2015年3月17日火曜日

主の目的

主の目的
2015年3月17日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

民数記
8:14 あなたがレビ人をイスラエル人のうちから分けるなら、レビ人はわたしのものとなる。

8:16 彼らはイスラエル人のうちから正式にわたしのものとなったからである。すべてのイスラエル人のうちで、最初に生まれた初子の代わりに、わたしは彼らをわたしのものとして取ったのである。

8:24 これはレビ人に関することである。二十五歳以上の者は会見の天幕の奉仕の務めを果たさなければならない。

エゼキエル
44:15 しかし、イスラエル人が迷ってわたしから離れたときもわたしの聖所の任務を果たした、ツァドクの子孫のレビ人の祭司たちは、わたしに近づいてわたしに仕え、わたしに脂肪と血とをささげてわたしに仕えることができる。――神である主の御告げ。――
44:16 彼らはわたしの聖所にはいり、わたしの机に近づいてわたしに仕え、わたしへの任務を果たすことができる。

44:28 これが彼らの相続地となる。わたしが彼らの相続地である。あなたがたはイスラエルの中で彼らに所有地を与えてはならない。わたしが彼らの所有地である。

今日の話の題名は、「主のご目的」であります。我々の生活における主のご目的とは、いったい何なのでしょうか。

主なる神が考えておられることは、一人でも多くの人々が、真の救いを得ることです。けれども、それだけではありません。その救われた人々を通して、主のご臨在が外に表わされていくことも、主の願い求めておられることです。

我々の内に宿りたもうイエス様、内住の主こそ、我々が生まれ変わった証拠です。人々は、私たちの内にイエス様が住んでおられることに気づくはずです。そのように身をもってイエス様を証しして、初めて、主の証し人と言えると思います。

初めに読んだ聖書の箇所では、会見の幕屋で働き、契約の箱を担う務めをしたレビ人について書いてあります。16節を見ると、レビ人は、全く神に捧げられていたことが解ります。

民数記(口語訳)
8:14 こうして、あなたはレビびとをイスラエルの人々のうちから分かち、レビびとをわたしのものとしなければならない。

ひとつ残らず、すべてを主にお捧げしたのが、当時のレビ人たちでした。すべてを主に捧げ尽くしたこのレビ人こそ、主のご栄光を現すことのできる、模範の人々と言わなければなりません。ですから、ここで、しばらくこのレビ人について考えてみましょうか。

レビ人は、イスラエルの民が、荒野を通って旅をした時、主の臨在を現す契約の箱を担った人々だったのです。イスラエル人たちは、臨在の雲の柱が上がった時、今まで留まっていたところから出発し、雲に導かれ、雲が再び留まったところで、民たちも留まりました。レビ人たちは、神の臨在の雲が留まったところへは、素直にそこに留まりました。そこがどんなに居にくい場所であっても、また、見た目に良くない場所であっても、導きのままに留まったのです。我々の場合は、いったいどうでしょうか。自分の考えの赴くままに、良い環境を選んで、そこへ行くでしょうか。または、主の導きのままに歩むのでしょうか。

実際のところ、私たちが生きているこの世は、どこへ行っても、荒野のようなものです。見た目に居心地の良さそうなところでも、実際に住んでみれば、しばらく経つと、そこも荒野であることがわかります。私たちは、レビ人たちと同じように、主の御手にあるところに、主の臨在が現れていくのですから、導きのままに歩みたいものなのではないでしょうか。

レビ人には、三つの特長があります。第一番目、主に対して礼拝し、二番目、人、人間に仕え、そして、三番目、悪の霊に対して戦う、この三つの特長を持っていました。この三つのことは、そのまま、我々の日々の生活に、主が求めておられることなのではないでしょうか。

