2014年10月29日水曜日

イエス様を仰ぎ見るべし

イエス様を仰ぎ見るべし
2014年10月28日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

箴言
4:25 あなたの目は前方を見つめ、あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ。
4:26 あなたの足の道筋に心を配り、あなたのすべての道を堅く定めよ。
4:27 右にも左にもそれてはならない。あなたの足を悪から遠ざけよ。

へブル
12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
12:3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

マタイ
4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
4:2 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
4:5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
4:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」
4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」
4:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
4:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」
4:11 すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。

今日の題名は、「イエスを仰ぎ見るべし」としたいと思います。二つの点について考えましょうか。第一番目、誤っている見方の危険性。続いて、もうひとつは、正しい見方の祝福についてです。ヨハネ伝に、イエス様は、父なる神の御心について言われました。

ヨハネ
6:40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て(・・・・結局、わたしを見て・・・・)信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。

イエス様を見ることとは、もちろん、素直に信じることです。全部、主にゆだねることであります。このへブル書、十二章二節の後半にある「イエスを仰ぎ見るべし」というみことばから、ちょっと一緒に考えてみたいと思います。

私たちは、主の一方的な愛、また、恵みによって救われました。けれども、救われるために救われたのではなく、ひとつの目的をもって、ひとつの褒美を得んがために救われたと聖書は、何回も何回も言っています。この目的、褒美は、我々にとって、本当に大切です。聖書全体を見ると、私たちが、この目標を、褒美に預かるための道が、その中に教えられていることが解ります。とりわけへブル書の著者――誰であったか解らないけれども、もしかするとパウロだったかもしれないけれども――この著者とは、信じる者が、常に前進すべきことを教え、何々すべし、何々すべしと、我々に前進を要求しております。

とともにへブル書の著者は、前進することを薦めているだけではなく、必ず問題の目的に達することを約束しております。そのわけは、イエス様ご自身が、この目的に達する道を先に歩まれ、今は想像に絶する栄光の内におられるからです。イエス様とは、身を低くし、我々のあらゆる悩み、苦しみをなめられ、遂に勝利を得て、今は父の栄光のうちに引き上げられておられるお方です。だから、私たちも、そこに至ることができるという確信を持つことができます。

イエス様は勝利者です。このイエス様にとって、不可能な事はない。そして、我々にとって大切なのは、結局、この主イエス様を仰ぎ見ること、仰ぎ、見つめることであります。

へブル
12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

走ることだけではなく、走り続けることです。祈ることだけではなく、祈り続けることです。続けると、悪魔はどうすることもできなくなります。私たちは、この目的に達する確信を持つべきです。ひとつ、注意しなければならないのは、旧約聖書と新約聖書は、私たちがこの目的に達しないかもしれないという、悲しい可能性を書いているのです。

私たちは、救われている者ですから、永遠のいのちを持っていますから、永遠のいのちを失うことはありません。永遠の者です。けれども、この目的を達せないかもしれない。すなわち、私たちは、目的を達せず、褒美をもらえない可能性もあります。我々の生活は、この意味で失敗しているのでしょうか。それとも、成功しているのでしょうか。

失敗か、成功か。私たちの見ているところによって決まるのではないでしょうか。私たちは、いったい、何処を見ているのでしょうか。いったい、何に目を留めているのでしょうか。今、話したように、まず間違った見方について、ちょっと考えましょうか。五つに分けて考えましょう。

すなわち、間違っている、誤っている見方のひとつは、後ろを振り返ることです。二番目、不安そうに、あたりを見回すことです。三番目、近視的にものを見ることです。四番目、自分勝手なものの見方をすることです。そして、五番目、自己分析することです。これは全部、誤っている見方です。正しい見方の結果とは、考えられないほど多くの祝福です。

まず、後ろを振り返ることについて考えましょうか。イエス様は、ルカ伝に次のように言われました。

ルカ
9:62 だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。

これは、イスラエルの民が、現実にやったことでした。

詩篇
78:41 彼らはくり返して、神を試み、イスラエルの聖なる方を痛めた。

なぜイスラエルの民は、カナンの国に入り得ずして、荒野で、四十年ものあいだ、さまよい続けたのでしょうか。いったい何故、彼らのあいだに実りがなかったのでしょうか。勝利、喜び、安らぎ、賛美と感謝がなかったのでしょうか。答えは、彼らが後ろを振り向いたからです。

