2013年6月25日火曜日

安心して帰りなさい(長血の女)

安心して帰りなさい(長血の女)
2013年6月25日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

マルコ
5:24 そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
5:25 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。
5:26 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。
5:27 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。
5:28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。
5:29 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。
5:30 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。
5:31 そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」
5:32 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。
5:33 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。
5:34 そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

今、読んできてくださったところで、主の力を自分で体験する必要性が強調されているのではないかと思います。そして、主の力を実際に体験した人間の例が、ここに挙げられています。


ちょっと三つの点について簡単に考えてみたいと思います。第一番目、彼女の状態は、本当に慰めのないものでした。二番目、彼女は、主の力を体験したのであり、そして、三番目、彼女は主の声を聞いたということです。結果は、病(やまい)が完全に癒されたということです。

まず、第一に、望みがなく、慰めのない彼女の状態について、簡単に考えてみたいと思います。おそらく、それまでの彼女の人生がどのようなものであったか、おおよそ見当がつくことと思います。すなわち、病気の苦しみ、失望と心の奥底にある悩みなのです。しかも、彼女は、十二日間ではなくて、十二年間も患っており、いかなる医者もどうすることもできませんでした。

この十二年間は、彼女にとって、苦しみと悩みに満ちた連続だったでしょう。医者もお金もどうすることもできなかったのです。彼女は、結果として全く失望してしまいました。だんだん悪くなっていく一方でした。だから、彼女は失望しただけではなくて、貧乏になってしまいました。彼女は、持ち物をみんな費やしたとあります。けど、病気は治らなかったのです。

彼女は、全くみすぼらしい状態になり、人々から遠ざかり、全く孤独な人になりました。旧約聖書の律法によると、血の流出のある女は汚れた不浄のものとされ、その女と交わることは禁じられたのです。今日は、別に読まなくてもいいですけど、レビ記の十五章、十五節から二十七節までを見ると、そういうふうに書かれています。「交わってはいけない。」

【参考】レビ
15:25 もし女に、月のさわりの間ではないのに、長い日数にわたって血の漏出がある場合、あるいは月のさわりの間が過ぎても漏出がある場合、その汚れた漏出のある間中、彼女は、月のさわりの間と同じく汚れる。
15:26 彼女がその漏出の間中に寝る床はすべて、月のさわりのときの床のようになる。その女のすわるすべての物は、その月のさわりの間の汚れのように汚れる。
15:27 これらの物にさわる者はだれでも汚れる。その者は衣服を洗い、水を浴びる。その者は夕方まで汚れる

けれど、イエス様は、律法ではなく、ご自身の十字架を目の前に見ておられました。この十字架において、あらゆる悩み、あらゆる苦しみ、病が担われたのであります。

イエス様は、長血を患った女を遠ざけることなく、かえって近づかれ受け入れてくださいました。おそらく、彼女は、その時までに、主の力を、主の奇跡のことを聞いていたでしょう。そのため彼女は、イエス様が自分の病を癒すことができる。完全に癒してくださるという確信を持つようになったに違いない。

主イエス様と出会う幸いなときを心から待ち望んでいたに違いない。彼女はうしろから、イエス様の御衣(みころも)にさわりました。それは、御衣だけにさわれば、直していただけると思ったのです。これこそが本当の信仰なのではないでしょうか。

彼女は、医者などとは違って、イエス様は必ず自分の病を癒すことができるということを信じました。何の疑いもなく、確信したのです。彼女は、ただイエス様にさわりたいという強い願いを持っていました。すなわち、彼女はイエス様にさわれば、主の偉大なる力を体験することができる・・・・ということを確信したのです。その時、イエス様の周囲にはおおぜいの群衆がいたため、イエス様に近づくということは簡単ではなかったのです。大変なことでしたが、彼女の信仰がそれを可能としたのです。

いかなる者も信仰を妨げることができない。

彼女は、イエス様にさわった時、実際、イエス様の力を体験することができるということを知っていたのです。その時、イエス様の周囲には、今、話したように沢山の人々がいましたし、なかなか簡単ではなかったのです。けれど、彼女はイエス様にさわった時、実際、イエス様の力を体験することができたのです。すると、彼女の血の元がすぐに渇いたのです。決して長い時間がかかって少しづつゆっくりと癒されたのではない。一瞬にして、癒されました。

