2012年6月26日火曜日

平安を得るための苦しみ

平安を得るための苦しみ
2012年6月26日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

出エジプト記
15:22 モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。彼らには水が見つからなかった。
15:23 彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラと呼ばれた。
15:24 民はモーセにつぶやいて、「私たちは何を飲んだらよいのですか。」と言った。
15:25 モーセは主に叫んだ。すると、主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。その所で主は彼に、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた。
15:26 そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」
15:27 こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめやしの木があった。そこで、彼らはその水のほとりに宿営した。


エレミヤ
31:13 そのとき、若い女は踊って楽しみ、若い男も年寄りも共に楽しむ。「わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませる。」

ヘブル
12:6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。
12:7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
12:8 もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。
12:9 さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
12:10 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

今、読みました箇所とは、結局、全部、当時の人々の告白、また、証しです。『私の苦しんだ苦しみは、平安のためでした。』結局、必要だった。偶然ではなかったということです。生けるまことの神は、たいへんな苦しみを平安に変えることができるお方です。私たちは皆、いつか、将来、次のように告白するようになります。『主のあらゆる導きは、完全でした』と。

偶然は、存在しません。いわゆる荒野(あらの)の経験、すなわち、理解することができないような試練を通して、私たちは、私たち人間の中に何があるかを、知ることができるようになります。そして、このような試練を通して、私たちは、主なる神の全能、主の愛、主の恵みをさらに、いろいろなかたちで、より良く体験することができます。

すべてを環境のせいとか、他の人のせいにすることをしないで、主の御手から、すべてを受け取る者は幸いです。我々の主なる神は、すべての背後に立っておられ、少しの間違いもなさいません。

イスラエルの人たちも、また、マラというところに行ったのです。けれど、これは決して、偶然ではなかったのです。主ご自身が、彼らをそこへ導いてくださいました。そして、主は、お導きになる時にいつも、はっきりとした目的を持ち、はっきりとした目標を追求なさいます。

イスラエルの民は、確かにたいへんな苦しみを味わわなければならなかったのです。けれど、それこそ、主のご計画でした。すなわち、彼らは、それを通して、失望を経験しなければなりませんでした。けど、彼らはまた、主なる神の御業(みわざ)をも経験したのです。主なる神は、マラの苦い水を少しだけ、甘くなさるだけではなく、水全体を雨水、飲む水に変えることがおできになるのです。言いあらわすことのできないほど、大きな激しい苦しみは、救いと平安となるべきでした。

人生とは、いったい何なのでしょうか?それは、高揚と落胆、悲しみと喜び、祝福と呪いの繰りかえしではないでしょうか。主なる神は、私たちが、主の喜びと平安に満たされて、主の光の中に生きることを望んでおられます。そして、実際に私たちは皆、しばしば、自分自身のことを中心に考えてしまう、主の働きの妨げとなってしまうことを経験します。けど、主は、私たちが理解できない多くのことを許しておられます。それにもかかわらず、すべては、我々にとって、最善となるよう、また、主の栄光のために、配慮されています。私たちは、喜びと歓呼をもって、夜、眠りにつきますが、次の朝、たとえば、電報が来て、電話があって、その瞬間に、すべてが壊れてしまうというようなことがあるかもしれない。もはや、日の光を見ることができない。すべては、非常に厚い闇の中に覆われてしまうかのようになります。すなわち、その時、私たちは、マラに来てしまった。

モーセはたいへんな課題を克服しなければならなかったのです。というのは、二百万人以上の人たちが、モーセに信頼していたからです。彼らは皆、エジプトから引き出され、主なる神の贖いを経験し、流された過ぎ越しの小羊の血の価値を知っていました。彼らは、信じる者でしたが、その信者たちを信仰的、霊的に導いて、約束された国、カナンの地にともに入るようにすることが、モーセに与えられたたいへんな使命でした。

