2014年10月14日火曜日

揺り動かされない御国

揺り動かされない御国
2014年10月14日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

マタイ
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

へブル
12:28 こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。

今、最後にお読みになってくださった箇所の一言葉、「揺り動かされない御国」という表現が出てきます。今日の題名はそれです。そのことについて、三つに分けて考えたいと思います。第一の意味は、神の国の性質とはいったい何でしょうか。第二番目、神の国のための準備とは、どういうものなのでしょうか。そして、第三番目、神の国のための主ご自身のあらかじめの配慮とは、いったいどういうものなのでしょうか。

コロサイ
1:13 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

当時の主にある兄弟姉妹の喜びの根拠とは、こういうものでした。二つの王国が存在しています。その一つは、神の国であり、もう一つは、悪魔の国です。人間は、この地上を王のように支配するという目的を持つものとして、創造されました。けどそれは、主に対する絶対的な服従、従順を通してだけ、実現されるものでした。しかし、人間は、悪魔に聞き従い、悪魔の奴隷、罪の奴隷、自我の奴隷となってしまったのです。主なる神が望まれたような、地上を支配する王となることができなかったのです。

それですから、私たちが今日(こんにち)、目の前に見ているものは、神の国ではなく、悪魔の国です。どこでも至るところ、憎しみ、妬み、不安、不確実性に満ちています。悪魔の国に生まれたのが我々です。けれども、新しく生まれ変わることによって、私たちは神の国を少しだけでも知るようになりました。神の国は、確かに今日、我々の目には見えません。けれども、イエス様が再臨なさる時、目に見えるはっきりとしたものとなります。

イエス様は、将来、この地上を支配なさるのです。イエス様は、ご自身の死を通して、ただ単に、全人類に対して、贖いの道を開いてくださっただけではなく、この地上を支配する権利を持っておられます。十字架の御業によって、悪魔は克服されました。けれども、イエス様の再臨まで、悪い業を行うことが、悪魔にはまだ許されています。けれども、イエス様を自分の人生に受け入れる者は、誰でも、すでに今日、神の国について、何かを経験することが許されています。

揺り動かされない御国について考えると、まず、この神の国の性質について、考えるべきなのではないでしょうか。

ローマ
14:17 なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。

そこには、第一に正義、第二に平和、第三に喜びが記されています。

聖書の中には、三種類の正義が記されているのではないか。第一の正義は、自己義認です。第二の正義は、神の義です。第三の正義は、実践的正義であります。

自己義認と、神の義については、ルカ伝の十八章に次のように記されています。よく知られている箇所ですけれども、聖書は何といっているかと聞かれれば、この箇所を示してもいいかもしれない。

ルカ
18:9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人(・・・・当時の宗教家・・・・)で、もうひとりは(・・・・宗教と関係を持ちたくない・・・・)取税人であった。
18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
18:12 私は(・・・・結局、私、私、私、そういう祈りでした・・・・)週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。(・・・・宗教家は、『神よ!』と言ったのです。彼は、『神よ』ではなくて、神さま・・・・)こんな罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言うが、この人が(・・・・この人の方が、前の人よりも・・・・)、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

結局、へりくだれば、オーケー。イエス様の話されたたとえです。本当に、すばらしいたとえなのではないでしょうか。

このパリサイ人は、祈りの中で自分を取税人と比較していました。そこでは、思い上がりと傲慢が現れていました。彼は自分自身に対して、何にも知らなかった、全くメクラでした。自分が失われた者であることでさえも、知らなかったし、知ろうとしなかったのです。

自分が多くの良い行いをし、立派な生活をしているので、自分の生活に、主なる神が満足しておられるだろうと、彼は、思いこんでしまったのです。確かに彼は、宗教的でした。けれど、彼は、生けるまことの神との結びつきを持っていなかったのです。だから、彼は、救われていなかった。失われた者でした。

そのようにして、彼は自分が救われなければならない者であることに気づかず、何一つ変わることなく、来た時と全く同じような状態で帰っていきました。無意味だった。どうしてでしょうか。彼は、自己義認をしていたからです。

これに対して、取税人は、宮で生けるまことの神の前に立っていました。彼は、自分が贖いを必要としている者であるということを、よく知っていたのです。もしも、主なる神があわれんでくださらなければ、自分は永久に失われた者であるということを、彼は知っていました。

彼は、くだかれた心を持っていました。そして、彼は、自分の贖いのために、自分は何もできないということも、知っていました。ですから、彼は祈りました。「主よ、罪人の私をあわれんでください。」この人は、義とされて家に戻ったと、イエス様は、判断しておられました。どうしてでしょうか。彼は、主の恵みを呼び求め、与えられたからです。これこそ、主なる神の義です。

第三番目の義は、実践的な正義であります。この正義について、イエス様は、マタイ伝の有名な山上の垂訓の中で語ったのであります。

マタイ
5:20 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。

イエス様は、こう言われました。すなわち、イエス様を自分の人生の中に受け入れた人の一生は変えられます。その変えられた一生の中で、その信仰が見えるものとなります。変えられた人生とは、イエス様の内住の結果です。イエス様と結びついている人の一生は、実を結びます。