信じる者に、大きな重荷をパウロは感じていたのです。この後ろを振り向くという点についてでした。したがって、パウロはガラテヤ書という手紙を書いたのです。ガラテヤ地方の信じる者は、後ろを振り向き始めておりました。ユダヤ教の信者たちは、イエス様を信じる者たちに、帰依することを薦めていました。後ろを振り返るということは、この世に戻ることでもなく、無神論に帰ってくることでもなく、また、イエス様を捨てることでもない。当時のガラテヤ地方に住んでいる人々にとって、後ろを振り向くとは、冷たい、いのちのない、掟的なユダヤ教に立ち返ることを意味していたのです。

信じる者は、イエス様の満たしに与かるために召された者ですが、ガラテヤの信者たちが、もしも冷たいユダヤ教に立ち返ったとしたら、決して、かかる満たしに与からなかったことでしょう。また、それは、決して、主の御心にかなった霊的生活とはならなかったでしょう。当時のガラテヤの信者たちは、後ろを振り返り、少しも前進する兆し、要素がなかった。その場に立ち止まったままでした。ガラテヤの兄弟姉妹たちが、内面的に前進するか、または、霊的に退くかが問題です。後ろを振り向かず、前進すべきだという事柄は、パウロの切なる願いであり、心からの祈りでした。

パウロは、このガラテヤ書に、この事柄について書いたのです。けれども、我々の状態はどうでしょうか。後ろを見ているのでしょうか。後ろを振り向くと、疑いが起こり、悪魔が勝利を握ります。後ろを振り向くたびに、イエス様を否認しているのです。

二番目、不安そうにあたりを見回すことこそが、やはり、大きな妨げになります。

イザヤ
41:10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

当時の人々は、この約束のことばを聞いた時、自分のものにした時、必ずまた、元気になったのです。言うまでもなく、この言葉とは、ユダヤ人のためにだけ書かれているのではない。我々、一人ひとりのために書かれている言葉です。

不安そうにあたりを見回すなかれという言葉は、原語にだけあり、日本語では、『驚くなかれ』となっております。恐れてはならない。恐れるな。私たちは、何としばしば、回りを見るのではないでしょうか。

ペテロは、不安げにあたりを見ました。ペテロは、波の上を歩いていたとき、今まで見ていたイエス様から目を離し、あたりを見まわしたのです。結果として、波の中に沈み始めたことは、皆さんご存知のとおりです。

マタイ
14:28 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
14:29 イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
14:30 ところが、(・・・・今度は、イエス様ではなく・・・・)風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。
14:31 そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」

イスラエルの民も同じく、不安げにあたりを見たのです。十二人の使いがカナンの地をのぞき見て、そのうちの十人は不安げにあたりを見回し、カナンの地の固い様子と、内に住む巨人だけを見て、恐れたのに対し、残りの二人、ヨシュアとカレブという二人は、ただ主を見上げ、カナンの地に入ったことは、旧約聖書を見て、明らかなことです。

イスラエルの民は、恐れおののいた十人に従い、カナンの地に入ることができませんでした。カナンの地に入ったのは、今、話したように二人だけでした。不安げにあたりを見回してはいけません。主は、我々を救ってくださいました。その主が、救われて以来、私たちを導いていてくださったのです。困難や苦しみは、確かにあることです。けれども、困難や苦しみに縛られ、主に従うことができなくなるというようなことにならないように、「あなたの目は前方を見つめ、あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ。」不安げにあたりを見回すなかれ。

三番目、近視的にものを見ることです。

これも危険な誤った見方のひとつです。これも、もちろん、危険であり、私たちも時々、私たちの現在、直面している悩みだけを見てしまいます。あなたの直面しているそのものだけが、あなたに影響を及ぼします。もし、私たちが、周りの問題だけを近視眼的に見るならば、決して、主のご目的に達することはできません。

私たちの目の前のものを見て、すっかり、こんがらがってしまいます。もうダメ・・・・と考えてしまう可能性もあります。この近視眼的見方は、我々の大きな悩みなのではないでしょうか。私たちは、未解決の苦しみや問題だけを見つめます。苦しみや問題は確かにあります。

