2015年4月7日火曜日

主は生きておられる

主は生きておられる
2015年4月7日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

第一コリント
15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと(です。

集会の雑誌には――みな、持っていますし、知っている――「主は生きておられる」と、書いてあります。けども、ドイツ語も書いていますね。ドイツ語のほうがいいかな?ドイツ語は、「主は生きておられる」だけではない、「我々の主は、生きておられる。」誇りを持って、「私の主は生きておられる!」と言える人は、幸せなのではないでしょうか。

釈迦は死にました。マホメットも死にました。孔子も死にました。イエス様も死にましたけど、死んだままではない。復活なさいました。結局、我々の誇りとするところは、それだけではないかな?私たちの主は、確かに殺されてしまった。けども、復活なさいました。生きておられ、支配しておられます。五旬節の時、ペテロは次のように言いました。

使徒行伝
2:32 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。

我々は、復活なさったイエス様に出会いました。本当に復活なさったイエス様に出会った人々は、聖書を見ると、五百数十人でした。五百数十人の証人がいると、もう反対するすべがない。パウロも、このイエス様のよみがえりについて、多くのことを書いたのです。

ローマ
14:9 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主(・・・・救い主であって、助け手ではない・・・・)となるために、死んで、また生きられたのです。

第二コリント
5:15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

イエス様はどうして復活なさったか、何のために復活なさったのか、今の箇所をみると、もちろん、はっきりとわかります。イエス様は、人類の罪のために、十字架につけられました。すなわち、イエス様は葬られ、すべての罪人のために死の刑罰を受けました。けれども、イエス様は、死んだままではありません。よみがえられました。イエス様は、生きておられます。実際に、復活なさいました。

イエス様は、確かに、罪の山のような重荷を背負って、十字架に行かれました。そして、イエス様は死んで、その荷を置かれました。そして、イエス様は、勝利者として、墓からよみがえられたのです。生きておられるお方です。

イエス様は、死からよみがえられた最初の人です。イエス様が確かに、よみがえらせた死人は、何人かいました。けれども、みんな、後で再び、墓の中に戻らなければならなかったのです。けれども、イエス様は、死に対する勝利者であり、イエス様に対しては、死はもはや、力を持っていません。

イエス様がよみがえられたということは、イエス様の死という犠牲が、我々のすべての罪を贖(あがな)うために充分であると、父なる神が認められたことを意味しています。主なる神は、死からのイエス様のよみがえりを行うことによって、全世界に知らせました。すなわち、イエス様は、全世界の罪の贖いとして完全であり、充分であるということをお知らせになったのです。

私たちは、死んだ救い主を持っているのではありません。イエス様のいのちは、十字架で終わったのではありません。私たちは、復活なさったイエス様を持っているのです。この主イエス様は、主なる神のいのちにあふれているのです。イエス様の生命力は非常に強いので、あらゆる病人は、イエス様がさわるだけで瞬間的に癒されました。けれども、今日の人々は、イエス様が、その人に新しいいのちを与える時、その人の精神は、当時の人が体に経験した奇跡を、精神に体験します。

我々の精神は、主なる神に対して死んでいます。それが、生きます。我々の精神は、主なる神に対してツンボです。それが、聞こえるようになります。私たちの精神は、主なる神に対してメクラです。それが、見えるようになります。我々の精神は、主なる神の奉仕に対して、しびれています。それが働くようになります。これが、主イエス様のいのちの奇跡の結果です。人間の死んだ精神が生き、そして、死から出て、いのちに至るということは、絶対的に必要なことです。

イエス様は、正しい生活を送っていて、しかも、信心深く学問のあるニコデモという男に言いました。有名なところです。

ヨハネ
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。

3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。

これは、誰にも当てはまる言葉です。誰でもが新しく生まれ変わらなければならない。どうですかね?私たちは今のままの状態では、主なる神の国で生活することができないということを、知っているのでしょうか。自分の力で、新しい生活を送ろうと試みたことがあるのでしょうか。その生活とは、どういうものであるかと言いますと、絶対的に誠実で、絶対的に愛を持って、絶対的に聖く、完全に死を滅ぼした生活を意味します。

この新しい生活を送ろうと試みたことがあるのでしょうか。その試みは、いったいどういうものだったのでしょうか。それは、失敗の生活ではなかったでしょうか。真面目に試みれば試みるほど、失望するに違いない。死んだ体が、たとえば、富士山を登ることができないのと同じように、私たちは、新しく生まれ変わることなしに、新しい生活を送ることができません。いくら自分の力で、あらゆる努力をしたとしても、それは、新しい生活の借り物や真似事にすぎないのではないでしょうか。