イスラエル民族が、紅海を通って、主の大いなる奇跡的な業(わざ)を経験した時、たとえようもないほどの歓呼の声があがり、彼らは喜びのあまり踊り出し、出エジプト記の十五章に書かれたモーセの歌をもって、主の勝利を喜び、祝いました。けど、こうした主のすばらしい御業を経験した後、彼らは三日間の試練の時を迎えました。すなわち、一滴の水も無い生活が始まったんです。水の無い、憩い場も無い、荒野での三日間は、決して、簡単ではありませんでした。けど、突然、彼らは、待ち望んでいた水を見ました。『水だ!水だよ』と、多くの人々が喜びながら叫んだことでしょう。彼らは、気持ちも楽になって、大喜びで、水のところに駆け寄りましたけど、何とがっかりしたことでしょう。それは、苦くて飲めないような水でした。喜びは悲しみ、失望、つぶやきに変わりました。しかし、私たちは、このような状態を、単純に、過去に起こったこととして片づけてしまうのは、明らかに間違っています。

過去の歴史的事実も、また我々に何かを語っているはずです。パウロは、ローマ書の中で書いたのです。

ローマ
15:4 昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。

また、パウロはコリント第一の手紙にも同じようなことを書いたのです。

第一コリント
10:11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。

ですから、私たちは、マラにおけるイスラエルの民の経験を通して、主が我々に何を教えようとしているのか、考えなければならないのではないでしょうか。それについて、簡単に、四つの点をあげて考えることができます。第一番目、私たちが予想しなければならない試練について。第二番目、私たちが避けるべき危険について。三番目、私たちが取らなければならない態度について。そして、四番目、適用されるべき万能薬についてです。

まず、第一番目、予想しなければならない試練について、ちょっと、考えてみましょう。疑いもなく、私たちは誰でも、皆、マラの経験をしています。すなわち、軌道から外れてしまったり、失望、落胆させたり、すべての望みを私たちから奪ってしまうような経験が、ここで言うマラの経験です。ソロモン王は書いたのです。

箴言
14:10 心がその人自身の苦しみを知っている。その喜びにもほかの者はあずからない。

すなわち、誰でも自分の苦しみや悩みを持っており、いろいろな問題で弱り果て、出ることも入ることも解からないような状態に置かれるという経験を持っているはずです。あなたは今、まさに、そうしたマラの中にいるかもしれない。悪魔は、あなたに囁くかもしれない。『あなたが何をしても、結局、無意味だよ。』諦めて、あなたは、望みの光を全然、見ることができないかもしれない。人間的に見るならば、そこには、何の望みもない。けど、私たちは、人生とは、そういうものだという事実を避けることができません。誰一人、マラを避けて通ることはできない。主なる神ご自身も、自分の民をマラへと導きました。

主なる神は、もちろん、私たち一人ひとりをもマラ、すなわち、逃れ道のない状態に導き入れるでしょう。けど、偶然は存在しません。主なる神ご自身が、御手のうちに、手綱(たづな)を持っておられ、それを、他の誰にも渡しません。おそらく、あなたは今まで、大切にされたことでしょう。すべてのことは、うまく行き、あなたはそれほど、大した困難を経験しなかったかもしれない。けど、困難はやって来ます。それは、ひょっとすると、明日かもしれない。あるいは、来月かもしれない。あるいは、三年後かもしれない。これは、悲観論とは関係がない。それは、主のみことばである聖書の言っていることです。誰も、マラから逃れることはできません・・・ということです。

次のように言う人たちが確かにいます、『救われる人は、もはや、何の悩みも苦しみも問題も持っていない』と。けど、それは、根本的に間違っています。主が、我々を試練に会わせ、清めることができるため、悩みは、たくさん存在しています。すなわち、これらの悩みは必要である。そもそも、信仰者になる時に、初めて始まるのです。信者の人生はいつも、嬉しくて嬉しくてしかたがないという人生ではありません。間違いなく、主は言っておられます。この世には悩みがある。あなたがた信じる者は、世にあっては、艱難があると、はっきり言われました。ペテロも、同じように書きしるされたのであります。

第一ペテロ
4:12 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、
4:13 むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。

