2012年5月22日火曜日

私たちは聞く耳を持っている

私たちは聞く耳を持っている
2012年5月22日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

使徒行伝
10:33 それで、私はすぐあなたのところへ人を送ったのですが、よくおいでくださいました。いま私たちは、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、みな神の御前に出ております。

16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。
16:26 ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。
16:27 目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。
16:28 そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」と叫んだ。
16:29 看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。
16:30 そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。
16:31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。
16:32 そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。
16:33 看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。
16:34 それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。

今、読んできてくださった十章の三十三節ですね。すばらしい証し、告白でもあります。『よくおいでくださいました。いま私たちは、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、みな神の御前に出ております。』意味は、私たちはみな、聞く耳を持っている。主のなさったことを聞かせて!我々のすべきことではない。人間のすべきことについて話すと、やはり重荷になります。ああしないと、こうしないと、やはり困る。けれども、大切なのは人間が何をやるべきか、何を信ずべきかということよりも、主は、どうしようもない人間のために何をなさったかということです。それによってのみ、自由になります。

使徒行伝
16:31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。
16:32 そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。
16:33 看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。
16:34 それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。

全家族が悔い改めるようになり、素直に、みことばを信じるようになりました。大切なのは、全家族の救い――家族の中の一人ひとりの救いよりも、全家族です。全家族が救われなければ、やはり悩むようになります。けども、はっきり約束されています。主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も、皆、救われます。このみことばは、多くの人に大切にされ、愛されていることばです。私たちも、もう何回も何回も、このことばで祈り、このみことばを信じてきたのですけど、もちろん、疑えないけれど、どうして、家族の人がみな、導かれていないのでしょうか。どういうことなのでしょうか。答えのない祈りがあるのでしょうか。もちろん、主は、自分で定められた時、人の心の目を開いてくださるし、奇跡を成してくださる。けど、聖書を読むと、祈りが聞かれない原因を考えてみる必要があるのではないでしょうか。ですから、祈りが聞き届けられない理由について考えたいと思います。七つの理由があります。

第一番目、『不従順』です。不信仰といっても同じです。原語は、信仰と信頼について書かれている。同じです。結局、どうして多くの人が救われないかと言いますと、救われた人々の不信仰、不従順のゆえではないでしょうか。皆さんもよく知っている箇所ですけども、マルコ伝六章に不思議なことが書いてあります。「イエスは何もできなかった。」何でもできるお方が、できなくなってしまった。人間の不信仰、不従順のゆえです。

マルコ
6:1 イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。
6:2 安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行なわれるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。
6:3 この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。
6:4 イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」
6:5 それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。

それでも、すごいのではないですかね。何人かの人は、瞬間的に癒された。けど、イエス様は、その時いた、悩んでいる人々をみな励まそう、慰めようと思ったし、もちろん、病人たちも、みな癒したかったけれど、できなかった。

マルコ
6:6 イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。

結局、不信仰こそが、主を知ることのいちばん大きな妨げなのではないでしょうか。旧約聖書からも一箇所、読みます。申命記――結局、イスラエルの民の不従順、不信仰の罪についてです。

申命記
1:42 それで主は私に言われた。「彼らに言え。『上ってはならない。戦ってはならない。わたしがあなたがたのうちにはいないからだ。あなたがたは敵に打ち負かされてはならない。』」
1:43 私が、あなたがたにこう告げたのに、あなたがたは聞き従わず、主の命令に逆らい、不遜にも山地に登って行った。
1:44 すると、その山地に住んでいたエモリ人が出て来て、あなたがたを迎え撃ち、蜂が追うようにあなたがたを追いかけ、あなたがたをセイルのホルマにまで追い散らした。
1:45 あなたがたは帰って来て、主の前で泣いたが、主はあなたがたの声を聞き入れず、あなたがたに耳を傾けられなかった。

どうして?主は、助けたかった、勝利を与えようと思った、けど、彼らが従わなかったからです。結局、イスラエルの民は、主に不従順でした。主は、不従順な民に御顔を向けませんでした。その世代のイスラエルの民は、荒野(あらの)で滅ぼされてしまいました。これは、主なる神にとって、どんなに心を痛めたことか、わかりません。

第一サムエル
14:37 それでサウルは神に伺った。「私はペリシテ人を追って下って行くべきでしょうか。あなたは彼らをイスラエルの手に渡してくださるのでしょうか。」しかしその日は何の答えもなかった。

