2013年3月3日日曜日

目標を目ざして一心に走っているのです

目標を目ざして一心に走っているのです 
2013年3月3日、名古屋よろこびの集い
ゴットホルド・ベック

ピリピ
3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

今、オサム兄弟が言われたように、家族の救いは約束されているから、本当にすごい。これは、イエス様の約束ですから疑いない。主は、家族の中の一人二人の救いを考えてはいない。全家族です。あなたが信じたとおりになると、書いてあるのではないでしょうか。95歳でしたかね?主にとって、不可能なことはない。約束されているから、ありがたい。目に見える現実を見るとガッカリ、どうしたらいいか分からない。けども、主は約束を与えるお方というよりも、約束を守る方です。


今、読んでもらった箇所はパウロの証し、告白なのではないでしょうか。どうして彼がこの手紙を書いたかと言いますと、急に、ヒマ人になってしまったから。刑務所の中で書いた手紙です。普通だったら、もう忙しくて、大変なはずですけど、主は、ちょっとゆっくりして、けど、休むだけではなくて、手紙を書くためだよ。もちろん、彼はこの手紙が、ずっと神の御言葉として残るとは夢にも思ったことがない。けども、このピリピ人への手紙が与えられているのは、本当に、感謝であります。その中の一箇所、『私はうしろのものを忘れ、目標を目ざして一心に走っている。』この態度をとることこそが、我々にとっても、大切なのではないでしょうか。

『前向き』することなのではないでしょうか。『前向き』することのできる人はおそらく、イエス様だけを仰ぎ見る人しかないのではないでしょうか。確かに、人間は変えられなければなりません。あらゆる束縛から、あらゆる孤独から、あらゆるみじめさから、解放されなければ(なりません)。けど、皆、分かるでしょう、人間はいくら努力しても、相変わらず、だめ。みじめで、寂しくて、束縛されている。しかし、人間を変えるために、イエス様は来られました。よく、クリスマスのときに読む箇所です。

第二コリント
8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

富む者となるために、必要なことはなんでしょうか。聖書全体の答えは、へりくだることによってです。自分の貧しさ、自分のみじめさを、素直に認めることこそが考えられないほど大切です。旧約聖書の福音書とは、いわゆる、イザヤ書です。イザヤという預言者は、だいたい2700年前に、次のように、主の口にあって書いたのです。

イザヤ
57:15 わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。

これは、主の思いだけではなく、変わらない思いです。へりくだることこそが大切です。初めて集会に来た人々に、それをいつも、言うことができるのはありがたい。へりくだれば、オーケー。頭を下げて、『哀れんでください、お許しになってください』という態度を取れば、主はもちろん、哀れんでくださいます。

『へりくだる』ということは、いったい、何なのでしょうか。たとえて言うならば、イエス様の前における哀れな乞食のような者であり、心砕かれた人です。そして、また、イエス様の光によって、自分のみじめさ、自分のむなしさを知った人です。また、自分には、主のみこころにかなったものがひとつもないことを、本当に知ることです。今日は(読む)ヒマがないけど、ルカ伝18章の中で、一人のパリサイ人と収税人について書かれています。イエス様の話された、たとえ話です。この中に出てくる収税人こそ、本当の意味で、へりくだった人でした。何を祈ったかといいますと、『神さま、こんな罪人の私をあわれんでください。』こういうふうに、祈れば必ず、聞き届けられます。イエス様はこのたとえ話を話されたとき、必ず、大喜びだったに違いない。

へりくだれば、オーケー。パウロという男は、どうしてこんなに祝福され、用いられたのでしょうか?もちろん、最高の教育を受けた人で、頭がよかった。けど、だから用いられたのではない。へりくだったからです。コリント第一の手紙の15章の中で、彼は特別な使命を受けた、いわゆる使徒たちについて書いたのです。

第一コリント
15:9 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。

使徒たちはいっぱいいるでしょうけど、一番、もっとも、小さいものは私です。ペテロ、ヨハネ、ヤコブを読むと、すごい。けど、一番、小さいのは私、とパウロはもちろん、そう思ったのです、心から。エペソ書の中で、パウロは今度は、主イエス様の恵みによって救われた人々について書いたのです。今度は、使徒たちについてではなくて、聖徒たち、主によって救われた人々について書いたのです。

エペソ
3:8 すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え(るためです。)

