2013年6月30日日曜日

イエス様のなさったこと(ヨハネ11章1~16節、45~46節)

イエス様のなさったこと
2013年6月30日、岡山よろこびの集い
ゴットホルド・ベック

ヨハネ
11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。
11:2 このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
11:3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。『主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。』
11:4 イエスはこれを聞いて、言われた。『この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。』
11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。

11:6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。
11:7 その後、イエスは、『もう一度ユダヤに行こう。』と弟子たちに言われた。
11:8 弟子たちはイエスに言った。『先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。』
11:9 イエスは答えられた。『昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。』
11:10 しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。』
11:11 イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。『わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。』
11:12 そこで弟子たちはイエスに言った。『主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。』
11:13 しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。
11:14 そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。『ラザロは死んだのです。
11:15 わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。』
11:16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。『私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。』

11:45 そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。
11:46 しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。

今、読んできてくださった箇所は、もちろん、皆さんもよくご存知の箇所であり、聖書を持っていなくても、このヨハネ伝11章だけを持っていれば、十分だとはいえないけど、すごいのではないでしょうか。

今日は、イエス様のなさったことについて、ちょっとだけいっしょに、考えてみたいと思います。もちろん、イエス様といっても、ちょっと違うかもしれない。言うべきなのは、父なる神は、主イエス様を通して、聖霊の力によって、何をなさったかということです。いわゆる宗教的な考え方は、人間は何を信じるべきか、何をやるべきか、大切にします。聖書は違う。今、読んでもらいました45節をもう一回読みましょうか。

ヨハネ
11:45 そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。
11:46 しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。

45節の中で、私たちが、『イエスがなさったこと』という御言葉を読むことができ、また、46節でも、『イエスのなさったこと』という御言葉がでてきます。私たちはイエス様が、主の地上の生活を送っていたときになさったことを知りたいと思うならば、言うまでもなく、四つの福音書を読むべきです。ルカは、ルカ伝だけではなくて、使徒行伝も書いた兄弟なのですけど、このルカは彼の書いた福音書の中で、『イエスが行ない始め、教え始められたすべてのことについて書いた』と、述べています。そして、マタイ、マルコ、ヨハネもみな、同じことを行いました。それですから、私たちは、四つの福音書の中に、我々の主のすばらしい姿を見ることができます。

福音書は、それぞれ、お互いに矛盾し合っているという考えを持っている人も確かにいます。けど、決してそうではありません。われわれの主イエス様は、ただ、ひとつひとつの福音書の中で、いろいろな違った側面から考察されています。すなわち、マタイにおいては、イエス様は、王の王として紹介されています。マルコにおいては、イエス様は、父なる神に仕えられる僕(しもべ)として、ルカにおいては、イエス様は、人の子、しかも、完全な人間として、そして、最後に、ヨハネにおいては、イエス様は、神の御子として、主の神性が我々に分かるように紹介されています。福音書の中心とは、ひとつの教えというよりも、主イエス様です。イエス様を知ることこそが、もっとも大切なのではないでしょうか。

私たちは、四つの福音書を一緒に合わせてみると、一方においては、イエス様の偉大さ、他方においては、イエス様の御奉仕の本質を見ることができます。すなわち、イエス様の人格とみわざが、我々に明らかにされるのです。

けど、今日、私たちが読む聖書の箇所においては、我々の主イエス様がラザロの復活との関連においてなさったこと、この関係だけをちょっと取り出してみたいと思います。イエス様は、何をなさったのでしょうか。この質問に十分に答えるために、私たちは、このヨハネ伝11章、1節から最後まで、全体を読まなければならない。この11章を通して、私たちは、イエス様の愛、イエス様の力、イエス様の恵み、ならびに、イエス様ご自身をよりよく知ることができます。それですから、私たちは、次の問いに取り組みたいと思います。その当時、イエス様はいったい何をなさったのでしょうか。

第一に、イエス様は助けを求められましたが、意識的に遅れて行きました。けど、その遅すぎて行くということは、もっとも最善の時でした。もうひとつのすばらしい点は、イエス様は、マルタとマリヤと苦しみを、ともにしてくださったということです。

まず第一に、イエス様は、緊急に救助に来るように求められました。けど、さっそく赴く(おもむく)代わりに、イエス様は意識して遅らせ、瞬間的に助けようとしなかったのです。ちょっと、その状態を想像してみましょうか。イエス様は、三人のもっとも特別な友だち、マルタ、マリヤ、ラザロを持っていました。これらの三人の友だちとイエス様は、再三にわたって、泊まったり、交わったりしました。ラザロは病気になりましたが、その状態は早く悪化しましたので、彼の姉妹たち、マルタとマリヤは救助を求め、遣わしました。死にそうだったから、離れられなかった。使いを送っただけなんです。

