2012年6月19日火曜日

何でもできる主イエス様

何でもできる主イエス様
2012年6月19日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ヘブル
4:14 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
4:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

7:25 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。


12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
12:3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

今、読んできてくださった七章の二十五節は、本当に、すばらしい約束です。イエス様は、完全に救うことができるお方です。いつも、とりなしていてくださるのです。この事実について考えると、結局、何があっても、悩みながら喜ぶことができる、前向きに生活をすることができるのです。『イエスから目を離さないでいなさい。』これこそが、信じる者にとって、もっとも大切な命令ではないでしょうか。

イエス様は、救うことができるお方です。実際生活において、何か、困難な問題に直面すると、『私は、それをしたいけど、できない』という場合が、よくあるのではないでしょうか。けど、それとは反対に、イエス様にとっては、不可能なことはない。イエス様にとっては、何でもできることであり、イエス様は、したいと思うことを、すべて完全に成すことができるお方です。今日も、完全に救いを、解放を与えることができるお方です。聖書によると、イエス様によって、あらゆる絶望、疑い、失望、苦しみが解決されるのです。

聖書を通して、私たちは、どうしようもない者として生まれたこと、そして、罪の恐ろしさのことを知ることができます。また、聖書を通して、主なる神の神聖さ、また、厳しさを知ることができます。罪を犯した魂は、死ぬべしと聖書の中で、何回も書いてあります。すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていると。けど、主なる神は、そのひとり子を賜わったほどに、この世、我々を愛してくださいました。すなわち、私たち罪人の代わりに、イエス様が犠牲、尊い犠牲を払ってくださったのです。イエス様は、代わりに死んでくださった、これこそ、聖書の中心なる福音そのものです。

もし、私たちがこの事実を信じ、受け入れるならば、もはや、いのちを失うのではなく、永遠のいのちを得るにいたるのです。完全な、現在の、そして、永遠の救いは、イエス様だけが、我々に与えることができるのです。イエス様は、御許(みもと)に来る者をお救いになる。決して、捨てないと、約束しておられます。けど、なぜ、今、イエス様の御許に来ないのか。主なる神の右に座しておられるイエス様だけが、唯一の救いの道であるからです。『誰もわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできません。』

イエス様は、私たちがイエス様の御許に来て、信じ、受け入れることを、もちろん、二、三週間、何ヶ月か後ではなくて、今も待っておられます。主イエス様は、真理、正義、平和を真剣に求める者を完全に満たしてくださいます。私たちは、イエス様がどれほど、自分を愛しておられ、待っておられるか想像することができません。ルカ伝十五章を見ると、いわゆる放蕩息子の父親が、毎日、息子が帰るのを待って、地平線のかなたを見ていたことがわかります。そして、ぼろぼろに汚れ果てた放蕩息子を、やつれ果て、息もたえだえに戻ってきた姿をはるかかなたに認めた時、父親は、急いで走り寄って、息子をしっかりと抱きしめたのです。

私たちは、罪の贖いを受け入れようと思わないのでしょうか。主を拒むことをやめましょう。主なる神に対する先入観念を捨てましょう。もう、しっかりと根を下ろしてしまっている間違った考えを、捨てた方がいいのではないでしょうか。人間は、完全に信頼することができない、不完全な者です。けど、主なる神は、百パーセント、信頼することのできる完全なお方です。

イエス様は、今日も、誰にでも、完全に救うことができ、解放することができるお方です。多くの模範的な偉い人々が、死んで灰になりましたけれど、彼らといえども、私たちを助けることができません。イエス様は、よみがえられて、今もここに生きておられるのです。これこそが、私たちのもっとも必要としているものではないでしょうか。

イエス様は、今も、生きておられ、我々のために、父なる神にとりなしてくださるのです。イエス様は、私たちを押さえつけているものをすべてご存知です。イエス様は、私たちが、心の奥深くに、ひそかに持っているとしても、過去の私たちの罪を全部ご存知です。けど、私たちを訴えるかわりに、釘つけられた手を、私たちに差し伸べておられるのです。

今日もイエス様は、私たちの前に立っておられます。ただ、イエス様だけが、自分の心を変えることができるのです。ただ、イエス様だけが、自分の生活を満たしてくださるのです。ただ、イエス様だけが、自分の困難な問題を解決してくださるのです。箴言の二十八章十三節、皆、良く知っている、暗記している言葉です。

箴言
28:13 自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。

人間にとって大切なのは、あわれみを受けることだけです。主があわれんでくださらなければ、確かに、おしまいです。隠す者は危ない。二十八章の十三節。罪の告白なくしては、新しい生活はあり得ません。

