2013年5月26日日曜日

主だけを見よう

主だけを見よう
2013年5月26日、吉祥寺福音集会
ゴットホルド・ベック

ヘブル
12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
12:3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

エペソ
4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。

ヨハネ
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

今、読んでもらいました初めの箇所の中で、『元気を失わないように』とあります。元気を失ったら、もう大変です。

いちばんいい薬は、人間のみじめさについて考えるよりも、主イエスさまの偉大さについて考えるべきなのではないでしょうか。だから、よく、『イエスから目を離さないでいなさい』と、何回も書き記されています。『それはあなた方の心が、元気を失い疲れ果ててしまわないためです。』

考えられないほど多くの人々は、将来に対する不安、恐怖によって支配されているのではないでしょうか。不安から、心配から解放されることこそが、本当の幸せなのではないでしょうか?満たされた信仰生活の秘訣そのものです。

結局、必要なのは永遠なるもの、永遠のいのち、すなわち、イエス様から目を離さないことです。イエス様も持つものはもちろん、永遠のいのちを持ってほしい。そして、確信できる、『死んでも生きる。』

イエス様も言われました。『事実、わたしの父のみこころは、子を見て――結局、わたしを見て――信じる者がみな永遠のいのちを持つことです(ヨハネ6:40)。』見よ、世の罪を取り除かれた救い主なる主イエス様です。

わがままな人間は、誰でも皆その報いとして、死に服さなければならないと聖書は言ってます。けど、イエス様ご自身が我々の身代わりとなり、代わりに十字架の上で、どうしようも無い人間のわがままに対する裁きをお受けになってくださいました。そして、今日もこのイエス様を心の目で見て、イエス様のなされた救いの御業のために感謝をする者は、もちろん、救われ、すなわち、永遠のいのちを持ちようになります。

聖書ははっきり、信仰とは一つの教えを信じ込むことなのではない。救いに至る信仰とは、イエス様を見上げることです。そして、イエス様を見上げる者は、永遠のいのちを持つと、聖書は言っています。

ドイツには、マティアス・グリューネヴァルトという人の描いた有名な絵があります。その絵には十字架につけられたイエス様を指差しているバプテスマのヨハネが描かれています。どうしてこの絵がそんなに有名になったかと言いますと、この絵の意味するところはヨハネの使命がなんであるかと言うことです。



当時のヨハネの使命がなんであったかと言いますと、指差すことでした。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊。』

エペソ
4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。

ヨハネ
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

この二か所の内容は、イエス様の偉大さだけではなく、人間のみじめさを表す言葉なのではないでしょうか。

まず、イエス様の偉大さについて、ごいっしょに考えてみたいと思います。初めの御言葉の中に、何回も『すべて』という言葉が出てきます。『すべて』という言葉は、主のすばらしさ、主の偉大さを表す言葉です。

主なる神とは、あまりにも偉大であり、光に満ち、栄光に満ちておられるお方です。詩篇の作者だけでなく、私たちも、次のように言いたいものです。

詩篇
95:1 さあ、主に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。
95:2 感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。
95:3 主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。

95:6 来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。
95:7 主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。

このように全てを創造なさって、また、今日まで導いてくださった支配者なる神の守り、また、導きに対して、心から感謝をするのは、大きな特権なのではないでしょうか。

人間はよく証しします。けども。主もよく証ししてくださいました。そして、イエス様を仰ぎ見ること、それから、イエス様の証しに対して耳を貸すことこそが、大切なのではないでしょうか。イエス様の証しとはどういうものであったかと言いますと、わたしの父はすべてにまさって偉大である。

わたしの父は、すべてにまさって――すべてはすべてです――すべてにまさって偉大である。七つの点について簡単に考えましょうか?

第一番目。父なる神は、人間の罪や債務より偉大であるということです。罪と債務は、人間の上に非常に重くのしかかり、あらゆる安らぎを奪い取ってしまうことがあります。けれども、主は次のように言っておられます。

イザヤ
1:18 「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。

父は、人間の罪や債務よりも偉大である。

二番目。主なる神は、人間のあらゆるたくらみより、はるかに大いなるお方であるということです。人間は力を持つことはできるでしょう。けど、父ははるかに偉大なるお方です。このことをヨセフという男もまた、経験しました。彼は、次のように告白するようになりました。

使徒の働き
7:9 族長たちはヨセフをねたんで、彼をエジプトに売りとばしました。しかし、神は彼とともにおられ、
7:10 あらゆる患難から彼を救い出し(ました。)

