2013年6月11日火曜日

共に走りましょう

共に走りましょう
2013年6月11日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

使徒行伝
8:26 ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。)
8:27 そこで、彼は立って出かけた。すると、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、
8:28 いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。
8:29 御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。
8:30 そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」と言った。
8:31 すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」と言った。そして馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。
8:32 彼が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。
8:33 彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」
8:34 宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」
8:35 ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。
8:36 道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」
8:38 そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。
8:39 水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。
8:40 それからピリポはアゾトに現われ、すべての町々を通って福音を宣べ伝え、カイザリヤに行った。

今、一緒に歌った歌(百七番)とは、もちろん、一人の祈りでした。歌というよりも。「恵みの時は過ぎ去り行く、急ぎ伝えよ、みことば」と、最後の六番目にあります。こういうふうに祈りながら歌うことができ、歌いながら祈ることができるのは、本当にありがたいのではないでしょうか。


今、読んでもらいました箇所を見てもわかります。サマリヤで、ピリポという兄弟は、大勢の群衆に福音を宣べ伝えました。イエス様を紹介したのです。そのことによって、大勢の人々が聞く耳を持つようになっただけではなく、導かれ、救われました。生活が根本的に変わりましたし、多くの病人たちも元気になったとあります。けど、それから、めずらしいことが起こりました。ピリポが、イエス様の弟子として主の御手にある器として、大いに用いられ、サマリヤのいたるところで主の働きに関する大きな喜びが支配的となり、この大いなる祝福の働きの最中、ピリポは全く違う命令を受け取りました。ピリポは福音を、この大群衆にではなく、ただ一人の男に運ぶことになりました。三十節ですね。そこでピリポは走って行きました。ゆっくりと歩いたのではない。走って行ったとあります。結局、彼は急ぐようになりました。主の霊に導かれ、主の命令に従ったから、彼は、百六十キロ以上、歩いたんです。

ここから、御代田くらいまでですかね。新幹線はなかったよ。おそらく、自転車でさえもなかったでしょう。百六十キロを歩いたんです。一種の秘密命令を受けたのです。というのは、主がいったい何を意図しておられたか、彼は全く知りませんでした。彼は何が起こるのか解からないし、多くの心を開いた人々から引き離されました。

その人たちから離れることは、人間的に考えれば、もったいないことだったと言えます。しかし、イエス様の考えは、我々人間の思いとは根本的に違うものです。ピリポの経験は、アブラハムの経験のようなものだったのではないでしょうか。アブラハムについて、ヘブル書を見ると次のように書かれています。

ヘブル
11:8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。

しかし、彼はイエス様が何を考えておられるのか、少しずつ解かってきました。彼は、突然、目の前に、エチオピア、アフリカからの馬車を見ました。その時、御霊の命令が来ました。「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい」と。

そこで、彼は命令に従いました。「彼は走って行った」と、聖書は言っています。百六十キロの後で一種のラスト・スパートが行なわれました。急いでいました。どうして?ある人は、次のように言ったんです。「ピリポが急がないと、エチオピア人はイザヤ書五十三章を読み終わって、五十四章に移ってしまったでしょう。ピリポがゆっくり歩いていたならば、宦官はすでにイザヤ書の五十四章を読んでいたことでしょう。そして、福音そのものはイザヤ書、五十三章において、五十四章におけるよりも、より良く、また、詳しく記されています。」ピリポは走りました。我々も走るべきです。多くの魂を主に導きたいと思う者は、誰でも走るべきです。

多くの孤児たちのために働いたことで当時、世界的に記されている、フリードリヒ・フォン・ボーデルシュヴィンクという男がいました。今朝、また、ちょっと調べたんです。いつ生きていたかと言いますと、千八百三十一年に生まれて、千九百十年に召されました。彼は、驚くべき祝福された男でした。何千人の孤児の面倒を見なくてはならなかったんです。財産がない、祈りしかなかった。けど、一回も恥ずかしくなった事もないし、祈ると主は必ず働いてくださると、何十年間、経験しました。彼は次のように叫んだことがあるんですって。「ぐずぐずしないで!さもないと、周りにいる人々は死んでしまう。」

