2015年3月10日火曜日

イエス様の贖いの血

イエス様の贖いの血
2015年3月10日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

エペソ
1:7 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

いつの時代でも、悪魔は、イエス様の血による贖いの大切さを曖昧にしようと、必死になってきました。たとえば、いわゆる原理研究会、統一教会の原理公論という経典は、イエス様の血について、一言も述べていない。血という言葉は、一回も出てきません。イスラム教徒のコーランの中に何が書かれているかと言いますと、『キリストは十字架の上で死ななかった。血が流されなかった』と言っているのです。けれども聖書は、はっきり言っていますね。へブル書の九章二十二節、『イエス・キリストの血による以外に救いはない。罪の赦しはない』とあります。

【参考】へブル
9:22 それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

マルコ伝の中心となる言葉は、10章45節でしょう。

マルコ
10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

イエス様の来られた目的とはそれです。いろいろなことを教えることよりも、自分自身が犠牲になるためです。贖いの代価として、イエス様は自分のいのちを与えてくださいました。ペテロも、同じことを強調しました。

第一ペテロ
2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

3:18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。

パウロも、おもにローマ書の中で、この事実について、多くのことを書いたのであります。

ローマ
5:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

4:24 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
4:25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

5:10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

第二コリント
5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
5:18 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
5:19 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
5:20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。・・・・

十字架につけられたイエス様は、永遠なる神ではなく、愛されている御子でもなく、罪の塊とされてしまったのです。

5:21 ・・・・それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

このみことばは、私たちが、それを受け入れようが、受け入れまいが、動かすことのできない事実であり、真理そのものです。すなわち、罪の赦しは、ただ主イエス様の血によってのみ完成されます。罪に対する感謝の勝利は、イエス様の血によって、もたらされるのです。罪の問題は、イエス様の血なくしては、解決されないのです。イエス様の血によって、罪が赦され、罪に対する勝利がもたらされただけでなく、将来、新しいいのちに生きる可能性も約束されています。この新しいいのちについて、もちろん、聖書は、たくさんのことを言っていますけど、一箇所だけ見てみます。

黙示録
21:5 すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」(・・・・わたしを見て!わたしがする!・・・・)また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」

『見よ。わたしは、すべてを新しくする。』これは、罪と債務の土台となって、永遠の滅びに沈んで行く人々に対する主なる神の告知です。そして、このみことばは、イエス様の十字架と死によって本当に実現されました。そこにこそ、すべてのものが新しくなったという事実があるのです。イエス様は、全人類の債務を、ご自身の血によって、支払ってくださいました。それですから、罪の赦しということが、実際に成就されました。そして、イエス様は、我々を罪の奴隷から贖い出してくださり、完全な自由を与えてくださったのです。

イエス様の中に、悪魔と罪の束縛からの解放と、罪に対する勝利を見出すことができます。けれども、イエス様は、さらに、それ以上のことを成してくださいました。すなわち、イエス様は、ご自身の血によって、新しいいのちを与えるお方です。イエス様の恵みによって救われた人々は、確かに、罪の赦しを与えられ、罪に対して勝利をもたらしていただきましたけれども、新しいいのちを与えていただかなければ、元の状態に留まるのみか、さらに悪い状態の中に沈むかもしれません。

イエス様の血による救いが、永遠に続くものであるから、また、それが実際生活に現れてくるゆえに、私たちは、新しい人間となることができます。イエス様は言われました。見よ。わたし――わたしを見て!わたしはする!――わたしは、すべてを新しくすると、約束してくださったのです。イエス様は、すべてを新しくすることができ、新しくしたいと願っておられると、約束しておられます。

新たなる人間は、やはり変わりたい、新しい人間になりたい。そして、新しい人間となって、新しい生活をしようと、誰でも願っているのではないでしょうか。もちろん、それを望んでおられることでしょう。これこそまさに、もっとも深い人間の願いなのではないでしょうか。今までに、新しくなろうと思って、一生懸命に努力して、けれども、それが空しかったことを、誰でもが認めざるを得ません。なぜなら、自分の力で新しい人間になったり、新しい生活を展開していくことはできないからです。