祈った答えがなかった。

28:6 それで、サウルは主に伺ったが、主が夢によっても、ウリムによっても、預言者によっても答えてくださらなかった。

特別に選ばれた、油注がれた王様であるサウルは、不従順のために、それまで開かれていた天の窓が閉ざされ、主なる神の恵みは、サウルの上を離れました。彼の終わりは、どうだったでしょう?彼は絶望して、自殺してしまいました。悲劇的です。従順に従うことの大切さは、聖書の中で強調されています。

使徒行伝
5:32 私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。

従うと大いなる祝福が与えられる。ここで、『聖霊が与えられる』とあります。不従順なキリスト者は、御霊を悲しませています。意識して逆らう者は、御霊を消し去ってしまいます。

祈りが聞き届けられない、第一番目の理由は、今、話したように不従順です。第二番目の理由は、『隠された罪』です。聖書の中で、何回も何回も言っていることとは、隠す者は成功しない。けど、隠さないと大変ではないかと思う人もいる。けど違う。いくら隠しても、いつか必ず明らかになります。詩篇の作者ダビデは、詩篇66篇の18節、『もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない』と、ダビデは、体験的に知るようになりました。初めからそうではなかったよ。彼は、とんでもない罪を犯した。そして、隠さないと大変だと思ったけれど、隠すこととは、彼にとって、苦しくて苦しくてしかたがなかった。

マタイ伝の5章28節、山上の垂訓の中のことばですね。

マタイ
5:28 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。

ここで主が言われた罪は、眼差しが犯す罪、また、考えに含まれる罪、動機の不純です。小さいように思われますが、これらも、祈りが聞かれない一つの大きな原因です。主が、我々の祈りに豊かに応えてくださることができるようになるために、私たちのあらゆる罪を、主の光の前にさらけ出したいものです。兄弟姉妹の交わりにおいて、それが御霊による交わりでなく、人間的な交わりならば、それも、隠された罪のひとつです。

祈りが聞き届けられない理由はたくさんあります。今、話したように、不従順、二番目、隠された罪、三番目、『無関心』です。救われた人々の無関心です。

箴言
1:24 わたしが呼んだのに、あなたがたは拒んだ。わたしは手を伸べたが、顧みる者はない。
1:25 あなたがたはわたしのすべての忠告を無視し、わたしの叱責を受け入れなかった。
1:26 それで、わたしも、あなたがたが災難に会うときに笑い、あなたがたを恐怖が襲うとき、あざけろう。
1:27 恐怖があらしのようにあなたがたを襲うとき、災難がつむじ風のようにあなたがたを襲うとき、苦難と苦悩があなたがたの上に下るとき、
1:28 そのとき、彼らはわたしを呼ぶが、わたしは答えない。わたしを捜し求めるが、彼らはわたしを見つけることができない。
1:29 なぜなら、彼らは知識を憎み、主を恐れることを選ばず、
1:30 わたしの忠告を好まず、わたしの叱責を、ことごとく侮ったからである。
1:31 それで、彼らは自分の行ないの実を食らい、自分のたくらみに飽きるであろう。
1:32 わきまえのない者の背信は自分を殺し、愚かな者の安心(・・・・無関心・・・・)は自分を滅ぼす。
1:33 しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住まい、わざわいを恐れることもなく、安らかである。

多くの信じる者は、自分の家族、親戚、友だちの救いに対して、無関心です。黙示録に、『励んで悔い改めよ』と、主は言っておられますが、私たちも、この点について、励んで悔い改め、無関心の眠りから、目を覚ましたいものです。イザヤ書の六十二章、よく引用される箇所です。

イザヤ
62:6 エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。
62:7 主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはならない。

祈りが聞き届けられない理由は、たくさんあります。今、話したように不従順、隠された罪、無関心です。第四番目の理由は、『律法を侮(あなど)ること』です。すなわち、主のみことばである聖書を、おろそかにすることです。

箴言
28:9 耳をそむけて教えを聞かない者は、その者の祈りさえ忌みきらわれる。

もし、私たちが、主のみことばに全く砕かれて、従順に従うかわりに、自らの思いによって動く、自らの好みによってことを成すならば、本当に災いと言わなければなりません。祈る人のいちばん大きな宝は、聖書です。この生けるいのちのことばなくして、生きることはできませんし、主の御心に適(かな)った生活をすることはできないのです。