前に読んでもらいましたヘブル書、十二章の中で、『主はその愛する者を懲らしめる』と、あります。すなわち、懲らしめられること、マラへと導かれることは、私たちが、主に愛された者であるということの証明です。私たちは、主に関心を持たれています。主は、私たちのことを配慮しておられます。まことの信者は誰でも、困難な試練を通って、主の後に従うようになるのです。私たちにこうした苦しみや悩みがないとするならば、私たちは、本当に主を愛し、主をよりよく知りたいと思っているかどうか、疑わしいものです。

出エジプト記
13:18 それで神はこの民を葦の海に沿う荒野の道に回らせた。

質問があります。どうして、主は回り道をさせたのでしょう。どうして、主の民は荒野を通らなければならなかったのでしょう。なぜ、救いに預かった者、主に愛されている者が、マラへ行かなければならなかったのでしょうか。その理由は、出エジプト記の十五章、二十五節に与えられています。『主は彼に、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた』と、あります。心の中にあるものは、明らかにされるべきです。そのために、荒野の経験は、どうしても必要です。もう一箇所、読みます。私たちの問いに対して、ここで答えられています。

申命記
8:2 あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

主は、私たちを悲しませるために試練を与えたり、困難を許したりなさるのではなく、私たちを謙遜にするため、また、心の奥底にあるものを試すために、それらのことをなさるのです。私たちが、本当に主に留まるかどうか、私たちが、本当に主を愛するかどうか、また、どんな代価を払っても主に従うかどうかが、必ず明らかになるはずです。けど、主は、ただ単にマラへ導くだけではなく、さらに、エリムへも導かれますね。

出エジプト記
15:27 こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉・・・があった。

主がお与えになり、お許しになる試練は、非常に、いろいろな種類のものです。イスラエルは、飲むことができないほど、苦い水を経験しただけではなく、水が全然、無かったこと、パンが一切れも無かったことをも経験し、また、敵から攻撃された経験もしました。

主が我々にお与えになる試練は、いろいろ、それらは、しばしば、ほとんど耐えられないほど、厳しいものです。イスラエルにとって、マラは、困難な経験でもありました。人は誰でも、水を必要とします。けど、三日間ものあいだ、彼らは、水を求め続け、見つけたと思った時には、そして、また、実際に、その水を見て飲もうとした時、その水は、とても飲めないほど苦い水でした。

私たちは、次のことを決して忘れてはならない。すなわち、私たちもまた、試練を受けなければならないということです。試練は、我々に対する主の愛の証明です。もしも、私たちが試練を通らないで、簡単な楽な道を選ぼうとするならば、それは、我々にとって、決して、好ましいものではなく、むしろ気の毒なことです。我々の経験がどのようなものであろうとも、私たちは、次の態度をとるべきです。すなわち、『主よ、どうか、引き続き私にのぞんで働いてください。あなたの御心だけが行なわれますように』と。

私たちに理解しがたい苦しいこと、すなわち、マラの経験をする時、私たちの反応が問題なのではないでしょうか。なぜならば、どうしても避けなれければならない危険が存在するからです。これが、我々の第二番目の点ですね。すなわち、私たちが避けるべき危険とは、いったい、どういうものなのでしょうか。イスラエルの民がマラへ行き、恐ろしい失望をしたとき、彼らの反応は全然、ダメでした。

出エジプト記
15:24 民はモーセにつぶやいて、「私たちは何を飲んだらよいのですか。」と言った。

神の民は、度を失いました。イスラエルの民は、神の僕(しもべ)、モーセに対してつぶやき、そのことによって、実際には、主ご自身に対して、つぶやくことによって、心の憂さ晴らしをしました。つぶやく者は、もはや、信頼しません。外部の事情によって動かされる者は、簡単に度を失います。イスラエルの人たちは、彼らを解放してくださった力強い主に対しては、褒め歌を歌いました。心から。けれど、そのすぐ後で、彼らは完全に打ちのめされ、主に対して不平不満をつぶやきました。

私たちも、このようなイスラエルの人たちと同じではないでしょうか。主は、私たちが理解できない苦しみを経験することを許しておられます。私たちの心の中が、夜、すなわち、暗澹となるのは、いかに容易く起こることでしょうか。私たちは、絶望の淵に容易く立たされるのです。けど、主を見上げる者は、マラからエリムへ進んで行くこと、すなわち、たいへんな苦しみを通して、全く新しく変えられることを経験できます。すなわち、私たちは、新たなる使命、新たなる奉仕を与えられます。