だからといって、それでおしまいなのではない。回りにあるそれらの問題は、我々を妨げるものであり、また、へブル書の十二章一節の「いっさいの重荷とまつわりつく罪」を意味しているものです。今日(こんにち)ある問題は、重荷のように私たちの上にのしかかり、もうダメだと思っているかもしれない。これこそ、我々にまつわりついている罪なのではないでしょうか。近視眼的な見方は、何という危険、悩み、妨げになることでしょう。「あなたの目はあなたの前をまっすぐに見よ。イエスから目を離さないでいなさい」と、勧められているだけではなく、命令されています。

今の悩みは大切な事柄ではない。目に見えない霊的な現実が、目に見える事柄より、我々にとって、現実的な問題にならなければならないと思います。患難に閉じ込められてしまってはいけません。困難は、決して、尽きることがありません。我々の腹痛(はらいた)のような問題は、大した問題ではありません。イエス様の苦しみが最大の問題であります。

第一ペテロ
4:12 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、
4:13 むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。

ペテロは、当時の色々なことで悩んんでいた人々に書き送ったのであります。

四番目、自分勝手な物の見方をすることも、もちろん、決して良くない。パウロはピリピ書の中で書いたのです。

ピリピ
2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。

己(おのれ)の事のみを顧みることは、本当に自分勝手な事です。信じる者として、利己的生活することは許されません。私たちは、イエス様の肢体として、イエス様から目をそらせている兄弟、または、罪に沈んでいる姉妹に対する責任を持っています。

自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさいと、はっきり書かれています。これは、いったい何を意味しているのでしょうか。何か一つの問題がある場合、それは、私にどんな影響があるかと考える必要はありません。人には、もしことが起こった場合、自分に害が及ばなければそれで良いとする考えが、往々にしてあるのではないでしょうか。もし、救われた人々が、悩みにあっており、あるいは、意識的に、主に不従順であり、また、主から目をそらし、他のものを見ているとしたら、私たちは、無関心でいることが、はたしてできるのでしょうか。

自分のことだけを顧みてはいけません。己のことのみを顧み、己にだけ意を用いる考え方は、誤ったものの見方です。己自身を顧みることは、己を不幸にするいちばんの早道なのではないでしょうか。

五番目、自己分析することです。パウロは、書簡をもって、かかることを行わないよう警告を与えています。

我々の目的とは、いったい何なのでしょうか。己の内に目を留めることの結果は、霊的な停滞をきたします。なぜ私たちは、己の内を見つめるのでしょうか。自分の内に、主を満足させるものがあると考えているのでしょうか。自分を見ることによって、自分を喜ばせたいと思っているでしょうか。これはもちろん、誤った見方のひとつです。

己自身を見つめると不幸になり、また、絶望する結果になります。私たちの内には、何の良いところもありません。これを知る必要があります。我々の内に良きことを期待することをよしましょう。あなたの目は前方を見つめ、あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ。イエス様から目を離さないでいなさい。

今まで、間違った見方の危険性について考えましたが、今度は逆に、イエス様を仰ぎ見る祝福について、最後に考えたいと思います。

我々の見るところは非常に大切です。へブル書の著者は、このへブル書を通して、信じる者の特権に目をとどめることを教えてきて、最後に、十二章の二節に至り、まとめて、この「イエスを仰ぎ見るべし」という言葉を書いたのです。イエス様から目を離さないでいなさい。

イエス様を仰ぎ見ることこそが、もっとも大切なのではないでしょうか。イエスを仰ぎ見るべし。この言葉の原語を見ると、他のものから目を反らし、イエスだけを見よという意味が含まれているのです。過ぎ去ったすべての事柄を振り向かず、我々を取り巻いている事柄に目を奪われず、あらゆる己にかかる問題に心を奪われず、目前にある悩みに目をくれず、また、己自身を見つめないで、ただイエス様を見ようではないでしょうか。

我々の見るところは、非常に大切な働きをいたします。我々の目は、あれこれを見るのです。我々の目は、ここ、あそこと、満足を追い求めます。けれどもイエス様は、我々に、「あなたの目は前方を見つめ、あなたのまぶたは、あなたの前をまっすぐに見よ」と、言われています。