まず、主なる神に対する礼拝について、ちょっと考えてみましょうか。皆さん、暗記している箇所ですけれども、ヨハネ伝4章を見ると、次のように書かれています。

ヨハネ
4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

礼拝とは、いったいどういうことでしょうか。父、ならびに、御子である主イエス様の偉大さを認め、いかに尊いお方であるかを、心から言い表すのが礼拝です。

心の目で、自らの神から離れ去っており、役に立たなくなっており、罪深く、だめな状態を見、それとともに、憐れみ深い主イエス様の御救いを、心の目で見る時、確かに礼拝せざるを得なくなります。主なる神のご愛の偉大さを知らない、キリストに属さない者は、もちろん、礼拝することができません。また、イエス様を信じていない人々だけでは、もうすでに、御救いに与かっている信者も、主の価値を完全に知ることはできません。

主の偉大さを全く知るには、永遠の時を必要とすることでしょう。もっともっと、心の目が開かれ、主がどんなにすばらしく、偉大なお方であるか、見させていただきたいものです。主の偉大さに心の目が開かれることは、礼拝にとって、本当に必要なことです。

イエス様の偉大さがわかればわかるほど、本当の礼拝ができ、礼拝すればするほど、主の偉大さが見えてきます。礼拝する人は、神の隠れた新しいことを教えられます。主を見た人々は、主の前にひれ伏し、拝まざるを得ません。高く引き上げられ、天の御位(みくらい)を定めたもう主のご支配が、我々の内にも現実となる時、心からなる礼拝を捧げることができます。我々の場合は、現実にどうでしょうか。我々の生活の真ん中に、主なる神に対する本当の礼拝が成されているのでしょうか。礼拝が、第一の場所を占めているのでしょうか。

時々、仕事が第一の場所を占め、その他のいろいろなことが、礼拝に代わる時間を取り、礼拝はどこえか影を潜めてしまうというのが現実ではないでしょうか。私たちは、なるほど、憐れみによって救われた者として、この世に生活していますが、礼拝する者として、毎日を生きているのでしょうか。

主なる神は、あまねく全地を見まわし、心を全うして礼拝する人々を探し求めておられると、書いてあります。主なる神に対する礼拝は、我々の生活の第一の場所を占め、礼拝が我々の全生活を支配していなければならないのです。

レビ人のひとつの特長は、今、話したように、主に対して礼拝することです。

第二番目に、人に仕えることであり、奉仕でした。ご奉仕とは、いったいどういうものでしょうか。イエスの言われたことばは、ヨハネ伝6章に書かれています。

ヨハネ
6:29 イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」

神のわざであると書いてありますが、すなわち、神に対するご奉仕です。これは、本当に不思議なご奉仕の定義です。真のご奉仕は、信仰の現れです。たとえ、私たちが、全生涯を捧げ、持っている物すべてを捧げたとしても、信仰がなければ、そこには、ご奉仕もありません。へブル書の著者も、同じことを書いたのです。

へブル
11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

信仰なくして神に近づくことは、無意味なことです。同じように、信仰なくしてご奉仕することは、全く無意味なことです。けれども、神を信じるとは、いったい何を意味しているのでしょうか。主なる神にご奉仕するということは、信仰の働きです。もし、これが神の御心であると確信するなら、惑わず、ためらわず、前進することができます。

このように神に委ね、任せきることこそ、これが信仰です。何かことを始めるにあたり、初めは不安です。自分には何の力もない。自分の無能力さを、よく知っているからです。けれども、やっているうちに、効果が表れてきます。結果が希望的に見えてきます。そのうちに、自分はできると思い込んでしまいます。これは危険です。我々のご奉仕は、瞬間、瞬間、主を見上げ、主により頼み、すがって行くご奉仕でなければだめです。

旧約聖書を読んでいきますと、レビ人は、驚くほど、たくさんのご奉仕をなさったことがわかります。しかし、このレビ人は、そのご奉仕に、自分の力、自分の能力により頼まず、ただ主の力により頼んでしたことがわかります。我々のご奉仕も、信仰の現れでなければなりません。もし、そうするなら、どんな小さなことも、真のご奉仕になるはずです。パウロは、コロサイにいる兄弟姉妹に書いたのです。

