2013年6月4日火曜日

主よ教えてください

主よ教えてください
2013年6月4日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

エペソ
3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
3:20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
3:21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。

まず、ある聖書の日記を紹介いたします。あなたがたの聖書ではないと思いますけど・・・・聖書が話しています。


『一月十五日、静かな一週間を過ごした。新年の数日間の晩、私の持ち主は、私を規則正しく読んだ。しかし、今は私を忘れているらしい。
二月二日、今日、整頓された。他の物といっしょに埃を払われた。そして、元の場所に戻された。
二月四日、持ち主が、朝ごはんが終わってから少しの間、用いられた。持ち主は、二、三箇所を読んだ。持ち主といっしょに教会へ行った。
三月七日、整頓され、埃を払われ、元の場所に置かれた。教会に行ってから、玄関に置きっぱなしになっていたから。
四月二日、今日は忙しかった。持ち主は司会をやったので、私を読まなければならなかったのである。ちゃんとその場所にあるのに、その聖句を長いあいだ、持ち主は見つけることができなかった。
五月五日、午後いっぱい、おばあちゃんの膝の上にいた。おばあちゃんが、訪ねてきたのだ。コロサイ書、二章五節から七節を読んで、おばあちゃんは涙を流した。
五月九日、今、毎日、午後、おばあちゃんの膝の上にいる。私はそこを居心地良く感じる。おばあちゃんは、しばらく読み、また、私に語りかけます。
五月十日、おばあちゃんは出かけた。私は元の場所に戻された。お別れの時、接吻してもらった。
六月三日、今日、誰かが私のページのあいだに、クローバーの葉を二、三枚はさんだ。
七月一日、着物や他の物といっしょにトランクに詰められた。休みにどこかに出かけるらしい。
七月七日、まだ、トランクの中にいる。
七月十日、他の物はほとんどみな、取り出されたのに、私はまだトランクの中だ。
七月十四日、再び家に帰った。元の場所にいる。かなり長い旅行だった。しかし、私は読まれなかったのに、なぜいっしょに行かなければならなかったか、理解に苦しむ。
八月八日、ひどく息苦しく暑い。二冊の雑誌と小説が一冊、それに古い帽子が私の上にのっかっている。取り除けたらうれしいのだが。
八月九日、整頓され、埃を払われ、きちんと置かれた。
八月十日、今日、花子が私を少しのあいだ使った。花子は、お兄さんを亡くした友だちに手紙を書いた。それで適当な聖句を用いたのだ。
八月三十日、また埃が払われた。』

我々の聖書は、ちょっと違うものなのではないでしょうか。人間に与えられている最高の宝物は、本当に聖書です。霊的ないのちにも、食べ物が必要です。この霊的な食べ物を、私たちはどこで見つけるのでしょうか。聖書、すなわち、主なる神のみことばの中に、見つけることができます。聖書は、イエス様を啓示します。

そして、イエス様こそが、我々の渇ける魂にとって、いのちの糧です。みことばを読んで、深く考えて、心に留めましょう。イエス様を知る者として経験する、難しい問題のおそらく九十五パーセントは、聖書を読まないからなのではないでしょうか。

聖書を読まない怠慢という罪を主に告白しましょう。もし、私たちが飢え渇きをもって、聖書に接しなければ、また、みことばを深く味わわなければ、霊的に一歩も前進しないからといって不思議はありません。みことばを読まない罪を言いあらわすなら、主は、我々にみことばに対する飢え渇きを与えてくださり、また、主は、新しい御声をもって、私たちに語りかけてくださいます。

