2014年10月21日火曜日

集会に集うべき態度

集会に集うべき態度
2014年10月21日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

マルコ
1:21 それから、一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。
1:22 人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。
1:23 すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。
1:24 「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」
1:25 イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け。」と言われた。
1:26 すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。
1:27 人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」
1:28 こうして、イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まった。

今もそうでしたけれども、シゲタ兄弟は祈りの中でいつも同じような文句を使っているのです、「からだなる教会。」教会とは、一つの人間に作られた組織ではない。主の創造された有機体です。多くの人々は、それを解っていないから、いろいろな誤解もあるのではないでしょうか。創造主なる真の神にとって大切なのは、イエス様の許嫁(いいなずけ)です。すなわち、教会です。

そして、この教会は、近いうちに迎えられるようになります。イエス様は、「わたしは、あなたがたを迎えるために来る」と、約束してくださったから、我々にとって、もっとも大切なのは毎日、首を長くして、いくら長くなってもいいけど、待つべきなのではないでしょうか。『もうちょっと』と考えると、元気になる。

今日は、「どういう心構えで集会に集うべきなのでしょうか」という大切なことについて、一緒に考えてみたいと思います。いつものように、だいたい三つに分けて考えましょう。第一番目、イエス様ご自身は、どういう心構えで集ったのでしょうか。第二番目、初代教会の兄弟姉妹は、どういう心構えで集ったのでしょうか。そして、第三番目、私たちは、どういう心構えで集うべきなのでしょうか。

イエス様は、どういう心構えでカペナウムの会堂に入ったのでしょうか。イエス様は、会堂に入って、もちろん、福音を宣べ伝えたのです。自分自身を紹介してくださったのです。福音が宣べ伝えられるところには、必ず、悪魔の攻撃があります。したがって、イエス様は、悪魔を攻撃するために会堂に入ったと言えるのではないでしょうか。言うまでもなく、イエス様の悪魔に対する武器は、いつもみ、ことば、聖書のみことばでした。イエス様は、すばらしい説教をするために、また、それはすばらしい話だったと、人々に褒められるために会堂に入ったのではない。

イエス様が会堂を訪れたのは、悪魔に対する攻撃でした。当時の聖書学者たちは、確かに立派な学校教育を受けた者でした。みんな、当時の聖書をよく勉強した人々でした。そして、安息日ごとに、必ず聖書についての話をしましたし、聞いたのです。けども、イエス様と当時の聖書学者たちとの間には、大きな差がありました。

マルコ
1:22 人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。

1:27 人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」

このイエス様のいわゆる新しい教えによって、人々は、目覚めさせられたのです。私たちは、人間的な知恵による古い教えを持っているか、あるいは、イエス様の新しい教えを持っているかのどちらかです。

権威を持っていないものは、いつも、人間の知恵を必要とします。人間的な教えは、人を目覚めさせることはできません。それは、覚せい剤ではなくて、睡眠剤のようなものなのではないでしょうか。そしたら、「おやすみ」。

イエス様は、悪魔を攻撃するために、会堂に行かれました。この会堂には、悪霊につかれた者がいました。この人は、悪魔の奴隷でした。自由にされたらいいと思ったに違いない。もちろん、悪霊につかれた者は、いつも危険です。なぜなら、悪魔がその人を支配していて、その人から話をするからです。

マルコ
1:23 すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。
1:24 「・・・・私(たち)はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」

汚れた霊につかれた人は、小さな声で囁いたのではない。大きな声で叫びました。

マルコ
1:24 「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。・・・・」

ここでは、「私たち」という複数形を用いています。これは、その人に住んでいた悪霊たちです。

悪霊たちは、イエス様を知っています。すなわち、悪霊たちは、イエス様が、生けるまことの神の御子、約束された唯一の救い主であるということを知っていたのです。「私たちはあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」イエス様の最大の敵である悪霊たちの、『あなたは神の聖者であり、罪を全く知らない方である』という告白とは、すごい告白なのではないでしょうか。

イエス様こそ、約束された救い主であり、イエス様こそが、まことの解放者であることの証明でもあります。イエス様が、カペナウムの会堂に現れたので、悪霊たちは、「止まって!入らないで!」と、叫んだのです。イエス様はなぜ、カペナウムの会堂に行かれたのでしょうか。悪霊たちを攻撃するため、悪魔を滅ぼすため、また、集まった人々を解放するためだったのです。言うまでもなく悪魔が、抵抗したので、イエス様と悪霊たちとの間に、戦いが生じたのです。誰が勝ったのでしょうかね。

