2015年3月3日火曜日

平和と安全(2015年3月3日、学び会)

平和と安全
2015年3月3日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

へブル
4:14 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
4:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

今の世界が、どうしても必要なものは何でしょうか。平和なのではないかと思います。平和がなければ、安全もあり得ない。平和と安全の原因とは、いったい何なのでしょうか。言うまでもなく、我々の主イエス様ご自身です。へブル書の著者は、今、読まれたように言ったのですね。

へブル
4:14 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。

私たちのために、偉大な大祭司である神の子イエスがおられる。これこそが、真(まこと)の喜び、本当の希望、そのものなのではないでしょうか。ここで、大祭司という言葉が出てきますけど、大祭司の務めとは、いったい何だったでしょうか。

まず、主なる神と人間との仲保(ちゅうほ)者の役割を演ずることでした。この務めは、イエス様の死によって成就されました。すなわち、債務は支払われ、罪は赦され、悪魔の支配から解放されたのです。

さらに、大祭司のもう一つの務めは何であったかと言いますと、とりなしの祈りをすることです。この奉仕は、言うまでもなく、今日も我々のために、イエス様がなさっておられるものです。イエス様は大いなる愛をもって、我々一人ひとりを覚えて、とりなしていてくださるのです。

イエス様は、私たちが闇の中におり、試練に会っている時、我々を覚えていてくださいます。イエス様は、我々にすべてにまさる力を与えてくださるのです。これこそ、いわゆる平和、本当の安全を意味するのではないでしょうか。イエス様に出会った人々は皆、次のように喜びをもって言うことができます。すなわち、『私が罪の快楽に沈み、イエス様を拒んだ時でさえも、イエス様は私を思ってくださいました。イエス様は、罪人を救うために地上に来られたというみことばは、私に勇気を与えてくださいました。私が良心の呵責、不安と疑い、失望、落胆の中に置かれ、さらに堕落するか、あるいは、イエス様によって救われるかという人生の岐路に立った時も、イエス様が愛しておられることを知り、イエス様の愛の目の前に降参したのです。私がかつて、さまよう、どうしようもできない迷っている者だった時でさえも、そのような私をイエス様は思ってくださいました。そして、私が、ありのままの姿でイエス様の御許(みもと)にきた時、また、自分の力で良くなろうと努力せず、完全に打ち砕かれた時、私はイエス様の愛を体験的に知ることができた』と、イエス様を知るようになった誰でもが、証しすることができます。

私も、ちょうど七十年前に、イエス様によって、永遠のいのちを与えられたから、今日までイエス様が私を思っておられることを体験的に知ることができたのです。イエス様を知り、イエス様を持つことは、平和と安全を持つことを意味します。私たちが悪魔によって試みられ、攻撃される時でも、イエス様が我々を思っておられ、勝利をおさめておられることとは、何というすばらしい事実でありましょうか。

コリント第一の手紙の十章、よく引用されるすばらしい箇所です。パウロがコリントにいる兄弟姉妹に書き送ったことばです。

第一コリント
10:13 あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。

我々みな、何回も経験した事実なのではないでしょうか。イエス様は、我々が主を思う前から、我々を思っておられました。イエス様は、私たちが主のところへ行く前に、我々のところに来られたのです。イエス様は今日も、我々に呼びかけておられます。「重荷を負って苦労している者よ、わたしの元に早く来なさい。あなたを休ませてあげよう」と。これこそが今、話した、どうしても必要な平和、また、安全を意味しています。

私たちが平和と安全を持っているかどうかは、私たちがイエス様の血に対していかなる態度を取るかに、かかっているのではないでしょうか。聖書全体は、我々を救い、解放するために主イエス様の流された血が、必要不可欠であると言っています。出エジプト記の十二章の中に、それに対する実例を見出すことができます。主は、イスラエルの民を過ぎ越し、守るために、子羊の血をかもいと入口の二つの柱に塗るように命令されました。

出エジプト記
12:1 主は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。
12:2 「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。
12:3 イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。
12:4 もし家族が羊一頭の分より少ないなら、その人はその家のすぐ隣の人と、人数に応じて一頭を取り、めいめいが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。
12:5 あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。
12:6 あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、
12:7 その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。」

12:12 「その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。
12:13 あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。」

12:21 そこで、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び寄せて言った。「あなたがたの家族のために羊を、ためらうことなく、取り、過越のいけにえとしてほふりなさい。
12:22 ヒソプの一束を取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。
12:23 主がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、主はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者があなたがたの家にはいって、打つことがないようにされる。」

