2013年6月18日火曜日

聖霊に満たされなさい

聖霊に満たされなさい
2013年6月18日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ルカ
3:21 さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、
3:22 聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

ローマ
8:9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

エペソ
5:18 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。

最後にお読みになりました箇所について、ちょっと、ゆっくり考えたいと思います。すなわち、「御霊、聖霊に、満たされなさい」と、使徒パウロは、エペソにいる人々に書き送ったのです。

パウロはまた、ローマにいる人々に、次のように書いたこともあります。ローマ書、八章九節、「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」すなわち、救われていない。教会の牧師になっても、ローマの法王になっても、キリストの御霊を持っていなければ、救われていないことになります。


聖霊の宮になることこそが、救われることです。聖霊の宮になった人々だけが、本当の意味で、前向きに生活することができるのです。けども、キリストのものになった人々とは、ちょっと充分ではない。だから、聖霊の宿になることだけではなく、聖霊に満たされなければならないということです。

もっとも大切なこととは、我々にとっても、御霊に満たされることなのではないでしょうか。聖霊に満たされている人の苦しみは静められ、聖霊に満たされている人の問題も解決されるようになり、また、聖霊に満たされている人の欠乏は、取り除かれるようになります。

今日、私たちは、我々の主イエス様の経験について、考えてみたいと思います。その場合に、イエス様に用いられるために、私たちは何を経験しなければならないかを、考えるべきなのではないでしょうか。今、読みました箇所をもう一回、読みます。ルカ伝、三章二十一節ですね。『さて、民衆がみな』・・・・すごいね。みな!『大部分』とは書いていない。

ルカ
3:21 さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、
3:22 聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

イエス様の洗礼は、イエス様の公(おおやけ)の奉仕の出発点でした。この洗礼のとき、聖霊は鳩のようにイエス様の上に下りましたとあります。もちろん、イエス様の洗礼は、我々の洗礼とは全く違うものでした。けども、イエス様が経験なさったことは、我々の経験でもなければならない。すなわち、私たちは聖霊に満たされた者でなければならないということです。私たちは、イエス様について、主が聖霊によって身ごもり、お生まれになられたということを知っています。

マタイ
1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」

ルカ
1:35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」

その証拠として、聖書は、イエス様が完全な聖い罪のない人生を送られたと言っています。

ヘブル
7:26 また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。

イエス様は、ご自分の意思で、どうしようもない、悩んでいる、孤独になった人間を救うという目標をもって、この世に来てくださいました。しかし、イエス様が公(おおやけ)のご奉仕を始める前に、聖霊が鳩のように主の上に下ったとあります。後になって、イエス様は、このことについて、次のように証ししました。

ルカ
4:18 わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、
4:19 主の恵みの年を告げ知らせるために。

ペテロは後になって、そのことについて、次のように報告しました。

使徒行伝
10:38 それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。

神の御子であるイエス様にとって、上からの力を着せられることは、イエス様の三年半に及ぶご奉仕を特徴づけた経験でした。聖霊は、イエス様の上に留まり、イエス様は絶えず聖霊に満たされていました。イエス様の弟子たちは、バプテスマのヨハネがすでに言ってきた、似たような証言をしたのです。

ルカ
3:16 ヨハネはみなに答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」

イエス様は弟子たちに、そのような経験を約束なさいました。

ルカ
24:49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。

使徒行伝に、この出来事について、使命について書かれています。

使徒行伝
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

イエス様が約束なさったことは、すぐに成就されました。

使徒行伝
2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。

2:4 すると、みなが聖霊に満たされた。

けど、私たちをも、同じ聖霊が満たしてくださりたいのではないでしょうか。我々の人生が変えられ、イエス様が栄光をお受けになり、多くの人が真理に至るようにと願うべきです。疑いも無く、聖霊に満たされることほど、信じる者にとって大切なことはありません。

イエス様は、聖く、罪なく、罪人から離れていました。それにもかかわらず、なぜ、イエス様は聖霊に満たされることを必要としたのでしょうか。私たちにはわかりません。それは、奥義のようなものではないでしょうか。

