2012年5月8日火曜日

家庭集会の大切さ(二)

家庭集会の大切さ(二)
2012年5月8日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

使徒行伝
2:46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、・・・

5:42 そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。

12:12 こうとわかったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた。

20:8 私たちが集まっていた屋上の間には、ともしびがたくさんともしてあった。

28:30 こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、
28:31 大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。

このあいだに続いて、『家庭集会の大切さ』について、一緒に考えてみたいと思います。


今、読んでもらいました使徒行伝、二章四十六節に、『毎日』ということばが出てきますね。『毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし・・・。』四十七節にも同じく、『毎日』ということばが出てきます。

使徒行伝
2:47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

この主とは、もちろん、変わっていない。主の当時のなさったことを今日も、もちろん、簡単にできるのです。二回も毎日と書いてありますね。五章四十二節にも、『そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。』宣べ伝えることは大切ですけど、もっと、大切なのは、宣べ続けることなのではないでしょうか。

日本でも、各集会を見ても解かります。どういう集会が盛んになり、ずっと新しい人々が加えられるかと言いますと、家庭集会を大切にする集会ではないでしょうか。考えられないほど大切です。もちろん、家庭集会で大切なことは、私たちが持っている知識を人々に公(おおやけ)にすることではなくて、何らかの印象を与えることです。すなわち、人々が、私たちがしっかりとした土台の上に立って、精神的な支えと本当の平安を持っていると、感じることが大切です。たいていの人々は、集会場に来る心の備えを持っていないのではないでしょうか。ですから、私たちは、それらの人たちのところに行かなければならない。個人的な伝道、個人的な話し合いが、もっとも有効な伝道方法なのではないでしょうか。

第一ペテロ
4:10 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。

住まいもまた、ひとつの賜物であり、それを通して、有効な奉仕がなされます。

聖書に出てくる多くの表現は、未信者にとって馴染みの薄いものであり、そのために、正しく理解されなかったり、全く誤解されたりすることがあります。それに対して、小さなサークルで、その問題が解消され、個人個人、親しみ深いことばで、聖書の真理を解き明かしてあげることができます。真(まこと)の愛は、いろいろな方法を作り出してくれます。失われた魂のために、主の愛を持って、苦労することこそが大切でしょう。個人の住まいの気持ち良い雰囲気は、緊張感を和らげ、個人の住まいこそが、伝道すべき場なのではないでしょうか。個人的な接触を作り出してくれるのです。家庭集会を通して、まず主に結びつけられ、それから、集会、信者の群れである教会に繋がるようになります。

家庭集会は、きわめて大切であり、もちろん、聖書的です。使徒行伝を読むと、もちろん、解かります。今、読みましたように、彼らは毎日、いろいろな家で集ったのです。例えば、コルネリオ――ローマ人だったんですね、イスラエルの民に属していなかった男――の家も、獄吏(ごくり)の家も家庭集会であったことは確実です。預言者たち、使徒たち、イエス様は、家々で主なる神と神の御業について語り、病人を見舞い、癒し、孤独な人を慰め、罪人を神に立ち返るように呼びかけ、お互いに慰めあい、喜びあいました。

昔の話ですけど、千五百二十五年に、ドイツの宗教改革者であるマルティン・ルターは、次のように書いたのです。『心からキリストを愛し、キリストに仕えたいと思う人は、家々に集り、そこで祈り、聖書を読み、洗礼をさずけ、聖餐式にあずかるべきです』と。家庭集会は、生き生きとした教会の現れであるべきです。家庭集会を通して、教会は発生し、成長しました。初代教会の頃は、家庭集会が普通の姿でした。そして、迫害により、信者たちは再び、家庭集会を余儀なくされました。

いわゆる敬虔主義の父と呼ばれる――ドイツ人だったんですけど――フィリップ・ヤコブ・シュベーナーという男は、家庭集会のために多くのことを語ったのです。それから、彼も有名になったのは、ツィンツェンドルフという男も、また、キリスト者の家庭においては、どこにでも家庭集会があることを要求しました。二十世紀においては、とりわけ、中国、インド、アフリカにおいて、家庭集会を通して、数え切れないほどの多くの人々が主に導かれました。