結局、もちろん、使徒の中で最も小さいものだというだけでなく、聖徒たち、イエス様を信じるものたちのうちで、『一番小さいのは私』と、パウロは書いたのです。こういうふうにへりくだったのです。そして、テモテ第一の手紙の中で、愛弟子であるテモテにまた、すばらしいことばを書いたのです。

第一テモテ
1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

『一番ひどいのは私。』パウロはどうして、主によって用いられたかといいますと、このような態度を取っただけでなく、取り続けたのです。昔の預言者たちは、主の使いとして、主のお考え、主の御心を明らかにした者でした。預言者、イザヤは、次のように語ったのです。

イザヤ
61:1 神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。

66:2 わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。

へりくだること、御言葉におののくことこそが要求されています・・・もし、主に祝福してもらえば、用いてもらいたいと思えば。ダビデという男は、経験したから、次のように証ししました。有名な詩篇51篇の中です。

詩篇
51:17 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

ダビデはこのように、告白しました。体験したからです。生まれながらの人、まことの救いにあずかっていない人は、誇って、自分勝手な道を歩もうとします。実際、救いのない人は、乞食よりも貧しい者です。従って、心貧しき者となることこそが、考えられないほど、大切なのではないでしょうか。すなわち、イエス様の霊によって自分の本当の姿を知り、怖れおののいて、自分からは何も期待することのできない人となることが大切です。

へりくだることとは、自分が強く、偉大な、富んだ者ではなく、本当にみじめで、あわれな存在にすぎないことを認めることです。このことを本当に知る人だけが、思うところのすべてを超えて、豊かに施すことのできる主イエス様のみもとに行くことができます。おごり高ぶる者、本当に心砕かれていない者には、約束も望みもありません。呪いのもとに置かれます。イエス様は、私たち一人ひとりのために、貧しくなられました。このイエス様とは、聖書によると、全宇宙を創造された方です。永遠から生きておられるお方です。全人類を救うために、このイエス様は三十三年間だけ、奇跡的に人間の体を持つようになり、この地上に現れ、ご自分の自由意思で結局、私たちのために貧しくなられました。

イエス様の貧しさとは、いったい、どういうものだったでしょうか。イエス様の貧しさとは、父なる神に対して、御自身がお選びになった依存です。イエス様は、父なる神から聞いたことだけを語り、父なる神が行ったことだけを行ったのです。イエス様は、よく、『私はなにもできません、何も知りません。』結果として、祈り続けたのです。イエス様は、自分で考えて行動したことは、一回もなかった。まず、父の御心を尋ねてから、行動したのです。決して、自分で勝手になさることをしなかったのがイエス様です。

意味は、父なる神に全く拠り頼んで、いつも、父のみこころに服従なさったのが我々のイエス様です。私の思いではなく、あなたの御心だけがなるように。この祈りは、まさに絶えざるイエス様の態度でした。

私たちは、ただ、救われるために救われたのではない。イエス様の御姿に変えられるためであると、聖書は、よく言っているのです。そして、イエス様の御姿に変えられるために本当のまことの知識の与かる必要があります。けども、まことの知識の内容とは、いったい、なんでしょうか。

まず、私たちは、我々の生まれながらの罪の性質は決して直らない、ということを知らなければなりません。これを知っている人は、『自分でやることはできない、主に拠り頼まなければ、何もやることができない』ということも知っているのです。私たちは、罪を赦されて、主から義と認められるためには、自分で何もすることができなかった。ただ、一方的なあわれみによって、よしとされ、義と認められ、救われました。

同じように、私たちがきよめられていくのも、自分の行ないではありません。このことも知らなければならない。このことをまことの知識として知っている人は、自らを、自ら、きよめようと努力することをやめ、ただ、よみがえられたイエス様に、自らをおゆだねするはずです。

しかし、問題は、いかにしてこの知識に至るのでしょうか。それは、イエス様と同じ姿に変えられていくことによってのみ、できるのです。けども、イエス様の霊は、イエス様と同じ姿に我々を変えるみわざを、ただ、悩みによって、苦しむことによってのみ行います。悩みと戦いの真っ只中にあって初めて、主イエス様と同じ御姿に変えられていくのです。

イエス様は、我々を人間的な目で見るならば、全く望みのない状態に導いてくださいます。どうして、何のためでしょうか。それは、私たちが、我々の生まれながらの罪の性質は、絶対に良くならないものであるということを、本当の知識として知っているかどうか、また、私たちは、きよきに至ることについて全く無力であるということを、まことの知識か、単なる教えであるか、または、我々のいのちとなっているか、これらを試しみるため、主は悩みのうちに私たちを導いてくださいます。