弟子たちの場合は、違っていました。その点については、我々もはっきりしていて、疑問の余地はありません。聖霊に満たされることなしには、イエス様の福音は宣べ伝えられなかったに違いない。けれども、弟子たちが聖霊に満たされたとき、彼らの人生はいっぺんに変わりました。私たちは、主に喜ばれる人生を送りたいと思うなら、そして、また、主が我々を主のご奉仕に用いたいと思うなら、私たちもまた、聖霊に満たされなければなりません。

そこで、まずひとつの質問について一緒に考えてみましょうか。聖霊は、なぜ鳩のようなかたちをして、イエス様の上に下ったのでしょうか。聖書は、鳩についていろいろなことを言っています。おもに四つの特徴を挙げることができます。第一番目、純粋さ。二番目、美しさ。三番目、謙遜。そして、四番目、喜んでする覚悟がそれです。

まず、鳩の純粋さについて、簡単に見てみると、次のように言えます。雅歌を見ると、鳩について、次のように書かれています。

雅歌
6:9 汚れのないもの、私の鳩はただひとり。

これは、花嫁についての花婿の判断でした。鳩は純粋なものであり、汚れのないものです。次に鳩の美しさについて、考えてみると、詩篇に次のように書いてあります。

詩篇
68:13 銀でおおわれた、鳩の翼。その羽はきらめく黄金でおおわれている。

すなわち、鳩は非常に美しいものであると、聖書は言っています。それから、鳩の謙虚さについて、考えるとマタイに次のように書いてあります。

マタイ
10:16 鳩のようにすなおでありなさい。

鳩のもう一つの特徴は、喜んでする覚悟であります。

詩篇
55:6 ああ、私に鳩のように翼があったなら。

鳩の特徴は、何かあれば、すぐに飛んで行くということです。

聖霊は、鳩のようにイエス様の上に下りました。なぜならば、イエス様はすでに鳩の特徴、すなわち、完全な純粋さ、美しさ、謙虚さ、喜んでする覚悟を身につけておられるからです。父なる神は、このことを次のようなことばで証明してくださいました。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と。

我々の場合は、事情が異なります。すなわち、純粋というものを考えることができず、私たちはみな、汚れています。美しさというのも考えられません。イエス様の前に私は、忌むべき者です。謙遜さということも考えられません。私たちはみな、誇り高く、傲慢です。喜んでする覚悟ということも考えられません。私たちはみな自己追求的であり、自己中心的、そのものであり、自分の意思を通そうとするのが、我々なのではないでしょうか。

私たちはみな、生まれた時から、そういう者であり、死ぬまでそういう者に留まるのではないでしょうか。もしも、私たちが、聖霊に満たされないならば、そのままです。聖霊は、鳩のようにイエス様の上に下りました。なぜなら、イエス様こそ鳩の特徴、すなわち、全き純粋さ、美しさ、謙虚さ、そして、喜ぶ覚悟を持っているただ一人のお方だからです。

実際、聖霊に満たされる人の人生は、イエス様の純粋さ、美しさ、謙虚さ、喜ぶ覚悟の内の何かが明らかに現れるでしょう。我々のように、蛇のような性格の持ち主は、聖霊に満たされることによって、鳩のような性格の持ち主になるべきなのではないでしょうか。

聖霊に満たされるとは、いったい何を意味しているのでしょうか。御霊の満たしは、次のようなことを意味しています。今、話したように、イエス様の純粋さを知ること、イエス様の美しさを反映すること、イエス様の謙虚さにあずかること、イエス様の喜ぶ覚悟を経験することです。

聖霊に満たされている人は、イエス様の純粋さを知っています。すなわち、イエス様は我々の人生を聖めてくださるのです。聖霊に満たされる前、イエス様の弟子たちは、肉的であり、彼らの人生は、絶えず上がったり下がったりしていました。

彼らは、誇りに満ち、妬み深く、党派精神に満ち、復讐深く、批判精神に満ちた者でした。けれども、彼らは、聖霊に満たされたとき、もはや誇り、妬み、党派精神、復讐心、批判などの余地が無いほど満たされたのです。彼らは、内面的に聖められ、純化されることを経験したのでした。