イエス様は、すぐ自分の力が出ていったことに気づかれました。もちろん、イエス様の力が、なくなったのではない。力が働いたことを感じられました。その時、彼女は誰にも気がつかれないように、忍び足でその場を去ろうとしたことでしょう。けれども、そのままで帰ったとしたならば、それは、彼女にとって大きな損失だったに違いない。イエス様は、ただ単に彼女が主の力を体験するだけではなく、本当に出会うことを望んでおられます。

贈り物よりも、それを贈った贈り主の方が、はるかに大切です。そのために、イエス様は、「誰がわたしの着物にさわったのですか」と、言われました。疑いもなく、その時、女は恐れおののいたことでしょう。彼女は、イエス様の力を信じていましたが、今や、イエス様の人格を、イエス様ご自身を、体験的に知る必要がありました。彼女がイエス様に対してとった態度や行動を始めから見てみると、始めと後では著しい対象をなしたことがわかります。

初めは、自分自身に言い聞かせて行った女が、今や、イエス様にすべてありのままを申し上げました。始めは、後ろから御衣(みころも)にさわった女が、今や、イエス様の前にひれ伏しているのです。始めは恐れおののいていた女が、今や、イエス様の愛を全人格的に受け入れるようになりました。

そのとき、イエス様は彼女を叱ったり、厳しく戒めたり、批判したり、咎めたりすることなく、本当に愛をもって、「娘よ」と言ったのです。これは、全く個人的な人格的な愛を表現しています。

いつイエス様は、このようなみことばを彼女に語られたのでしょうか。それは、彼女がイエス様に悩み、苦しみを告白し、すべてありのままを申し上げた後のことでした。私たちも、イエス様から愛に満ちたみことば、自由を得させるみことばを聞きたいと思うならば、正直に、すべてをありのままに申し上げるべきです。ダビデという王様は同じことを体験したのであります。

詩篇
32:3 私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。
32:4 それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。
32:5 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。

イエス様に悩み、苦しみを打ち明け、罪を告白するならば、今日でも、イエス様のみことばを聞くことができます。マルコ伝に戻ります。

マルコ
5:34 そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

似ている箇所は、いっぱいあります。

マタイ
9:2 すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て(・・・・彼ではなく、運んだ人々の信仰を見て・・・・)、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。

本当に聖書の中に、こういう力を与えるみことばは、いっぱいあります。イザヤ書、四十三章の一節もそのような箇所ではないかと思います

イザヤ
43:1 だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」

43:25 わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。

初めは、彼女は、癒し、解放、健康、助けだけを求めました。そして、イエス様にさわることによって、彼女は完全な癒しを体験したのです。もはや、別の医者に見てもらう必要はなくなりました。今や、あらゆる失望、落胆から解放されたのです。新しい力と喜びが、彼女を満たすようになったに違いない。

彼女は、そのようにして、求めたことが満たされたわけですが、イエス様は決して、それで満足なさいませんでした。イエス様は、私たちが考えているよりも、はるかに多くのものを与えようと望んでおられます。イエス様は、ご自身を深く、体験的に知ることを望んでおられます。そのことだけが、本当の幸せを意味するからです。

十二年間も長血を患った女にとって、病が癒されたということは、筆舌しがたい喜び、幸せでした。けども、イエス様はそれ以上のことを望んだのです。肉体の健康のみならず、心の平安、また、安全を、すなわち、心の病の癒しを与えたいのです。そして、心の平安、また、安全はイエス様との出会い、イエス様を体験的に知ることによってのみ、与えられるものです。

私たちは、イエス様にすべてをありのままに申し上げ、罪が赦された時に初めて、心の平安が与えられるのです。

第一サムエル
1:17 エリは答えて言った。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」

私たちの求める願いは何でしょうか。主イエス様も、同じように、「安心して行きなさい。わたしがあなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」しかし、それは、イエス様を体験的に知り、債務が支払われ、罪が赦されたときに、初めて成就されるのです。

集会に来て、ただ聞くだけでなく、イエス様ご自身から、新しくされ、力をいただかなければなりません。私たちは、イエス様の力を自分のものとすることができるし、また、自分のものとしなければ、立ち上がれないのではないでしょうか。

マルコ
5:30 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。

パウロは、ローマ書で、「福音は神の力である」と書き記したのです。我々にとって、福音は、聖書のみことばは、力なのでしょうか。それとも、ただ決まって読む書物にすぎないのでしょうか。