次の質問についてちょっと考えたいと思います。すなわち、どうしてピリポはそんなに急いだのでしょうか。言うまでもなく、単なる金メダルを得るためではなくて、違う目的を持っていました。初めの答えは、イエス様が何かをするように、ピリポに命令をお与えになりましたから、彼は走ったのです。ピリポは主の命令を果たす覚悟でした。イエス様が何かをするように、ピリポに命令をお与えになりましたので、彼は走ったのです。ピリポは主の命令を果たす覚悟でした。

使徒行伝
8:26 ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」
8:27 そこで、彼は立って出かけた。

二十九節、三十節でも、私たちは同じように従順に従う彼の覚悟を見ることができます。

使徒行伝
8:29 御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。
8:30 そこでピリポが走って行った。

ぐずぐずためらったり、尋ねたりすることをしないで、ピリポは従いました。すぐ、ただちに従うことが、このピリポの特徴でした。彼は、イエス様によって用いられることができた。どうして?なぜなら、彼は主に大いに耳を傾け、すぐに従ったからです。イエス様が、サマリヤにおける祝福された仕事から離れるようにと、ピリポに命令したとき、彼はどうなるのかわからなかったけど、従いました。そして今や、荒野の中で同じことが起こったんです。すなわち、ピリポは従いました。ピリポは、詩篇の作者と共に次のように言うことができたのではないでしょうか。

詩篇
119:32 私はあなたの仰せの道を走ります。あなたが、私の心を広くしてくださるからです。

ピリポの内心の態度は、次のようなものでした。すなわち、「私は、主のために生き、無条件に主に従うつもりです」と。ピリポのような人は、今日も必要なのではないでしょうか。イエス様が、お用いになることのできる人たちが必要です。

今日、必要とされているのは、主の側に立つ兄弟姉妹です。必要なのは、多くを尋ねることなく、それに従う兄弟姉妹です。必要なのは、主の御声を聞いて、主によって導いてもらいたいと願う人々です。必要なのは、必要とされているのは、次のような確信を持っている人々です。すなわち、イエス様は、ご自分のなさるすべてのことをご存知でいらっしゃるという確信。そして、イエス様は、ご自身を許したもう、すべてのことをもご存知であるという確信なのではないでしょうか。

イエス様は、ご自分の意図し、追求なさるすべてのことをご存知でいらっしゃるという確信、これです。イエス様は、人間を用いたいと願っておられます。それが、多くの人に福音を宣べ伝えることであれ、一人の人と語ることであれ、日曜学校で教えることであれ、一人の病人を見舞うことであれ、イエス様によって用いられる、もっとも大切な前提は、喜んで主にだけ従うという心がまえです。

ピリポは喜んで、主の御声に聞き従う覚悟でした。ですから、彼は走って行ったのです。彼は、主に従いたいから、従いたかったから、急いだのです。

二番目、どうして彼は急いだかと言いますと、福音が委ねられたから、彼は走りました。ピリポは、福音を宣べ伝える覚悟でした。この出来事から二十年が経って、ピリポは伝道者として描かれるようになりました。使徒行伝の二十一章を見ると、次のように書かれています。

使徒行伝
21:8 翌日そこを立って、カイザリヤに着き、あの七人のひとりである伝道者ピリポの家にはいって、そこに滞在した。
21:9 この人には、預言する四人の未婚の娘がいた。

伝道者とは、他の人にイエス様を宣べ伝えるように召されている者です。ピリポは、私に福音が宣べ伝えられただけではなく、私はそれを通して信仰に導かれました。しかし、私が救われることだけが大切なのではない。福音をさらに宣べ伝えるために、私に福音が宣べ伝えられたということを、彼は確信しました。

