2013年5月28日火曜日

聖霊の導き

聖霊の導き
2013年5月28日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

エペソ
3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
3:20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
3:21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。

今、読んできてくださった箇所は、よく知られている箇所です。パウロの心の現れ、また、告白であり、祈りでした。


このあいだ、徳島の一人の姉妹、コムラ・トシミ姉が召されました。集会で葬儀を持つことになり、後で、ヒロハシ・ユウジ兄から聞いたんです。ご主人、タダシさんの挨拶の中で、「妻は、もっと聖書を学びたかったと思う。娘、マイと私は、これから、妻がやりたかったことをやって行きたい」と、涙ながらに言われていました。お家は、天理教とのことです。コムラ・タダシさんとコムラ・マイさんのために、どうかお祈りください。

これも我々みなの祈りになれば、主は、もちろん、喜んで応えてくださいます。家族の救いは、約束されている。私たちは、毎日、それを考えます。家族の救いは、何でもできるお方が約束されているからこそ、前向きに生活することができます。

今のパウロの祈りを見るとわかります。彼にとって大切であったのは、主の御心だけ。聖書はどうして与えられているかと言いますと、御心を知るためなのではないでしょうか。けれども、どうしたら主の御心を知ることができるのでしょうか。当然です。主の御心は、ただ神の霊によってのみ、御霊の働きによってのみ、知ることができます。主の御心を知ろうとする者は、「教えてください」と、祈り続けるべきなのではないでしょうか。

どうしたら、御霊に導かれる生活を送ることができるのでしょうか。答えは、前に言いましたように、第一番目、みことばを聞く備え。二番目、みことばに従う備えが必要です。

ダビデは、有名な詩篇、百四十三篇十節に、次のように書いたのです。彼の心からの叫びだったに違いない。

詩篇
143:10 あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように。

「教えてください。導いてください」と祈る人は、必ず応えられます。これは、当時の御心にかなうダビデの祈りでした。御霊の導きを、彼は求めて祈ったのです。このダビデの祈りが、我々の祈りになれば祝福されます。

私たちも、主に喜ばれる者になりたい。けど、主の御心にかなう者になるには、どうしても御霊に導かれる生涯を知るべきなのではないでしょうか。ですから、ダビデと同じように、「あなたのいつくしみ深い霊が、私を導いてください」と祈るべきなのではないでしょうか。ダビデは、「あなたこそ私の神であられます」と告白しました。御霊の尊い導きを受けるには、結局、こういうふうに言うべきなのではないでしょうか。新しく生まれ変わった人々だけが、こういうふうに導かれるようになります。

ダビデは、本当に心から、「主よ、教えてください」という態度をとっただけではなくて、とり続けたのです。このように、主の御前に教えを請うた人々は、計り知れない主の祝福を受けるようになります。天にまで届く祈りをしたいならば、結局、こういうふうに祈るべきなのではないでしょうか。

けれども、大切なのは、祈りそのものよりも、祈りの前に主の御心を確信する、立つことなのではないでしょうか。この確信を我々にくださるために、御霊がお出でになりました。御霊のどうしても必要な働きについて、パウロは有名なローマ書、八章に書いたのであります。非常にすばらしい告白です。「私たちは弱い。私たちはわからない」と、彼は正直に告白しました。

ローマ
8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

御霊は、我々の祈りを導くためにおられます。そして、まことの祈りは、本当に、我々を通して祈られる御霊の祈りです。

大切なのは、御霊が我々の霊にお語りになり、私たちが主の御心を知って、それを確信して立つことです。我々を導くことのできるお方とは、聖霊だけであり、また、御霊と聖書のみことばは、常に逆らうことなく、そのあいだに一致があります。御霊は、みことばを我々のために用いて、語りかけて下さいます。

何か問題にぶつかっているとき、御霊は、聖書のみことばを取り上げて、それを生かし、我々の心に投げ込んでくださいます。内住の御霊が、聖書のみことばを生かして語りかけてくださいます。

