2013年5月21日火曜日

聖霊の導きの大切さ

聖霊の導きの大切さ
2013年5月21日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ローマ
8:12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。
8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。
8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。


8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます
8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

ピリピ
1:9 私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、
1:10 あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、
1:11 イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。

エペソ
3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

今、読んできてくださった箇所は、全部、神の御霊の働きの大切さについての箇所です。一昨日、五旬節でした。日本ではあまり大切にされてはいない。他のだいたいの国々は、必ず休みです。学校もだいたい、一週間くらい休みですし、結局、イエス様の受難、また、聖霊の与えられたことこそが、もちろん、我々にとっても、考えられないほど大切です。

神の霊、聖霊の受けられた日の記念日とは、いわゆる五旬節です。十日前は、イエス様の昇天された日の記念日でした。千九百年前に、イエス様は、弟子たちをベタニヤの近くまで連れて行き、手を上げて、彼らを祝福してくださいました。そして、祝福しておられるうちに、彼らを離れて、天にあげられました。

弟子たちは、主を拝し、非常な喜びをもってエルサレムに帰り、絶えず宮にいて主を褒め称えていたと書かれています。弟子たちは、イエス様の命令を聞きました。すなわち、「見よ。わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまで、あなたがたは都にとどまりなさい。」

弟子たちは、十日のあいだ、父の約束されたお方、すなわち、聖霊のために、絶えず宮にいて主を褒め称えたと聖書は言っています。そして、この十日の後で、五旬節がやってきました。聖霊が送られたのです。どうしてでしょう?すべての真理に導くため、また、真のいのちを与えるため、それから、主の満たしにあずかるためでした。

聖霊降臨祭、五旬節の意味とは何でしょう。イエス様が、神の御子として、我々の過ち、わがままのために十字架で亡くなられて、昇天されて、高く引き上げられたことの証拠は五旬節です。また、主なる神の約束の成就されたことは、五旬節であり、そして、イエス様は、ご自分のことばを成就することができる力を持っているという証拠です。

五旬節は、証しする力を意味します。また、祝福の満たしを意味します。五旬節は、主なる神が、どうしようもない者、弱い者でさえも用いることができるということを言っているのです。ひとりも滅びないで、みな永遠のいのちを持つようにと言っています。この神の霊が、我々を支配し、礼拝に導くことができるように切に祈るべきなのではないでしょうか。我々、イエス様を信じる者にとって、いちばん大切なのは、主の御心を知ることなのではないでしょうか。

どうしたら、主の御心を知ることができるのでしょうか・・・・ということについて、ちょっとだけ、いっしょに考えてみたいと思います。結論から言いますと、主なる神の御心は、ただ神の霊によってのみ、御霊の働きによってのみ知ることができます。主の御心を知らんとする者は、御霊に導かれる生活をしていなければならない。ですから、その前に、どうしたら、神の御霊に導かれる生活を送ることができるかを知らなければならない。そのために必要なのはふたつかな。第一番目、みことばを聞く備え。二番目、みことばに従う備えなのではないでしょうか。

詩篇の百四十三篇を見ると、次のように書かれています。ダビデの心からの叫び、また、祈りでした。

詩篇
143:10 あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊(・・・・御霊です・・・・)が、平らな地に私を導いてくださるように。

結局、教えてください、導いてください。これこそ、もっとも大切な祈りなのではないでしょうか。

こういうふうに主の御心にかなうダビデは、御霊の導きを求めて祈りました。このダビデの祈りは、我々の祈りとなっているのでしょうか。ダビデは、主の御心にかなった人でした。我々も、主に喜ばれる者になりたいものです。しかし、主の御心にかなう者になるには、どうしても御霊に導かれる生涯に入らなければなりません。ですから、我々もダビデと同じように、「あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように」と、心から今日、新たに主の前に祈りをささげたいものなのではないでしょうか。

ドイツのアイドリンゲンの創立者、クリスタ・フォン・フィーバン(Christa von Viebahn)という姉妹の影響は、本当にすごい影響でした。彼女の名前を知らない信者は、おそらくドイツではいないでしょう。

彼女は言ったのです。

「私が学び、そして、知るようになったのは、主イエスとの交わりの時間をないがしろにすれば、得るものはなく、損するばかりです。主イエスの御顔を探さないと、主の御声を聞こうとしないと、主に対する奉仕のための能力も装備も失うのです。主イエスの御声に対して、聞く耳がないと、何をしても、余計な時間を必要とし、御心のままに成すことができません。主の御前に静まらないと、落ち着きがないし、自分を否定することもあり得ません。主の声を聞こうとしない日は、実を結ばない日です。「主よ、語ってください」と望まないこととは、あらゆる不幸の原因です。主イエス様、私はいくら損をしても、大切なことを失っても、ただあなたの御前に静まることだけを望んで、また、願っています。主イエスは、多くのことをしてもらいたいでしょうか。しかし、もっとも大切なのは、聞く耳を持つことです。どうか、私を祈りの人にしてください」と、彼女は祈り続けたのです。