実際このことは、ピリポにおいては、単なる頭の知識ではありませんでした。彼は、それを実際に行なったんです。ピリポは、イエス様についての喜びの訪れを、さらに宣べ伝えました。しかし、私たちは、私たちもまた、ピリポと全く同じように、救い主イエス様についての知らせを、さらに宣べ伝えるように召されているということを忘れてはなりません。

私たちは、救い、逃れ道、望みが存在するということを、悩んでいる、困っている、失われている人々に告げ知らせるように召されています。テサロニケにいる兄弟姉妹に、パウロは書いたのです。

第一テサロニケ
2:4 私たちは福音をゆだねられた者です

生けるまことの神は、我々にすばらしい賜物、すなわち、イエス様を委ねてくださいました。福音とは、ひとつの教えではなく、イエス様ご自身です。パウロはまた、ローマにいる兄弟姉妹に、次のように書いたのです。よく示される箇所です。

ローマ
8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

私たちには、ひとつの教えというよりは、むしろ、一人の人格者、すなわち、主イエス様が委ねられています。しかし、我々に次のことが明言されています。他の人たちもまた、主の豊かさにあずかることができるように、一生懸命になりなさい。他の人たちが、イエス様の中に本当の満足を見いだすためにすべてのことを行ないなさい。また、他の人たちが、罪の奴隷から、また、自我の束縛から解放されるように励みなさいと。

マルコ
16:15 それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」

意味は、イエス様を紹介しなさい。福音とは、今、話したように、決して一つの教えではない。イエス様です。イエス様を宣べ伝えなさい。イエス様を紹介しなさい。イエス様こそ、あらゆる問題に対する解決です。私たちは、福音を宣べ伝えているのでしょうか。あるいは、自分が救われていることに満足しているのでしょうか。罪から救ってくださるイエス様の福音を宣べ伝えない者は災いです。

ピリポは非常に急いでいました。どうして?ピリポは、喜びの訪れを宣べ伝えることを急いだんです。彼は、それを宣べ伝えずに、自分だけのものとすることができませんでしたし、また、そうしたいとは思わなかったのです。いちばん大切なことを、彼は大切にしたのではないでしょうか。どうして、そのように急いだのでしょうか。

三番目の答えは、緊急を要すること、すなわち、生死にかかわることが問題となってきたので、彼は走りました。イエス様がピリポを、女王の財産全部を管理していた宦官と、共に出会わせたことは比類なきことです。しかし、一方の者が他方の者にとって、助けとなりえた瞬間に、二人を結びつけられたのです。ピリポが即座に従わなかったならば、この出会いは実現しなかったでしょう。イエス様は、心の備えのできた財産管理者が、イエス様の福音を知らされるようになることをお望みになったのです。そして、ピリポは同じ思いに満たされました。ですから、彼は、急いでいたのです。

私たちは、次のことを忘れてはなりません。すなわち、主の福音を宣べ伝えることほど、緊急を要するものは何ひとつないということです。失われた魂を、イエス様と出会うようにさせるために、いかなる時間も失われることは許されません。

イエス様を持っていない多くの人々、したがって救いもなく、平安もなく、望みもなく、罪の許しもない多くの人々は、私たちからあらゆる安けさを奪い取ってしまい、動揺させるはずです。イエス様の態度とは、どういう態度だったでしょうか。イエス様の態度は、我々の態度でもあるべきです。

ヨハネ
9:4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。

そして、また、パウロの証しは我々の証しでもあるべきです。

第一コリント
9:16 というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。

今の時代は、恵みの時と呼ばれています。すなわち、誰に対しても、成就された救いの知らせが提供されなければなりません。しかし、この恵みの時は、大変な勢いで終末に向かっています。やがて、最後の審判の時が始まります。ですから、急がなければなりません。

パウロの心からの叫びは、小羊なるイエス様のために、多くの魂を獲得することでした。血潮によって買い取られた魂は、イエス様と接触すべきです。パウロは、エペソの長老たちに、次のような告白を書き送りました。

