2012年6月5日火曜日

あなたの家族も・・・

あなたの家族も・・・
2012年6月5日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

マルコ
6:1 イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。
6:2 安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行なわれるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。
6:3 この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。
6:4 イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」
6:5 それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。
6:6 イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。


今の箇所は、よく知られている箇所です。イエス様は、驚かれた――驚かれたというより、悲しくなったのではないでしょうか。その場にいた病人を、イエス様は、もちろん、みな、例外なく、癒すつもりでした。けれど、何でもできるお方が、何もできなかったと書いているのです。彼らの不信仰のゆえです。聖書の中のもっともすばらしい約束の一つは、『主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。』けど、多くの信じる者は、結局、『なかなか、信じようとしない人々とは、頑固でけしからん。もしかすると、主の考えは違うかもしれない。主はどうして奇跡を行なうことができないのか!』これは、未信者の心の頑(かたく)なさよりも、信じる者の不信仰と不従順のためなのではないでしょうか。

主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。もちろん私たちは、家族と聞くと、血のつながりを持つ者と思っているでしょう。聖書のとき、新約聖書が書かれた時は、違ったのです。親戚も含まれている。知り合いの人でも含まれている。当時の金持ちは、時々。奴隷を扱ったのです。これも、家族でした。それを考えると、初代教会のおそらく、八割以上は奴隷でした。どうしてであるかと言いますと、奴隷を持つ人々とは、結局、彼らのことを大切にして、彼らのためにも、イエス様は死んでくださったから祈ろう、救われてもらいたい、多くの人々は、それによって導かれました。

主イエスを信じなさい。そうすれば、あなただけではなくて、家族も親戚も知り合いの人々も救われる。確かに、この言葉は、多くの人々にとって、愛されているみことばです。私たちも、何回も、このみことばで祈り、このみことばを信じてきましたけど、どうして、このみことばが、今日まで実現しなかったのでしょう。どうして、そんなにたくさん、答えのない祈りがあるのでしょう。もちろん、主は、ご自分の定められた時に、我々の祈りを聞き届けてくださるけれど、祈りが聞かれない原因も、考えてみる必要があるのではないでしょうか。

先週、私たちは、この祈りが聞き届けられない理由について考えました。七つの点だったんですね。不従順、隠された罪、無関心、聖書をおろそかにすること、頑(かたく)なな心、心の不安定、不純な動機のゆえに、主は、多くの祈りを聞き届けられない。主の御心とは、いったい何なのでしょうか?イエス様は、ひと言葉で言いました。

ヨハネ
6:40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て(・・・結局、わたしを見て・・・)信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。

永遠のいのちを得ることこそが、主の御心です。一時的な問題を解決することではないかもしれない。普通の人間は、やっぱり、今、この問題が解決されれば・・・と考えています。けど、主は、一時的な問題を次々と与えてくださる。そうでなければ、ペチャンコにならないし、結局、壁にぶつからなければ助けを求めない。そして、悲劇的なのは、それです。助けを求めなければ、助けられません。助け主を知ることができないからです。だから、イエス様は、『悲しむ者は幸い。』結果として、悩み、助けを求めるようになれば、『すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』主の絶えざる呼びかけとは、それなんです。『しっかりしなさい』なのではない。『勉強せよ』なのでもない。『わたしのところに来なさい。』

ヨハネ
6:37 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。

イエス様は、この世にいるあいだ、自分の家族のことで、考えられないほど、悩んだと思います。イエス様を産んだマリヤは、もちろん、初めから信じました。疑おうと思っても、できなかったのです。けど、他の家族の人々とはダメ。イエス様の弟さんたち、少なくても四人いました。妹さんたち、何人だったかわからないけれど、聖書は、妹さんたちと、書いているのですね。二、三人か、五、六人かわからない。けれどもダメでした。けども、五旬説の日、彼らはみな・・・