けど、改心というすばらしい生活の第一歩で留まってはいけません。それからさらに、成長しなければならないのです。初めは大喜びであった人、初めは悔い改めの涙を流した人の何と多くの人が、信仰の成長を忘れてしまっていることでしょうか。初めの状態に留まってしまって、成長しないカタワの信者が、何と大勢いるのでしょうか。彼らは新しいいのちを与えられていながら、成長しないカタワの子供みたいなものです。これこそ今日、イエス様のからだなる教会の持つ一番、大きな悩みなのではないでしょうか。大部分の信者は、子供のような状態です。彼らは、もう、大人に成長していなければならないにもかかわらず、何十年も一年生に留まっているのです。

今日、最も必要なのは、イエス様のため、また、滅びゆく魂のために戦う戦人(いくさびと)なのです。けど、実際は、残念ながら、幼稚園の子供のような状態ではないでしょう。何が欠けているのでしょうか。どこに問題があるのでしょうか。それが、すなわち、成長するための食べ物が欠けているということです。食べ物は成長するために、どうしても必要なものです。これは、ただ単に肉体のみならず、霊的な成長にも当てはまるのです。新しい成長が育てられ、成長しなければなりません。新しい人は、みことばに飢え乾いているはずです。けど、多くの信者は、病気であり、倦み疲れており、あわれな状態であります。そのような人々の生活は、祝福ではなく、失望に満ちています。なぜ、もっと、もっと、成長しないのでしょうか。餓死してしまったからです。多くの人は、生存するための最低の食べ物しか食べないのです。たとえば、日曜日の朝だけ集会に来れば、充分だと思い込んでいる人が、餓死に瀕しているのです。

ずいぶん前だったんですけれど、二人の兄弟が毎日、一時間、聖書を読んでいるということを聞いた時、非常に嬉しかったんです。毎日、聖書を読むことは、なぜ、大切なのでしょうか。なぜならば、人間は動物ではないから。人間の魂は、肉体と同じように、食べ物を必要としているのです。私たちは、毎日、三度の食事をとっているのに、なぜそれと同じだけ、霊の糧を必要としないのでしょうか。からだの方が、魂よりも大切なのでしょうか。イエス様は言いました。

マタイ
4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」

自分はどうして、こんなに信仰がダメになってしまったのかと、疑い、あやしむ人がいますが、その理由は、霊の糧(かて)を食べていないからです。肉体に対しても、同じように、食べ物を採っていなかったならば、ずっと前に、死んでいたことでしょう。新しい人の正しい食物は、主なる神のことばであり、それこそが霊の糧です。主なる神は、『みことばこそ、汝のいのちなり』と、言っておられます。モーセが、そう言ったんです。

申命記
32:47 これは、あなたがたにとって、むなしいことばではなく、あなたがたのいのちであるからだ。

イエス様は、また、次のように証しをしておられます。

ヨハネ
6:63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。

主のみことばを食べ、消化することは、私たちを造りかえ、成長させるのです。イエス様のみことばを毎日、食べ、聞き従う者は、イエス様の御姿に似た者となり、次第に、性質、思い、歩みも、似た者となるのです。イエス様の御性質とは、死に至るまで、献身することです。新しいいのちの特徴は、自己決定ではなく、献身であります。有名なヨハネ伝十二章二十四節を見ると、イエス様は、次のように、結局、信じる者の成長のために言われたのです。

ヨハネ
12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

これこそ、新しい生活における祝福の秘訣です。この新しいいのちは、主なる神によって、与えられたものであるゆえ、決して、自分のものではありません。それですから、私たちは、新しいいのちを与えてくださった方に、すべてを捧げなければなりません。献身することによって、私たちの新しいいのちは、満ち溢れるのです。そして、主のために命を捧げる者こそ、汲めど尽きせぬいのちの泉に、満ち溢れるのです。新しいいのちは、主との結びつきに他ならない。二つのものがひとつになるのです。すなわち、新しいいのちは、主と結びついて、ひとつになることです。いのちの交わりは、主イエス様との交わりです。

イエス様は、私たちと共におられるだけではなく、聖霊によって、私たちの内におられます。信じる者は、誰でも、みことばに基づいて、聖霊が内に宿っているという確信を持つことができるのです。

エペソ
1:13 またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。

また、実を結ぶ秘訣について、イエス様は、有名なヨハネ伝、十五章四節に、次のように言われました。

ヨハネ
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

これこそ、成長と、実を結ぶことの秘訣です。すなわち、イエス様と私という二つの人格が、ひとつになっているのです。神の御子、すなわち、勝利者、いのち、光、力(ちから)である主イエス様は、あなたとひとつになることを望んでおられます。イエス様は、聖霊によって信じる者の内に宿り、信じる者と共通の生活をしようと望んでおられます。イエス様とあなた、これは、現在のためにも、将来のためにも、充分です。私たちの内におられるイエス様は、いかなる状態においても、足りておられるのです。