使徒行伝
20:20 益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え、
20:21 ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。

パウロと同じように、ピリポも、また、喜びの訪れを宣べ伝えること、彼の責任を果たすことを急ぎました。彼は、黙っていることができなかったのです。自分が計画したイエス様の恵みと愛について、宣べ伝えざるを得なかったのです。ピリポは急ぎました。というのは、不滅の魂の不滅の人間の魂が永遠に救われるか、滅びるかという大きな問題がかかっていたからです。

私は、その人を通して多くの人々が主イエス様に導かれた、一人の伝道者のことについて、読んだことがあります。ある晩、彼は何千人もの人たちに向かって話をしました。そして、多くの人々が、その晩にイエス様を知りたい、イエス様に従いたいと決心をしました。その晩、遅く、その伝道者は、タクシーで帰宅しましたが、家に着く前に、タクシーの運転手は、イエス様を信じる信仰に導かれました。この伝道者のおもな特徴は、彼が使命の緊急性を確信し、イエス様について宣べ伝える機会を、何一つ過ぎ去らせなかったということです。

ピリポは急いだのです。どうして?

四番目の答えは、救われなければならない魂を見たので、彼は走りました。そして、ピリポは、この魂を主に導きたいと、心から願ったのであります。イエス様は、財産管理者が救われるという恵みを与えてくださいました。彼は、いかに導かれたのでしょうか。非常に急いで、よく考え、勇気を出して、断固たる態度で行動しました。

なぜピリポは、求道者の財産管理者をイエス様の御許に導くことができたのでしょうか。なぜなら、彼自身、イエス様を体験したからです。なぜなら、彼は、主のみことばが救うことができることを確信したからです。なぜなら、ピリポは、ただ単に宦官が求めるより、イエス様を必要としているということを知っていただけではなく、イエス様ご自身が宦官を探し求めておられる方であるということも知っていたからです。もちろん、宦官に近づくことは、簡単なことではありませんでした。そのためには勇気が必要だったのです。というのは、宦官はただ一人で車にいるということは、絶対になかったからです。そのような有名人は、疑いもなく、大勢の部下を連れていたはずです。急いでいるピリポは、あらゆる人間の魂のためにイエス様が死んでくださったのですから、どうしても救われなければならないということをよく知っていました。

多くの人たちが、私たちを通して、イエス様の御許に導かれ、それを通して、贖いを見出だすということは、私たちの関心でもあるのでしょうか。電話がかかってくると、私たちはさまざまな仕方で対応できます。「何ということだ。また電話か!」人は絶えず中断され、仕事を続けることができない。しかし、また、次のような対応の仕方もあります。「おそらく私が、イエス様について語ることのできる魂が緊急を要しているのでしょうか」と。

ピリポが、荒野で車の後を走っていた時、次のようなこともできたでしょう。「この忌々しい車、こんなにひどい埃を巻き上げて、埃がひどくて、まともに見られない。目や鼻や口に埃が入ってひどいものだ。願わくば早く、埃が消えてなくなりますように。」

ピリポは、口や目や耳や鼻に入ってくる埃には無頓着でした。馬車の中にいるこの人は、重要人物であるに違いないと、彼は、独り言で言ったでしょう。「私は、どうしても彼に、この地上に来られた救い主のことについて宣べ伝えなければなりません。」私たちが出会う人、そして、私たちが知っている人々は、誰でもイエス様が、ご自身の血潮を自分のいのちを捧げてくださる、それゆえに、救われなければならない魂なのです。

そして、生けるまことの神は、この御奉仕のために、私たち一人ひとりを用いたいと望んでおられます。福音は、あらゆる人間のもっとも深い苦悩を沈めてくださる、唯一の喜びの訪れです。なぜピリポは急いだのでしょうか。なぜなら、キリストの愛が迫ったからです。