コロサイ
3:23 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。

パウロも、コリントにいる兄弟姉妹に書いたのです。

第一コリント
10:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。

それが何であれ、信仰を持って御栄のためにやるなら、真のご奉仕ですと。自分の考え、伝統にとらわれず、ひたすら、ただ主により頼み、すがって歩みたいものです。我々の生活が、全く主のご奉仕のもとに入っていることを証しできるために、我々の全生活を主に捧げたいものです。

レビ人は、今、話したように三つの特長がありました。第一番目、主に対しての礼拝。二番目、人に仕えることであり、そして、最後に、三番目になりますが、悪の霊に対して戦う。この三つの特長を持っていました。この三つのことは、そのまま、我々の日々の生活に、主なる神が求めておられることです。

エペソ書の6章、次のようにパウロは、当時の信じるもの、主の恵みによって救われた人々に書いたのです。

エペソ
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

我々の戦いは、戦いです。散歩道ではない。もちろん、人間に対する戦いではなくて、悪霊に対する戦いとあります。悪魔は、主に用いられ、主の御業のために心を尽くして奉仕しようと、心がけている者の上に、集中的に攻撃しています。

主のご臨在を持ち運び、真のご奉仕にかなう人々は、必ず、地獄の憎しみの真ん中に置かれ、サタンの攻撃の目標に置かれています。もし、サタンの目的の中心に立たされていないなら、我々の礼拝、我々のご奉仕は、根本から誤っていると言わなければなりません。この戦いは、厳しい現実です。

この激しい戦いの中にある時もなお、私たちは、主が成し遂げてくださった完全な勝利を、お取りになることができます。悪魔は、打ち負かされた敗北者です。これを固く信じなければなりません。不安、いろいろいな思い煩い、周りを見て、また、行く末を考えて恐れること、これらは、無益なことです。父なる神の右に座しておられる主イエス様から目をそらした瞬間に、私たちは証し人としての力をなくしてしまいます。

普通の世人と同じような状態になってしまいます。イスラエルの民を取り巻く敵たちは、会見の幕屋を見た時、その上に留まる主の臨在を見ました。主を知らない人々が、我々の真ん中に来る時、私たちの内に光輝く主を見るでしょうか。または、失望して元気のないみじめな人々を見るのでしょうか。どちらでしょう。

我々の戦いは、勝利で始まります。勝利から、始まります。イエス様は、完全な勝利者となられましたから、私たちは、もう勝利者となることはできませんし、また、そうする必要もありません。どんなに悪魔の力が強く、攻撃が激しくとも、我々は、主が我々のために成してくださった勝利の内に、固く立っていなければなりません。

私たちは、実際にどうでしょう。イエス様の勝利の真ん中に立っているでしょうか。聖書では、なるほど、主の勝利を告げています。また、私たちは、過去に、勝利をおさめたかもしれませんが、今、勝利の中にいるのでしょうか。臨在の雲は、我々の上に留まっているのでしょうか。私たちは、主に喜ばれる者となっているのでしょうか。我々の目は、主の偉大さに開かれ、私たちは、真の礼拝する者となっているのでしょうか。私たちは、全身全霊をあげて、主を喜んでいるのでしょうか。それとも、私たちのご奉仕は、肉の力で成されているのでしょうか。

あらゆる問題の中に、主の勝利がもたらされ、私たちは、それを喜ぶことができるのでしょうか。私たちは、レビ人のように、主に礼拝し、人に仕え、悪魔と戦う者となりたいものです。そして、主のご臨在を現して行きたいものなのではないでしょうか。

第一コリント
6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

イザヤ
43:1 だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。

こういうことばを自分のものにすることができるのは、本当にありがたいことではないでしょうか。

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