2012年7月3日火曜日

十字架につけられた救い主イエス様

十字架につけられた救い主イエス様
2012年7月3日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

第1コリント
1:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
1:24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。

第1コリント
2:2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。

ガラテヤ
6:14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。

今、読んできてくださった内容は、十字架につけられた救い主であるイエス様です。


マタイ
1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。

イエス様とは、罪から救うお方です。このイエス様に出会ったパウロは、決心しました。『私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心した』(第一コリント2:2)と、言ったのであります。もっとも大切なのは、それなのではないでしょうか。

今日、私たちが周囲を見ると、人類には、何か正常でないものが、恐ろしい予感とともに感じられるのではないでしょうか。すなわち、国々の悩みが、我々にそれを物語っています。例えば、解決のできない経済問題、訴訟問題、精神病院、刑務所、家庭における困難な問題がそれです。これは、正常ではありません。私たちが、個々の人に会う時、これと同じことを知ります。すなわち、個々の人々も、正常ではない。情欲、憎しみ、腹立ち、不純、吝嗇(りんしょく)、嘘、利己心、これらのものが人間を醜くしています。

けれど、正常でないのは、他の人々だけなのでしょうか。もし、自分が、よく考える時、心の中に、自分も正常でないということに気づくでしょう。そして、自分は、この正常でないことを、他の人々に隠したいのであり、自分にも隠したいのです。ですから、一人でいることができず、静かに話すこともせず、テレビやラジオや付き合い、それから、気晴らしを好むのです。けど、黙ることのない声が絶えず響いてきて、『それは、正常でない』と、私たちを打ちます。何が正常でないのでしょうか。我々の生活と、全人類の常識外れは、何のためなのでしょうか。

それにはたくさんの説明がなされています。すなわち、経済恐慌のせいだ、文化や芸術のせいだ、他の人のせいだ・・・などと、いろいろあります。このように示されるいろいろな解決をもってしては、私たちには、少しも解決とはならず、前進できないのです。我々に、権利をもって、何が正常でないかを言うことができるのは、天と地の創造主である主なる神だけです。主なる神が、世界と人間を造られたので、主のみが、何が正常でないかを知っておられるのです。主なる神は、我々に、はっきりと明確に言います。

箴言
14:34 正義は国を高め、罪は国民をはずかしめる。

今日の世界は、主なる神が計画された世界ではない。今日の人間は、主なる神がご計画になった状態ではありません。主なる神が、天と地を造られた時、主の欺かれない神聖な判断は、天と地を見て、非常に良いとされたのでした。すなわち、すべてが正常でした。

今日は、何とその反対のことでしょう。主のことばは、今日の人類を判断して――ローマ書、三章十二節です――『善を行なう人はいない。ひとりもいない』と、あります。内容的には同じことばですけれど、二千六百年前、イザヤの書いた箇所です。

イザヤ
1:5 ・・・頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。
1:6 足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。

私たちは、心から、『それは正しい、本当のことだ』と、認めなければならないのではないでしょうか。今、我々が、人類を眺める時、誰かが、すばらしい完成された絵にインクをぶちまけ、すべてがダメになったように思われるのであり、また、すばらしい交響曲の真っ只中に、すべてを壊し、めちゃくちゃにするひどい音を入れるかのように、そんな状態に思われるのです。

完成された主なる神のものであったこの世は、どうして今日の悩みと苦しみと罪の世界になったのでしょうか。誰のせいでしょうか。この質問に対しても、主なる神のことばである聖書は、我々にただひとつの正しい明確な答えを与えています。

ローマ
5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。

第一の人、すなわち、アダムは、主なる神を捨て、悪魔に手を差し伸べたのです。アダムは、神から離れ、悪魔の味方になったのです。この悪魔は、人をしっかりと抑えて離さず、人に権力を持っているのです。悪魔は、人間に要求する権利を持っています。なぜなら、人間は、勝手にこの要求権を悪魔に与えたのだから。そして、すべての人間は、今や、生まれつき、神から離れ、悪魔の魔力の内に住んでいるのです。神とのいのちの繋がりは、断ち切られています。