不信仰は、私たちを、つぶやきや反発へ導きます。目に見えるものに支配される者は、とんでもない方向に行ってしまいます。苦しみや悩み、多くの問題、理解できない導きを見る者は、自己憐憫に陥ります。

私たちは、つぶやき、次のように言い始めます。『主は、私たちに飲む水を与えることがおできにならなかったの?主は、このこと、あのことをやめることが、おできにならなかったのだろうか。主はなぜ、守ってくださらなかったのでしょうか。』もちろん、主は、おできになったでしょう。主にとって不可能なことは、何一つありません。問題は、信仰者が、本当に、主に信頼しなかったことだったんです。主は、いつも、信仰者の近くにおられ、助けたいと思っておられ、ご自身を啓示したいと思っておられる。祝福したいと思っておられました。

私たちが試練に会う時、我々の反応はどのようなものであるべきでしょうか。私たちの上に困難が襲いかかり、逃れ道が見えない時は、いったい、どうでしょうか。私たちが、苦しいマラの状態に置かれた時、そして、どうなるのか本当に解からない時は、どうでしょうか。

三番目、取らなければならない態度について、ちょっと考えたいと思います。私たちは、避けるべき危険は、つぶやくことであるということを見てきました。私たちは、つぶやくことによって、少しも前進しません。すべてが途方に暮れるような状態、また、あらゆる反発は、我々の不信仰のしるしです。私たちは、試み、すなわち、つぶやいたり、反発したりする誘惑に対して、どうすれば、勝利を持って、立ち向かうことができるのでしょうか。それが、問題です。

私たちが読んだ聖書の箇所には、次のように記されています。『民はモーセにさからってつぶやきました。しかし、モーセは主に叫びました。』これこそ勝利の秘訣です。モーセは、主に叫んだのです。モーセは、怒って人たちを叱りつけることをしませんでした。モーセは、次のように言うことができたでしょう。『どうか、愚かなことをしないで、主なる神を信じなさい。主は、今もなお、何でもおできになるお方です。主は決して、来るのに遅すぎるということはない。主にとって、不可能なことは何もありません。』

モーセは、人間を叱るかわりに、主の御許に行き、すべてを主に委ねました。また、モーセは、次のように言うことができたでしょう。『もう充分です。もう諦めます。自分勝手なことをしなさい。』また、モーセは、主に向かって、次のように言うこともできたでしょう。『もう主よ。私には荷が重すぎます。二百万人もの人たちの世話をするのは大変です』と。けどモーセは、そのような態度を取りませんでした。モーセは、精神的な重荷を持ちながら、主のところに行きました。それによってモーセは、根本的に解決されてしまっていたのです。と言うのは、主は祈りを必ず、聞きとどけてくださるからです。御名のゆえに、主は応えてくださり、御自信を啓示してくださるのです。自分の重荷を持って、主の御許に行き、その重荷を主に委ねることのできる人は幸いです。

ヤコブ
5:13 あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。

ここでヤコブは、次のようには、言いませんでした。『あなたがたのうちに苦しんでいる人がいるならば、ただちに医者に急報しなさい。あるいは、長老を呼びなさい。』誰でもわかることは、祈るということです。苦しんでいる人がいれば、その人は、試練に会っているのであり、別の表現をすれば、先ほど申し上げた、マラの状態にいるのであって、つぶやくすべての理由を持っているでしょうけれど、その人は、主に呼び求めてください。

私たちは、どのようなことを経験しようとも、まず、第一に主を尋ね求め、主が配慮して、ご栄光を表してくださることがおできになるように、すべてを主に委ねましょう。サムエルの母親は、すばらしいことを経験しました。聖書は、彼女が心を痛めていたと言っています。

第一サムエル
1:10 ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。

確かに、彼女は苦しみましたけれど、諦めませんでした。彼女は、すべてを主に委ね、そして、祈りました。これこそ、勝利の秘訣です。主の御許に行く者は、捨てられません。その人は、主の偉大な解放を経験します。