申命記
17:19 自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。

ヨシュア記を見ても、同じようなことばが書き記されています。

ヨシュア
1:8 この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。

ダビデ、御心にかなう人と呼ばれたダビデは告白しました。いちばん長い詩篇ですから、読んだらみな、途中で寝るでしょうね。二、三節だけ読みます。

詩篇
119:72 あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。

119:97 どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています。

119:140 あなたのみことばは、よく練られていて、あなたのしもべは、それを愛しています。

今まで、御心を知る道について考えました。すなわち、どうしたら、主の御心を知ることができるのかという、大切なことについて考えました。結論とは何であるかと言いますと、主の御心は、ただ主の霊によってのみ、御霊の働きによってのみ、知ることができるということです。

主の御心を知らんとする者は、御霊に導かれる生活を知っていなければならない。ですから、その前にどうしたら御霊に導かれる生活を送ることができるかと知るべきです。そのために必要なのは、前に言いましたように二つです。

ひとつは、みことばを聞く備えです。昔のサムエルという子供だったか、青年だったかわからないけど、祈ったんです。「主よ、語ってください。しもべは聞いております。」我々も毎日、祈るべき言葉なのではないでしょうか。みことばを聞く備え。

それから、みことばに従う備えです。ダビデは、どうして、不完全であるのに、御心にかなう人と呼ばれたのでしょうか。答えは、詩篇の百四十三篇だと思います。

詩篇
143:10 あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように。

「教えて、導いてください。」この心がまえがあれば、不安から、心配から、恐れから解放されます。このダビデの祈りは、我々の祈りとなっているのでしょうか。私たちも、主に喜ばれる者になりたいものです。けれども、主の御心にかなう者になるには、どうしてもダビデのように、「教えてください。導いてください」と祈り続けるべきです。

『あなたのいつくしみ深い霊が、すなわち、御霊が、平らな地に私を導いてくださるように』と、心から今日、新たに主の御前に祈りを捧げたいものなのではないでしょうか。

ダビデの主に対する態度は、「主よ、教えてください。導いてください」という態度でした。このように主の御前に、教えを請うた人々は、計り知れない主の祝福にあずかるようになるに違いない。天国に届く祈りをしたいならば、結局、御霊の導きが必要です。大切なのは祈りよりも、祈りの前に、主の御心を確信することなのではないでしょうか。聖霊はどうして与えられているかと言いますと、言うまでもなく、祈りの霊として与えられています。

よく知られている箇所です。ローマ書、八章二十六節、二十七節、パウロも自分のことを含めて言ったんです。「私たちだって弱いよ。私たちは解からない者です」と正直に書いたのです。

ローマ
8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます
8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

御霊は、我々の祈りを導くために与えられています。ですから、本当の祈りは、我々を通して祈られる御霊の祈りです。大切なのは、御霊が我々の霊にお語りになり、私たちが主の御心を知って、それを確信して、立つことです。

我々を導くことのできるお方は、聖霊だけであり、また、御霊と聖書のみことばは、いつも逆らうことなく、そのあいだに一致があります。すなわち、御霊は、みことばを我々のために用いて、語りかけてくださいます。私たちが、何か問題にぶつかっているとき、御霊は、聖書のみことばを取り上げて、それを生かし、我々の心に投げ込んでくださいます。内住の御霊が、聖書のみことばを生かして、語りかけてくださいます。

導きは、内に住みたもう御霊によってだけ成されることです。そして、この内住の主の導きは、特定な主の信じる者だけではなくて、すべての信じる者に与えられている特権です。御霊の導きを求める場合、何を考えるべきかと言いますと、まず、すべての物事は主の栄光のためである。ああすれば、こうすれば主は喜ぶのでしょうか。祝福することができるのでしょうか・・・・と。

第一コリント
10:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。

これも、もちろん、提案ではなく、命令です。イエス様は、全く御霊に導かれたお方でした。イエス様が間断なく御霊に導かれた秘密は、詩篇に書かれています。

詩篇
40:8 わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。

この主イエス様の心の持ち方こそ、常に御霊に導かれる秘訣、そのものです。ですからこそ、イエス様は証ししました。

ヨハネ
8:29 わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです。

イエス様は、絶えず、「教えてください。導いてください。委ねます。わたしの思いではなく、御心だけが成るように」と、祈り続けたのです。我々の心の態度が、主の御栄(みさかえ)を第一にしているならば、主は豊かに導いてくださいます。今、話したように、御霊の導きを求める場合、すべての物事は、主の栄光のためであるということを知らなければならない。