パウロは、愛弟子であるテモテに書いたのです。『わが子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい』と。『弱くなりなさい。弱くなってもいい』・・・・ではなく、『強くなりなさい』と。エペソ人も、主にあって、その偉大な力によって強くなりなさいと、パウロによって、励まされています。これらのことばを、私たちはよく知っていますが、このみことばは、我々のいのちなのでしょうか。

私たちは、イエス様の力についてだけではなくて、イエス様の力をいただく、悪の霊が恐れて逃げるまでになっているのでしょうか。パウロは、ひざまづき、主に訴え、主の力が信者、一人ひとりのものとなることができるようにと祈っています。パウロの心からの、救われた人々のための祈りです。

エペソ
1:15 こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、
1:16 あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。
1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
1:18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
1:20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、
1:21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
1:22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

3:14 こういうわけで、私はひざをかがめて、
3:15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。
3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
3:20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
3:21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。

こういうふうにパウロは、もちろん、主の恵みによって救われた人々のために、彼らの成長のために、祈り続けたのです。

イザヤ【口語訳】
40:31 主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。

また、パウロは、テモテに次のように書いたのです。

第二テモテ
3:5 見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。

信心深い様子をしながら、その実を捨てる者となる。原語では、「力を捨てる者となる」という意味になっています。今日の多くの信じる者は、このみことばに当てはまる状態になっているのではないでしょうか。多くの人々は、習慣的に聖書を読み、祈りをするけど、力を失うであろうと、パウロは言っているのです。信心深いだけでは何もなりません。内に力を宿しているかどうかが問題です。イエス様の力は、我々の内に現れ、また、私たちを通して現されるということを堅く信じているのでしょうか。イエス様は、次のように言われたことがあります。

ヨハネ
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。

私たちは、これを自分のものとしているのでしょうか。あるいは、自分にはできないと思うのでしょうか。「もし子が、あなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由なのです」と、イエス様は約束してくださいました。私たちは、このみことばを信じているのでしょうか。あるいは、これは私の身には起きそうにないことと考えているのでしょうか。イエス様は、弟子たちにすごいことを約束してくださいました。

ルカ
10:19 確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。

私たちは、このみことばを確信し、また、救われていない家族の人々、あるいは、求道中の友だちの上に、すでに勝利が与えられていることを確信し、喜びの賛美をあげているのでしょうか。

イエス様は、長血を患った女が衣にさわったとき、自分の内の力が出て行ったことに気づかれました。私たちも女のように、主の力を受けることを、イエス様は望んでおられます。イエス様は、我々の生活の中に自分の力を現すことができるのでしょうか。聖書のみことば福音は、いかにして我々の力となることができるのでしょうか。

ひとつの答えは、みことばを自分のものにすることです。エレミヤは、「食べる」という表現を使いました。皆、暗記していることばだと思うけど・・・・彼は、いろいろなことで悩みました。苦しみました。誤解されてしまったし、云々と。けども、みことばを食べることによって、元気になりました。

エレミヤ
15:16 私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。・・・・

わかったのではない、理解できたのではない。食べた。結果はすばらしい。

エレミヤ
15:16 ・・・・あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。

「みことばこそ、汝のいのちなり」と、モーセは叫んだのであります。「わたしのことばは、いのちである」と、イエス様は証ししたのです。「わたしは、いのちのパンである。わたしを食べる者は、永遠に生きる。」自分はどうして、こんなに信仰がダメになってしまったのかと疑い、あやしむ者がいます。けれども、その理由は、霊の糧を食べていないからです。

聖書を何回も、できるだけたくさん読まない人は、信じる者としていちばん損なことなのではないでしょうか。我々にとって大切なのは、ただイエス様と、そのみことばです。みことばを読むことが、我々のいちばん好きな仕事になっていなければならない。福音はいかにして、我々に力となることができるか。今、話したように、みことばを食べることによって、自分のものにすることによって。

第二番目の答えは、福音はいかにして、我々に力となることができるかと言いますと、自分の意見を捨てることによってです。

自分の意見を捨てること。私たちの考えや、外面を繕った意見のために、イエス様がその働きを妨げられている場合が、たびたびあるのではないでしょうか。自分がこうだと思い込んで、その意見を離さないでいると、ちょうど牢屋に入っているようなもので、間違いを起こしやすいものです。弟子たちの場合がそうでした。彼らは、いろいろなことをイエス様より、よく知っていたようです。前の箇所に戻ります。

マルコ
5:30 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。
5:31 そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」
5:32 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。