使徒行伝
1:14 ・・・婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。

イエス様の兄弟たちは、イエス様が殺されてから、復活なされてから、導かれ救われました。家族の人々と妥協しているところに、救いはない。絶えず、身をもって、証ししているなら、救いが訪れてきます。『主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。』このみことばを、私たちは、信じて、戦わなければなりませんが、このみことばを信じる現れとは、いったい、どういうかたちで現れるのでしょうか。まことの信仰の現れとは、いったい、どういうものなのでしょうか。まず、祈りにおける勝利です。

ルカ
10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。

あのマリヤがしたように、イエス様の足もとに、すわり続けることなしに、祈りの生活は成り立ちません。マリヤは、集会ではなく、自分の家で、主の足もとに、ひざまづきました。集会の時だけでなく、ただ一人でいる時、密室で、みことばを黙想し、主と親しく交わることは、本当に大切です。イエス様の御声を、聖書を通して聞いた人は、本当に祈り人です。

聖書は、アブラハムについて、『アブラハムは、神と顔と顔とをあわせて語った』と言っています。また、主なる神は、アブラハムに対して、『わたしのしようとすることをアブラハムに隠してよいであろうか』と、言っておられます。また、アブラハムは、なお主の前に立っていたとアブラハムの祈りの態度を、聖書は教えています。アブラハムの祈りは、砕かれた謙遜を身にまとった祈りでした。彼は、主に向かって、『私は、ちりや灰にすぎませんが、あえてわが主に申しあげるのをお許しください。』創世記、十八章二十七節です。このアブラハムの祈りの結果は、どうだったでしょうか。

創世記
19:29 こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。

アブラハムは、甥のロトに対して、無関心ではなかったのです。また、主の御前にとりなすにあたり、心が定まらないようなことも、ありませんでした。彼は、心を定めて、主の御前に立ち続けました。祈り続けました。家族に対してなされた、もう一つの祈りを見てみましょうか。

マタイ
15:21 それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。
15:22 すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
15:23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。
15:24 しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。
15:25 しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。
15:26 すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。
15:27 しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
15:28 そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。

家族の救いとは、そういうものですね。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれている。」あわれんでください。主人はまだ、聞く耳がない。子供もまだ、救われていない。彼女は、こういうふうに祈りました。私たちの家族、親戚、友人が間違った霊に取り付かれていると、いったらどうでしょう。実際に、悪魔の手の中に陥っているかもしれない。悪魔は、ヨハネによると、初めから、人殺しであると呼ばれています。永遠の滅びに滅ぼそうとする悪魔の手の中に、愛する家族が、友だちが陥っているのです。それを知りながら、私たちは、なお無関心でいることができるのでしょうか。悪霊に憑かれた娘を癒してもらいたい異邦(人)の女は、アブラハムのように、主の御前に叫び続けました。主は、必ず応えてくださると信じたから、叫び続けたのです。あきらめようとしなかった。

マタイ
15:28 そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。

私たちが、マリヤのように、主の足もとにひざまづき、何ものにもまして、主のみことばを愛し、また、アブラハムのように、主の御前に留まり続け、祈り、また、この異邦(人)の女のように、主の御前に叫び続けるならば、主は、必ず約束します。『あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように』と、みことばをかけてくださるに違いない。『主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます』というみことばが、実現します。私たちは、このみことばを、自分のものにしなければならない。

このみことばを信じる現れは、ここまで言いましたように、祈りにおいて、祈りにおける勝利という点に現れますが、第二番目、イエス様の全能に信頼するという点で現れます。

マタイ
8:5 イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、
8:6 言った。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」
8:7 イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」
8:8 しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。

これこそが、要求されている素直な信仰、信頼であります。

マタイ
8:9 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」
8:10 イエスは、これを聞いて驚かれ(・・・嬉しくなったでしょうね・・・)、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエル(・・・特別に選ばれた民の中、信じる者の中の・・・)のうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。
8:11 あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。
8:12 しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」
8:13 それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。