できることは、ただイエス様に、すべてを明け渡し、イエス様にあって、新しく造り変えていただくことです。我々の生涯が、イエス様の御心にかなった生涯となることを、体験すべきではないでしょうか。イエス様は、新しい人間に造り変えたいと思っておられ、また、それがおできになるただ一人のお方です。もしも、新しい人間になりたいと思うならば、古い人間を捨てて、それから離れて、新しい生活に入らなければなりません。

私たちは、古い人間の――自分の生まれつきの――性質を、よく知っているはずです。古い人間の中にある古い性質は、いつも自分のことだけを中心に考えようとします。たとえ、自分自身の中にある古い性質に気が付かない人でも、他人の中に、自己中心的な古い性質があることを、よく知っていることでしょう。

聖書が言っている古い人とは、自己中心的な考え方しかできない自我の塊であり、いつも周囲の人を支配しないと気が済まない者であります。古き人の特長は、自己決定と自己支配をすることです。

どのようにして私たちは、古い性質から解放されることができるのでしょうか。それに対しては、禁欲主義的な律法的な処方箋が、いろいろな宗教によって、講じられていますけれども、実際問題として、そのような律法的な処方箋の結果は、前よりも、ひどく自己中心的な人間を作りあげてしまうことが少なくない。人間が、前よりも自分中心の考え方をするようになってしまいます。

イエス様は、そのような古い性質から解放するために、はるかにすばらしい方法をご存知です。聖書によると、イエス様の十字架は、ただ単に、イエス様ご自身の死と関わりを持つだけでなく、全人類の死が関わりを持っているのであり、私たち自身の死をも、同時に意味しているのです。イエス様は、我々のために代わりに犠牲になり、死なれました。それゆえ、古い人間も共に十字架につけられたと聖書は言っています。よく知られているローマ書、6章の6節を見ると次のように書かれています。

ローマ
6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

大切なのは、「これから」とあります。これは、やはり、すばらしい聖書の言っていることです。過ぎ去ったことは終わり!これから。多くの人は、この事実の深い意味を知らないで生活しています。イエス様は、ずっと前に、我々の古き人と共に十字架につけられたと、この6節に、はっきり書かれています。

イエス様が十字架につけられたと同じように、我々の内の古き人も、共に十字架につけられたとあります。十字架につけられたイエス様を信じる者は、我々の内の古き人も、キリストと共に十字架につけられた事実を、体験的に知らなければなりません。したがって、そうなると、我々の内の古き人は、もう存在する権利を持っていない。その要求に従うことはないという自覚を持って、感謝の生活をすることができます。すなわち、パウロが証ししているように、「私は、キリストとともに十字架につけられた。もはや、生きているのは、私ではなく、キリストが私の内に生きておられる」と言うことができるのです。

【参考】ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

その時、初めて私たちは、罪から解放されて自由を得ることができます。そして、イエス様とともに十字架につけられた者は、イエス様とともによみがえったのです。すなわち、イエス様は、私たちが、イエス様の死に与かることだけでなく、イエス様のいのちに与かることを望んでおられます。自我を消し去ってくださる方は、イエス様であり、それは、イエス様の提供された贈り物です。そして、新しい性質の現れは、イエス様が与えられた新しいいのちの結果です。

イエス様だけが、「わたしは、いのちそのものである」と言うことができたお方です。そして、真のいのち、永遠のいのちは、ただイエス様の中にだけあるのです。しかも、イエス様は、それを自分のものにしておかれず、地上に来て、我々にご自分のいのちを与えようと望んでおられます。ヨハネ伝10章の10節を見ると、このいのちを得ることの重要性が書かれていますね。