これまで述べたことをまとめると、次のように言うことができるのではないか。初代教会の起源と成長のため、家庭集会は、非常に大きな意味を持っていました。いわゆるリバイバル、または、霊的覚醒は、常に小さな集団、あるいは、個人個人から生まれ、しばしば家庭集会によって、担われました。迫害の時代には、家庭集会が信者の生き残るただひとつのチャンスを提供しました。主の使命に従おうとすれば、家庭集会はどうしても必要です。収穫は刈り入れなければなりません。すなわち、主によって備えられた魂は、我々によって見いだされ、主に導かれなければなりません。それは、小さな家庭集会の中での方がはるかに簡単です。

私たちは、私たちの証人になるべきです。まず、エルサレム、すなわち、自分の家で証人となるべきです。家庭集会は、個人伝道のために、もっともすばらしい可能性なのではないでしょうか。正しい家庭集会は、集会や兄弟姉妹についての欠点を話し合う場ではない。未信者がいなければ、(欠点を話し合う場に)なり得るのではないでしょうか。

伝道のためではなく、信者の成長のためにも、家庭集会は、どうしても必要です。それによって、人は、より良く知り合うようになり、一人ひとりの悩みを理解し、語りあうことができるようになります。家庭集会では、人は、単なるお客様としてではなくて、積極的に、中に入って、参加している者となることができます。あなたは、あなたの親しい人が、救われてほしいと思っているでしょう。そうだとするならば、祈りの名簿を作り、その人たちのために、規則正しく祈り始めてください。主のみことば、主の御約束を信頼しなさい。機会をつかんで、あなたにとってイエス様がどのようなお方であるか、一番、わかりやすい証しをしてみてください。そうして、主が働いて、その人たちを御許(みもと)に引き寄せてくださることを主に感謝してください。というのは、主は、必ず約束を守ってくださるからです。主は、嘘を言いません。

悩みと神の霊によって備えられ、主を受け入れる人々は、至るところにいます。真(まこと)の救いを、その人たちは、本当は待ち望んでいるのです。大学でも、職場でも、主婦のあいだでも、喜んでイエス様のところに来る人々が、どこにでもいます。けど、どのようにして、イエス様のところに行けるものでしょうか。誰も、その人たちに話してくれません。あらゆる時代の最大の誤りのひとつは、未信者は神に対して、もはや、何ひとつ知りたいと思わないという考え方です。多くの信者も、そう思い込んでしまっているのではないでしょうか。つまりう多くの人々は、人間が福音に対して全く無関心になってしまっていると思い込んでいるのですけど、それは、偽り以外の何ものでもない。人間は、永遠なるもの、変わらないもの、存続するものを求める気持ちを持っています。聖霊は、この飢え渇きを引き起こしてくれるのです。けど、これらの人々は、どのようにして、主のために獲得することができるのでしょうか。

人間は、今日(こんにち)、いかなる宗教も望んでいません。多くの人は、教会、また、宗教と何の関係をも持ちたくない。彼らは、宗教的な形式に関心を持っていません。けど、イエス様が証しされる時、多くの人々は、主の力、主の愛、主の赦しを経験したいと望む者になります。私たちがいつも経験することは、主のゆえに非難され、罵られ、責任を押しつけられます。しかし、だいたいの場合、それは、本当の気持ちを隠すために行なっている、うわべだけの疑問にすぎません。例えば、信じる者のせいにしたり、その欠点を指摘したり、信者とその弱さ、主とその挫折、聖書とその矛盾、世界史とその無意味さなどが指摘され、批判されますけど、多くの人々は、私たちが考えるよりも、はるかに、救いを、もちろん、真(まこと)の救いを求めて待ち望んでいるということを、決して、忘れてはいけません。

もちろん、それには、しばしば長い道のりが必要でしょう。まず挨拶から始まって、自己紹介を経て、最初の親しい会話、さらには、集会への招待といった具合でしょう。出会いと交わりなどの接触は、しっかりと結びつけられなければなりません。この接触こそ、信頼の芽生えとなるものです。正しい時に、正しいことを言うことができるためには、信用がどうしても必要です。相手を無視したような態度をとりますと、たいていの場合、その後で、もはや、会話を続ける機会を失うことになります。何が許され、何が許されないかの分別は、どうしても必要でしょう。その瞬間を、切に待つことと、強制しようとすることは、もちろん、二つの別の事柄です。会話は、あらかじめ、備えられなければなりません。