第二コリント
5:14 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。

そして、この努力は、いかに報われたのでしょうか。ピリポは、ただ一つの魂のために、一生懸命、努力しました。一つの魂、どれでも、主にとっては全世界の富よりも価値があるのです。主なる神は、いかなる魂に対しても、決して、無関心ではありません。

エチオピアの財務長官は、見知らぬピリポに、車の中に座るように頼みました。それは、彼の霊的な飢え渇き、満たされない状態、救いに対する熱望の表れでした。財務長官がちょうど読んでいた聖書の箇所は、イザヤ書の五十三章でした。私たちは、この箇所が、預言された救い主が、いかにして身代わりの苦しみを通して、ご自分を無になさるか、また、救いの代価としてご自身のいのちを捨ててくださるかについて、もっともよく書き記されているところであるということを、私たちは知っております。宝物です。

使徒行伝
8:32 彼が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。
8:33 彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」
8:34 宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。(・・・・どうか教えてください。・・・・)自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」
8:35 ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。

ピリポは、彼にユダヤ教について語ったり、初代教会について語ったり、信者について語ったりすることには、何の関心も持っていなかったのです。ピリポは、財務長官にイエスの福音を宣べ伝えたのです。すなわち、福音として、イエス様ご自身のことを宣べ伝えました。大切なのは、イエス様であり、しかも、ただイエス様お一人であるということを、決して忘れてはなりません。

そして、本当にイエス様だけを大切にする人は、主によって用いられます。なぜならば、その人はいかなる自己名誉をも追求しないからです。確かにピリポは、財務長官を主イエスの御許に導いた後で、主を証しする大切さを指摘したはずです。なぜなら、自分が救われることだけが大切なのではなく、主があらゆる信者を、ご自分の代わりに、人として用いたいと願っておられるからです。イエス様の中に救いを見いだした人は、このことを水のバプテスマによって、証しする特権を持っています。

財務長官は、途中で水がある所を見ると、「洗礼を受けるのに、何かさしつかえがあるのか」と聞いたのです。

使徒行伝
8:36 道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」

8:38 そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。
8:39 水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。

二人は、水の中へ降りていったのですから、彼はもちろん、全身が水の中に潜る洗礼であったことがわかります。疑いもなくピリポは、従者たち全員に対して、彼らが今、自分の目で見ることが何であるか、財務長官が洗礼を受けるのか、それは、どのような理由から成されるのかを必ず説明したはずです。このようにして、すべての人は、福音としてイエス様の成し遂げられた救いの御業を聞きました。

私たちは、さらに財務長官が喜んで進んで行ったことを読むことができます。私たちは、彼がなぜ、喜ぶことができたか、もちろん、知っています。すなわち、彼は、救い主に出会ったからです。彼は、罪の債務が消し去られたことを知りました。また、彼は、洗礼によって、自分が救われていることを、公に証ししたのです。なぜ、こういうことが起こったのでしょうかね。なぜならば、ピリポが急いで、彼を主の御許に導いたからです。

最後に五番目。どうしてピリポが急いだか、五番目の答えは、主のご計画が実現されるために、あらゆる救われた魂が、ひとつの鎖の環と同じような働きをすることがわかったので、ピリポは走りました。ここの箇所では、ひとつの魂がいかにして、主の御許に来て救われたかということだけが、我々に報告されています。けれども、このただ一人の人は重要人物でした。現代であれば、そのようなことが起これば、早速、『財務長官がエルサレムからのキリスト者になった!』という見出しで、新聞で、ラジオで、テレビで報道されることでしょう。

事実、この人を通して、初めて福音がアフリカに伝えられたのです。ここでもまた、私たちは、イエス様にとっては、この一人の人の救いだけではなく、彼によって影響され、福音を聞くであろう多くの人たちが大切であったということを知ることができます。