ヨハネ
10:10 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

豊かなるいのちを与えようと望んでいるのは、イエス様です。

ヨハネ
10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。

すばらしい約束です。イエス様が、我々にいのちを得させるためには、ご自分のいのちを、捨てなければなりませんでした。イエス様は、そのために、死ななければならなかったのです。そして、そのことをイエス様は、実際に、なさってくださいました。イエス様のいのちは、イエス様の血にあります。イエス様の血が流された時、イエス様はいのちを与えてくださいました。

ヨハネ
10:18 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。

イエス様が、いのちを捨ててくださったゆえに、私たちは、それを受け取ることができます。それゆえに、十字架こそ、いのちの泉が流れているところです。誰でも、それを受け取る意思さえあれば、ただで得られるのです。

黙示録
22:17 御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。

十字架につけられた主イエス様を受け入れる者は、自分の救い主、また、自分の主として受け入れる者は、罪の赦し、罪の支配からの解放を得るだけでなく、新しいいのちを得られます。聖書は、御子、主イエスを持つ者は、永遠のいのちを持っていると、はっきり言っています。永遠のいのちとは、実際、新しいいのちです。そのようにして、イエス様は、我々を新しくしてくださるのです。

ローマ
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

これこそ、新しい生まれ変わりです。新しいいのちを持ちたいと思っている人は、おおぜい、いますけれども、悔い改めて、新しく生まれ変わることのできる人は、少ないのではないでしょうか。新しいいのちは、新しく生まれ変わることによってのみ得られます。

大神学者であるニコデモが、イエス様にそのことを尋ねた時、イエス様は何と言ったでしょうか。「誰でも、新しく生まれ変わらなければならない。あなたの知恵と該博(がいはく)の知識は、何の役にも立たない。新しく生まれ変わらなければ、決して、天国に入ることができない」と、イエス様は、はっきり彼に言ったのです。多くの人々は、自分が正しく、真面目に生きているから、主なる神が義と認めて、天国に入れてくださる。自分は、いろいろ良いことをしたから、天国に入ることができると思い込んでいます。

それに対して、聖書は何と言っているでしょうか。人間が考えることと、主なる神が判断することのあいだには、大きな違いがあるとあります。このヨハネ伝、3章3節ですね。イエス様は、彼に言ったのです。

ヨハネ
3:3 まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。

意味は、救われ得ない。

たとえば、私がドイツで、日本と同じように、左側通行で車を運転したならば、おそらく、五分も経たないうちに正面衝突することでしょう。そして、裁判の時、日本では車が左側を走るから、ドイツでも左側を走ったのであって、私は間違っていないと主張しても、裁判官はそれを認めようとしない。ドイツでは、車は右側を走る規則である以上、日本で行われていることが通用しないでしょう。それと同じように、私たちが、主の前に現れる時、主は私たちの人間的な思いや考え、定めによってではなく、神の律法によって裁くに違いありません。

聖書は、主なる神が考えていらっしゃることを我々に明らかにする唯一の書物です。聖書は、救いの扉はただ一つ、すなわち、イエス様ご自身であるとはっきり言っているのです。

債務が支払われ、罪が覆われるためには、尊い犠牲、すなわち、イエス様の血がどうしても必要でした。新しい永遠のいのちは、ただ改心によって、すなわち、新しく生まれ変わることによってのみ、与えられます。永遠のいのちを得たいと思う者は、必ず与えられます。イエス様は、ご自分の血を流していのちを与えたと全く同じように、我々も切に望むならば、新しいいのちを与えられます。

