2014年10月7日火曜日

主にあって不可能が可能となる

主にあって不可能が可能となる
2014年10月7日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ルカ
18:1 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。
18:2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。
18:3 その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。
18:4 彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、
18:5 どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」
18:6 主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。
18:7 まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。
18:8 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」

18:27 イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」

最後にお読みになりました箇所は、本当に喜びの訪れなのではないでしょうか。「人にはできないことが、神にはできるのです。」不可能が可能となること――これを今日の主題にしましょうか。不可能と思われることでも、すべてがそのように不可能であるとは限りません。

けれど、絶対に不可能な状況も存在します。それにもかかわらず、信じる者にとっては、すべてのことが可能ですと。どうしてであるかと言いますと、信じる者は、不可能なことが何ひとつないお方を知っているからです。「人にはできないことが、神にはできるのです。」この言葉は、イエス様の口から出た証しであり、告白です。

そして、イエス様は、ただ単に真理を語るお方だけではなく、人格を持った真理、そのものです。イエス様は正直に言えたのです。「わたしは真理そのものです。」主は、嘘をつくことがおできになりません。聖書全体は、人間においては、全く不可能なことが、主においては、容易に可能となるということの証明です。

生けるまことの神は、イエス様において、ご自身を私たちに明らかにし、啓示してくださいました。この主は、ただ単に、すべてをご存知のお方、また、限りなく愛してくださるお方だけではなく、全能なるお方です。我々は、この主と結びついていると、人間にとって不可能なことが、神には可能であるということを、体験的に知るようになります。

このルカ伝十八章、本当は全部、読むべきだったのですけど、すばらしい書なんです。この中で、すべてがこの真理を我々に証明してくれる。色々なことが我々の目の前で繰り広げられます。ちょっと、七つの点に分けて考えましょうか。

第一番目、主は差し迫って出された願いに応えてくださるお方です。一節から八節の中で、私たちはイエス様によって語られたたとえ話を見ることができます。そのたとえ話の根拠は、一節に書いてありますように、『人はいつも祈るべきである、失望してはならない』ということでした。

このたとえ話の中心人物は、一人の裁判官を責めてしまったやもめです。「私の相手をさばいて、私を守ってください」と、彼女は心から叫んだでしょう。けれど、この裁判官は、長い間、彼女の言うことを聞こうとしなかった。無視した。どうしてか、何故か解らないけど、金にならないと思ったのでしょうね。けれども、彼女は、何度も何度も、同じ訴えを持って来続けました。あきらめようとしなかったのです。裁判官は、うるさくてうるさくてし方がない。だから、彼女のために裁判をしてやることにしようと言って譲歩しました。

このやもめは決して、あきらめなかった。願い続けた。だから、イエス様は、彼女の態度を褒めました。イエス様は、聞き入れてくださるという約束を与えてくださったから、だから、私たちは祈ります。私たちは、主の約束の成就を経験するまで、いつまでも、祈るべきです。この態度を取ることこそが、考えられないほど大切です。マタイ伝を見ると、次の約束が書き記されています。

マタイ
17:20 もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。

パウロも、そういう信仰を持っていたから、ピリピ書4章13節に、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」と。ローマの刑務所の中で書いた証しです。私たちが祈る時、全宇宙を動かす方の御手が動きます。そして、そのことによって、不可能なことが可能となるのです。主は、大いなることをなさり、難しいことをも成し遂げてくださると、約束しておられます。したがって、何があっても、祈ろう、祈り続けましょう。

おそらく、私たちは、難しい人のために、また、人間的に見れば、不可能と思われることのために、長い間、祈っているかもしれない。失望しないようにしましょう。主にだけ信頼し、主だけを見上げましょう。というのは、人間にとって不可能なことも、主にとっては容易いことであるからです。

二番目、主は、どんなにひどい罪人でさえも救ってくださるお方です。

祈ることを呼びかけておられるこのたとえ話との関連で、主は九節から十四節のあいだで、パリサイ人と取税人のたとえ話を話されました。パリサイ人は非常に宗教的な男で、生けるまことの神を、本当の意味で知りませんでした。彼は自分のことだけを考え、自分の立派な生き方や良い行いのことだけを考えたのです。祈りの中でさえ彼は、自分、自分、自分のことだけ考えたのです。