マルコ
1:25 イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け。」と言われた。
1:26 すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。
1:27 人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」

これが、我々の主イエス様です。どんな悪魔も、イエス様に逆らうことはできません。イエス様は勝利者です。いつ、いかなるところでも勝利者です。イエス様は、神の聖者です。全き聖い、透き通っておられるお方です。光、そのものです。

しかし、私たちは、重荷を背負っている人間です。悩む者です。当時の初代教会の兄弟姉妹は、どうだったでしょうか。彼らはいったい、どういう態度を取ったのでしょうか。ちょっと使徒行伝からみてみましょうか。よく知られている箇所です。

使徒行伝
2:42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
2:43 そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。
2:44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
2:45 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
2:46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
2:47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

言えることは、初代教会の人々は、一生懸命にみことばを読む、みことばに頼る者でした。すなわち、主は彼らに語りかけることができた。彼らは聞く耳を持っていたからです。彼らは、お互いに、密接な交わりを持っていました。そして大きな喜びを持って、パン裂きをしていた。また、一緒に食事をしていたと書いてあります。

それだけではなく、彼らは、祈りの人々でした。いつも、イエス様とのつながりを持っていたのです。もっとも大切なのは、それなのではないでしょうか。彼らは、毎日、集まりにまいりました。そして、彼らは、日曜だけではなく毎日、主を褒め称える人々だったのです。主の答えは、四十七節にありますように、「主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」

私たちは、家族、親戚たち、知り合いの人々が、次々、救われるように、期待をもって祈るべきです。私たちが、期待を持って信じれば信じるほど、イエス様は多くのことを、必ず成していてくださいます。私たちが、イエス様にいくら信頼しても、し過ぎるということはありません。初代教会について言えることは、一日で三千人が救われたことでした。それか、ら短い間に五千人ほどの男が導かれ、救われたと、聖書は言っています。

使徒行伝
6:7 こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。

聖書によりますと、五旬節の後、数週間の後に、信じる者の数は、一万人以上になったのです。この救われた人々は、毎日、集まりました。いつ、また、どれくらい長くかは知りませんが、とにかく一緒になったのです。未信者が集会に来ますと、その人々は顔を伏せ、主を拝み、「まことに生ける神が、あなたがたの内にいます」と、認めざるを得なかったのです。第一コリントの中に、そういう箇所があります。

第一コリント
14:24 しかし、もしみなが預言をするなら、信者でない者や初心の者がはいって来たとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなにさばかれ、
14:25 心の秘密があらわにされます。そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう。

イエス様が、カペナウムの会堂に訪れたのは、悪魔に対する攻撃でした。初代教会において、集会を訪れることは全く同様に、悪魔に対する攻撃でした。初代教会の兄弟姉妹は、悪魔を攻撃したのであります。悪魔の業を滅ぼすために、集ったのです。また、備えられた魂を、主イエス様のところへ導くというただ一つの願いを持っていたのです。

イエス様はまた、初代教会の兄弟姉妹がどういう心構えで集会に訪れたのかと見てきました。けれども、我々の場合は、どうでしょうかね。私たちは、熱心にみことばを慕うのでしょうか。「語ってください。しもべは聞いております」と、サムエルのごとく願うのでしょうか。

主は毎日、我々に語りかけることができるのでしょうか。私たちは、初代教会の人々のように、心からの親しい交わりを持っているのでしょうか。私たちは、パン裂きを行い、イエス様を思う時、大きな喜びに満たされるのでしょうか。私たちは、イエス様と交わりを持つ、祈りの人なのでしょうか。私たちは、できる限り、しばしば集会に集まるのでしょうか。私たちは毎日、初代教会の兄弟姉妹と同じように、感謝と賛美に満ちている者なのでしょうか。もし、私たちがこの質問に対して、全部、合格するならば、主は毎日、人々をお救いになるに違いない。

「止まって!」と、悪霊どもは叫んだのであります。私たちも、悪魔に攻撃されている者でしょうか。朝、目を覚ましたら、まず、イエス様を考えるべきです。あなたを愛した大きな主イエス様の愛を考え、イエス様が、今日も自分の内に住んでいることを感謝すべきです。