ここで、『東から』と書いてあるね。これは、日本でしょうね、イスラエルから見ると。

マタイ
8:8 ・・・「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。

これは、イエス様の全能に対する全き信頼の現れです。この百人隊長は、イエス様のところに行って、自分の悩みを打ち明けました。イエス様に、自分の悩みを、ありのままに打ち明ける・・・これが、本当の祈りなんです。百人隊長の下には、兵卒がたくさん、いました。そして、彼が一言いえば、その通りにしました。それで、百人隊長は、イエス様に、『主よ、おことばをいただかせてください。』そうしたら、そのとおりになる。『そうすれば、私のしもべは直ります』と、言いました。これは、イエス様の全能の御力を、彼が信じきっていたから、言えたことです。イエス様は、この言葉を聞いて、嬉しくなったでしょう。非常に喜び、百人隊長に答えて言われました。『さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。』百人隊長は、自分の血のつながりを持つ、いわゆる、家族のために言ったのではない。血のつながりのない僕(しもべ)のために祈ったんです。

私たちはどうでしょう。私たちの親戚、家族、友だちのために祈り、とりなし、戦っているのでしょうか。パウロは、テモテに手紙を書いたのです。非常に、大切な言葉を書いたのです。

第一テモテ
5:8 もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。

信者は、不信者よりも悪くなる可能性があり得るということです。もし、私たちが、無関心に陥り、自己中心の道を歩むならば、まことに、残念であり、災いのことだと言わなければならない。もし、私たちが、主のそば、近くにひざまづき、『主よ、あなたは全能なるお方です。あなたにゆだねております。私の両親、兄弟姉妹、夫をお救いください。ただ一つのみことばでも与えてくだされば救われるのですから』と、迫るなら本当に幸いです。そうして、主は、『行け。あなたの信じたとおりになるように』と、みことばをかけてくださるに違いない。『「もし、あなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」と、わたしは言ったではありませんか』と、御声をかけてくださるでしょう。

もう一人、家族のために祈った人を見てみましょうか。

マタイ
17:14 彼らが群衆のところに来たとき、ひとりの人がイエスのそば近くに来て、御前にひざまずいて言った。
17:15 「主よ。私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでおります。何度も何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりいたします。
17:16 そこで、その子をお弟子たちのところに連れて来たのですが、直すことができませんでした。」
17:17 イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。・・・いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
17:18 そして、イエスがその子をおしかりになると、悪霊は彼から出て行き、その子はその時から直った。
17:19 そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」
17:20 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。(・・・あなたがたの信仰のゆえです。・・・)まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。

この父親は、悪霊に憑かれた息子を持っていました。この息子は、父親の重荷であり、悩みのたねでした。また、この子は、父親にとって、絶望を意味していました。あわれな父親は、これらの悩みを全部、イエス様の御許(みもと)に持って来ました。父親は、イエス様のところへ来て、ひざまづいて、お願いしました。自分の悩みをありのまま、イエス様に話しました。イエス様は、その父親を助けてあげました。

自分の心をイエス様に打ち明けることは、簡単なことではありません。けど、私たちはあ、りのままを主イエス様に申し上げ、ひざまづきましょう。そうしたら、イエス様は必ず、応えてくださいます。イエス様は、十七節に、『ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう』と、言っておられますが、これは、我々にもあてはまるみことばではないでしょうか。

マタイ
17:20 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。

これは、イエス様のお叱りのことばであり、また、約束のことばでもあります。イエス様のもっとも喜ばれることは、私たちが、目に見えるところによらないで、主の全能の力に信頼する信仰です。『主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。』このみことばを私たちは、信じて、立たなければなりませんが、このみことばを信じる現われとは、どのようなかたちで現れるのでしょうか。今、話したように、まず、祈りにおいて、祈りにおける勝利において、それから、主イエス様の全能に信頼することによってです。

おわり

0 件のコメント:

コメントを投稿