私たちが行なうことは、我々の同僚の心の戸を開くか、閉じるか、どちらかを行なうことができます。我々の行動によって、他の人は、信仰が人間を変えるということを、読み取ることができるはずです。私たちは、主に属している者として、主を証しする使命を持っています。私たちが、主に対する愛によって行動することは、決して、無駄なことではありません。必ず、実を結ぶのです。これこそが主の約束です。主のみことばが、空しく戻ることがないということを知ることは、そしてまた、小さなことにおける忠実さが、必ず報われるということを知ることは、新しい勇気を与えてくれます。

大切なことは、まず語り合うこと、それから、その人を主との語り合い、すなわち、祈りに導くことです。『救われるために何を成すべきでしょうか』と、真剣に問うところから信仰は始まります。誰でも、救われるために、どうしたらよいかと教えられる必要があります。

私たちが知っている人は、誰もが、主が、私に導いてくださった方々ですから、この人々は、私から、救いについて正しい知識を知るべきであり、また、私たちは、それを伝える責任を、使命を持っています。主の救いの喜びの訪れは、決して、隠してはいけません。このように、主を証しする義務は、他の人と会話をするように、私たちを他の人々に導いてくれます。主と出会った人が、その新しい救いという喜びの訪れを、他の人々にも伝え、その人が、主と出会うようになることが大切です。

あらゆる接触の目的は、人々が、イエス様の御許(みもと)に行くことです。しばしば、あれもこれも、色々なことが成されますが、決定的に大切なのは、イエス様の御許に連れて行くことが、おろそかにされがちなのではないでしょうか。イエス様の御許に導かれた人は、新しい者に造り変えられます。

福音を宣べ伝える機会を願いなさい。何百万人もの人口を抱える大都会では、共にする身近な隣人、例えば、クリーニング屋さんとか、酒屋さんの存在を見失いがちですけど、そうであってはいけません。どのようにして、救いの確信を持つことに至るのかについて、まだ、一度も聞いたことのない人々は、数え切れないほど大勢います。もちろん、私たちは、数え切れないほど多くの伝道の機会を与えられています。家庭で、友だちや、親戚や、隣の人や、職場の同僚のあいだで、また、電車の中で、路上で、至るところに福音を宣べ伝える機会が、もちろん、存在しています。だから、私たちは、毎日、『主よ、何をしたらいいのでしょうか。何を話すべきなのでしょうか。教えてください』という態度を取るべきです。

私たちの目標は、ひとつの失われた魂のために、全精力を集中することです。信頼が得られるまで、その人のために、時間を作らなければなりません。さもなければ、その人は、一度も心を開くことがないでしょう。人を導こうと思う時、忍耐を持って、その人の話を聞くようにし、議論などを慎まなければなりません。その人が本当に救われたいと願うならば、救われ、それを望まないならば、救われない。すべてはその人次第であり、その人の自己責任であるということを、その人に示してあげましょう。相手の人と話しながら、絶えず、主に拠り頼む知性を持ち続けましょう。

いろいろ、質問された場合、答えとして、前面に出てくるのは、あなたの経験よりも、むしろ、主のみことば、聖書であるべきです。ただひとつの武器は、聖書であり、神のことばです。信じる者は誰でも、イエス様の大使であり、主との和解を受け入れて、滅びから救われるようにということを、まだ、イエス様を知らない人々に、教えてあげなければなりません。

真理を求めている人々に、イエス様が、イエス様を通して約束してくださった救い、また、助けの御手を、その方々にも提供してあげましょう。主の助けは、人生のどのような状態の時にも、たとえ絶望的な状態でも、死に直面したような時でも、裁きの時すらも、永遠の助けであり続けるのです。

証しの中心はいつも、もちろん、イエス様であるべきです。すなわち、イエス様の死によって、私たちは永遠のいのちを約束され、主と主の復活によって、私たちの死は、力を失ったということが中心となるべきです。私たちは、決して、恥を被(こうむ)らない、生き生きとした望みを持っています。イエス様ご自身が唯一の証人です。主は、呼んで、招いておられます。主は、決断を迫っておられます。主は、相手のことよりも、今日、今のことを思っておられます。主は、人間を変えるだけでなく、新しく、造り変えられることを、主は、心から考えておられます。主が招いて、解放してくださる人が、煩(わずら)わしい人間関係から解放され、死の恐怖から解放された証人となるのです。