誰でも、新しく生まれ変わらなければなりません。けれども、どうやって、新しく生まれ変わることができるのでしょうか。死人が自分で再び生きることができないと同じように、自分の力で生まれ変わることができる者は、誰もいません。イエス様がそのことを成するに違いない。そして、私たちはそれを反対してはいけない。イエス様に、そのことをさせましょう。

主イエス様との交換を認めます。すなわち、私たちの持っているもの、すなわち、自分の罪、自分の弱さ、自分の不信仰、疑問、疑い、悔い改めたくない心をイエス様に与えるのです。我々の罪は、イエス様の死となりました。イエス様は、我々のために、十字架につけられ、殺されたのです。けども、これは、交換の半分でしかない。今や、私たちは、イエス様の持っている義といのちを受け取るのです。何という交換でしょう。私たちは、死といのちを交換するのです。イエス様のいのちは、我々のいのちとなるのです。これが新しく生まれ変わるということです。

私たちは、たぶん、今まで、この交換の最初の半分だけをしたにすぎないかもしれない。イエス様に自分の罪を与えたにすぎないかもしれません。どうか意識して、残りの半分を交換したいと思わないでしょうか。すなわち、イエス様の贈り物としての完全な義と永遠のいのちを受け取りたいと思わないでしょうか。そうすれば、新しく生まれ変わり、イエス様が、自分をご自分の子供と呼び、ご自分の相続人として受け入れてくださるということを、よく、しっかり確信するのです。

ヨハネ
1:12 この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

もし、私たちが、新しいいのちという贈り物を受け取ったならば、主なる神のもっとも大きな願い、すなわち、人間との交わりという願いは満たされるのです。そして、人のもっとも深い要求である主なる神との交わりが満たされます。主のいのちを内に宿した心は、新しく生まれかわった時だけ、本当の交わりを持つことができるのです。

復活なさった、よみがえられたイエス様によって、主なる神は、人間に非常に近いものとなります。そして、はっきり確信を持って言えることは、この復活なさったイエス様との交わりは、完全な満足です。精神生活の孤独は止みます。すなわち、愛情の渇きは、完全に静まるのです。あらゆる欲望とあらゆる空しい努力は、完全に無くなりますので、私たちは、完全な心の平安を得るのです。

私たちは、イエス様が、「わたしは、子羊たちがいのちと完全な満足を得るためにやって来た」と言われる時、主の思っておられることを知るのです。これは、人間に、完全な満足を見出そうと試み、その当然な結果として、ひどく失望させられたすべての人々にとって、よろこばしい知らせなのではないでしょうか。人の心を満足させることができるのは、復活なさったイエス様だけです。

私たちは、朝食の前や仕事の前に、聖書を読んだり、祈ったりする、いわゆる静かな時をお持ちでしょうか。私たちが、もしも集会に来ることができないとします。そのことはそんなに大切でないとしても、このいわゆる静かな時を持つということは、非常に大切です。信じる者は、この静かな時を持たないかぎり、本当に主にかなった生活をすることができない。結局、サムエルのごとく静かになって、「主よ、語ってください。しもべは聞いております。」この心構えを持つことが大切です。この静かな時に、イエス様のいのちが絶えず、我々のいのちに染み込んで来るのです。イエス様との交わりが深くなれば深くなるほど、我々の生活は豊かになります。

イエス様は、我々の精神、魂、神経、体にとって、いのちの泉であり、力の泉です。イエス様の中には、いのちの力が溢れています。私たちは、イエス様から出て生きるということを、ますますよく学ばなければなりません。

信じる者として私たちは、イエス様から絶えず流れるいのちを得ていなければならない。それは、時々であったり、気まぐれであったりしてはなりません。もし、人が暗い部屋に明かりを持って入りますと、その部屋は、もちろん、明かりがあるあいだは明るいはずです。けれど、その明かりの元がなくなりますと、当然、暗くなります。すなわち、絶えず流れ出る明かりを必要とするわけです。その事は、私たちのいのちにおいても同じではないですか。私たちそのものは、いつも暗いのですから、私たちは、イエス様の光の泉により頼まなければなりません。

もし、子供が生まれますと、その子供は両親から離れて命を持ちます。そして、その子供は、その両親が死んでも、生き続けます。けれど、新しく生まれ変わった人のいのちは、そうではない。その人のいのちは、自分自身の中に生命をお持ちになっている、ただ一人のお方、すなわち、イエス様に、より頼まなければなりません。

新しい人のいのちの秘密は、何と深いことでしょう。主と私の二人の毎日の絶えざるいのちの交わりです。けれども、ご存知のように、交わりには義務があります。どんな交わりも、別れるということが条件となっています。交わりが深くなれば、深くなるほど、ますます、別れもまた、深くなってしまいます。たとえば、夫婦における交わりも、別れることが条件となっているのではないでしょうか。聖書は言っています。