我々の目的とは、いったいどこにあるのでしょうか。我々の目は、どこに向けられているのでしょうか。天的なものに目が向けられているのでしょうか。それとも、地的なものに、この世的なものに目が向けられているのでしょうか。もし、私たちの目が、天的なものに向けられているならば、それは、信仰の前進の原動力となります。

霊的成長の秘訣とは、天に眼を向けることです。ですから書かれていますね、「あなたの目は前方を見つめ、あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ」と。

もう一回、コリント第二の手紙から、もう一箇所、読みましょうか。主の御目的は、目に見えるものではなく、永遠のものであるとあります。

第二コリント
4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

どうしてパウロは、コリントにいる兄弟姉妹にこういう言葉を書いたのでしょうか。結局、必要だったからです。

私たちは、永遠に連なるものを見ているのでしょうか。我々の生涯は、主の目的にかなっているのでしょうか。悪魔は、我々が主の目的に達成しないように、また、私たちが地的なもので縛られているように、また、私たちが世的な目的を追い求めるように、あらゆる画策をいたしております。悪魔が、しばしば、我々を目的から外した興味を持って、麻痺した状態に陥れることは、経験するところなのではないでしょうか。

私たちの生涯が、イエス様の目的と御心に全く合致するように祈り、求めるべきなのではないでしょうか。

今、対人関係に縛られ、自分でどうしたらいいか解らないでいるかもしれない。主の目的を考え、イエス様を仰ぎ見ましょう。もし、悩んでいる対人関係が、主の目的を達成することを妨げているならば、その関係を速やかに断ち切らなければいけないのではないでしょうか。あなたは、次に訪れる未来の出来事がいかなるものであるか、皆目、見当がつかないかもしれない。主なる神の目的を深く考え、イエス様を高く、高く見上げようではないでしょうか。将来、何処でどのようにして、主に仕えるべきか、全く解らないかもしれない。けれども、そのような時も、主を仰ぎ見ようではないでしょうか。どうして、いいか解らないような悩みを持っているかもしれないけれども、この問題を解決する時、まず、どうしたら主の御心にかない、主の御心を全うすることができるかを、考えるべきなのではないでしょうか。

己の悩みではなく、主のご目的を見つめるべきです。あらゆる悩み、困難、苦しみを突き通して、イエス様を仰ぎ見てください。我々の全生涯をイエス様の御心に合わせたいものです。私たちが、上からの啓示によって主のご目的を知り、この目的に我々の全生涯が全く一致せしめられたいものです。

『あなたの目は、あなたの前をまっすぐに見よ』とあります。主のご目的は何であるかを、知っているのでしょうか。主の教会が父なる神にとって、いかに大切なものであるか、私たちは知り得たのでしょうか。花婿なるイエス様が、どんなに花嫁であるまことの教会を愛し、恋い慕っていることか知っているのでしょうか。

悩みは確かにあります。未解決の問題は山積(さんせき)しています。困難は、続いています。また、悪魔は、「お前の目指す目的は高すぎる。これで満足せよ」と、ささやきます。私たちは、それをもって、満足していてよいのでしょうか。これは、もちろん、とんでもない話です。これをもって満足しているならば災いです。

主の御心とは、いかなるものなのでしょうか。パウロが、この主の目的について、いちばん細かく書いたのは、間違いなくエペソ書の中です。

エペソ
3:10 これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、
3:11 私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。

イエス様を仰ぎ見るべし。他のものから目を反らし、イエス様だけを見よう。悪魔は、イエス様に、この世の富のすべてを示し、提供しました。イエス様は、それを断固として、退けたのです。天なる神の目的に目を留め、ひたすらに前進したのです。

悪魔は、イエス様が十字架にかかることを避けるために、この世の一切のものをイエス様に提供したのです。けれども、イエス様の眼(まなこ)は、ひたすらにただ、前を見つめていたのでした。

へブル
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

イエス様は、ただ天の父なる神のご目的だけを思っておられました。私たちは、いかがでしょうか。イエス様を高く、高く仰ぎ見ようではないでしょうか。

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