創世記50章を見ると、彼は喜んで、解放された者として証ししました。

創世記
50:20 あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。

確かに、ヨセフは考えられないほど悩みました。けど、結果は、本当に素晴らしいものでした。彼は、こういうふうに言うことによって、結局、心から主を賛美し、礼拝しました。

三番目。父なる神が全ての病にまさって、はるかに偉大なるお方であるということです。

何十年か前に、私はスイスで一人のご婦人を訪ねたことがあります。彼女は、神経に異常をきたし、体が動かなくなってしまいました。おそろしい病気にかかってしまいました。彼女の夫は、彼女を捨てて、ほかの女性と一緒に生活するようになってしまった。けれども、彼女は、ヨセフと同じように、大いに喜んだ。病気になった。もう捨てられた。ゴミのように。けど、主は、私の近くにいる。全部、ゆだねることができる。幸せ!と言うことができたのです。

このあいだ、宇都宮のひとりの忠実なる僕(しもべ)、カナイ・ヒサトモが天に召されました。その前に見舞いに来ましたが、ちょうど子供みんな揃っていて、楽しかった。あの兄弟は輝いたんです。死にそうだったけど輝いた。もうちょっとで、イエス様と一緒になる。幸せ・・・・と心から言うことができたんです。

小浜のトダカ・マミ姉妹は、ガンにかかっていたときも、決して、打ちのめされるような孤児には、ならかなかったんです。あの若い姉妹は、父なる神が病に優って、はるかに大いなるお方であるということを確信したからです。

四番目。父なる神が、日常生活に多くあらゆる問題にまさって、はるかに大いなるお方であるということです。日々の生活は、一人の人間の上に、なんと破壊的に、また抑圧的にのしかかっているのでしょうか?けれども、父な神は力づけ、活力を与え、勇気つけてくださることがおできになる、大いなるお方です。

パウロと共に福音を宣べ伝えた兄弟たちの証しを読むと、本当にすばらしい。悩みながら、彼らは大いに喜んだ。

第二コリント
2:8 兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、
2:9 ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。

まだなっていなかった!彼らはもうなった・・・・と思ってしまったけど。新たなる悩みを通して彼らはなるものでした。主により頼むものとなれば、もう心配ない。

第二コリント
2:10 神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。

悩みながら喜んだ。どうして?主から全部、受けとったから。また、主にゆだねたからです。

第二コリント
4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

これこそ生涯の秘訣です。すなわち、イエス様から目を離さないことです。

五番目。父なる神は、あらゆる試みや攻撃にまさって、はるかに大いなるお方です。

悪魔はあらゆる手段を使って、我々をダメにしようとしています。しかし、主により頼むものは、ヨセフと同じような態度をとる力を得ることができます。創世記の39章、彼の当時の状況について書いてあります。やはり、毎日が戦いの連続だったようです。

創世記
39:7 これらのことの後、主人の妻はヨセフに目をつけて、「私と寝ておくれ。」と言った。
39:8 しかし、彼は拒んで主人の妻に言った。「ご覧ください。私の主人は、家の中のことは何でも私に任せ、気を使わず、全財産を私の手にゆだねられました。
39:9 ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」
39:10 それでも彼女は毎日(・・・・毎日!・・・・)、ヨセフに言い寄ったが、彼は、聞き入れず、彼女のそばに寝ることも、彼女といっしょにいることもしなかった。
39:11 ある日のこと、彼が仕事をしようとして家にはいると、家の中には、家の者どもがひとりもそこにいなかった。
39:12 それで彼女はヨセフの上着をつかんで、「私と寝ておくれ。」と言った。しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。

六番目。父なる神が、死よりもはるかに偉大なるお方であると言うこと。

父なる神は、死の彼方におられ、あらゆる死の恐怖を取り去ってくださいます。イエス様を通して、父なる神を知るようになった者は、慰められ、希望に満ちて、安らかに死に立ち向かうことができます。

七番目。父なる神は、我々の理性にまさって偉大なお方です。ペテロはこのことを経験し、証ししました。

使徒の働き
11:17 こういうわけですから、私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。

『どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。』パウロは、この偉大なる主について考えた時、次のように告白せざるを得ませんでした。

ローマ
11:33 ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。

全ての物事の源は、主にあります。そして、もろもろの力は同様に主にあります。そして、全ての行いの目的も、主にあるのです。パウロがすることのできたただ一つのことは、父なる神に、父の神の計り知れない知恵と愛とを、心から賛美し、主に礼拝を捧げることでした。