エペソ
5:31 それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。

よみがえられたイエス様とのいのちの交わりは、この世と別れることが条件となっています。一週間に土曜と日曜だけ、自分の妻と過ごし、他の日は他の人と過ごす夫を考えてみたらどうでしょう。それは、日曜だけ主と過ごし、他の日は他の主人に仕えるというキリスト者に似ていませんでしょうか。聖書は、このような者のごとく生きる信者たちについて、非常に厳しく語っています。

ヤコブ
4:4 貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。

この世との交わりは、キリスト者にとっては、姦淫よりも悪い。イエス様に敵対する姦淫のようなものであります。

ローマ
14:9 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主(・・・・支配なさるお方・・・・)となるために、死んで、また生きられたのです。

イエス様は、完全に我々に満足しておられるのでしょうか。私たちが満足しているかどうかではなくて、イエス様が満足しておられるかどうかが問題です。その過ごした時間は、イエス様との交わりだったでしょうか。また、自分の心が、イエス様より他に持ちたいと思っているすべてのことから完全に離れていたのでしょうか。それとも、主のみことばである、「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか」と。

イエス様との交わりをおろそかにすることは、どうでもいいことではない。罪と呼ばれています。イエス様が、我々をお呼びになる時、また、我々と話そう、交わろうと思った時、その時間があるでしょうか。いわゆる義務と名付けている他の事柄の方がもっと大切なのでしょうか。仕事が先、交際が先、テレビが先、本を読むことが先、その他、いろいろなことが先なのでしょうか。そして、寝る前の最後の五分間、すなわち、一日のいちばん最後の残りだけを、よみがえられたいのちの主、イエス様に捧げるのでしょうか。エペソにいる兄弟姉妹に、主は言われたのです。

黙示録
2:4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

私たちは、イエス様が第一の場所を占め、イエス様との交わりが、自分の一日のよろこびとなるために、今日、自分の一日の時間割を、完全に変えようと思わないでしょうか。パウロは、ローマにいる兄弟たちに書いたのです。

ローマ
14:9 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。

イエス様との交わりが、自分のよろこびでしょうか。それとも、自分は、イエス様との交わりを断ち切られたのでしょうか。自分は、以前にはイエス様と一緒にいて、今は再び、この世の中にいるようになってしまったのでしょうか。

もし、次のようであれば、その時は全く違った状態でした。すなわち、あなたの心は、よみがえられたイエス様の愛に燃えていた時でした。けど、その上には、あまりにたくさん、灰が残っていますので、火花の下で燃えるいのちをほとんど気づかないのです。自分は、この世と共に歩き、しかも、私は、このキリストを知らないとはもちろん言わないけど、状態でそれが解る、非難する信者となってしまったのです。私たちがイエス様に背中を向けた、その時もイエス様の愛は絶えず誠実に続いたのです。

主の腕は我々を抱きかかえようと、毎日、広げられています。イエス様は、背いた人に何と言っているかと言いますと、「わたしに来る者を、わたしは決して捨てません。よろこんで受け入れます。」誰でもこのイエス様のことばによって、イエス様の元に行くことができ、主の御前にすべてを告白して、イエス様の血は、すべての罪から聖めてくださいます。そうすれば、すべてが元どおりに良くなる。そして、主イエス様との交わりを曇らせる影がありません。復活なさったイエス様が、結局、我々の主とならなければならない。十字架につけられた救い主は、仕えられるためではなく、仕えるため、また、多くの人々の贖いとして、自分のいのちを与えるために来られました。

それに対して、復活なさった主イエス様は、主であり、我々の生活を支配することを要求するために復活なさいました。イエス様は、我々にそれを要求する権利をお持ちです。それどころか、イエス様は、我々に二重の権利を持っているのではないでしょうか。すなわち、イエス様は、我々をお造りになり、私たちは、主イエス様に造られた者として、完全に、主の御手の内にあるのであり、また、イエス様は、我々をご自身の血で贖ってくださったのです。ですから、私たちは、二重にイエス様のものです。

しかし、イエス様は、実際に我々のいのちにおいて、主なのでしょうか。確かに、多くのキリスト者は、イエス様を奴隷以上のものに、取り扱っていないでしょうか。悩みに沈んでいる場合、彼らは、イエス様の助けを、もちろん、求めます。体が弱っている時、彼らは、イエス様から力を得たいと望んでいます。彼らが、自分自身で、もはや、できなくなる時、イエス様に飛び込んでもらいたい、助けてもらいたい。『イエス様は、自分に仕えるべきです!』けれど、こういう態度を取る人々は、結局、イエス様の支配を欲しくない。