「教えてください」と、彼女はずっと祈り続けましたし、もちろん、ダビデもそうだった。ダビデの主に対する態度は、「主よ、教えてくだい」という変わらない態度でした。このように主の御前に教えを請うた人々は、はかりしれない主の祝福にあずかります。

生まれつきメクラであった男は、イエス様の教えを請うたのです。すなわち、「主よ、それはどなたですか。その方を信じたいのですが」と言ったとき、イエス様、はご自分の御姿をその男に教えてくださいました。

ヨハネ
9:37 イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」
9:38 彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。

エジプトの宦官(かんがん)も、ピリポの教えを請うて、「誰かが手引きをしてくれなければ、どうして解かりましょう」と、救いを求めたとき、宦官は救いにあずかることができ、喜びながら旅を続けたと書いてあります。使徒行伝の八章ですね、非常にすばらしい箇所です。

使徒行伝
8:26 ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。)
8:27 そこで、彼は立って出かけた。すると、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、

すごいね、アフリカから、エルサレムまで行った。時間をつぶすだけではない、他の仕事がなかったからでもない。礼拝のため。

使徒行伝
8:28 いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。
8:29 御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。
8:30 そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」と言った。
8:31 すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」と言った。そして馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。
8:32 彼が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。
8:33 彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」
8:34 宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」
8:35 ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。
8:36 道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」
8:38 そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。
8:39 水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。

このエチオピア人は、みことばに対して、聞く耳を持っていただけではなく、みことばを受け入れ、みことばに従ったのです。

パウロがすばらしい改心をしてから後、「主よ、私は何をしたらよいでしょうか」と、主の前にへりくだって尋ねたとき、主は、パウロに行くべき道を、はっきりとお示しになりました。

使徒行伝
16:6 それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。

また、あの獄吏はパウロとシラスに、「先生方、私は救われるために、何をすべきなのでしょうか」と、震えおののきながら、教えを請うたとき、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と、驚くべき救いのみことばが与えられました。

今、挙げたこれらの人々は皆、主のみことばを聞く備えができていました。また、主に従う備えができていました。主に従いやすい、やわらかい心を持っていました。

御霊に導かれるということ、御霊の導きは、聖書のはっきりとした約束です。イスラエルの民は、それを実際に経験しました。

出エジプト記
40:34 そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。
40:35 モーセは会見の天幕にはいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。
40:36 イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。
40:37 雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。
40:38 イスラエル全家の者は旅路にある間、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからである。

御霊の導きの約束は、ダビデにも与えられました。

詩篇
32:8 わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。

すばらしい約束です。イエス様も、御霊の導きについて、よく語っておられました。

ヨハネ
16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
16:14 御霊はわたしの栄光を現わします。

イスラエルの民が荒野を旅したとき、主なる神が雲の柱、火の柱をもって導いてくださったと同じように、すべての救われた兄弟姉妹は、御霊の導きを受けるすばらしい特権を持っているのです。パウロはこの事実について、おもにローマ書、八章の中で書いたのです。

ローマ
8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

御霊がイスラエルの民を導いて、行こうとなさった目的地は、実り多いカナンの地でした。御霊は、いつもひとつの目的を持って、そこへ私たちを導こうとなさいます。詩篇の作者であるダビデは、また、次のように報告したのです。

詩篇
78:53 彼らを安らかに導かれたので、彼らは恐れなかった。

これは、当時のイスラエルの民の経験でした。

詩篇
107:7 また彼らをまっすぐな道に導き、住むべき町へ行かせられた。

イスラエルの民が荒野をさまよった時、いろいろなことが起こり、小さな一つ一つのことを取り出して考えますと、安らかに導かれた・・・・とは、確かに言えません。しかし、御霊は最後に、カナンの地に導き入れてくださいました。それを考えると、確かに御霊は、ご自分の民を安らかに導きたもうたと、心から言うことができます。同じように、私たちも、御霊が我々を導こうとなさっておられる目標を、はっきりと見つめて、歩まなければならないと思います。恵み深い御霊は、私たちがイエス様の似姿に変えられるように、天的な完成に、また、霊の満たしに導いておられます。