エリシャという預言者も、また一人のやもめと共に、いわゆるマラの経験をしました。彼女が預言者に、『私の息子が亡くなりました』と言いました。この女が、いかに苦しんだか、私たちは想像できるでしょう。エリシャは、この苦しみ、悩んでいるシュネムの女を、もはや見ることができないほどでした。その時、エリシャは、いろいろな慰めの言葉をかけようとはしなかったのです。

第二列王記
4:33 エリシャは中にはいり、戸をしめて、ふたりだけになって、主に祈った。

その結果、主は、死んだ子供を生き返らせ、栄光を現してくださったのです。私たちが、苦しいマラの状態に置かれ、試練にある時、祈ることこそ、勝利の秘訣です。

ヒゼキヤという王様は、一通の驚くべき、ひどい手紙をもらいました。けど、彼は、そのことを怒ったり、不満を言ったりしませんでした。また、その手紙を公(おおやけ)に見せたり、苦情を言ったりしなかったのです。何をしたでしょう。

イザヤ
37:14 ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、主の宮に上って行って、それを主の前に広げた。

主に至る戸は、いつも開かれています。主は、私たちが、我々の問題と悩みを持って、主の御許に行き、主に信頼することを待っておられます。主は、奇跡を行なう方です。主にとって、不可能なことはひとつもありません。

主なる神に、非常に忠実に仕えたダニエルは、絶望的な状態に置かれることがありました。ダニエルの敵対者は、王に懇願し、一ヶ月以内に、王ではなく、神に願い求める者は皆、ライオンの穴に投げ込まれるべきであるという、変えることができない法律を発令するよう迫りました。ダニエルは、その時、何をしたでしょうか。怒って、王様のところへ行ったでしょうか。敵の卑劣なやり方に対して、怒ったのでしょうか。大勢の友だちを呼び集め、逃れ道を求めたのでしょうか。その内の何ひとつ、彼はしなかった。

ダニエル
6:11 この者たちは申し合わせてやって来て、ダニエルが神に祈願し、哀願しているのを見た。

6:10 ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。――彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。――彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。

すべてのことについて感謝した男とは、このダニエルです。すなわち、ダニエルは、法律によって許されていないことをしたわけですが、その時、彼は、主に叫び祈り、すべてを主に委ねました。ダニエルは、主なる神が、必ず御業を成していてくださることを確信したのです。このような信頼は、決して、失望させられません。不可能と思われたことが起こったのです。すなわち、ライオンは、ダニエルにあえて、触れようとはしなかったのです。信じられないようなことですけれど、本当だったのです。

我々の神は、生きておられます。主なる神は、主に避け所を求める人たちの人生において、主が全能者であられることを表してくださいました。

無実な罪で牢獄に入れられたパウロとシラスも、同じ態度を取りました。彼らは、鞭打たれ、犯罪者のように取り扱われました。けど、彼らは決して、反抗的な態度を取らなかったのです。また、彼らは、『なぜ、神はそんなことを許しておられるのか!私たちは主に仕えただけなのに、許しがたい暴挙ではないか』と、言いませんでした。結局、なんでも主の御手から受けたのです。

使徒行伝
16:25 真夜中ごろ(・・・いちばん、暗いとき・・・)、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌った。

彼らは、なぜ、そのように導かれたのか、理解できませんでした。けれど、主は、決して間違いをなさらない。このような導きも、我々にとって、最善の益になるに違いないと、彼らは確信したのであります。ですから、彼らは、祈りつつ、賛美の歌を歌うことができたのです。

モーセの状態も、同じように絶望的な状態でした。けれど、彼は祈りました。『主に叫びました』とあります。モーセは、すべての悩みを持って主のところに行きました。すると、主は答えてくださいました。

出エジプト記
15:25 モーセは主に叫んだ。すると、主は彼に一本の木を示された

木を示すことは、モーセの祈りに対する神の答えでした。祈る者は、以前に見たことのないものを見ます。主は、祈る人に、ご自身を啓示なさいます。苦しんだ苦しみは、いかにして、平安に変えられるのでしょうか。主が示された木によったのです。