祈りが聞き届けられない五番目の理由は、『強情』、『かたくな』、『かたくなな心』です。

ゼカリヤ
7:11 「それなのに、彼らはこれを聞こうともせず、肩を怒らし、耳をふさいで聞き入れなかった。」
7:12 彼らは心を金剛石のようにして、万軍の主がその御霊により、先の預言者たちを通して送られたおしえとみことばを、聞き入れなかった。そこで、万軍の主から大きな怒りが下った。
7:13 「呼ばれたときも、彼らは聞かなかった。そのように、彼らが呼んでも、わたしは聞かない。」と万軍の主は仰せられる。

『彼らが呼んでも、わたしは聞かない』と、主は仰せられる。どうしてでしょうか?聞く耳がなかったし、へり下ろうとしなかったからです。人間の生まれつきの性質は、例外なく、主なる神に背く性質です。主に心を閉ざす性質です。我々の自我は、自分でどうすることもできない、ひとつの怪物です。パウロもそれを充分、経験しました。よく知られているローマ書の中で、次の証しですか、告白があります。

ローマ
7:19 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。

7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。

私たちは、自らの内に、自分でどうすることもできない何かがあるのを知って、恐れおののいたことがあるのでしょうか。バプテスマのヨハネは、『あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません』と、言っています。私たちも、ヨハネと同じように言えたら幸いです。もし私たちが、そうなったら、御霊は我々の内に自由を与え、御霊による祈りをすることができるのです。そして、御霊による祈りは、必ず、いつも聞き届けられます。

六番目の、祈りが聞き届けられない理由は、『心の不安定』です。

ヤコブ
1:6 ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。
1:7 そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。

『主から何かをいただけると思ってはなりません。』どうしてでしょうか?疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようであるからです。私たちは、しばしば、環境や人間や感情や見えるところのものにより、海の波のように、心の動揺をきたします。そして、聞きとどけられる祈りも、できないようになってしまいます。私たちが、心に留めてとりなした人々が、救われてこないのも、そのためかもしれない。

祈りが聞き届けられない理由は、今、話したように不従順、隠された罪、無関心、聖書をおろそかにすること、かたくなな心、心の不安定です。

最後にもうひとつ、『不純な動機』です。

ヤコブ
4:3 願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。

自らに注意力を集中した祈りは、決して、聞き届けられません。ただ、主にのみ、栄(さかえ)を帰し、主の御栄(みさかえ)のために祈る人の祈りは聞かれます。奇蹟を生み出します。

私たちが今まで述べた七つの罪を捨てて、主とひとつになって祈るならば、どんなに悪魔がわめいても、何もならない。私たちには、勝利が訪れるのです。エレミヤ記の33章3節、よく引用されるすばらしい約束です。主の提供です。提案ではなく、命令です。

エレミヤ
33:3 わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。

『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』このみことばは、我々の重荷として、主から与えられました。もし、私たちの家族が、みな救われたら、どんなにすばらしいことでしょう。今日まで、家族の人々は、理解してくださいませんでした。それは、当たり前のことと言えるかもしれない。イエス様は、次のように言いました。

マタイ
10:25 弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。

10:34 わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
10:35 なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。
10:36 さらに、家族の者がその人の敵となります。
10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
10:38 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
10:39 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。

これは、イエス様の愛です。イエス様は、ご自分の家族に対して、どういう態度をとったでしょう?

マタイ
12:47 すると、だれかが言った。「ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、あなたに話そうとして外に立っています。」
12:48 しかし、イエスはそう言っている人に答えて言われた。「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」
12:49 それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。
12:50 天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

主の御心とは、いったい何でしょうか。イエス様は、『わたしの父の御心は、わたしを見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。』イエス様の変わらない呼びかけとは、『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』

ヨハネ
6:37 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。

イエス様は、生きているあいだ、家族の者が――マリヤを除いて――信じようとしなかった。死んでから。

使徒行伝
1:14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。

家族の人々と妥協しているところに、救いはありません。絶えず、身をもって証ししているなら、救いが訪れてきます。

家族に対する証しは、もちろん、口先のことばだけではなくて、イエス様に対する信仰から生まれ出て来るものでなければ、生きて働かないでしょう。『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』このみことばを、私たちは信じて、立たなければなりません。そして、経験します。主は必ず、応えてくださり、あり得ないことを可能にしてくださるのです。

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