導きは、内に住みたもう御霊によってだけ成されることです。そして、この内住の主の導きは、特定のキリスト者だけではなくて、すべての主によって救われた人々に与えられている特権です。

実際に何かの問題にぶつかった場合、どのように御霊の導きを知って行くか、二、三の点に分けて考えるべきなのではないでしょうか。

第一番目、御霊の導きを求める場合、すべての物事は、主の栄光のためであるということを、知らなければならない。パウロは、コリント第一の手紙に次のように書いたのです。

第一コリント
10:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。

非常に大切なことばです。もし、これを深く心に留めているなら、自らの思いや自らの願いは、捨て去ってしまう備えがあるはずです。イエス様は、全く御霊に導かれたお方でした。イエス様が間断なく御霊に導かれた秘密は、詩篇に書かれているのではないでしょうか。

詩篇
40:8 わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。

このイエス様の心の持ち方こそ、常に御霊に導かれる秘訣そのものです。だからこそ、イエス様は証ししました。

ヨハネ
8:29 わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです。

この態度を取ることこそが、大切なのではないでしょうか。マリヤもこの態度を取ったんですね。

ルカ
1:38 ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。

マリヤは、自らの意思を主に明け渡していました。

ルカ
1:31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。

1:34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」
1:35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」

1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。

彼女には、イエス様の母になる心の備えがありました。もし、結婚する前に身ごもるなら、掟(おきて)では、石で打ち殺されなければなりませんでした。その危険も顧みず、「ただ主の御心をなさせたまえ」と、彼女は主にすべてを明け渡していたのです。この三十八節は、本当にすばらしい告白です。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」

主の御栄(みさかえ)が第一の場所を占めていなければならない。この態度を持つ人々に与えられる祝福は豊かです。私たちも、イエス様やマリヤのような献身者になり、あるいは、パウロのように言うことができれば、「人のご機嫌とりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストの僕として、心から神の御心を行ない、人にではなく主にのみ仕えるように、善意をもって仕える者になりたい。」これこそがパウロの切なる願いであり、また、祈りでした。

主に聞き従い、己を捨てる備えのある人は、御霊の導きを受ける資格のある者です。私たちの態度が、主の御栄を第一にしているならば、主は導いてくださいます。御霊の導きを求める場合、今、話したように、すべての物事は、主の栄光のためであるということを知らなければならない。

第二番目、主の導きは、いつも、みことばにのっとっているということです。御霊の導きは、いつも、必ず神のみことばである聖書に基づいています。したがって、聖書の知識は、我々にとって、本当に大切なことと言わなければならない。言うまでもなく、救われるためではない。成長のため、導かれるため、用いられるために必要です。

主は、ホセア書の四章六節に言われました。「わたしの民は知識がないので滅ぼされる。」箴言の中で、ソロモンも同じようなことを書いたのです。

箴言
19:2 熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく。

イエス様は、当時の聖書学者たちパリサイ人を叱って、「読んだことがないのか」と、彼らの聖書の知識のないことを非難されました。

マタイ
12:3 しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。」

分かるはずです。読まなかったの?

19:4 イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、
19:5 『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。」

聖書を読まない人は、御霊の導きを待っていても、何の役にも立たないのではないでしょうか。迷いに導かれるばかりです。イエス様は、パリサイ人に、「そんな思いちがいをしているのは、聖書も神の力も知らないからです」と、言われたのであります。

主のみことばに逆らう者に、御霊の導きがないのは言うまでもありません。もし、ただ一つのみことばに、それを知りながら従わないなら、どんなに祈っても、導きは与えられないのです。神のみことばに逆らうということは、主の御霊に逆らうことです。従って、そのような人には、尊い導きが与えられない。主は、我々にみことばを学ぶように、確かに勧めておられます。昔のモーセの言ったことを考えるとわかります。