今日、現実は、次のようなものでしょう。私たちが見るものは、すべて、どこででも不正義が支配しています。人間は欺き合い、失望し合います。人間は、他の人よりも優れた者になろうと努力し、騙したり、騙されたりします。

けれども、イエス様は(言われました)、『』再臨なさる時、神の国は、この地上ではっきりと目に見えるものとして、出現します。』預言の言葉ですが、イザヤ書の中で、この将来の主の建てられる国について、次のように書かれています。

イザヤ
11:4 正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。
11:5 正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。

神の国の二番目の特長とは何でしょうか。前に話したように平和です。ここでも聖書は、三種類の平和について語っています。すなわち、第一は、神との平和であり、第二は、神ご自身の平和、第三は、人間との平和です。

まず、神との平和ですね。神との平和を持つことは、とても考えられないほど、大切なことです。もともと、生まれつきの性質上、人間は誰でも神の敵です。生まれつきの人間は、神に対して、メクラであり、神の声に対して、ツンボです。意識的に、あるいは、無意識的に、人間は、神に対して無関心な態度をとります。けれども、真理を求める者は、自分の罪に満ちた状態を認めざるを得なくなります。真理を求める人は、どうしようもない者として、罪を犯す者として、主の恵みを、切に願い求めるでしょう。そして、自らを低くし、主なる神の救いを受けるようになります。すなわち、真理を求める人は、イエス様を、自分の個人的な救い主として受けるようになります。どうしようもない者として、生けるまことの神の前に自らを低くし、主の恵みを信じる者だけが、神との平和を与えられます。

次に、神ご自身の平和も、また約束されています。イエス様は、十字架につけられる前、当時の弟子たちに、「ご自身の平安を与える」と、約束してくださいました。

ヨハネ
14:27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。

イエス様は、金や銀、あるいは、土地とか、その他の富ではなく、ご自身の平安を地上に残されました。神の平和だけが、持続するのであり、永久的であります。神の平和を持っている者は、もはや、周囲とか、色々な事情に左右されなくなります。

第三に、人間との平和について、ちょっと考えてみましょう。私たちは、至るところで、何と多くの不一致と不調和を見出すことでしょうか。人間が罪人となり、神から離れて生活するようになった時、人間どうしの一致も、また、失われてしまいました。カインは、自分の弟であるアベルを打ち殺しました。生ける神と結びついている者は、自分の周囲に平和をも打ち立てることができます。

もうひとつ、注意しなければならないことがあります。悪魔に騙されないようにしましょう。悪魔の提供するものは、間違った平和です。悪魔は言います、「救われるためには、正しいことを行い、誰をも恐れなければ、それで充分だよ」と。もちろん、これは嘘です。神のことばは、はっきりと言っています。「罪の支払う報酬は、死である。あなたがたも悔い改めなければ、みな滅びます」と、イエス様は、はっきり、何回も言われたのです。

平和の君であるイエス様だけが、いつまでも続く、まことの平和を与えてくださいます。やがてイエス様が、目に見える形で、この地上に再臨なさる時、この地上には、まことの平和が確立されるようになります。この時について、聖書は、次のように言っています。

イザヤ
2:4 主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。

11:6 狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。
11:7 雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。
11:8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。
11:9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。

将来の、主の約束された平和の国についての預言であります。今から約二千年前に、イエス様は、本当の平和をもたらすために来てくださいました。大部分の人間は、イエス様を受け入れようとしなかった。拒んでしまった。「十字架につけろ!」と、叫んだのです。けど今日、イエス様を受け入れる者は、まことの心の平安を与えられます。

神の国の第三の特徴は、何でしょうか。すなわち、喜びです。聖書は三種類の喜びについて語っていますが、それは、まず第一に、自然の喜び、第二に、超自然的な喜び、そして、第三に、非自然的な喜びです。私たちはみな、自然的な喜びを知っています。たとえば、無くなった物が見つかったときとか、子供が生まれた時とか、婚約式、結婚式が行われたとき、この喜びが出てきます。けれども、聖書は、さらに大きな喜びを約束しています。ペテロは、第一の手紙の中で、次のように書き記したのであります。

第一ペテロ
1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。

大きな困難や試練、病気、迫害の時でさえ、主は、喜びで満たすことがおできになります。主の霊が与えてくださるものは、本物の喜びです。この喜びは、実際のいろいろな事情とは、全く無関係です。それから、さらに主のことばは、非自然的な喜びについて語っています。

第一コリント
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。

けれども、実際には、不正を喜ぶ人もいます。たとえば、誰かが失敗したりすると、喜ぶ人がいますし、他の人の悪口ばかりを言う人もいます。このような人は、本当にあわれむべき人なのではないでしょうか。というのは、彼らは、たいてい、そうすることによって、自分自身を損なっているからです。けれども、やがて主が再臨するとき、どこでも、喜びが満ち溢れるようになるとあります。

イザヤ
35:2 盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜わるので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。