12:28 こうしてイスラエル人は行って、行なった。主がモーセとアロンに命じられたとおりに行なった。
12:29 真夜中になって、主はエジプトの地のすべての初子を、王座に着くパロの初子から、地下牢にいる捕虜の初子に至るまで、また、すべての家畜の初子をも打たれた。
12:30 それで、その夜、パロやその家臣および全エジプトが起き上がった。そして、エジプトには激しい泣き叫びが起こった。それは死人のない家がなかったからである。

主は、子羊の血を見ると、イスラエルの民に災いを及ぼしませんでした。なぜなら、その血が救いと贖いを意味していたからです。主なる神が、守られる手段は流された血でした。民は、血を塗らなければなりませんでした。血を塗ることは、決して、美的なことではありませんでした。けど、それこそ、唯一の救いの道だったのです。その血によってイスラエルの民は守られ、覆われたのです。

罪に対する勝利、悪魔に対する勝利はどのようにして成されるのでしょうか。黙示録の中で、その答えが書き記されています。

黙示録
12:11 兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

勝利の秘訣は、イエス様の血にあります。悪魔は、イエス様の血を、もっとも忌み嫌うものです。なぜなら、罪人でさえも、イエス様の血によって守られると、悪魔は、どうすることもできません。それですから、悪魔は、私たちがイエス様の血について語ることを、いかなる犠牲を払っても、妨げようとしているのではないでしょうか。悪魔は、ある者に向かっては、「そんなことはない、沈黙した方がよい」と、ささやいているでしょう。また、ある者に向かっては、「それは、美的ではない。それについては、何も言わない方がいい」と、そそのかすのです。また、ある者にとっては、「あまりにも聖なるものであるから、黙った方がいい」と言うのです。

このような試みに負けた者は、悪魔の餌食になってしまいます。けど、私たちは、イエス様の血について黙ることは、許されません。誰でもイエス様の血によってのみ、悪魔に打ち勝つことができるということを知るべきであるからです。

悪魔は、私たちの外にあり、罪は、我々の内にあります。そして、我々の内にある罪は、外にある悪魔と結びついているのです。誰でも、生まれた時から罪を持っています。すなわち、罪の性質を持って生まれてくるのです。そして、この罪は、主なる神に対して逆らう意思そのものです。そして、この罪は、人間が、「私はできる」とか、「私はしたい」とかいう、うわべだけの見せかけの形を取るのです。このようなことの中に、まさに、罪の根を宿しているのです。すなわち、自己決定、自己支配です。

誰も、自分の心にある罪から、自分自身を解放することはできません。このように、自分でやろうとする試みでさえも間違っている。主の目から見ると罪です。なぜなら、主なる神により頼まず、主から離れているからです。

いかに多くの宗教と世界観が、心にある罪を自分の力で解放しようとし、ますます自己決定、自己支配をするようになるため、ますます罪に縛られて、がんじがらめになってしまうのです。誰も、自分の力で、自分自身を解放することができません。イエス様だけが、罪に対する勝利者であり、我々の内に住む罪に対する勝利者でもあります。私たちが、庭の雑草を取って捨てるように、イエス様は、私たちから心の中にある罪を取って捨ててくだされば良いのですけど、実際はそれができません。

罪は、我々の肉体が存在する限り、私たちの内にあります。私たちが死んで、肉体が滅びた時、初めて、私たちは罪から完全に解放されます。

人間は、虫歯を引き抜くこともできれば、手足の悪い部分を切断することもできます。けれども、もしも、中枢神経が悪くなった場合、それを取り出すことは、生命を失うことを意味するでしょう。罪は、そのような神経と同じように、全身に入り込んでいるのです。血液や全身を循環するのと同じように、罪も全身に染み込んでいるのです。したがって罪は、死によってしか、消滅しないのですけど、イエス様は我々を殺したくない。主は我々を証し人として用いたいと願っておられます。

イエス様は、どのようにして、我々の内にある罪の問題を解決してくださるのでしょうか。これこそ多くの人々が、心を動かしている問題なのではないでしょうか。この問題は、もうすでに、イエス様によって解決されているのです。

一箇所、読みます。第二コリントからです。生きているあいだには、百パーセント、つかめない言葉ではないでしょうか。

第二コリント
5:21 神は、罪を知らない方を(・・・・罪を犯す可能性を持っていない方を・・・・)、私たちの代わりに罪(そのもの)とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

父なる神は、御子、主イエス様を罪そのものとされたと書いてあります。すなわち、ひとり子のようにではなく、あたかも、罪そのものであるかのように、取り扱われました。

イエス様は、ただ神の御心だけを行ったにもかかわらず、あたかも主なる神に最も敵対する者かのように罰せられました。主なる神は、罪に対して、死の判決をくだされました。そして、それは、御子なるイエス様に向けられたのです。イエス様のからだが裂かれた時、罪の力も消滅しました。イエス様の流された血は、肉の中にある罪の力が消滅した証明です。