イエス様が、私たちを通して、集会全体を通して、現わされていかなければいけませんが、これこそが、主の目的、目指すところそのものであります。『私はすぐ』と、何回も、何回も書いてあるから本当にありがたい。

信じる者が悩み、苦しみ、押しつぶされているのは、偶然ではない、主のせいです。主のご計画です。その苦しみによって、兄弟姉妹のうちにイエス様の御姿がかたち造られて行きつつあるのです。イエス様に変えられることこそが、主の導きの目的であるから、すぐに祈りに応えて、悩みから解放されるということをされないのです。

我々の主イエス様によって、この大宇宙が創造されました。けども、このイエス様は叩かれ、鞭打たれ、唾(つばき)せられ、侮られました。もし、イエス様がそうしようと思われたなら、それらの人たちは、イエス様の一言で、この地上から抹殺されたはずです。たちどころに滅んでしまったはずです。けども、イエス様は耐え忍んで、すべてを負われ、自ら悩みをよしとされ、両手、両足に釘を打たれ、十字架の上で、『お前は人を救ったのに、自分を救うことができないのか』と罵られたのです。もし、しようと思えば、イエス様のために、十二の天の軍勢が控えていましたから、イエス様の一言(ひとこと)で、イエス様を救うためにやって来たでことしょう。けど、イエス様はそうしなかったのです。

イエス様はどういうお方でしょう?柔和にして、心へりくだったお方です。私たちは、このような主と同じ御姿に変えられていきたいものです。イエス様は、透き通った人格をお持ちでした。極みまで、ご真実な方であり、また、偽善を知らなかった方でした。二心(ふたごごろ)を持たなかった方でした。向こうに行って、あのように言い、こっちに行って、都合のよいことを言うといった方では決してありませんでした。私たちは、この主の御姿に変えられなければなりません。

イエス様は、はっきりとした目的を持っていたお方でした。イエス様は祈りの方でした。また、勇気のお方であり、柔和にして、心へりくだった方でした。平安、平和、喜びの方でした。この御姿に、私たちも変えられていきたいものです。これに至る道は、言うまでもなく、主の歩まれた道を歩むべきです。悩み多き道、誤解に満ちた道、また、それは、あざけりに満ちた道です。私たちが、静かにイエス様によって吟味していただくことが必要なのではないでしょうか。イエス様が我々に語ってくださり、妨げとなっているものを全て明らかに示してくだるように。

詩篇
139:23 ・・・私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
139:24 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。

ダビデは心から祈って叫んだのです。エレミヤ哀歌の中で、ひと文章なんですけど、次のように書かれています。

哀歌
3:40 私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。

これこそ、信じる者の叫びであるべきです。私たちの道を尋ね調べ、主のみもとに立ち返ろう。主は立ち返るべきであると言っておられますが、どうしてでしょうか。それは、私たちが間違った方向に進んでしまったから。私たちが戻らなければならないから。どうして?それは、主から知らないうちに、離れてしまったからです。このことを認識することは、非常に謙遜なことです。そして、認められた罪、過ち、債務を告白することは、非常に大切な、必要なことです。

旧約聖書の中で、サムソンという男について、いろいろなことが書かれています。言うまでもなく、彼は主によって特別に選ばれた民に属するものでした。もちろん、主を信じた男でした。それだけではなくて、長い間、主の御手にある器として用いられました。けども、士師記の16章を読むと、彼が、自分の抑えがたい情熱によって、気がつかないうちに、主なる神の霊が彼から去ってしまった、ということです。イスラエルの敵は、サムソンをあざ笑いました。というのは、彼は、主の霊なしには、力なく、望みなく、助けのない者になってしまったからです。何という悲劇でしょうか。

ダビデという王様は、ただ単に主なる神の民に属していただけではない。選ばれた民の指導者でした。サムエル下の11章を見ると、彼は、バテ・シェバという女性と姦淫を犯し、ナタンという預言者の奉仕によって、自分自身を主の光の中に見ることができ、次のように告白せざるをえませんでした。『その姦淫をした男は私です。』ここにも、比類のない悲劇があります。