潜水夫が担いでいる酸素吸入器の連結が切れれば、潜水夫は呼吸することができなくなる。それと同様に、人間の性質もまた、主なる神との繋がりが切れると、呼吸することができなくなるのです。ですから、非常に多くのことが、もはや、正常ではなくなっています。人間は、もはや、主なる神を知らず、人間は、もはや、主なる神の御心を行なわず、人間は、もはや、主なる神との交わりを持っていないのです。これは、すべてのことを明らかにしています。人々は、計画や仕事や決定をみな、自分で行ない、気ままに行動し、もはや、主なる神に尋ねることをしません。

けど人間は、ひとつの呼吸すら、主なる神なしでは行なうことがはきない。主なる神なしに生活するということは、個々の人々、家庭、および、国々のもっとも恐ろしい罪です。もし、主なる神が、実際に生きておられる永遠の神であり、私たち、造られた者すべての上にある主であるならば、そして、御手のうちに、私たちが逃れ得ない者であるならば、将来は、どうなるのでしょう。

すべての人間は、偉大な創造主なる神があるということを、生まれつき知っています。その神は、石に住んでいると思う人もいるし、また、木に住んでいると思う人もいます。また、神はいないと言う人もいます。けど、無神論者の憎しみが、神がいるという、もっとも強い証明となっています。なぜなら、何もないものを憎む必要はないし、何もないものに反対する必要がないからです。主なる神はおられます。このことは、人間はみな知っています。

イザヤ
44:6 ・・・万軍の主はこう仰せられる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。

この神は、天と地の創り主です。このただひとつの神に対して、私たち人間は債務を持っています。そのことも人間は知っています。もしも、この神聖なる生きておられる全能なる神に、私たちが敵対するなら、私たちは滅ぼされます。ローマ書、六章二十三節、「罪から来る報酬は死です」と、あります。神は、ただ一人です。けど、非常に多くの偶像があります。たとえば、この国は、八百万の偶像がある国として、世界に知られています。私たちは、イザヤに書かれた者に、似ていないでしょうか。非常におもしろい箇所です。

イザヤ
44:12 鉄で細工する者はなたを使い、炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、力ある腕でそれを造る。彼も腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れてしまう。
44:13 木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する。
44:14 彼は杉の木を切り、あるいはうばめがしや樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。また、月桂樹を植えると、大雨が育てる。
44:15 それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。
44:16 その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった。』と言う。
44:17 その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから。』と言う。
44:18 彼らは知りもせず、悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって悟ることもできない。
44:19 彼らは考えてもみず、知識も英知もないので、『私は、その半分を火に燃やし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残りで忌みきらうべき物を造り、木の切れ端の前にひれ伏すのだろうか。』とさえ言わない。
44:20 灰にあこがれる者の心は欺かれ、惑わされて、自分を救い出すことができず、『私の右の手には偽りがないのだろうか。』とさえ言わない。

何と多くの者が、木の端くれの前にひれ伏すのではないでしょうか。我々の拠り所は、何なのでしょうか。主なる神から離れることは、永遠の滅亡という刑罰を科せられることです。すなわち、罪を犯した魂は、必ず死ぬ。エゼキエル書十八章に書いてあります。「罪を犯した魂は死ぬ。」

この刑罰は、背負われなければなりません。これは私たちの人間的正義感にも言えることでしょう。泥棒が、自分の罪を告白したら、それで充分でしょうか。もし、彼が後悔したら、それで充分でしょうか。そうではない。彼は、刑罰を受けなければなりません。刑罰を済ませて初めて、彼は、自由の身となります。裁判官の同情や愛情や理解が、彼を救うのではなく、刑罰を済ませることのみが、彼を救うのです。

主なる神の義は、死の判決の執行なしには、罪を赦すことはできません。罪人は死ななければなりません。けど、主なる神の愛は、罪人が死ぬことを欲せず、神の愛は、罪人を救いたいのです。けど、主なる神の義と主なる神の愛は、どんなにしてお互いにひとつになることができるのでしょうか。主なる神の愛は、世界が始まる前、すなわち、人間に罪が入り込む前に、その答えを見いだしました。すなわち、イエス様が、父なる神の答えです。父なる神、ご自身は、一人子なる神であるイエス様に、刑罰を背負わせたのです。それは、罪人が自由の身になり、生きるためです。これは救いの驚くべき秘密です。