一日中、私たちが、どこに居ても、悪魔は私たちを攻撃しています。集会に集うときも、悪魔は攻撃しています。悪魔が自分を攻撃しないようならば、鉄砲の無駄玉のように何も役に立ちません。もし悪魔が、あなたに何もしないなら、あなたは悪魔を危険とはせず、イエス様も必要としないでしょう。

悪魔は攻撃しています。攻撃されていることは、いつも、どこでも覚えるべきなのではないでしょうか。私たちは、どういう心構えで集会に集うのでしょうか。飢え渇いて来るでしょうか。詩篇の作者のように来られるのでしょうか。すなわち、「神よ、鹿が谷川を慕いあえぐように、わがたましいは、あなたを慕いあえぐ」というような要求を持っているのでしょうか。

私たちは、悪魔を攻撃するために集う者なのでしょうか。集会に集うとき、話をしている兄弟のために祈っているのでしょうか。しばしば非常に話しにくいものです。どうして?なぜなら、悪魔は、寝ないで、いつも攻撃しているからです。

聖霊だけがイエス様を知っておられます。ですから、聖霊だけがイエス様を証しすることができるのです。

それから、集会に集う時、来られたすべての人々のために祈っているのでしょうか。これはたいへん、必要なことです。集会のあいだ、一人ひとりのために祈ってください。また、一人ひとりのために、何を祈ったらよいか、イエス様に尋ねてください。もし、未信者なら、その人々が、イエス様のところへ導かれるように、心から祈ってください。

言うまでもなく、自分自身のためにも、祈るべきです。何があっても、イエス様をより良く知りたいという願いを持つことこそが大切です。「主よ、語ってください。しもべは聞いております。私をあなたの形に変えてください」と、祈るべきなのではないでしょうか。

どういう心構えで集会に集うべきなのでしょうか。もし、主を知らない人々がいるとすれば、もちろん、悪魔の奴隷がそこに居るのだということを覚えるべきです。けれども、イエス様を信じる者は、みな、イエス様に大いに愛されている者です。悪魔の奴隷とイエス様に愛されている者が、一緒に居るわけです。そこには、議論が起こるに違いない。

あらゆる、どんな集会も、私たちが考えている以上に大切です。集会に来て、自分は熱心な者だと考えると、イエス様の妨げになります。イエス様をもっと知りたい、イエス様に会いたいという期待を持って来るべきなのではないでしょうか。集会に来て、自分は何も価値のない者だと考えるならば、それも、イエス様の妨げとなります。

イエス様は、あなたと話したく思っておられます。イエス様は、人の魂を救うために、あなたを用いたいと計画しておられます。すなわち、全能の主が、一人ひとりを必要としています。救いを、滅び行く人々に伝えるために、イエス様は一人ひとりの口を必要としておられます。霊的に死んでいる人々を集会に招くために、イエス様は、あなたの足を必要としているのです。

イエス様は、あなたが共に働くことが要求されています。主は、あなたを必要としています。もし私たちが、日曜学校を持つならば、悪魔に対する攻撃でもあります。悪魔は、できるだけ、子供たちを引き留めようとしているから。礼拝の時も同じです。悪魔は我々に、仕事の方が大切だと言います。けども、イエス様は、日曜に我々を、特別に祝福したいと望んでいるに違いない。初代教会の兄弟姉妹は、毎日集まりました。

集会にはいつも悪魔の攻撃があります。悪魔は、絶望的に抵抗して、人の魂をイエス様にあげようとはしません。私たちは、集会に行くたびに一つの願い、すなわち、イエス様のために魂を救うという願いに満たされていなければなりません。イエス様は、悪魔と結びついた者を、神の子とするために、あなたを必要としています。

覚えるべきなのは、主は何でもできるお方です。しかし、このお方は、我々を必要としています。そして、このお方は、私たちに必要な力を必ず与えてくださいます。

マタイ
10:1 イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。

10:8 病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

ただで受けたのは、力を受けたことを意味しています。弟子たちは、力を受けました。勇気も自由も喜びも与えられたのです。我々もそのようなものを受けているのでしょうか。もし受けたなら、このものを用いることができます。

何でもおできになるお方が、信じる者、一人ひとりを必要としておられます。一人ひとりに超自然の力を提供しておられるお方です。イエス様がカペナウムの集会に訪れたのは、悪魔に対する攻撃でした。初代教会の兄弟姉妹の集まりは、いつも悪魔に対する攻撃でした。我々の集まりはどういうものなのでしょうか。私たちは、悪魔を攻撃するのでしょうか。私たちを通して、人々をイエス様のところへ導かれるのでしょうか。

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