主によって解放された人は、喜びと感謝に満ち、主のために、進んで奉仕をしたいと願うようになります。主は、絶えざる喜び、すなわち、いかなる悲しみも奪うことのできない喜びを与えてくださいます。主の証し人として、主の救いの御業を宣べ伝えるということは、集会に、教会に、招くことを意味するのではありません。多くの人は、勧誘されようとしているということに気がつくと、身を退いてしまいます。私たちは、主の証し人となるように、召し出されているのです。結果がどうであっても、主が責任を取ってくださいますから、主に任せることができます。

それでは、ここで、今まで、申し上げた事をもう一度、簡単にまとめてみましょうか。

私たちは、おそらく、伝道の必要性を確信しています。それですから、集会を持つようになります。家庭集会を、だいたい、毎日、持つようになっています。けれど、多くの人々は、特別集会を設けたりして、いろいろなことを書いています。いくら努力しても、新しく導かれる人の数は、非常に少ないのではないでしょうか。そうなりますと、どうしても、新しい方法について、考える必要はないのでしょうか。今日、多くの教会は、長いあいだ、新しい方法を行なおうと試みています。例えば、何か、今まで行なったようなことを、魅力的に行なおうと色々、試みるわけですけど、このような政党綱領のようなものは、長く続きはしないということを、人々は、もちろん、解かっています。いわゆる平和運動もそのひとつであるといえるのではないでしょうか。それから、また、時代精神ともいうべき、その時代の流行に合わせようとすることも、また、塩が塩気を失くしてしまうことになりがちなのではないでしょうか。

この世は、そのようなキリスト教には、全く関係を持たない。それどころか、全く無関心となってしまって、見向きもしなくなりました。

歩むべき新しい道とは、取りも直さず、古い道に帰ることである・・・ということなのではないでしょうか。私たちは、何年間も毎月、五日間でしょうか、特別伝道集会を行ないました。そのたびごとに、いつも、二万枚の案内書、トラクトを印刷して、一軒一軒、配って歩きました。けれど、そこから結実した実は、ほとんど何もなかったのです。それから、特別伝道集会を止めました。多くの金、力、時間が節約されましたが、その結果は、どうであったかと言いますと、平均して、毎週、一人、ないし、二人は決心して、イエス様に従うようになったのです。その秘訣とは、いったい何だったでしょう。確かに伝道であることに変わりないのですけど、前のかたちの伝道とは全く変わりました。すなわち、以前は、伝道者を招いて、集会の兄弟姉妹は、その伝道者のメッセージを聞くという、いわば、お客様的な存在だったのですが、それを止めてからは、個人個人が伝道者となって、自分の家を家庭集会に解放するようになりました。あらゆる信者は、何があっても個人個人の伝道をするという必要性を痛感するようになったのです。

ですから、私たちは、あえて個人個人の伝道をするようにお勧めいただきたいと思います。もっとも大切です。けど、だからといって、専門家になる必要はない。それは、主を経験した者ならば、誰もができることです。主は一度も、ちっぽけなことを約束なさいませんでしたから、私たちも大きなことを主から期待しようではないでしょうか。

多くの場合、信者たちは、教会の中で比較的、快適な生活を続けることができます。けれど、その教会の外には、福音が伝わらないことが少なくありません。けれど、その時に一番、喜ぶのは悪魔であるということを、私たちは知らなければならない。我々の周囲にいる大部分の人々は、キリスト教という宗教に対して、何の興味も持っていません。けれど、それこそ、イエス様の証人にとって、大きなチャンスでしょう。なぜなら、私たちは決して、キリスト教の宣伝をしようとしているのではなく、イエス様だけを、無宗教であるイエス様だけを、宣べ伝えたいと思っているからです。けれど、また、キリスト教に対して、僅かであっても関心を持っている人もいますが、たいていは信仰についての正しい知識を持ちあわせていません。あるいは、信仰を持ってはいても救いの確信がない・・・そういう人々がいっぱいいます。そういう人々は、どうしたらよいか解からずにいるのです。つまり、どうしたらイエス様を受け入れることができ、正しく知ることができるのか解かりません。これも、我々のチャンスなのではないでしょうか。

あらゆる人々は、主なる神が、人間に何を求めているか、主の御計画が何であるかを知る権利を持っています。イエス様のゆえに、生ける真(まこと)の神が、私たち一人ひとりをどれほど愛しておられるか、知らずにいてはなりません。それを宣べ伝えることは、信じる者の使命であり、また、責任です。福音を宣べ伝えることは、生きがいのある人生があるということを、公に告げ知らせることに他ならない。大部分、多くの人々は、今日、家庭においても、職場においても、充実した生活を送ることができなくなっているというのが、実情ではないでしょうか。すなわち、そういう状態から解放されて、ことが破綻しないためには、どうしてもイエス様が必要です。