それですから、次のように言われているのです。彼は、自分に向かって――主に向ってではない――自分に向かって、心の中で祈った、と。もちろん、彼は、主の御名を使いました。しかし、御名の栄光のことは、全然、考えなかったのです。しかし、取税人は、遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて、「神さま、こんな罪人の私をあわれんでください。」こういう心構えを持つなら充分です。あの信心深い男は、結局、「神よ」と、言ったのです。失礼な言い方だよ。どうしようもない男は、「神様」と言ったのです。根本的に違います。

結局、イエス様ご自身が言いましたね。この罪人が、義とされ、受け入れられ、罪を赦され、神の家族の一員となったのです。しばしば、私たちは、「この人が救われるのでしょうか。あの人が救われ得るのでしょうか」と、疑っています。けども、主の救いの力は、誰をも贖うのに充分です。イエス様の血の力は、どのような人の罪をも、赦すに充分です。

皆、暗記している箇所です。

第一ヨハネ
1:7 御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

ありがたい。喜びの知らせです。私たちは自ら、主を汚す者、迫害者、暴力をふるう者と言い、その上、自分は罪びとのかしらと自称した、サウロのような人を考えてみればよいのではないでしょうか。けれど、彼は喜んで、次のように証しするようになりました。

第一テモテ
1:13 私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。
1:14 私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。
1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

パウロは、こう告白したのです。このサウロは、私たちの主の熱烈な証し人の一人となりました。考えられない奇跡です。主にとって不可能なことがない証拠でもあるのではないでしょうか。私たちが、家族、親戚、友人など、主から遠く離れている人々のことを考えるならば、次のことを忘れてはなりません。人間にとって不可能なことも、主にとっては可能なのである。主は、いちばん、ひどい罪人さえも、救ってくださるお方です。

子供の改心を信じない人がいます。けれど、現実は、その人たちに、もっと良いことを教えてくれます。サムエルという男は、彼が、主を全く個人的に経験した時、おそらく、まだ子供でした。今日も、若い時に主に出会った多くのキリスト者がいます。ある人たちは、五歳、六歳、七歳の時に改心を経験しています。そして、その時の改心は、後になってからも本物だったことが判明しています。

すべての両親にとって、このことは大きな励ましとなるはずです。子供たちの中で働いているすべての人々にも、このことは大きな刺激となるはずです。子供が両親を愛し、両親と話し合うことができる年頃になれば、イエス様を愛し、イエス様と語ることもできるようになります。

もちろん、救われるのに、誰も歳とりすぎることはないということも、同じように強調されなければなりません。誰かが救われるには、あまりにもボケてしまっているということも嘘です。ここでもまた、人間にとって不可能なことも、神にとっては可能であるという命題が当てはまります。

誰も救われるのに若すぎることはありません。しかし、同じように、イエス様を経験するのに、歳をとりすぎているということもないのです。人間的に見るならば、いろいろな疑問が確かに現れてきます。けど、イエス様の次のような約束のことばを忘れてはなりません。神にとっては、すべてのことが可能であり、経験できるのです。

四番目、主は、この世の誘惑から解放してくださいます。十八節から二十七節のあいだには、残念ながら世の誘惑に負けてしまった、一人の金持ちの話が出てきます。彼は、非常に宗教的で、子供の時から戒めを守っていました。彼がイエス様を求めて来たという事実は、彼が、心の中で飢え渇きを持ち、本当に求めていたということを示しています。二十三節、彼は非常に豊かであったと、書いてありますね。金持ちになることと、金持ちであることは、聖書の中でどこでも、ダメと禁じられていません。けれど、富が救われるため、また、イエス様に従って行くために妨げとなったならば、この富は罪です。