申命記
17:19 自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。

イザヤ
34:16 主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。

イエス様も、当時の人々に言いました。「あなた方は、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので聖書を調べています。その聖書がわたしについて証言しているのです。」旧約聖書と新約聖書の中心になるものとは、言うまでもなく、ひとつの教えよりも、主イエス様ご自身です。

使徒行伝
17:11 ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。

パウロのはなしを聞いたとき、なるほど!とは思わなかったんです。調べましょう。自分で聖書を読もうという態度を取ったとき、パウロは非常に嬉しくなったのです。毎日、彼らは聖書を調べた。もし、みことばが我々の喜びとなり、楽しみとなり、いのちとなるならば、ありがたい。ダビデにとって、みことばは本当にすべてでした。勧められないけれども、詩篇百十九篇――いっぺんには読まないで!長すぎ――ここに、似ていることが、いっぱい書いてあるんです。ダビデにとって、みことばはすべてでした。

詩篇
119:72 あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。

119:97 どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています。

119:140 あなたのみことばは、よく練られていて、あなたのしもべは、それを愛しています。

エレミヤも同じことを証ししました。よく引用される箇所です。

エレミヤ
15:16 私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。

わかったのではない。暗記したのでもない。理解したのでもない。食べてしまった。自分のものにした。結果は、「あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。」

我々の信仰生活は、みことばを食べる量りにしたがって、程度にしたがって成長してまいります。いのちのパンであるイエス様ご自身が、我々の食べ物とならなければいけませんし、また、イエス様はそうなりたく、我々の心の奥底に入ることを願っておられます。

いったいどうして、イエス様をより良く知ることができるのでしょうか?理解することができるのでしょうか?みことばによってのみ、できるのです。聖書、すなわち、主のみことばは、単なる教理、学説を述べているのではなく、イエス様ご自身の啓示の書物です。

ですから、聖書を読むことは大切ですが、聖書を読むのは、聖書を研究し、また、いわゆるキリスト教の教えを知るためではなくて、聖書を読むことにより、イエス様ご自身を知り、奉り、イエス様をより良く知るためです。

主は、みことばによって、ご自身を啓示なさるのですから、イエス様はパリサイ人に、「あなた方は、聖書を調べています。しかし、みことばを食べていない。いのちを受けようとしない」と、言われました。

聖書を読むことと、いのちを得ることは、ひとつのことであり、決して、二つのものではない。主は、ことばをもって、ご自身をお現しになります。主のみことばは、我々にとって、いのちのパンとならなければいけないはずです。なぜならば、聖書は教理や真理の原則を語っているよりも、いのちのパンそのものであるからです。

みことばは、我々にとっていったい何なのでしょうか。死せる冷たい餅にすぎないのでしょうか。重荷となっているのでしょうか。あるいは、いのちとなっているのでしょうか。もし、生けるみことばが我々の内に入るなら、その必然的な結果として、いのちがやってまいります。理解力を持ってしては、決していのちは訪れてきません。もし、聖書が我々にとって、単なる掟であり、また、真理であるならば、それは我々にとって重荷となり、不自由なものです。けど、いのちなら、自由と喜びをもたらすものです。

どうしたら、聖霊の導きが解かるのでしょうか。今、話したように、御霊の導きを求める場合、全ての物事は、主の栄光のためであるということを考えるべきです。また、主の導きは、いつも、みことばにのっとっている。いつも、みことばに基づいているものであり、また、御霊の導きは、良心と理性も関係があることを知っておく必要があるのではないでしょうか。

我々の持っている良心は、主によって与えられたものです。もし、ある問題について、良心がこれは良くないと判断したら、御霊の導きを待っている必要はありません。行くべき道が解からず、どちらか迷っているような場合、あるひとつの道に行くのに平安がなかったら、さらに導きを求める必要もないでしょう。

良心と共に我々の持っている理性も、主がくださったものです。多くのキリスト者が迷ってしまい、支離滅裂な信仰生活を送っているのは、自分の考えと主の御心をごちゃごちゃにしているからです。自分の理性を主の前に持って来て、主の導きを仰がないからです。