エリヤという預言者は、確かに主に選ばれた、遣わされた預言者でした。御言葉を運ぶものでした。けど、彼はあるとき、落胆して、荒野(あれの)に引き戻り、主に自分のいのちを奪って欲しいと真剣に祈りました。列王記上の19章を見るとわかります。すなわち、彼はまったく、ぺちゃんこになってしまいました。そのことに対して、悪魔はどれほど、勝ち誇ったことでしょうか。

イザヤという預言者は、自分自身を主の光の中に見ました。彼は、自分の不潔さ、不純さに驚き、次のように叫ばざるをえなかったのです。『ああ、私はわざわいです。私はもうだめだ。』彼は全ての障害物を認識し、こういうふうに告白せざるを得なかったのです。

もちろん、イエス様の弟子たちについて考えても、同じことが言えます。弟子たちのことを考えてみると、ちょっと大変です。最後の晩餐のとき、イエス様は言われたのです。『あなたがたの一人が、わたしを裏切ります。』すると、一人の例外もなく、全ての弟子たちは、驚いて尋ねたのです、『主よ、それは私ですか』と。私たちも、また、「主よ、それは私ですか?」と問うべきなのではないでしょうか。私は、あなたを悲しませたのでしょうか。隠れたところにある障害物を私にお示しください。私の障害物を認める恵みを、お与えになってくださいと、祈るべきなのではないでしょうか。

ペテロが自分の恐るべき、絶望的状態を認めるようになりましたことが、ルカ伝22章に書いてあります。『彼は、外に出て激しく泣いた』と、書いてあります。もう、お終い。許され得ない罪を犯してしまったと、彼は思ったのです。

これらの主のしもべたちは、皆、主に立ち返りました。光の中に出ることを、あえてしましょう。すべての偽善的な行為をやめましょう。私たちも、サムソンのように、力のない、望みのない、助けのない、あらゆる状態から脱出すべきです。ダビデのように、あらゆる偽善と姦淫から脱出すべきです。エリヤのように、あらゆる無気力と失望、落胆から脱出すべきです。イザヤのように、あらゆるメクラの状態と不純から脱出すべきです。また、ペテロのように、あらゆる思い、高ぶりと傲慢から脱出すべきです。聖書の報告とは、本当にすばらしいものです。すなわち、サムソン、ダビデ、エリヤ、イザヤ、ペテロは、自分の罪過を認め、主に告白し、主のみもとに立ち返った後、全く回復されたということです。

今日(こんにち)、大きな問題となっているのは、十字架のないキリスト教が宣伝されていることではないでしょうか。いかなる努力、いかなる熱心さ、いかなる聖書的信仰も、私たちが十字架、あるいは、十字架につけられることを恐れるとき、すべて不十分なものとなってしまいます。イエス様の苦しみにあずかることなしには、成長も、実を結ぶこともありません。日々、打ち砕かれることなしには、我々の自我は主の働きの妨げとなります。

打ち砕かれたあとで初めて、主はお用いになります。そういう実例は聖書の中にいっぱいあります。ギデオンとともにいた三百人の兵士たちの持っていた土の器が砕かれたとき、初めて、その中に入っていた松明(たいまつ)が光を放ちました。主は、まず、ご自身に持ってこられたパンを裂くことによって初めて、何千人もの人々を満腹させることがおできになりました。ナルドの壷(つぼ)もまた、高価な香りを家中に満たされる前に、砕かれなければなりませんでした。サウロが徹底的に砕かれる備えを持ったときに初めて、主は、彼を用いることができたのです。ヤコブもまた、腰の骨を外されて、びっこを引いて歩くようになったと、聖書に記されていますが、彼もまた、砕かれた後で初めて、祝福を受けるようになりました。

信じる者のうちにあるイエス様のいのちは、私たちが日々、主に自分の意思を意識的に従わせることによって、砕かれることによってのみ、明らかになります。私たちの心ではなく、あなたの御心をなしてください。これが、我々の主、イエス様の生涯、変わらなかった態度でした。ですから、イエス様から恵みの流れが、いのちの泉が、人々に分け与えられたのです。

私たちの考え、感情、意思、すべて、イエス様のご支配のもとに置かれると、その時、はじめて、私たちの内から、同じいのちの泉が湧き出てくるはずです。『イエス様、私は自らに絶望している。自ら何もすることができません。どうか、私を通して、ご自身の御心をなさってみてください。』こう、心から言うことができれば、本当にありがたいと思います。


おわり

0 件のコメント:

コメントを投稿