ローマ
8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

罪のない主イエス様は、人類のための代表者です。父なる神は、イエス様の上に、この世の罪を受けました。どんな重荷なのでしょうか。一人の人間の債務は、いかに、その者を押さえつけることでしょう。

ひとつの街、たとえば東京の人間の罪の債務は、何と恐ろしく重いことでしょう。また、ひとつの民族、あるいは、全人類の罪の債務も同様です。世界のこの債務の中には、強盗の罪、神を失っている人々の脅迫、落ちこぼれてしまった人間の不純などがあります。

聖なる神の御子が、すべて、ご自身の上に背負われました。生まれたすべての人間は、イエス様の死の原因です。すなわち、イエス様は、数百万の人々のために、死を背負われました。イエス様は、すべての人のために、お亡くなりになりました。

イエス様の上には、自分の罪も、もちろん、置かれているのです。イエス様は、人間が、たぶん少しも知らないで過ごす、すべての罪を自分の重荷として担ってくださったのです。預言者イザヤは、すばらしい言葉を使って、イエス様における主なる神の愛の奇跡を描写しています。よく知られている箇所です。

イザヤ
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

私たちは、聖い、そして、聖なる主イエス様が、人類の罪を背負い、神を退けた刑罰をお受けになったということを、少ししか予感することができません。イエス様が、次のようなことばを十字架で叫ばれた時が、イエス様のもっとも苦しい時でした。すなわち、『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』と、叫ばれた時です。これはイエス様が、父なる神から見捨てられることを恐れ、おののいた瞬間でした。『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という十字架の質問は、罪人だけが、答えることができます。なぜなら、罪人は、自分の刑罰を、イエス様が私たちのために背負われたということを知っているからです。

いのちの君である主イエス様は、確かに、十字架で死なれました。主の確かなしるしは、すなわち、『もし、血が流される時、いのちはなくなる』というところにのみあります。ですから、イエス様の血潮は、流されねばならなかったのです。

レビ
17:11 なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。

与えられたいのちのしるしは、十字架ではなく、血潮です。ですから、私たちは、十字架によってではなく、イエス様の血によって、罪の赦しを得たのです。血潮は、執行された死刑のしるしであり、執行された裁判のしるしです。ですから、主なる神のみことばは、我々に非常にはっきりと、次のように言っています。

ヘブル
9:22 ・・・血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない。

『血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはありません。』そして、ヨハネは、次のように言ったのです。

第一ヨハネ
1:7 ・・・御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

イエス様の血潮の中には、どんな力があるのでしょう。この血潮は、地上と天において、今まで、罪が全然なかったかのように、その罪をぬぐい去ることのできるただひとつの力です。この血潮は、主なる神でさえ、見ることができないほど、きれいに、罪をぬぐい去る驚くべき力を持っています。イエス様は、罪の大きな債務のために、その支払いとして、ご自身の血を与えられました。ですから、イエス様だけが、次のように言うことができたのです。『あなたの罪は赦された』と言うことができたのです。

債務を支払った者だけが、罪から解き放たれるのです。イエス様の血は、すべての罪を覆うことができるのです。あなたが、いかに深く、罪の中に落ち込んだとしても、また、その傷が、いかにただれても、いかにその罪が醜くても、あなたは、イエス様の血によって癒され、全く新しい人間になることができます。イザヤ書の一章十八節、多くの人々が、大好きになったことばのひとつです。主のあらゆる人間に対する呼びかけです。

イザヤ
1:18 「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」

43:25 わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。

44:22 わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。

イエス様は、ご自身の血を流されました。ですから、主の恵みは、罪の赦しを私たちに与えているのです。

マタイ(口語訳)
26:28 これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。

「わたしの血。」それは、あなたのために流されたのです。あなたは、イエス様に、どう答えたらいいでしょうか。イエス様は、あなたの罪を背負われました。イエス様の血は、あなたのために流されたのです。あなたは、今までに、そのことをイエス様に感謝したことがあるのでしょうか。

イエス様は、すべてを成し遂げられました。イエス様の贈り物は、条件つきではありません。あなたは、その贈り物を受け取るという、ただひとつのことができるだけです。「受け取りなさい。信じなさい。」

