もっともすばらしいこと、我々にとって愛すべきこと、我々の全生涯などのようなものであっても、それをすべて主に捧げるべきです。それは、むだのように見えるかもしれないけど、それこそが、主の求めておられることです。私たちは、かつて、主に与えすぎたことがあるのでしょうか。主の奉仕においては、むだということの原則は、力の根源です。真に主の手の中にあって有益なのは、むだということになるのです。

私たちは、より多く考え、より多くの成すこと、そして、自分の賜物を自分で用いることによって、私たちは、それらが世の原則にすぎないことを見出すでしょう。それは、主の原則ではありません。あらゆることを十分に成し、また、動きまわることではなく、私たちは喜んで、私たちのすべてを主に捧げ、我々の奉仕によって、主を喜ばせることこそ大切です。

私たちの言うところは、何もしないでというのではなく、第一のことは、主ご自身であって、主の仕事ではないというわけです。だから、主イエス様はこう言われました。「彼女は、わたしに対して成した」と、言いました。もしも、私たちの目が開かれておりさえすれば、解るはずです。すなわち、主は、我々のいわゆるわざを求めないで、私たちが主に対して何であるかという事実を求めたもうのです。

そこで、主は、「なぜ、彼女を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人たちは、いつもあなたがたと一緒にいるから、したい時には、いつでも良いことをしてあげられる。けれども、わたしは、あなたがたといつも一緒にいるのではない」と、イエス様は、はっきり言われました。

マリヤは、匂い油が入った石膏の壺を壊し、それを主の頭に注ぎました。数日後、朝早く、主の体に油を注ごうと、道を進む数人の婦人たちがおりました。彼らは、それを成したでしょうか。よみがえりの日に、彼らは成功したのでしょうか。いえ、主の体に油を注ぐことに成功した人物は、ただ一人のみでした。その方は、その時より前に、彼に油を注いだのでした。他の人々は、主の体に油を注ぐことに成功しなかったのです。主はよみがえってしまっていたのでした。

根本的な質問は、今日、主に対して、私たちが何を成そうとしているかにあります。

人は、主のために捧げることは、あまり多すぎると思うかもしれない。また、私たちは、我々の生涯をむだにしていると言うかもしれません。あるいはまた、このこと、あのことを、いろいろと語るかもしれないけど、「主よ、あなたに対してあまりに多すぎるということは、ひとつもないのです」と、言おうではないでしょうか。

ある人がこのように言いました。「私たちが主に捧げるということは、彼が価値があることを、いかに多く考えているかを示すのである。」間違いなくそうです。もしも、主が価値ある方ならば、どうして、それがむだということがあり得ましょうか。主は、そのように仕えられる価値のある方です。それほどに価値のある方ですから、私たちは、主のために生きたいと望んでいます。世が何と言おうとかまいません。主は、価値あるお方です。

主は、「彼女を困らせてはいけない」と当時、言われました。ですから、人々が何を言おうと、困らせないようにしましょう。そして、私たちは、この立場を堅く守りましょう。

主は、次の意味のように語られました。「それは、良いわざである。あらゆる真のわざは、貧しい人に、何か成したというのではない。あらゆる良い、そして、真のわざは、わたしに対して成されることこそ、それなのである」と、イエス様は言われました。

イエス様は、「それは、わたしに対してである」と、認められるのです。イエス様は、「それは良い」と言われるのです。我々の目は、私たちを救ってくださった方のすばらしさを見るために、開かれているのでしょうか。私たちは、もっとも深い、もっともすばらしい、そして、もっとも値のかかるものが、主を満足させるということを知っているでしょうか。私たちは、貧しい人たちのための仕事、人々の魂のための仕事、そして、世の福祉のための仕事などは、主に対するわざとは、比べることができないことを知っているのでしょうか。

主は、我々の目を、ご自身の価値を見るために、開かなければなりません。

もし、ここに何か非常にすばらしいものがあるとしたら、あなたは、千円、一万円、また、百万円を払ったとしても、それは、むだであると言えるでしょうか。むだという思想は、私たちが、主に対して低く見積もることから来るのでしょう。

全体の要点は、主が我々のためにいかなる価値があるかということになります。主が、我々の魂にとって真に尊い方であれば、あまりに良すぎるというものは、ひとつもありません。あまりに高過ぎるというものも、ひとつもありません。

私たちのあらゆるものは、それが、もっとも深く、もっともすばらしくあっても、主に対して捧げます。そして、私たちがこのような贈り物を与えることを、恥ずかしいことであるとは、言わないでしょう。もし、私たちが、主について自分を考えなければ、何ものもむだとなるでしょう。そこで主は、このように言われました。「彼女は、できる限りのことをしたのだ。」これは、何を意味するのでしょうか。それは、マリヤは、彼女のすべてを捧げ尽くしたということを意味しています。それは、彼女にできるすべてでした。それ以上はできませんでした。しかも、彼女は、それを命令されたからではなく、喜んで自発的にしたのであります。

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