私たちは、イスラエルの民の場合と同じように、周りに起こるひとつひとつの問題や苦しみや悩みを見ると、主は私たちを捨てたのではないかと疑います。しかし、先へ導かれてから、後ろを振り返ってみると、過去に起きた病や悩み、苦しみ、ありとあらゆる問題は、御霊の導きだったと認めざるを得ません。御霊が導こうとなさる目標に行き着くまでには、いろいろな問題が、我々の身に起こってくるでしょう。しかし、そのたびに主の御心は何であるか、教えていただかなければなりません。

問題が起こると祈ります。けれども、結果が現れない場合があります。祈り会においても同じです。聖書を開き、みことばを学んで祈りますが、結果が現れません。どうして?その訳は、これから祈ろうとすることが、主の御心であることを確信していないからなのではないでしょうか。

例えば、家族の救いのための祈りは、もっとも大切な祈りのひとつでしょう。けども、頼むことを止めて、感謝した方がいいのではないでしょうか。約束されているから、頼まなくてもいい。主は約束を守るお方です。だから、感謝することこそが、素直な信仰の現れなのではないでしょうか。したがって、祈りの中に、「御心ならば、このようにしてください、あのようにしてください」という言葉がたくさん出てくるでしょう。このような状態ですと、祈った後にも、確信が湧いてこない。誰かが、「祈りは聞き届けられたか?」と尋ねると、「まあ、それを願っている」としか、答えられないのではないでしょうか。

けれども、このような祈りの態度は、聖書に記されていませんし、主も求めておられません。まず、主の御心が何であるかを教えていただく。それを確信し、信仰による祈りを捧げなさいと、聖書は我々に教えています。

エリヤは、主の御心を確信して立ち、権威を持って次のように言いました。すばらしい告白でも、証しでもあります。

第一列王記
17:1 私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。・・・・

主は生きておられます!確信に満ちた言葉でした。

17:1 ・・・・私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。

もちろん、その通りになりました。このエリヤについて、ヤコブも書いたのです。

ヤコブ
5:17 エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。
5:18 そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。

この箇所を見ると解かります。すなわち、エリヤの祈りが聖霊に導かれた祈りだったからこそ、聞き届けられたのだということが解かります。私たちも、もし、天国まで届く祈りをしたいならば、御霊に導かれる祈りを捧げなければなりません。大切なのは、祈りではなく、祈りの前に主の御心を確信して立つことです。この確信を我々に与えてくださるために、御霊がおいでになったのです。パウロは、これをローマ書、八章の中で、次のことばで証ししたのであります。

ローマ
8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

パウロは、自分をも含めて、「わからない私たち」と言ったのです。

聖霊が導くことができなければ、確かにもうお終いです。御霊は、私たちの祈りを導くためにおられます。そして、真の祈りは、我々を通して祈られる、結局、御霊の祈りです。

御霊は、まず我々に主の御心を教えてくださいます。その時、私たちは主の信仰を持って、祈ることができ、祈りが必ず聞き届けられるという確信を持つことができます。信仰と確信の欠乏は、主の御心を知らないところから来ています。それゆえに、多くの祈りが、聞き届けられないのです。私たちは、主の御心をはっきり知るまで待ち望み、御心を知った後、初めて行動すべきなのではないでしょうか。

モーセの場合がそうでした。まず主が語り、次にモーセは、主の言われた通りに行動しました。パウロも、まず主の御心を聞き、次にその御声に従いました。

ヨハネ
14:10 わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。

ここでわかることは、イエス様は、心のうちにささやかれる父の御声に従っておられたということです。イエス様は、実際に耳に聞こえる声、また、回りに起こることどもによって、導かれていたのではない。大切なのは、御霊が我々の霊にお語りになり、私たちが主の御心を知って、それを確信することです。

聖書のみことばを取り上げて、それを生かし、主の御心に投げ込んでくださいます。内住の御霊が、聖書のみことばを生かして語りかけてくださいます。私たちを導き得るのは御霊だけです。パウロは、ローマ書に書きました。

ローマ
8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

このみことばは、信仰生活の始めに当てはまるみことばであるばかりではなくて、信仰生活を送っているあいだにも当てはまることばなのではないでしょうか。始めに主のことばであることを証ししておられた御霊は、我々のうちに語りかけながら、私たちを導いてくださいます。

導きは、内に住まわれる御霊によってだけ、成されることです。そして、この内住の主の導きは、特定のキリスト者だけではなく、すべての主に救われた兄弟姉妹に与えられている特権です。「教えてください。導いてください」と、絶えず祈ることができるのは、すばらしい特権なのではないでしょうか。

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