けれども、それは決して簡単なことではありません。なぜなら、何十年も人生経験を経た人は、幼子のように、もう一度、はじめからやり直すということは、なかなか、おもしろなくい、できないことです。もっと正確に言うならば、やりたくないからなのではないでしょうか。確かにイエス様を知らずに生きてきたことは、空しいことでした。しかしながら、今からでも決して、遅すぎることではない。もしも、今、イエス様の恵みに与かることができれば、何と幸いなことでしょう。もう一度、新しくやり始めることは、それ自体、恵みに他ならない。過ぎ去った出来事を、主イエス様の血によって赦された、忘れられたことこそ、完全な自由を意味しています。新しく生まれ変わった人間は、生まれたばかりの幼子のような者です。すなわち、その人は、暗い過去を持っていない。

最後に、イエス様によって新しく造られた者を見てみましょうか。

マルコ
10:46 彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。
10:47 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。
10:48 そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。
10:49 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。
10:50 すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。
10:51 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」
10:52 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。

このメクラの乞食であるバルテマイは、全き平安、本当のよろこびを持つようになりました。けれども、イエス様は、彼を呼ぶことによって、言われたのですね、「よろこべ。立て。おまえを呼んでおられる。心配しないで!」と。この招きの声は、私たちにも、もちろん、成されています。人間同士の間でも、「くよくよするな、元気を出しなさい」などと、励まし合ったり、力付け合ったりしますが、実際には、助ける可能性と本当の力が湧いてきません。人間的な同情は、一時的な聖めになるかもしれないけれども、決して、根本的な問題を解決することができません。ただ単に、我々の苦しみに関心を持っているだけでなく、根本的な問題の解決を与えてくださるお方がおられることは、まさに、福音そのものです。

もちろん、そのお方とは、イエス様だけです。実際問題として、何と多くの人々は、このバルテマイと同じようにメクラであり、絶望的な状態にあるということでしょう。確かに、私たちも、肉眼を持っておりますし、外側はきちんとしているかもしれないけれどもも、心の奥底に、本当の平安、変わらない喜びがあるのでしょうか。

イエス様を持たない者は、心の目が見えないため、手探りで、暗闇の中で這いずりまわり、何かを求めようとしますけれども、結局、何もありません。恐ろしい死に向かっているにすぎない。いかなる状態に置かれても、どんなに勇気を失っても、イエス様は呼んでおられます。暗闇の中に沈む必要はない。けれども、そのことを、どうしても知る必要があります。そうでなければ、本当の光を求めようとしないからです。

バルテマイは、イエス様との出会いによって、完全に癒された。彼の考え方は、いっぺんに変わりました。本当の意味で、前向きに生活をすることができたのです。バルテマイが、上着を捨てたと書いてあります。イエス様のもとに行ったように、我々もあらゆる障害物を投げ捨てて、イエス様のもとに行きましょう。上辺だけの信心ぶった見せかけや、嘲笑や、自己正当化とかは捨てましょう。

イエス様は今日も、我々に向かって、バルテマイのように言われます。何と言ったかといいますと、『何を欲しいの?あなたは目を開いて欲しいの?あなたは自分の手柄ではなく、十字架においてわたしが成就した救いを受け取ろうと思わないの?あなたは、わたしの血による罪の聖めが欲しいのでしょうか。わたしの霊が、あなたの生活を完全に支配することを、望んでいるのでしょうか。わたしが、あなたに完全な救いを成し遂げたことを信じたいと思わないの?あるいは、あなたは、そのままで罪の中で死にたいのでしょうか?あなたは、わたしを退けるのでしょうか?わたしが、あなたに高い代価を支払ったという事実を拒むのでしょうか。永遠のいのちというすばらしい贈り物を、本当に受け入れたくないのでしょうか。』

イエス様は、今日も、こういうふうに聞いておられます。「喜べ、立て、おまえを呼んでおられる。」

イザヤ
42:16 わたしは盲人に、彼らの知らない道を歩ませ、彼らの知らない通り道を行かせる。彼らの前でやみを光に、でこぼこの地を平らにする。これらのことをわたしがして、彼らを見捨てない。

すばらしい約束です。最後にもう一箇所、読んで終わります。

ヨハネ
8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

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