イエス様は、誰かが信仰をもって、自分の衣に手をふれ、自分の体から力が出て行ったのをもちろん感じました。けれど、弟子たちはイエス様に、「そんなことはない」と言いました。自分の意見を言い張ったのです。我々も、ときどき、弟子たちと同じ態度を取っているのではないでしょうか。

もし、イエス様が今、「信じなさい。そうすると、あなたも、あなたの家族も、知り合いの人々も救われる」、また、わたしに来るものを、『その腹からり活ける水、川々となりて流れる』と約束されるとき、私たちは自らの経験で、「そんなことはあり得ない」と、自分の意見を言い張るのでしょうか。または、この約束を素直に信じ、受け入れて、心から感謝するのでしょうか。

イエス様は、自らの意見を言い張った弟子たちには、御顔を向けませんでした。主は、ただ信仰によって、ご自分にふれた女だけを捜し求められたのです。私たちは、主によって、しっかりと握っている自らの考えから、解放していただきたいものなのではないでしょうか。

御霊は、イエス様のみことばを信じ受け入れようとしない人からは、離れてしまいます。イエス様は、ひしめく群衆の中で、女に親しく語りかけられました。他の者は誰もそこにいないかのように、女に話されさました。イエス様が女に話されたように、私たちがどんなにひしめく群衆の中にいても、家にいても、会社にいても、学校にいても、親しく話すことができるお方です。

福音はいかにして、我々の力となることができるのでしょうか。今、話したように、みことばを食べることによって。それから、自分の意見を捨てることによってです。もうひとつ、福音はいかにして、我々に力となることができるかと言いますと、我々の信仰の決断によってです。

もう一度、長血を患った女を見ましょう。あの女は、イエス様のことを聞いたとき、心を動かされ、「イエス様のところへ行きたい、行きたい」と、何ものかによって動かされて、イエス様のところへ行きました。

聖書を研究し、イエス様について知ることは、さほど自らを生かしません。イエス様ご自身から聞いたことばこそ、我々に力を与えます。私たちもイエス様ご自身からみことばを聞くとき、あの女のように信仰の決断をすることができます。

マルコ
5:27 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。
5:28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。

これが本当の信仰です。彼女は思ったことをいたしました。そのとき、同じ瞬間、癒されました。主のことばを聞き、信仰の決断をするなら、昔のように、今日でも、主の力は、我々のいのちに現れます。その他の何ものによっても、主の力を経験することはできません。できたとしても、せいぜい信心深い様子をしながら、その実を、力を捨てるといった状態にしか達することができません。

いかなる環境で、彼女は信仰の決断をしたのでしょうか。

マルコ
5:25 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。
5:26 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。

彼女は、絶望的な状態にありました。十二年間も病で倒れていました。しかも、この病は治らない病です。この病気にかかると、前に話したように、掟によって、他の人々と交わってはいけないことになっていました。

パウロは次のように書いたのです。結局、この女は、ローマ書七章と比べるのにちょうどいい例ではないかなと思います。

ローマ
7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
7:19 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。

7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

もし、私たちが、この状態まで導かれているなら、次の段階として、このマルコ伝、五章二十九節で、女が経験したのと同じ経験をすることができます。

マルコ
5:29 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。

また、パウロと同じく、ローマ書の八章、一節、二節を自分のものとすることができます。

ローマ
8:1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

これは単なる理論ではなく、事実、起こったことです。イエス様の尊い血の力を体験した一人の人の証しです。この力は、我々一人ひとりのためにも、もちろん、備えられています。私たちは、それを必要としています。

女は、イエス様の力を身に受けた後、打ちのめされた者としてではなく、癒された者として、主にひれ伏し、拝みました。女は、いちばん低いところに、自分の身を置きました。御霊の目的は、我々を塵の中にひれ伏すまでに、砕くことなのではないでしょうか。悪魔は人をいつも、上に持ち上げます。おだてます。

マルコ
5:33 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。

低くへりくだれば、へりくだるほど、私たちはありのままの姿になります。高いところについている人、高ぶる人は、自分自身を何も知っていません。したがって、イエス様にありのままを申し上げることもできません。弱い病気の女が、力に満ちた救い主にふれました。そのとたんに、病は癒されました。

信仰を持ってイエス様を見た瞬間に、救いと癒しと元気が与えられたのです。この主は、もちろん、変わらないお方であり、イエス様のところへ行くと必ず、主の力を体験的に知るようになります。

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