すべてを支配したもうお方は、悔いることなさいません。なぜなら、主なる神は、失敗することがないからです。すべてを支配したもうお方は、決して、変わることがない御方です。なぜならば、主は、真実なお方であるからです。

私たちは皆、これらの事実をしっかりと胸に刻んで、歩んでいきたいものです。たとえ私たちの目に、主の導きが矛盾だらけであるように見えるとしても、この事実に確信の上で歩みたいものです。すべてを支配したもう主のご計画を十分によく知っています。そして、それゆえ私たちは、主の御心を完全に知ることができないとしても、私たちは完全に主のみ手にゆだね、歩んでいくことができます。

やがて、時至れば、私たちは全てを知るようになります。そして、主が本当に我々のために善意を図ってくださったということを知ることができるようになるに違いない。例え、私たちが自分自身で理解することができないとしても、私たちは、絶対的な信頼をもって、自分自身を主に委ねて歩んで行こうではありませんか。

父なる神は、ひとつです。パウロもこの事実を強調したことがあります。

第一コリント
8:6 私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。

第一テモテ
2:5 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。

この主なる神を求めようとしないこと、この主なる神を恐れようとしないこと、この主なる神に頼ろうとしないことは、罪です。人間のわがまま、また、傲慢の表れにつきません。そして、主なる神は高ぶるものを退けざるを得ません。確かに、私たちは、主の偉大さを想像することができないし――当然です――、説明することもできません。この主は、確かに全てにまさって偉大なるお方です。

この主から離れたら、私たちは何もすることができません。我々のうちのもっとも足りないことは、何でしょうかね?それは、私たちが自分で何かを試みようとし、イエス様のために何か計画しようとする独立の精神があって、主に寄りかかることがないということです。全く主に寄りかかるということが、実を結ぶことと、力を持つことの秘訣です。主に寄りかかることが、真の自由です。

私たちは果たして、自ら貧しいことを知っているのでしょうか?私たちは、何事もできないものです。けれども、イエス様は、我々のうちにあって行動者となり、愛するものとなり、起動者となりたいと、切に望んでおられるのです。

私たちは、この無限の富を前にして、私たちはコジキのごとくではないでしょうか?主こそ、我々のまことの慰めの泉であり、全ての力の源であり、あらゆる罪の赦しの根拠であり、唯一の平和の秘訣、そのものです。

パウロは、ローマの刑務所の中で、手紙を書くようになったのです。おそらく、そのために刑務所に入ったのではないかな?彼は、長い手紙を書いたのです。例えば、コリントにいる人々に、彼は、四枚の長い手紙を書いたんです。ちょっと残念ですね。残されているのは、二つだけです。けども、もし彼が刑務所に入らなかったならば、そんなに手紙を書く暇がなかったでしょう。ローマの刑務所の中で、彼は、書いたのです。一つの証しです。

ピリピ
4:13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

刑務所の中ですよ。

ピリピ
4:18 私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。

すごい証しですね!

誰でもが、自分自身のために生き、自分が中心になりたいと思い、自分自身の願望を追求することは、確かに可能です。なぜならば、我々の最大の敵は、決して、他の人間ではない。自分自身の自我であるからです。イエス様の死なれた目的について、聖書はいったい、何と言っているのでしょうか?ローマ書4章、『主イエスは、私たちの罪のために死に渡された。』

【参考】ローマ
4:25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

簡単に読めます。けど、イエスさまは、いかに悩んだのか、苦しんだのか、想像できません。我々の罪のために死なれただけではない。コリント第二の手紙を見ると、もう一つの理由が書かれています。

第二コリント
5:15 キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

自分のためにではなく、復活なさったイエス様のために生きるため、イエス様は犠牲になられたのです。自分のためではなく、十字架の上で犠牲になり、また、三日目に復活なさったイエス様のために生きることは、最高の特権であり、また、幸せです。

自分のことばかりを大切にする人は、的外れな生活をします。けれども、イエス様のために生きたいと望むものは、自由になり、幸せになり、そして、豊かな実を結ぶようになります。自分自身が中心になって、イエス様をのけ者にするか、あるいは、自己否定によって、イエス様が我々の中で、我々を通して、いつも自由に働くことができるか、二つのうちのどちらの状態にならざるを得ません。

初代教会の切なる願いとは、いったい何だったでしょうか?私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。

彼らは、この願いを、この祈りを持っていたからこそ、祝福され、大いに用いられるようになりました。私たちも同じ願いを持つならば、主に祝福された信仰生活を送るようになり、また、一人一人を通して、多くの人々が祝福されるに違いない。

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