そして、まさに、このことは我々もまた、必要としているのではないでしょうか。すなわち、あらゆる汚れからの聖めです。主なる神の霊が我々を満たすことができるならば、私たちはイエス様の聖さを知ると同時に、我々の不純さ、また、汚さを知ります。けどもまさに、私たちはそういうありのままの状態で、つまり、汚れたままとして、主の御許に行くことが許されています。主の前で自分の過ち、わがままを告白することができます。そうすると、主は、新たに罪の汚れから聖めてくださいます。

力を持つために、聖霊に満たされたいと思っている人々もいます。けど、私たちがすべてのものに勝って必要としているものは、力ではない。内面的に聖くされることなのではないでしょうか。その時、はじめて主は、我々を主の器として用いることができます。

それから、二番目、聖霊に満たされている人は、イエス様の美しさを反映するようになります。

化粧品のために、ある人はたくさんのお金を使ったりします。けれど、本当の美しさは、聖霊が我々を満たしてくださることによって現れます。聖霊によって満たされている人は、美しく魅力的なのではないでしょうか。聖書の中で、ステパノ、初代教会の初めての殉教者について書かれています。彼は、大胆にイエス様を紹介し、証ししました。イエス様の御手の内にある器でした。攻撃され、議会に引き渡されて、弁明せざるを得なくなりました。この出来事について、手短に次のように記されています。

使徒行伝
6:15 議会で席に着いていた人々はみな、ステパノに目を注いだ。すると彼の顔は御使いの顔のように見えた。

御使いの顔は疑いもなく、きれいなものです。ステパノも美しかった。どうして?それは、生まれつきの自然の美しさではなかったのです。ステパノは、聖霊に満たされていたとあります。

使徒行伝
7:55 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見(た。)

ステパノのように、主を見る者は、主の栄光をも見るようになります。彼は、イエス様を見るようになり、イエス様の美しさが、彼の顔に反映するようになったでしょう。主を仰ぎ見ることこそが、考えられないほど大切なことです。

三番目、聖霊に満たされている人は、イエス様の謙虚さにあずかるようになります。別の言葉で表現するならば、主は、私たちをマタイ伝にあるように、心やさしく、心へりくだった人にしたいと願っておられるからです。

【参考】マタイ
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

鳩の特徴は、何であるかと言いますと、胆嚢を持っていないことです。胆汁は苦いものです。苦さと争いと誇りとは、我々人間の性格の特徴なのではないでしょうか。鳩は、柔和、謙虚さ、温和によって特徴づけられています。何と多くの人生が、誇りの胆汁によって、破壊されたことでしょう。

鳩の謙虚さは、いかに現れるのでしょうか。あなたは、間違ったことをしたと気がついたならば、その時、そのことを正直に告白しなければなりません。すなわち、「さっき言ったことを赦して。言わなかった方が良かった」と。あるいは、「私は、あなたに対して、批判的な態度を取った。深く考えもせず、あなたのことについて話してしまった。ごめんなさい。」これこそが、主が求めておられる謙虚さです。

けれど、ある人が、「あなたから謝罪を要求する」と言うならば、それは誇り、辛辣(しんらつ)、喧嘩好きのしるしです。我々の主イエス様は、次のように言っておられます。

マタイ
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば(・・・・そうしなければ、もちろんダメ、けど、そうすれば・・・・)たましいに安らぎが来ます。

我々の主イエス様は、心の優しい方でしたが、決して、弱い方ではありませんでした。それまでの、いわゆる弟子たちに、本当の弟子になってもらいたいということがイエス様の関心事でした。イエス様は、御足のあとに踏み従ってくる人々を、もちろん、欲しておられます。これは、いかにすれば可能なのでしょうか。聖霊に満たされたとき、彼らは、傲慢さ、自己追求や闘争心から、完全に解放されました。聖霊に満たされた人々と共に生活することは、本当に楽しみであり喜びです。

人の心は、いかにして変えられるのでしょうか。今、話したように、聖霊に満たされることによってのみです。

四番目、聖霊に満たされている人は、イエス様の喜んでする覚悟を経験します。別の言葉で表現すれば、あらゆる主の願いを喜んで満たすことは、聖霊によって満たされている人の特徴です。主にだけ仕えることを、喜んでする覚悟、イエス様の合図に応じて、即座に行なう従順、主が成されたいと思っていることを行いたいという切なる願い、これは我々の生活の特徴でもなければなりません。詩篇の作者の預言は、次のような主の告白であります。

詩篇
40:7 今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。
40:8 わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。

これは、我々の告白でもあるのでしょうか?私たちは、心から望んで主の御心を行ないたいのでしょうか?しかし、このことは一体、どうすれば可能となるのでしょうか?聖霊が我々を満たすとき、私たちは何があっても、御心だけが成されるように・・・・という切なる願いによって満たされるようになります。私たちは、主に次のように叫ぶようになります。主よ、たとえどんなことがあろうとも、御心が私の人生において成就されますように!