人間が、絶望的な状態、苦しい状態において、いつ、主に叫んでも、その人たちは、主が聞いてくださるだけではなく、必ず、叶えてくださることを経験します。主は、大いなる御業をなさってくださり、その状態だけではなく、人間の心をも変えてくださる。モーセは主に叫びました。すると、主は、モーセの願いを聞きとどけ、問題全体の解決として、一本の木を彼に示しました。けど、それは何を意味しているのでしょうか。

これは、最後に第四番目の点ですね。適用されるべき万能薬について、ちょっと考えて終わります。万能薬は、どんなことにも効き目があり、いつでも、適用されるべき薬です。モーセに示されたこの木は、疑いもなく、イエス様ご自身です。この木が、苦くて飲むことのできないマラの水に投げ入れられると、すべての問題が解決され、その水が甘くなって飲めるようになります。

旧約聖書においては、約束された救い主、主イエス様について、次のように述べられています。

エレミヤ
23:5 見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。

この約束、この預言で、約束されたみことばは、もちろん、イエス様にあって、成就されました。主イエスは、罪の大問題を解決してくださったのです。

第一ペテロ
2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

もちろん、若枝が木の一部であることは、言うまでもありませんが、その若枝とは、主イエス様のことを意味しています。しかも、救いの御業は、イエス様が、木で作られた十字架にかけられたことによって成就されました。したがって、ここで言う木とは、まず第一に、イエス様ご自身のことを、第二にイエス様によって成就された救いの御業を意味しているわけです。ここで覚えていただきたいものは、我々に何が起ころうとも、また、私たちの悩みが、いかに大きなものであろうとも、万能薬は、主イエス様と主の成就してくださった御業であるということです。

イエス様は、苦しみと死を通して、永遠に救われる道を開いてくださいました。イエス様は、大祭司として瞬間、瞬間、どのような一瞬であっても、我々のことを覚えてくださり、我々のために弁護してくださり、我々のために働いていてくださるのです。

確かにイスラエルの民は悩みました。置かれた状況は、たいへんでした。結局、もはや、何の望みもないと、彼らは思ったでしょう。確かに、そのような状態で、不安や不満を言ったり、自分の殻の中に閉じこもってしまうことは理解できますけれど、それは、贖われ、解放される道ではない。私たちは、我々よりも、はるかに苦しまれ、底知れぬ深みを通っていかれた、主を見上げなければならない。

私たちの主イエス様は苦しみを味わってくださいましたが、その結果は何だったでしょうか。比類なき救いでした。全人類の罪の問題は解決されました。悪魔は、力を失い、死の力を奪われました。私たちが皆、いかなるマラの経験に対しても、それが、どれほど我々を苦しめ、落胆させようとも、そのことに対して、いつか必ず、主に感謝できると確信しています。

イエス様が、十字架につけられ、捨てられ、呪いとなられたことによって、主なる神は、最大の勝利を勝ち取られました。外側を見ると決して、そのようには見えず、悪魔が勝利したように見えました。私たちも、また、何でも、次のように思うかもしれない、『それは、悪魔の勝利ではないの?どうして神は、そんなことを許すのでしょうか。』

私たちは、万能薬を適用しなければならない。私たちは、木を苦い水の中へ投げ入れるべきです。意味は、ありのままの状態で、我々の悩み、すべてをもって、我々は、十字架につけられた方、すなわち、イエス様の御許に行こうではないか。主は、苦しんだ苦しみを、平安と祝福に変えてくださいます。私たちは、完全に打ちのめされた状態から、溢れるばかりの喜びに至ります。パウロは、木を苦い水の中へ投げ入れた男でした。それですから、彼は、次のように告白しました。

第二コリント
4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

避け所であるイエス様のところに行きましょう。

主はその状態を変えてくださるだけではなく、我々の周りの人たち、それどころか、自分自身も変えてくださいます。すべての重荷と悩みを持って、主の御許に行く者は、今日もなお、私たちの苦しんだ苦しみは、平安のためでしたということを、経験することができるのです。

おわり

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