ヨハネ
11:3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。『主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。』

私たちは本当に困っている。イエス様は、この知らせを聞いたとき、何をなさったのでしょうか。イエス様は、すぐ友を助けるために、急いで出かけたのでしょうか。そうではない。そうすることを私たちは、もちろん、期待するかもしれません。そのことは、マルタもマリヤも期待していたでしょう。それは実際、当然のことだったのではないでしょうか、けども、イエス様は全く理解できないことをなさいました。すぐには、出発しようとしなかった。

ヨハネ
11:4 イエスはこれを聞いて、言われた。『この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。』

結局、イエス様は、はっきりラザロが死ぬとわかった。けど、死は終わりではない、神の栄光のためのものです。神の子が、それによって栄光を受けるためです。

ヨハネ
11:6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。

身の毛もよだつような、全く理解できない態度ではないでしょうか。あまりにもひどいと、考えることもできるでしょう。けども、この遅延は全く意識的になされました。イエス様は何をなさるかを、もちろんご存じでした。父に知らせてもらったからです。

ヨハネ
11:7 その後、イエスは、『もう一度ユダヤに行こう。』と弟子たちに言われた。

私たちは、こうしたイエス様の行いを考えたり、イエス様が何もなさらなかったことを考えると、確かに、ひとつの謎の前に立たされます。しかし、私たちは皆、既に同じようなことを経験したのではないでしょうか?私たちは助けを叫び、求めました。私たちは、主が手を貸してくださるように、切に主に祈り求めました。しかし、我々の祈りは聞かれなかった。少なくとも、私たちが期待したように、祈りは聞かれませんでした。私たちの家族の誰かが死んでも、主は働こう、助けようとはなさいませんでした。ちょうど同じことが、千九百年以上前に、ベタニヤでマルタとマリヤが経験したのです。当時、イエス様は何をなさったのでしょうか。

一言葉で言いますと、主は関与なさいませんでした。一見したところイエス様は、つんぼの耳を持っていたわけです。イエス様は、彼らを助けるために急ぐことをしないで、全く意識的に、遅れてやって来ました。そして、まさしくそのことは、イエス様が今日もなお、なさることではないでしょうか。私たちは、皆、『なぜは主は、そうなさったのか』と、問わざるを得ません。けど、私たちがここで述べられている七つの事柄に注目することが、その問いに答える一つの助けになるのではないかと思います。

第1に、主は愛してくださいました。

ヨハネ
11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。

イエス様は愛してくださった。主なる神の愛は、言うまでもなく、人間の愛とは、まったく違った性質を持っています。主なる神の愛は、理解したり、把握したりできません。けど、経験することができます。主なる神の愛は、考えられないほど、すばらしいものです。もちろん、変わらないものです。マルタもマリヤも、この愛を経験し、体験し、認識しました。そして、彼女たちの生活は、それによって、非常に豊かになりました。私たちは、無視されていない、理解されている、愛されていると、彼女たちは確信したのです。イエス様は愛してくださった。

2番目、イエス様は大変な苦しみをご存じでした。マルタとマリヤは、イエス様のみもとに、使者を遣わしました。したがって、イエス様はその情報をもちろん、知らされていました。イエス様は、助けを求める叫びを聞き取りました。絶望的に重大な状態を御存知でした。イエス様に、知られていない事柄は何ひとつありません。私たちはしばしば、主が我々に対して無関心であると思いがちです。私たちは、主によって愛されているということを、主はよくご存じであるということを、忘れてしまいます。何があっても、『どうして』、『なぜ』と考えるのはよくない。愛されていることを、絶えず覚えるべきです。主の愛は、変わりません。主は、愛してくださった。主は、大変な苦しみをご存じでした。

3番目、イエス様はラザロの死を予防しようとなさいませんでした。

ヨハネ
11:32 主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。

いのちそのものであられるイエス様にとって、死を予防することは、大したことではなかったでしょう。ラザロが癒されるためには、遠くから主が一言、おっしゃってくだされば、十分だったでしょう。

4番目、イエス様は、自分の愛されている友であるラザロの死を望みました。

ヨハネ
11:37 しかし、『盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。』と言う者もいた。

すなわち、イエス様は、ラザロを死なせないでおきたいとは欲しなかった。目先だけを見れば、私たちは、『ひどい友だ』と言う傾向を持っています。それが愛なのでしょうか。他の人を助けたイエス様が、なぜ、今までに、長い間、親しい交わりを持ち、その住まいにしばしば招待された友、ラザロを助けなかったのでしょうか?