それから、主の導きは、いつもみことばにのっとっています。これも、非常に大切な真理です。御霊の導きは、いつも必ず、みことばである聖書に基づいています。したがって、聖書の知識は、我々にとって、本当に大切なことです。言うまでもなく、救われるためではなく、成長のため、導かれるため、用いられるためです。主のみことばによって、ご自身を啓示なさいます。

イエス様は、パリサイ人に、「あなた方は、聖書の中を調べているが、みことばを食べることをせず、いのちを受けようとしない」と、言われました。このことばによると、聖書を読むことと、いのちを得ることはひとつのことであり、決して、二つのものではありません。

どうしたら御霊の導きがわかるのでしょうか。今、話したように、御霊の導きを求めるすべての物事は、主の栄光のためにある・・・・ということを知らなければならない。それから、主の導きは、いつも、みことばにのっとっています。いつも、みことばに基づいています。

それから、主の導きは、もちろん、我々の良心と理性も関係があることを知っておく必要があります。私たちの持っている良心は、主によって与えられているものです。もし、ある問題について、良心が、「これは良くない」と判断したら御霊の導きを待っている必要があります。行くべき道が解からず、どちらか迷っているような場合、あるひとつの道に行くのに平安がなかったら、それに導きを求める必要はない。

もうひとつの大切なことは、御霊の導きと主の目的は、決して離すことのできない関係にあるということを考えるべきです。イスラエルの場合を考えると、それがよくわかる。主なる神は、イスラエルの民族を、もちろん、導いたのです。毎日、毎日、四十年間、主は、この民をエジプトの国から導いて、解放してくださっただけではなく、目的地のカナンをすでに、その時のために教えられました。そして、御霊は、イスラエルの民を主のめざす地、カナンに導かれたのです。

カナンは、イエス様の富と満たしを我々に教えてくれます。私たちも、御霊に導かれてこの目的地に歩んで行くよう、備えられています。もし、主のご目的がわかり、その目的が我々の生涯の目標となるならば、私たちの身辺に起こるすべての物事は、その目的を得るための益となって働くことがわかります。ローマ書、八章をもう一回、見てみます。

ローマ
8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべて(・・・・アンダー・ラインすべきことばですね・・・・)のことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

イエス様の信じる者に対するご計画は、信者一人ひとりが、御子のかたちに変えられて行くことです。これは実に驚くべき、すばらしい計画です。主の御旨(みむね)は、コロサイ書にまとめて現されています。

コロサイ
1:19 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ(た。)

3:11 そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。

さらに進んで大切なことは、御霊の導きは、教会、すなわち、イエス様に属する信じる者の群れと深い関係があるということです。教会により、主なる目的が現され、達成されて行くからです。

旧約時代のイスラエルの民に対して、主の導きは幕屋に現されました。エジプトを出てから、モーセは四十日かかって、主より幕屋の構造を詳しく教えられ、御霊に満ちた人々の手によって、主の指図通りに幕屋が出来上がりました。この時、主は目に見える幕屋の裏に、霊的な意味を持たせ、それを私たちに教えようとなさったのです。

この目に見える幕屋になぞらえられる霊的な幕屋とは、もちろん、イエス様とご自分のからだである教会のことです。イスラエルの民の場合、幕屋と主の導きは、深い関係がありました。御霊を象徴する雲の柱、火の柱が上にあがると民は出発し、雲の柱が下るとそこに留まり、導きのままにイスラエルの民は歩んだのです。幕屋の上、雲の柱、火の柱がおりたったように、主イエス様のからだなる教会の上に御霊がお下りになりました。私たちが、主の御心にかなった教会であるならば、主は我々を思いのままに導くことができるのです。