財務長官は、鎖の中で、ひとつの大切な環だったのです。彼は、アフリカが主イエスの福音を聞くようになる、救い主の器となる特権が与えられました。私たちは、主に忠実でなければなりません。たいへんな緊急性を持って、福音が宣べ伝えられなければなりません。私たちは、私たちを通して救われる人々を、イエス様が後でいかにお用いになるかを知ることができません。日曜学校の青年、私たちが電車の中で会った人、私たちも何年も会っていない同級生、その人たちが救われて、聖霊に満たされるならば、その人たちを主がどのようにお用いになるか、祝福なさるか、誰が知っているでしょうか。

注目に値することは、最後までピリポが、相変わらず急いでいるということです。急いでいるだけではなく、彼は急に見えなくなってしまいました。

使徒行伝
8:39 水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。

ピリポは、いつも急いで福音を宣べ伝えました。彼は、確かに急いでいる伝道者でした。彼は、主が用いることのできるようになった男でした。

使徒行伝の六章三節によると、ピリポは御霊に満ちた人でした。すなわち、ピリポは、御霊に満たされていたのです。御霊に満たされている人は、急いで福音を宣べ伝えざるを得ない。御霊に満たされている人にとって大切なのは、イエス様だけであり、イエス様お一人だけです。

それですから、御霊はピリポをも連れ去られました。御霊に満たされた人は、視界から消えて見えなくなりたい、目立ちたくないという切なる願いを持っています。ピリポは、すべての名誉と誉れが、ただイエス様お一人だけに与えられることを心から願ったのです。イエス様だけが盛んになり、私は衰えなければならない・・・・と心から言うことができたピリポは、本当に幸いでした。

最後に、一つの歌を紹介いたします。作った男は、スイスのケルンの神学校の校長先生でした。エレミヤ書の八章二十節のことばが題名です。「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。それなのに、私たちは救われない。」このことばを考えながら、次の歌を作りました。

『恵みの時は、終わりに近づいている。
広い世界に、今や静かに終わりの日が近づいている。遠い砂漠の底から、不安の叫びが聞こえてくる。
私たちの真っ暗な夜には、決して光が差し込まない。

私たちを照らす神の恵みなくしては、
私たちは苦しみと闇の中、
暗い道を行かねばならない。永遠に、永遠に。
あなた方は歌い、喜びに満ちて、
自分は神の子であると言う。』

私たちは、死の生贄であり、
恐怖に満ち、ひどい苦しみに満ちている。
あなた方は、なぜ立ち止まっていて、
夜の始まる今、私たちを救おうとしないのか。
あなた方は、なぜ主なる神が、その一人子を遣わして、
自分たちを愛していることを教えないのか。

あなた方のおかげで、自分たちはそれを知らずに、
希望なく滅び行くのだ。
自分たちは、死ぬために生まれたのであり、
死は永遠から永遠に至る我々の運命なのだろうか。

私たちに星は輝かない。
約束の光も照らされない。
遠くの方に裁きの雷が聞こえる。
なぜ、なぜあなた方は急がないのか。
神は、「行って、全世界に十字架の勝利を宣べ伝えなさいよ」と言っているのに。
あなたたちは、私たちのあわれな心のために、
喜ばしき知らせを持っている。
傷を癒す薬を、傷を永遠に癒す薬を持っているのに、
なぜそんなに長く沈黙しているのですか。

あなた方の信仰の岩に至る道を、
示すことばを私たちに聞かせてください。
私たちの涙をぬぐってください。
私たちが死に着くのも、あなた方のせいです。
私たちの罪は悩ませ、夜は近づいています。

私たちは、私たちの魂を、
サタンの力に与えなければならない。永遠に、永遠に。
遠くの国々から、幾百万という人が、
「収穫の主よ。聞きたまえ。」と呼んでいる。
私たち信者に、新しい恵みを与えてください。

私たちの罪を赦してください。
待ち焦がれている魂の所へ、
十字架のことばを運ぶ者と成さしめたまえ。
彼らが、永遠に滅びないように。』

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