聖書は、そのようなキリスト者を、肉のキリスト者と呼んでいます。なぜなら、肉、すなわち、自己が支配を持っているからです。そこでは、大きな心の悩みがないでしょうか。私たちは、自分のために、生活が本当の信仰生活にとって障害となっていることを、しばしば感じます。私たちは、高慢になります。また、名誉欲が、また、逆に劣等感に陥ることがある。その両方が両方とも、自己の支配の現れです。

けれど、自己の専制性質から解放されるためには、我々はどうしたらよいのでしょうか。その自己は、我々にとって、我々の一生涯の影のようなものではないでしょうか。そうなら、新約聖書が求めているような生活を、我々の内でできる人は、誰もいないでしょう。もしそうなら、主のみことばは、夢や妄想のようなものに過ぎないのではないでしょうか。

自分自身の権力から自由になるために、ここに、ひとつの道があります。すなわち、イエス様は、全人類の代表者として、十字架にお架かりになったのです。そして、イエス様は、我々の代理人でもあるということです。イエス様に起こったことは、我々にも、我々の自己にも起こったのです。なぜなら、私たちは、イエス様と共に十字架につけられたからです。

イエス様が十字架で、両手両足を打たれた時、我々の両手両足も、穴を開けられました。イエス様が十字架にかかり、何もすることができず、行うこともできなかった。その時、我々の自我は、活動の外に置かれました。十字架にかかった者が、他に何ができましょう。十字架にかかった者は、消されたのであり、もうダメになったのです。

これと同じ事が、十字架を通して、我々に起こったのです。こう書いてあります。

ローマ
6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

ですから、主なる神の永遠に当てはまることば、すなわち、聖書によれば、我々の古き人は、キリストとともに十字架につけられたということは、すでに起こった事実であるということになります。

それと同時に、暴君である古い人に打ち勝とうとする努力は、空しいものであり、むだなものであり、必要ないものです。私たちは、古き人を抑えつけることができず、それと戦うこともできません。また、私たちは、その古き人を良くすることも、変えることもできません。私たちは、ただ一つのことをすることができます。すなわち、古き人は、イエス様とともに十字架につけられ、そして、私たちが、その古い人を主に委ねる時に、イエス様がその古い人を、十字架でしっかりと掴んでくださる力を持っておられるということを信じることです。

これは、我々の生活における、支配者の交代です。支配者はもはや、私たちではなく、イエス様です。イエス様は、我々の生活における制限されない主です。イエス様が、完全な支配者となった時、そのいのちは、もっとも深い確信、すなわち、新しくなることが起こるのです。

私たちは、イエス様の意思を、無条件に受け入れるのです。私たちは、自分をイエス様に与えるのです。百パーセント、無条件に、余す所なく与えるのです。我々の意思は、私たちの主のものです。私たちは祈るたびごとに、イエス様を主と呼びます。本当にそういう気持ちでしょうか。制限されない主の支配よりほかに、人間の生活における偉大なものはありません。これが真の自由であり解放です。

イエス様が、我々の生活の主である時、その主である程度に従って、イエス様は、我々の生活に対する責任を持っておられます。もしも私たちが、イエス様に半分だけ支配を与えるとすると、我々の肩には、なおも半分の責任が残っているわけです。このことが、多くのキリスト者の生活を重苦しくしています。復活なさったイエス様は、全てを、すなわち、我々の内部的、および、外部的生活の全責任を担いたいのです。

私たちは、イエス様に第一の場所を与え、私たちは、第二の場所に立つのです。これは、我々を非常に苦しめていた課題からの解放ではないでしょうか。私たちは、なお自分自身の手や心の中に、自分の生活の支配を持っているのでしょうか。それは何という重荷でしょうか。

イエス様はいつも、困難ということを知らず、いつも問題の答えを持っておられる、もっとも良いとりなし人です。我々の生活の支配を、主の御手に委ねましょう。イエス様は、本当に充分です。よみがえられたイエス様は、我々の生活から何をお造りになることができるのでしょうか。それは、新しい生活、満たされた生活、イエス様の支配している生活、実を結ぶ生活です。

イエス様は、完全ないのちの交わりを、我々に提供しておられます。すなわち、主イエス様、よみがえられた主イエス様とともにする二人の生活を差し出しておられます。

ホセア
2:19 わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ。
2:20 わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは主を知ろう。

私たちは、主に何と答えましょうか。もしも、私たちが、イエス様に、「はい」と言えば、私たちは何か失うでしょうか。それとも、全部を得るのでしょうか。どちらかでしょうか。

無条件に自分の生活を、復活なさったイエス様の御手に委ねましょう。イエス様の誠実なしもべであるパウロは告白しました。このパウロの告白を、今日、新たに自分のものとして、自分の名前をその下に書こうではありませんか。

ピリピ
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

パウロは、この態度をとったから、大いに用いられ、祝福されました。

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