私たちは、イエス様によって、すべてが満たされており、あらゆる問題が、解決されています。イエス様の知恵と力は、いかなる悩みや、苦しみの時にも、本当に充分です。イエス様の愛は、完全な満足を与えてくださるのです。私たちは、主にあって完全な満足を見いだすか、または、絶対に満たされることがないかのどちらかです。

イエス様を持っている者は、すべてを持っている。人間が与えるものは、いかにすばらしいものであっても、イエス様の提供された贈り物と比べると、全く、色あせたものになってしまいます。イエス様を持っている者は、この世が提供するいかなるものをも、必要としないのです。イエス様の中に、尊い本物の真珠を見い出した者は、この世の提供する偽の真珠には、目もくれないのです。パウロは、これを確信したから、次のように書きました。すばらしい告白です。

ガラテヤ
6:14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。

私たちの内におられるイエス様は、決して、消極的なお方ではありません。イエス様は、私たちを新しくしてくださると約束されたゆえに、必ず、そうしてくださるのです。イエス様が、私たちの心の中に入られた時、私たちの心は、決して、きれいに掃除された神の宮ではなく、強盗の巣のように、荒されていたのです。私たちは、自分自身の力で清めることはできません。エレミヤ記の中で、次のように書かれています。

エレミヤ
13:23 クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか。もしできたら、悪に慣れたあなたがたでも、善を行なうことができるだろう。

もちろん、できません。それと同じように、私たちも、自分の心を清くすることはできないけれど、イエス様は、おできになります。イエス様が、私たちの内におられると、その血によって、絶えず、私たちを清めてくださるのです。ヨハネ第一の手紙、一章七節、皆さん暗記しているすばらしいことばです。初代教会の喜びの源(みなもと)でもありました。

第一ヨハネ
1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

イエス様の血によって清められた者は、新しい者です。私たちが清められる目的は、主の栄光を褒め称える者となるためです。

エペソ
1:12 それは、前からキリストに望みをおいていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。

かつては、主なる神に敵対する者であり、罪人であり、悪魔の奴隷であった私たちは、イエス様の血によって、新しく、造り変えられたのです。すなわち、主の栄光を褒め称える者とされました。

私たちの人生の目的とは、いったい何でしょうか。いわゆる幸せか、あるいは、金か、名誉か、愛情でしょうか。そうだとすると、私たちの人生の目的は、全く、低いものとなってしまうでしょう。主なる神の愛、また、知恵は我々のために、はるかに高い目的を配慮してくださっているのです。自分は、主なる神を褒め称える者となるべきです。主に似た者となるべきです。ヨハネ第一の手紙、三章の二節、非常に信じる者にとって大切なことばです。初代教会の兄弟姉妹の告白でもあり、確信でした。

第一ヨハネ
3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

その時、初めて、次のように、大声で、賛美することができるでしょう。

黙示録
5:12 ・・・ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。

私たちも、自分の人生のために、自分の人生のための、主なる神の目的を受け入れようと思いませんでしょうか。我々の人生は、今、主に喜ばれているのでしょうか。もし、そう望むならば、自分の全生涯を、自分のために、釘づけられたイエス様の御手の中に、明け渡しましょう。主が、我々の生涯において、主の目的を、必ず達成されることを、信じましょう。私たちの信頼は、イエス様を喜ばせる唯一のものです。我々の信頼は、私たちが、イエス様に表すことのできる唯一の栄光と誉れなのです。イエス様は、ご自身を我々に提供しておられるのです。

イエス様は、「わたしのもとに来なさい。わたしは、あなたを新しい者とする」と、約束しておられます。私たちの答えは、何でしょうか。誰かが、電話で、何かを求める時、私たちは、それに答えなければならない。お客様が玄関に来て、何かを話したいと思っている時、私たちは、そのお客様に、挨拶をする義務があります。誰かから、依頼の手紙をもらった時、私たちは、それに対する返事を書かなければなりません。そういうことは、礼儀作法として、当然のことであり、また、興味を持っているがゆえに答えるのかもしれない。聖書も、我々のはっきりとした答えを望んでおられます。

マタイ
27:22 ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」

私たちは、いかなる答えをするのでしょうか。私たちが主なる神と正しい関係に入ることを、主が、望んでおられます。金、努力、手柄などは、要求されていません。主なる神が、人間の滅び行く状態について言っておられること、イエス様が我々の救いと解放のためにしてくださったことを、信じなければなりません。

第一ヨハネ
5:10 神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。
5:11 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。
5:12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。
5:13 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。

主の御業(みわざ)に対する私たちの答えは、いかなるものでしょうか。今日、みことばを聞いた人は、心をかたくなにしてはなりません。イエス様の招きに、素直に、応じてください。ためらわずに、今すぐ、主の招きに従いましょう。『喜び、立て、主がお前を呼んでおられる』と、聖書は言っているのです。

おわり

0 件のコメント:

コメントを投稿