周りにいる人々の中で、悩んでいる人々を見過ごしにすることはできません。ですから、福音が宣べ伝えなければならないのです。そのために、お互いが語り合い、聞き合うことが大切です。お互いの交流がなければ、相互理解も、相互信頼も成り立ちません。話し合うことによって、お互いに理解し合い、励ましあい、助け合い、慰めあうことができるのであり、そしてまた、そのことが、相手の人を決断にまで導くのです。もちろん、相手の人の生活において、どのような考え、要求、悩みなどがあるのかを知るための努力や苦労を、惜しんではなりません。

どうして人は、救いに対する飢え渇きを持つことができるようになるのでしょうか。それは多くの場合、いわゆるキリスト教の教えによるよりは、むしろ、主の恵みによって、変えられた人々の証しのためです。もしも、私たちが自分の家に、一人ひとり招待するならば、それに応じる備えのある人は少なくありません。誰が招待されるべきでしょうか。悩んでいる人々、孤独な人たち、彼らのために祈るようにと主に示された人たちなのではないでしょうか。すなわち、もうすでに主によって備えられた人々です。

では、どのように招待されるべきでしょうか。もっとも大切な伝道方法の一つは、お客を心からもてなす精神です。一杯のお茶に招待したり、福音的なカセットや本をあげたり、聞かせたりすることも一つの方法でしょう。人は誰でも、交わりを求め、必要としています。その人たちは、個人的に語り合いたいと思っています。私たちが考えるより、はるかに多くの人々が、当時のギリシャ人のように、『私たちはイエスを見たい』という願望を抱いています。刈り入れの時が近づき、熟していますと、主は言っておられます。こういう主のビジョン、神の見方は、やはり必要でしょう。備えられた魂が、イエス様の御許に導かれなければなりません。それは、私たちにとって、あなたにとって、一人ひとりにとって、成されなければなりません。もちろん、犠牲なしには、いかなる実も結ばれません。イエス様の愛は、私たちを駆り立てなければならない。悩んでいる他の人たちと共に悩むことを、主は望んでおられます。

イエス様の愛をもって、この世の悩みを見る者は、福音を宣べ伝え、証しせざるを得ません。頑なな一面性やうわべだけの偽善的行為や極端な禁欲生活は、いつも、人をつまづかせます。毎日の行動に対する律法的な指図や努力が、決定的に大切なのではなく、主の霊によって導かれる生活こそが大切です。私たちが、いつも、語り手となる必要はありません。また、そうであると、決して用いられないでしょう。

個人個人の伝道の場として、大切な家庭集会について、大切な点をまとめてみると、次のようなことになるでしょう。まず、聞くこと、それから、話すこと、説教するのではなく、語り合うこと、強制することではなく、提供すること、『愛は相手の心を柔らかくし、熱狂は相手の心を閉ざしてしまう』
ということです。弁明することよりも、幼子のように証しすること、研究したことではなく、経験したことを証しすることです。

心の扉を無理にこじ開けるのではなく、期待を持って叩き続けることが大切です。何があっても、主のみことばをいつも大切にして、自分の経験にまさって、みことばを大切にすることが、どうしても必要です。また、真の信頼と真の常識も必要です。

ある時、有名な伝道者――イギリス人だったんですけど――スポルジョンという人のところに、一人の学生がやって来て、言いました。『私はもう、何ヶ月間も説教しましたが、誰一人、救われません。』すると、スポルジョンは尋ねました、『あなたはね、みことばを宣べ伝えているとき、主がいつも祝福し、失われた魂を御許に引き寄せてくださると思いますか』と。学生は、『もちろん、そんなことはあり得ません』と答えました。『そこにこそ権限があるのですよ。それをあなたが信じたなら、主は、祝福してくださったでしょう』と、スポルジョンは、答えたそうです。

みことばに信頼すると、奇跡を経験できます。『主よ。私は何をしたらよいのでしょうか』という態度を取り続けることがどうしても必要です。ピリポは、この態度を取ったからこそ、主によって導かれ、普通、誰もいないところ、すなわち、荒野に導かれました。そこで、求めている魂に導かれたのです。こういうふうに導かれた人は、他の人をも導くことができます。

おわり

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