もし、雲の柱によって導かれたあの幕屋がなかったなら、イスラエルの民は、約束のカナンの地に入ることができなかったでしょう。これと同じように、私たちも、教会無しに、主の満たしに至ることができません。他の兄弟姉妹と共に生活しないで、霊の満たしに達することはできません。私たちに対して、主の個人的な導きは多かれ少なかれ、いつも、主の目的とからだなる教会の関係があります。もし、主の目的である、御子の内に満ち満ちた徳を宿らせるという事実に、心の目が開かれたら、この目的を達成するために、教会が道具として存在しているのだということを知ることができるのです。

ちょっと難しくなったかもしれないけど、わかりやすく言っている言葉をいくつか読んでみます。

コロサイ
1:9 こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。

2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。

3:11 そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。

もう一箇所、エペソ書。エペソ書の内容とは、主にとって、教会は何を意味しているのか、主はからだなる教会をいかに大切にするか、用いようと望むのか・・・・についての手紙です。

エペソ
1:22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

このような箇所を見ると、主の御心とは何であるか、わかります。いかなる御霊の導きも、この主の目的に深いつながりがあります。今日(こんにち)の主の関心は、全部、この目的の実現にかかっているのであり、我々の病や問題が、たちどころに解決されることよりも、その環境を通して、主の御心が我々の内に成されて行くことを願っておられます。

もう一回、ローマ書、八章を見てみましょうか。

ローマ
8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

最後に、もうひとつの大切なことを、ちょっと考えたいと思います。すなわち、心の静けさを持つことの大切さ。

何年か前に、いわゆるリーダース・ダイジェストの中に、挿絵が出ていました。どういう絵かと言いますと、ライオンが檻の中であばれるように、一人の主を信じる者が、自分の部屋の中を行ったり来たり、忙しそうにしている絵で、そのそばに説明が書いてありました。誰かが、その信じる者に、「どうしてそんなに忙しくしているの?」と尋ねますと、「私は、どうしても解決しなければならない問題があるので、一生懸命だ。しかし、神は、暇で、あまりにのんびりしてうて、急がないらしい」と言ったと、書いてありました。

もし、主の導きがはっきりわからなかったら、主の前に静まり、「我が目を留めて、汝を諭さん」と言われる主のことばを信じて、待ち望むことです。主から受けて、主に全部、まかせることです。悪魔は、いつも急かせます。主は、いつも余裕を持っておられます。主の前に、すべてありのまま、問題を広げてお見せし、静かに主の御声を待ち望むことが大切です。問題があるとき、私たちが問題だけを考えて、いろいろと思い煩うとき、主の御手が働くゆとりがない。私たちが、問題を全部、主におゆだねし、解決を求める時、主は豊かにお応えになるのです。共に御霊は、我々の霊に確信を与え、「これがあなたの行くべき道である」と教えてくださるはずです。

主の御前に静まることは大切です。そして、主の御前に静まることは、それが、どんな人ごみの中であっても、混んでいる電車の中であってもできることです。静まることは、自分の持っている問題を、全部、主に明け渡すために必要です。その時、大切なのは、私たちが幼子のようになることです。素直に主にゆだね、主に答えを強制しないということです。私たちは、主のしもべとして、主の御声を聞くことができる特権を持っているのです。いちばん低い立場である人のしもべでさえ、主人の言いつけを聞く権利を持っていることを考えれば、当然のことです。待ち望みのときにも、もちろん、与えられた勤めを、忠実に全うする必要があります。

また、主は、いままでの導きに従順に従わなければ、さらにまさる導きに我々を導くことができません。

主の御心を知る方法は、いちがいにこれである・・・・ということはできません。ある時は、周囲に、目に見える環境によって、導かれます。急に環境が変わり、行くべき道を見失ってしまい、思いがけないところに道が開かれる場合があります。パウロがそうだったんです。彼は、小アジアに伝道を禁じられ、今度は、ヨーロッパに遣わされました。