このことを彼に明らかにするために、イエス様は、はっきりと言いましたね。

ルカ
18:22 あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。

この代価は、その金持ちにとってあまりにも高すぎました。彼は非常に悲しみましたと、二十三節に書いてあります。彼よりもイエス様は、悲しかったのではないかな。

ルカ
18:24 ・・・・裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。
18:25 金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。

自分の富にしがみつき、自分の富を神にしてしまう人は、この金持ちが経験したのと、同じことを経験します。すなわち、この青年は非常に悲しんで、イエスから離れ去ったとありますが、その結果、罪の赦しを得たこともなく、神との平和を得ることもできないで、まことの満たしを与えてくださる方を知ることができなかったのです。

神の代わりになるものは、すべて偶像です。私たちを全く満たしてくださるお方、我々の愛と崇拝を全部、欲するお方、この方、私たちが仕えるべきお方こそ生けるまことの神です。金と富が我々を捕えてしまうならば、この偶像崇拝は罪です。テモテ第一の手紙を見ると、パウロは愛弟子であるテモテに書いたのです。

第一テモテ
6:10 金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。

お金を持っていることは、別に悪いことではありません。しかし、そのお金が自分だけのものであると思うならば、間違っています。私たちの持っているものは、預かっているにすぎない。それがどのように使われたかを、私たちは決めることができます。

主だけが権利を持っておられるべきです。私たちは主のものですから、私たちが持っているものも、すべて主のものです。まさに、それですから、私たちの日々の祈りは、次のようなものでなければならない。「主よ、私は何をしたらばいいの?。教えてください。私にはわりません。あなただけがわかります。あなたの望むことだけを願います」と。

ルカ伝十四章三十三節の意味は、そういうことです。

ルカ
14:33 そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。

ここで書かれている『捨てる』という意味は、一般に使われている意味での『捨てる』というよりは、すべてを主に捧げるという意味です。私たちの金、我々の家、我々の車、我々の家族、妻、子供、すべては、主に捧げられるべきです。実際、私たち自身の命でさえ、我々のものではありません。私たちは、私たちがしたいことや、楽しみとなることをすることはできません。私たちは、高い代価で買い取られた者です。私たちは、イエス様のものです。私たちは、聖霊の宮であり、神の住まいです。

五番目、主は、ご自身のために成されたすべての犠牲を償い、それに報いてくださるという点です。

ルカ
18:28 すると、ペテロが言った。「ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました。」
18:29 イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、
18:30 この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」

いつの時代にも、たとえば、イエス様のために、自分の故郷を捨てて、家族を捨てて、高給を断り、さらに、主のことのためにすべてを捧げるため、結婚をも断念する、多くの人々がいました。主を知らない人は、頭を振り、「その人たちには、何かが欠けている。もったいない」と言うでしょう。

ベタニアのマリアが、高価な油をイエス様の頭にかけたとき、弟子たちの判断は、「何というもったいないことをするのでしょう」というものでした。私たちは、それが決して、浪費ではなかったことを知っています。それと同じように、イエス様の恥の方が、エジプトのすべての財宝よりも、はるかに大きな富であるとみなすならば、それは決して、計算違いではありません。

イエス様のために犠牲を捧げる者は、損をしません。その人は豊かに償われ、報われます。それと同じことが、マタイ伝にも見られます。

マタイ
19:29 また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。

これこそ豊かな償いです。それは、何百倍もの償いになります。イエス様が、すべてを考えられないほどすばらしく報いてくださるのです。イエス様のために生きることは、生き甲斐のあることです。未だイエス様のことを知らない人がいるのですから、その人たちが福音を聞くというのであれば、どんなに犠牲を払っても、損をすることはありません。キリストの愛によって、駆り立てられることを後悔する人は、一人もいません。

私たちの誰もが、イエス様の代わりの使節となるべきです。私たちの誰もが、自分の置かれた環境において、主の僕として、「神の和解を受け入れなさい。救われることは可能です。イエスのところに来なさい。主は、赦してくださいます。主は、新しく造られてくださいます。解放してくださいます」と、叫ぶ者となるべきなのではないでしょうか。我々の誰もが与えられた召しにふさわしく、忠実に歩みますと、豊かに報われるようになり、次のようなイエス様のみことばを聞くようになります。