アブラハム、信仰の父と呼ばれている男は、飢えを恐れて、自らの考えで、豊かなエジプトへ逃げてしまいました。そこで罪を犯してしまいましたが、自分の理性で勝手に行動することの危険を、聖書はアブラハムを通して教えています。ある人々は、理性は何の役にも立たない、理性は肉につけるものだと言いますが、これは間違いです。もし、理性が信じる者の内で僕(しもべ)の位置を取るなら、非常に用いられる存在となります。けれども、理性が信者の中で、支配者の立場を取るなら、間違った道へ我々を導いてしまうでしょう。

私たちは、理性で聖書を学び、真理を秩序立て、みことばを暗記します。けど、このときも理性は、我々の内に住みたもう御霊によって支配されなければなりません。導きは、御霊だけが成されることです。理性は、御霊の導きを実現する道具のようなものです。もし、何か大きな問題にぶつかったなら、その問題を理性を持って、あらゆる面から考える必要があります。

前に述べたふたつのこと、すなわち、どうしたら主の御栄(みさかえ)が現れるだろうか。また、この問題に当てはまるみことばがあるだろうかと、理性を持って考えてみる必要があります。ときには、理性を抜きにして御霊が直接、「今、祈りなさい。今、あの人に手紙を書きなさい。今、あの兄弟姉妹を訪ねなさい」と、教えてくださることもあります。

ピリポの場合がそうだったのです。彼は、サマリヤの町でみことばを宣べ伝え、非常に祝福されましたが、ある時、御霊は、「荒野へ行きなさい」と命令なさったのです。「荒野には誰もいないではないか、今ここに、悩んでいる人々、飢え乾いている人々がいるではないか」と、彼は思わなかったんです。

ピリポの理性には逆らう出来事だったでしょう。サマリヤには、たくさんの求める人々がいるのに、どうして、人もいない荒野に行かなくちゃならないの?と、瞬間的に思ったでしょう。けれども、彼は御霊の声に聞き従い、荒野へ出たとき、エチオピアの宦官に会い、彼を救いに導き、主の御栄を拝することができました。聞く耳を持つこと、従うことこそが大切です。

第一サムエル
15:22 主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

使徒行伝に次のような箇所があります。

使徒行伝
5:29 ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。」

この中には、「人の理性に従うよりは、主なる神に従うべきである」という意味が含まれているに違いない。パウロは、御子、主イエス様の啓示に会ったとき、血肉、すなわち、人間に相談せず、すなわち、人の理性に従わず、天の啓示に従ったと、聖書は言っています。

ガラテヤ
1:16 異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず、
1:17 先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。

使徒行伝
26:19 こういうわけで、アグリッパ王よ、私は、この天からの啓示にそむかず、・・・・

主の導きを求めるとき、兄弟姉妹の忠告も助けになります。そのために、集会に欠かさず集うということが大切なわけなのではないでしょうか。したがって、集会に出るときの心がまえは大切です。もし、主のみことばを聞き、導きを求めたいという深い飢え渇きがなければ、あまり役に立たないでしょう。

アモス
8:11 見よ。その日が来る。――神である主の御告げ。――その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。

イザヤ
66:2 ――主の御告げ。――わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。

主のみことばを恐れおののいて聞く者には、主は豊かな導きを与えてくださいます。どうしたら、主の導きが解かるのでしょうか。

今、話したように、まず、御霊の導きを求める場合、すべての物事は、主の栄光のためにあるということを知らなければならない。二番目、主の導きは、いつもみことばにのっとっています。いつもみことばに基づいています。そして、今、考えたように、三番目、御霊の導きは、良心と理性も関係があることを知っておく必要があります。

結局、サムエルのように、「主よ、語ってください。しもべは聞いております」という態度を取ることこそが、もっとも大切なのではないでしょうか。

おわり

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