使徒行伝
16:6 それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。
16:7 こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。
16:8 それでムシヤを通って、トロアスに下った。
16:9 ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願するのであった。
16:10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤに出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。

ある時には、友の便りにより、また、ある時には、本により、御霊が働いて、私たちを導いてくださる場合もあるでしょう。また、ある場合には、ひとつのみことばを御霊が取り上げ、これこそ主の御栄を現す道であり、この道を行くべきだと示してくださる場合もあるでしょう。いかなる方法にしろ、御霊は我々に確信を与えてくださいます。そのとき、主ご自身の平安が我々の魂を支配し、不安と恐れはすっかり消えてなくなります。聖書の中で、「キリストの平和」について語られています。

コロサイ
3:15 キリストの平和(・・・・結局、主イエス様ご自身の平和・・・・)が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。

けども、ここでただひとつ言えることは、導きの方法が何であれ、御霊だけが我々を導くことがおできになるのです。もし、主の御心を知ることができたら、私たちは、確信を持って、その御心を成すことができます。

私たちはこれから、勝利を得るために努める必要はありません。もうすでに、主にあって勝利を得ている者ですから、勝利を伝えていきたいものです。アブラハムは、そのようにしたのです。非常によくまとめられている箇所は、ローマ書の四章でしょう。このアブラハムの取った態度について、すばらしいことが書いてあります。

ローマ
4:18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。
4:19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
4:20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
4:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。

また、イエス様は言われました。

マタイ
17:20 あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。

最後に、主の導きに対する従順と従順の結果について、ちょっとだけ一言、つけ加えて終わります。

御霊は、ただひとつの目的をもって我々を導いてくださいます。その目的は、我々にとって、イエス様がすべてのすべてとなり、そして、私たちがこの主の御姿に変えられて行くことです。

御霊は、限られた視野を持った我々と違って、すべてを見極めて我々を導いてくださいます。霊的な成長は、御霊の導きに従順に従うことによってのみできるのです。従順に従って行く時、さらに豊かに御霊に満たされていきます。従順に従うことの結果は、我々に特別な賜物を与え、いわゆる幸福の生涯に我々を導くとは限りません。従順に従う者は、御霊が与えられると約束されていますが、聖い御霊の存在は、古き人にとっては、我々の生まれつきの性質にとっては、決して、ありがたくないのです。

ヨハネは告白しました。「彼は必ず栄え、私は衰える。」古い性質が消え、己を召し、謙遜な谷に下ることは、決して楽なことではありません。御霊に導かれるということは、我々の本来の性質に反することです。本当はあまりおもしろくない。けれども、御霊に導かれて行く時、自分を義とすること、悪にさといこと、赦しがたい心、人目につきたいこと、これらの醜い性質があらわにされてくることを意味します。

イエス様が、父に従順に従った結果は、孤独になり、誤解され、ついに、十字架にかけられるということでした。もし、私たちが、御霊に導かれるままに、従順に歩むならば、イエス様と、また、使徒たちと、また、多くの聖徒たちと同じように苦しみに会うことでしょう。イエス様は、十字架の前に祈りました。イエス様のもっとも有名な祈りは、ヨハネ伝の十七章に書かれています。

ヨハネ
17:14 わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。

17:24 父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。

また、昇天された後、イエス様は天より御声をかけて、次のように言われました。

黙示録
3:21 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。

もし、御霊が我々を導いて、私たちがパウロと同じように「私たちは、キリストの思いを持っている」と、心から言えるようになったら本当に幸いと思います。

パウロは、コリントの人々に書いたのです。

第一コリント
2:16 いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。

このように言えるようになったら、もちろん、御霊は、さらに我々を導いて、御座にいますイエス様の元に導いてくださるに違いない。

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