この事実は、私たちの人生にとって、もっとも決定的な意味を持っています。私たちの内にある罪は、イエス様の犠牲によって、その力が消滅したのです。すなわち、イエス様の流された血は、我々の内にある罪に対する完全な勝利を意味しているのです。イエス様を受け入れる者は、罪に対するイエス様の勝利にあずかっているのです。これこそ、私たちを罪から解放するすばらしい福音そのものです。イエス様の血は、我々の内にある罪を覆ってくださるのです。

街路は、普通、アスファルトで舗装されています。アスファルトの下には、雑草などもあったはずです。けれども、アスファルトが厚く地面を覆っている場合は、雑草が生え出る余地がありません。けれども、アスファルトがだめになって、隙間ができたりすると、そこには、雑草が芽を出すでしょう。これと同じように、イエス様は、我々の罪の問題を解決してくださいました。すなわち、イエス様の血が、我々の罪を覆ってくださったのです。そのため、罪の力は消滅し、芽を出すことができなくなったのです。

しかしながら、イエス様の血が、我々の罪を完全に覆ってくださったにもかかわらず、私たちが、告白しない罪を隠したりして、イエス様の前にすべてを捧げようとせず、完全に明け渡さない場合には、そこのところから再び、罪が芽を出してくるのです。イエス様の血による守りこそ、我々の内にある罪に対する完全な勝利を意味しています。

ローマ
6:14 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。

恵みの下にあるということは、イエス様の血の働きの下にあるということを意味しています。イエス様の血による罪に対する完全な勝利は、私たち罪人にとって、大いなるよろこばしい福音そのものです。

第一ペテロ
1:18 ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
1:19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

イエス様は言われました、『もし、わたしがあなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由なのです(ヨハネ8:36)。』聖書は、悪魔からの解放、罪の束縛からの解放を告げ知らせています。多くの人々は、私は自由で、何ものにも束縛されていないと言うかもしれないけど、それは本当でしょうか。イエス様を体験的に知っていなければ、誰でもが罪の奴隷であり、決して、自由な者ではありません。イエス様だけが、あらゆる罪の束縛から解放し、贖い出してくださるのです。

使徒行伝
26:18 それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。

したがって、我々の支配者はイエス様であるか、悪魔であるかのどちらかです。

第一列王記
18:21 エリヤはみなの前に進み出て言った。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」

我々の支配者がどちらかであるかによって、私たちは永遠の滅びに行くか、永遠のいのちに行くかに決定されます。どうか、罪と悪魔に対して、完全な勝利を収めてくださったイエス様に、すべてを明け渡してください。私たちは、悪魔の力から離れて、イエス様の御許(みもと)に来なければならない。

最後に、今、述べたこのことが、いかに実現されるかについて、ちょっと考えたいと思います。まず、第一に、主なる神の御前に自分が罪人であることを言い表し、罪を告白し、悔い改めて、罪から離れなさい。イエス様は、「わたしは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来た」と言われました。

ルカ
15:4 あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
15:5 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、
15:6 帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。

15:21 むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。(口語訳)

正直な人間はみな、こういうふうに告白せざるを得ないのではないでしょうか。パウロは、愛弟子であるテモテに書いたのです。

第一テモテ
1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

旧約聖書の中でも、主の恵みが伝えられています。

イザヤ
55:7 悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。

福音そのものですね。私たちが悪魔の力から離れることは、いかにして実現されるのでしょうか。今、考えたように、まず第一に、主なる神の御前に、自分がどうしようもない者であることを言い表し、罪を告白し、悔い改めて、罪から離れることによってです。

第二番目、イエス様を自分の保証人、救い主、また、主として受け入れることによってです。有名なイザヤ書53章にこうあります。

イザヤ
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に(・・・・約束された救い主である主イエス様に・・・・)負わせた。

ペテロは、同じことを言ったのです。

第一ペテロ
2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになるとあります。

私たちが悪魔の力から離れることは、いかにして実現されるのでしょうか。今、話したように、まず第一に、主の御前に自分が罪人であることを言い表し、罪を告白し、悔い改めて、罪から離れることによってです。二番目、イエス様を自分の保証人として、、救い主として、また、主として受け入れることによってです。

最後に、主なる神がみことばを通して言われることを、素直に信じることによってです。イエス様の約束とは、『わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。』

【参考】ヨハネ
6:37 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。

ヨハネ
5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

ローマ
8:1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

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