マタイ
25:23 よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。

六番目、主は、あらゆる約束を果たしてくださいます。

ルカ
18:31 さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。
18:32 人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。
18:33 彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
18:34 しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。

私たちは、イエス様がこれから受けるべき苦しみと死が、三日目のよみがえりと同じように、すでに何百年も前に預言者たちによって預言され、主の経験なさることが旧約聖書の預言の成就であると仰っているのを、読むことができます。イエス様の預言は正しかったのでしょうか。

イエス様が預言されたことが、すべてそのように起こったのでしょうか。その通りです。すべては、預言されたように、正確に実現されました。そのことから私たちは、主の時において、すべての約束が成就されるという結論を引き出すことができます。

将来については、信じる者を迎えるためにイエス様の再臨、それから、死を見ずして、すべての真の信者の携挙、さらに、目に見える形でのイエス様の再臨、そして、千年間に続く平和の国の確立、それから、イエス様は、世界の裁き主として、すべての者を裁くようになると、預言されています。

私たちは、多くのことを想像できません。しかし、すべての事は成就するのです。というのは、人間にとって不可能なことも、神にとって可能だからです。処女マリアにとっては、彼女が約束された救い主の母となるなどということは、不可能なことでした。このことが御使いを通して彼女に預言された時、彼女は、次のようにしか、言うことができなかったのです。

ルカ
1:34 どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。

しかし、それにもかかわらず、彼女は、御使いの福音を信じました。そして、マリヤは、みことばの真理を経験しました。すなわち、人にはできないことが、神にはできるのです。この巌(いわお)のように確固とした確信が、我々の日常生活の特長となるべきなのではないでしょうか。

主は、我々のため、イエス様のからだなる教会のため、イスラエルの民のため、世界の諸国民のためにすばらしい約束を与えてくださいました。

民数記
23:19 神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。

そして、イエス様は、『この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。』人にはできないことが、神にはできるのです。

最後に、第七番目、主は奇跡をなさいます。三十五節から四十三節の間で、バルテマイという名前の盲人が癒されたことが、記されています。この男の人は全盲でした。しかし、見えるようになれというイエス様の命令によって、彼はたちどころに目が見えるようになったと、記されています。

私たちは、このことを理解できませんが、人にはできないことが、神にはできるのです。アブラハムとサラにとって、彼らは大変な高齢でありましたけども、一人の息子を与えられるということは約束されたのです。主は、このことを約束し、預言なさいました。そして、主は、奇跡を行うお方です。

創世記
18:11 アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。

18:14 主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。

当時、アブラハムはすでに百歳、サラは九十歳でした。したがって、人間的に見るならば、子供ができるということは、全く不可能だった。私たちは、アブラハムの信仰とその信仰の土台について、次のように読むことができます。非常にすばらしい箇所です。

ローマ
4:17 このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。
4:18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。
4:19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
4:20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
4:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。

不可能なことが、可能となりました。アブラハムとサラは、一人の息子を授かったのです。主に不可能なことがあろうか。主にとって、難しすぎるというような状況があるのでしょうか。主が解決できないような問題があるのでしょうか。主が救うことのできないような頑固な罪人がいるのでしょうか。主にも回復できないほど堕落してしまった人間がいるのでしょうか。主の能力を超えるようなことが何かあるのでしょうか。

おそらく、あなたの状態は、もうどうにもならないと思い込んでしまうほど、ひどいものであるかもしれない。もう遅すぎると思われるような状態かもしれない。確かに、人間的に見るならば、すべては全く絶望的かもしれない。けど、次のようなことばは、それに勝っているのです。人間的に見ればというよりは、神の目から見ればということになりますと、すべては、全く違ったものとなるということです。全能者なる主にとって、不可能なことは何ひとつないからです。人にはできないことが、神にはできるのです。

我々の主とは、何でもできるお方です。最善を成すお方です。この主に、全部ゆだねることができることとは、すばらしい恵みなのではないでしょうか。

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