35:9 そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで出会うこともない。ただ、贖われた者たちがそこを歩む。
35:10 主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、嘆きと悲しみとは逃げ去る。

将来の約束された国についてです。今から二千年前に、イエス様は、まことの平和をもたらすために、来てくださいました。大部分の人間は、イエス様を拒んだのです。受け入れようとしなかったのです。結果として、まことの心の平安を得られなかったのです。

それから、神のことばは、今、話したように、非自然的な喜びについても書いています。「不正を喜ばずに真理を喜ぶ。」

私たちは、今まで神の国の性質について、すなわち、正義、平和、喜びについて、考えてまいりました。神の義を体験すること、神の平和を、また、主の喜びを、自分のものにすることこそが、最後の宝物なのでしょうか。

そこで、残りの二つの点について、ちょっと手短に考えてみましょう。神の国のための準備についてです。将来、来るべき神の国を準備したいと思う者は、仕えることを学ばなければなりません。神の国では、誰でもが仕え人です。今から約二千年前、永遠の神は、イエス様という人間の形をとって、この地上に来てくださいましたけど、イエス様が来たのは、仕えられるためではない。仕えるためでした。イエス様は、弟子の足を洗う準備をいつもしていました。将来に対しても、神のことばは、イエス様が天国で仕えるであろうと言っています。

ルカ
12:37 帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。・・・・主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。

仕えるということは、主の目には、大いなることです。ただし、この世の目にはそう映りません。人間が偉大なものとみなすものは、神の目には、忌み嫌うべきものです。仕えることは、神の目には、本当に実に、偉大なものです。私たちが考えることは、主の思いと、もちろん全然、違います。ですから、私たちの考えることは、新しくされなければなりません。心の一新によって、自分を変えなさいとローマ書に書かれています。この地上では、すべてを支配し、すべてを従わせる者が偉大な者です。けれども、神の国では、すべてに仕える者が、もっとも偉大な者です。自らを低くする者だけが高められます。

どうして至るところで、争いが絶えないのでしょうか。なぜなら、誰でも小さな王様になりたいと思っているからなのではないでしょうか。喜んで犠牲を払い、自らが犠牲となる心の備えができている人は、何の損失をも被りません。これは、この地上ですでに祝福される道であり、将来、主の国で支配するようになる道でもあります。

最後に、神の国のための、神ご自身のあらかじめの配慮について、ちょっと考えたいと思います。主なる神は、いかにして、まことに仕えられ得るのでしょうか。ただ、主の恵みを通してのみです。主なる神の恵みは、充分で欠けるところがありません。

ローマ
5:17 もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。

将来、支配の座を得たいと願う者は、すでにこの地上で日々、支配することを学ばなければならない。けれども、私たちは、実際、なんとしばしば、失敗することでしょうか。罪を支配することは、至難の業です。私たちの自我は、自己主張を演じます。そして、私たちは、周囲に支配されます。けれども、神の御心は、私たちがこれらすべてのものに勝ることです。主は、どのような苦しみの時にも、偉大なる存在を知らしめてくださいます。どのような状況に対しても、主の恵みは充分です。

私たちは、主の国について、ご一緒に考えてきました。一言葉で言いますと、神の国は、神の支配であるということです。生ける主が支配なさるところには、神の国が明らかになります。ですから、マタイ伝の六章、前に読んでもらいました箇所で、次のように書かれています。

マタイ
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

このことばは、きわめて革命的な主張なのではないでしょうか。普通、人はまず、生活のことを考えて、それから、精神的な問題を考えます。つまり、「私は、生きなければならない。そのためには、これだけの金を稼がなければならない。そして、食事の問題を計算し、解決しなければならない。」すなわち、まず、どのようにして生きることができるかを見て、それから、神のことを考えようとするわけです。

しかし、これに対して、主は、まず神の国を考えなさいと、はっきり言われています。つまり、生きる神との結びつきを求めなさい。これこそ、すべてに勝る大切なことですというのです。自分の命のことを心配するなと書かれています。

マタイ
6:25 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。

イエス様は、こうはっきり言われたのです。もちろん、イエス様は、何事でも、思い煩う者が祝福されるとは言っていません。また、何事もどうでもいいと思っている人が、成功するなどと、イエス様は、一言も言っていません。そんな人間は愚かな者です。

何を食べるべきかに心を配らず、飢えている者は、自分の責任です。というのは、聖書は、人は働くべきであるとはっきり言っているのです。いつも、きちんとした身なりをしていることに心を配らない者も、また、自分のせいであり、主の証しにはなりません。それらの事に心を配ることは、我々の責任です。

けれど、これらの事は、第一にではなく、第二に位置すべき問題です。イエス様の御心にかなった生活をして、今まで以上に、よりいっそう主を知りたいという切なる願いを持っている者は、報われ、満たされます。そして、その人は、イエス様自身が、自分のために配慮してくださることを、必ず経験するようになります。

2 件のコメント:

  1. いつも、メッセージおこしありがとうございます。耳の不自由な方にお渡しできます。
    今回も、主の御心に触れられ、感謝でした。

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