5番目、イエス様は出発する前、二日間、同じところに泊まっておられますね。

ヨハネ
11:6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。

11:17 それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。

もちろん、これはイエス様にとって、なんの驚きでもありませんでした。イエス様は、そのことをもちろん、ご存知でした。父に知らせてもらったからです。そして、イエス様をすぐに行かせなかったのは、父にとっては、それは最善の時ではなかったからです。

6番目、主イエスは関与なさいました。

ヨハネ
11:43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。『ラザロよ。出て来なさい。』
11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。『ほどいてやって、帰らせなさい。』

主は大声で叫ばれました。イエス様が叫ぶと、死者もそれを聞きます。イエス様が命令すると、命令どおりになります。不可能なことが可能になります。すると、そのとき存在していないものが、存在するようになります。そのとき、死も力の無さを認めざるを得なかったのです。死んでいたラザロがよみがえったのです。

7番目。マルタとマリヤがイエス様から受け取ったことは、彼女たちが祈り求めたことよりも、よいものでした。すばらしいものでした。

ヨハネ
11:40 イエスは彼女に言われた。『もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。』

彼女たちは、ただ単に病気の癒しを経験したいだけでした。けども、彼女たちは、神の栄光を見たのです。

今まで、学びましたこれらの七つの真理は、我々、全ての者にも当てはまるのではないでしょうか。

第1番目、イエス様は、マルタ、マリア、ラザロを愛しただけではない。イエス様は一人一人を愛しておられます。しかも一人一人を、また、完全に、個人的に愛しておられます。イエス様は、誰に対しても、決して無関心ではありません。イエス様は、人間一人一人を心にかけておられます。人間は誰でも悩む者です。けども、あなたこそ、ありのままで愛されている、心配されていると述べ伝えることができるのは、すべらしい特権なのではないでしょうか。主によって愛されていない人はいない。そして、主の愛は、たしかにかわったものです。変わらないから。永遠に続く愛です。人間がいくら拒んでも関係ない。

2番目、イエス様は、我々の状態をも、よく、正確にご存じです。主は、背後の動機をご存じです。全てのことにおいて、主は一定の目標を目指して働いておられます。イエス様にとって、知られていないことは何もありません。

3番目、イエス様は、我々の悩みを変えることができるのです。完全におできになります。イエス様は、我々の助けの叫びを聞いておられます。イエス様は、聞くことと、聞き届けてくださることを、約束してくださいました。

4番目、しかし、イエス様は、私たちが考えるような具合には必ずしも、答えてはくれません。意識的にイエス様は、私たちが、苦しみを通して、吟味されることを、省略なさいません。私たちは誘惑され、困難なことをも味わうでしょう。

5番目、イエス様は、主の時に答えてくださり、その『主の時』は、『最善のとき』です。人間的に見れば、遅過ぎました。というのは、ある人が4日間も墓の中に置かれれば、もうお手上げだからです。

6番目、イエス様はその当時、助けてくださいました。イエス様は、今日も助けてくださるお方です。主は、『主の時』が来たならば、関与なさいます。悪魔によって、惑わされないようにしましょう。

そして、7番目、主の答えは、私たちが期待するものよりも、常に、はるかに良いものです。それだから、期待をもって、主を見上げ、主の偉大なることを期待しましょう。

なぜイエス様は、マルタ、マリヤ、ラザロに対して、そのように行動なさったのでしょうか?なぜ、私たちはこんなに多くの困難なこと、理解できないことを、味あわなければならないのでしょうか。二つの理由を挙げることができるのではないか、と思います。

第1に、イエス様は理解できないことをたくさん許しておられます。私は、それによって苦しみに陥ります。私たちは、『どうしてか』という疑問を持つようになり、わけがわからなくなってしまうことがあります。それは、厳しい試練のときです。しかし、まさにそれこそ、主の御栄光が明らかにされるために必要なものです。

ヨハネ
11:4 この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。

私たちが、悲しみに悲しみを加えるためでもなければ、あきらめたり、全てを投げ出したりするためでもなく、主のご栄光が現われるために、私たちは、理解しがたいことをいろいろと経験させられます。旧約聖書を見るとわかります。すなわち、イスラエルの民も荒野(あらの)を通らなければならなかったのです。その時、喉も渇き、助けも遠く、太陽は照りつけ、敵にもさらされたのです。しかし、主は助け手として、マナを与え、水も与えてくださいました。また、雲の柱と火の柱によって、イスラエルの民を導かれました。イスラエルの経験したことは、苦しみと悩みを通して、主の栄光を見たということです。