終わりに、もうひとつの問いについて考えましょうか。私たちは、聖霊に満たされるために、何をしなければならないのか。パウロは、次のように証しすることができました。コリント第一の手紙、二章の四節です。『私のことば御霊と力の現われだった』と。

【参考】第一コリント
2:4 そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。

御霊に満たされる生活の秘訣とは何でしょうか。今、話したように、イエス様は父なる神の御心に完全に従いました。「わたしの思いではなく、御心だけが成るように。」イエス様の変わらない祈りとは、そういう切なる叫びでした。だからこそ、イエス様は父の御手にある従順な器でした。その態度は、常に次のようなものだったのです。「父よ、わたしはここにいます。どうかあなたのご自由になさってください。わたしは、この地上でただあなたの御心だけが行なわれますように、何でもいたします。」

イエス様の変わらない祈りとは、そういう願いの現れでした。イエス様が、この態度をお取りになられたから、聖霊は高いところからの力として、イエス様の内に宿るようになりました。

二番目、前に読みました箇所ですけど、ルカ伝、三章二十一節によると、イエス様が祈っておられると、聖霊がイエス様の上に下った・・・・とあります。祈りこそ、聖霊に満たされるための前提なのです。五旬節のとき、百二十人の兄弟姉妹が祈っているあいだに聖霊に満たされたと書いてあります。その少し後で、祈りの答えとして、弟子たちが聖霊に満たされたのです。使徒行伝、四章三十一節を見ると分かります。

【参考】使徒行伝
4:31 彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。

使徒行伝とは、初代教会の歴史を語っているものです。おもに、九章、十一章においては、サウロについて、次のようなことが記されています。「見よ!彼は祈っています。」すぐその後で、彼もまた、聖霊に満たされました。祈りの答えとして。「見よ!彼は祈っている。」考えられないことが起こったのです。

私たちが、聖霊に満たされたいと願うなら、我々の人生はすべて、主に明け渡されなければなりません。また、主の御心だけを行なうということが、我々の願いとならなければなりません。そして、また、私たちの祈りは、「主よ、私はただ、あなたの命令だけを望みます」というものでなければなりません。

イエス様が、ヨルダン川の中で立ったとき、主の切なる願い、主の祈り、主の心からの叫びは次のようなものでした。「見よ。わたしがここにいます。あなたの御心だけが、わたしを通して、行なわれますように。」聖霊は、与えられた使命を果たすために、主が必要とした高いところからの力として、イエス様の上に下りました。今日、イエス様は我々に次のように言っておられます。「父がわたしを遣わしたように、わたしはあなたがたを遣わします」と。父は我々を遣わしたい、用いたいと望んでおられます。父は、我々を一人にさせず、聖霊が我々の上に下り、我々の中に留まりました。わたしを通して、父は聖霊の力によって、贖いの御業を成就してくださいました。そして、今、わたしたちは、あなたがたを遣わします。あなたがたを通して、誰でも罪の赦し、神との平和、永遠のいのちをいただくことができるのです。けど、わたしはあなたがたを一人では行かせません。わたしに、あなたがたの人生の全支配権を与えなさい。そうすれば、わたしは、あなたがたを用いることができるようになります。主の霊は、あなたがたを満たし、器として用いられるようになります。」

聖霊に満たされるほど、また、イエス様の御手にある器となることに勝る大いなるものは、何ひとつないでしょう。聖霊に満たされることとは何でしょうか。今、話したように、御霊の満たしとは、第一番目、イエス様の純粋さを知ること。二番目、イエス様の美しさを反映すること。三番目、イエス様の謙虚さにあずかること。そして、四番目、イエス様の喜ぶ覚悟を経験することです。

0 件のコメント:

コメントを投稿