しかし、ある人は、言うでしょう。『私は、初めに、私の全生活を整えなければならないのではないでしょうか。初めに、すべてを、再び、良くしなければならないのでしょうか。』もし、あなたが、このようなことをできるならば、あなたは、救い主なんて必要ない。罪の赦しは無料(ただ)です。本当に、条件はひとつもありません。けれども、主なる神より罪の赦しを得た者、そして、主なる神と会う聖なる時を体験した者、また、恐ろしい重荷から解き放たれたということを経験した人が、他の人に、それを告白しないではいられなくなり、自分の生活を整えざるを得なくなり、そして、罪を償おうをするのです。

けれど、これらすべては、罪の赦しの『条件』ではなく、『結果』です。私たちはみな、罪の赦しの確信を持っているのでしょうか。もしそうでないなら、今、イエス様の前に静まりなさい。イエス様は、あなたに、今すぐ罪の赦しをお与えになるのです。そして、あなたは、イエス様に、『主イエス様よ、あなたが私のために死んでくださり、私の罪をお赦しくださいましたことを感謝いたします』と、言いなさい。

あなたの罪を負う者としてのイエス様の血を、あなたが受け取るのを妨げているのは何でしょう。あなたは、イエス様の血潮を理解することができないでしょうか。あなたが、イエス様の血を理解することが必要なのではなく、あなたは、生きている神のみことばを信じることが必要です。

イエス様の血は、罪を贖うことができます。この事実が、イエス様のことばを保障しています。それで充分です。

たくさんの言葉を私たちは、理解していません。それでも、私たちは、それを信じます。たとえば、電気とは何ですか。いのちとはなんでしょうか。私たちは、理解することができない。それとも、あなたは、最初、感じ、経験して、それから、信じたいともでも言うのでしょうか。もし、そうしたら、あなたの感情の上に立った信仰は、海の波のように揺れ動いて静まらないでしょう。船を動かないようにするためには、いかりを甲板の上に投げ上げたのではダメ。いかりを船の外の岩の底に、投げねばなりません。その岩の底は、しかしながら、我々の経験ではない。神のみことばです。

あなたは、この結果を恐れるでしょうか。もしも、あなたが、イエス様の手から罪の赦しを受け取るならば、あなたは、イエス様に疑問を持つことになります。そして、他の人々は、何を言うでしょうか。あなたが、もしも、イエス様に従って行くなら、あなたの生活は、みな、変わるに違いない。それを不安に思うのでしょうか。けれど、もし、あなたが、恵みを逃がしたなら、あなたの死の時、いったい誰が、あなたを助けることができるのでしょうか。

今、あなたが、あざけり、侮られることを恐れているその人たちのうちの誰かが、あなたの罪の債務を支払ってくれるのでしょうか。もしも、あなたが、罪の不安に苦しめられている時、そのような人々は、あなたに、『それは、お前のせいだ』としか、言えないのではないでしょうか。

あなたが、今、人々を恐れ、そのために、その後で、永遠に後悔しなければならないのなら、それは、全く馬鹿げたことです。あるいは、あなたが意識して、また、よく考えた上で、『いや、私は、そう思わない。私は、一人で生きていける。自分には、イエス様の血潮を必要ない』と、言うならば、それは、身の毛もよだつような答えです。

もし、そうすれば、あなたは、いつか燃えるような目を持ち、その腹立ちは恐ろしい、また、地獄に滅ぼす力を持っておられる真(まこと)の神の前に立つでしょう。あなたは、その時、自分の債務を自分自身で、どうして払おうというのでしょうか。

イエス様の救い以外に、真の救いはありません。イエス様の血を受け取らなかった者は、永遠に滅ぼされます。十字架につけられたイエス様による救いを知っていながら、それを認めない者は、永遠に滅ぼされます。救いの道は、ただひとつです。イエス様は、次のように言われています。『わたしは道である。誰でもわたしによらないでは、父のみもとに来ることはできません。』

私たちは、どうしてイエス様を信じるようになったのでしょうか。もちろん、説明がない。主が、哀れんでくださったからです。イエス様は、本当に、哀れんでくださるお方であり、このイエス様を信じる者は、全部、このイエス様にゆだねられる者は、決して、決して、失望させられません。

おわり

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