第2番目に主は、主に属する者の信仰を試し、増し加えるために、理解しがたいことをお許しになるのです。苦しみがなければ、成長もありません。問題、悩みがなければ、誰も真剣に祈ろうとしない。祈らなければ、祈りに応えるお方を知ることができません。私たちは苦しみに陥らなければ、真剣に主のほうを向くことがない。我々の上に何の重荷も置かれなければ、私たちは主の約束にしがみつくことをしないでしょう。

ヨハネ
11:15 わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。

これもまた、どうして主がすぐに関与しないで、私たちをひとりぼっちにさせることの理由なのです。もちろん、私たちは、心が混乱して、出たらいいのか、入ったらいいのか、わからなくなってしまいます。いくら考えても、もう、全くわからなくなってしまいます。けど、私たちは次のことを忘れてはなりません。主なる神の御栄光が明らかにされます。そして、私たちは、そのことによって、主に、よりいっそう近く、信仰が強められます。

もうひとつ、すばらしいことが書かれています。主はマルタ、マリヤ、ラザロを愛しただけではない。苦しみをともにしてくださったということです。しばしば、私たちは次のように尋ねられます。家族の者が重病で、負傷したり、死ぬような時、主は、何も面倒を見てくださらないのでしょうか。あるいは、配慮をしてくださるのでしょうか?我々の祈りは、応えられないで、そのままの状態で過ぎてしまうように思われるようなことがあります。というのは、たとえ私たちが祈ったとしても、主が簡単に防ぐことができたであろう死が生じます。ひとつのことが明らかです。主は、あらゆる人のことを、心にかけておられます。主が無関心な人は一人もいません。人間がどういう態度をとっても、関係ない、主は愛してくださり、愛し続けます。ヨハネ伝11章の32節から、そのことが明らかにされていますね。

ヨハネ
11:32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。『主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。』
11:33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
11:34 言われた。『彼をどこに置きましたか。』彼らはイエスに言った。『主よ。来てご覧ください。』
11:35 イエスは涙を流された。

この35節は、聖書の中で、もっとも短い聖句です。すなわち、『イエスは涙を流された。』

ラザロはもちろん、奇跡的に復活なさいました。結果として、多くの人々はイエス様こそ、本物だと認めざるを得なくなったのです。マリアも、マルタも。ラザロもイエス様の偉大さについて。あちこちで必ず話したはずです。けど、おそらく彼らはその証しの中で、この一文章だけを読んだのではないかな。すなわち、『イエス様は、我々とともに泣いちゃった』と、言ったに違いないと思います。

イエス様は、御自身に属する人たちを心にかけておられます。イエス様はその一人ひとりの苦しみや悩み、悲しみと一体となってくださいます。私たちは、誘惑や患難の中に、ひとりぼっちに捨てられることはありえません。

へブル
4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

イエス様は、私たちのことを理解しておられます。主の地上生活のときに、イエス様は、多くの悩みを経験なさいました。イエス様は、全く孤独であること、誰からも理解されないことが、何を意味しているのか、ご存じです。経験したから。イエス様は悩みと苦しみを経験なさいました。イエス様は肉体的な苦痛をご存じでした。イエス様のように苦しんだ人間はいない。イエス様のように、孤独になった人間もひとりもいない。まったく、捨てられてしまったのです。イエス様は、飢えと渇きにも苦しめられました。疲れたこともありました。悪魔に抵抗することや、主のみことばだけに、拠り頼むことが、何を意味しているか、イエス様は経験なさいました。

私たちの苦しみはなんでしょうか。それをイエス様を言いましょう。イエス様は、私たちとひとつになってくださり、私たちとともに涙を流してくださいます。

第一テモテ
2:5 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。

ここで、主イエスは、『人としてのキリスト』と呼ばれていますが、主は神であり、人間であり、そしてまた、人間であり、神であるのです。その神性において、イエス様は主権者であり、全能であり、栄光に満ちたお方です。主の人間性においては、主は恵み深く、理解してくださるお方であり、優しいお方です。

もう一箇所、読んで終わりましょうか。

イザヤ
63:9 彼らが苦しむときには、いつも主も苦しむ。

私たちは、苦しみや苦痛でもって、決してひとりぼっちにはさせられません。主にとって、私たちは大切な存在です。主は、ただ私たちの最善だけを考えておられます。まさに、それですから、イエス様は我々に困難なことを経験させるのです。けども、主はともに悩んでくださいます。私たちがあえて、我々の全ての苦しみを主イエス様に申しあげることをするならば、主がともに苦しんでくださり、我々のことを思っておられ、主の最善の時に、恵みの奇跡をなしてくださるということを、私たちも経験するに違いない。


おわり

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